「お帰りなさいませ、お坊ちゃま」
「……は?」
政之は後ろを振り返った。そこは、確かに本屋の入り口のはずだった。
仕事帰り、突然雨が降り出した。目の前によくある本屋チェーン店のような建物が見えたから、思わず駆け込んだのであるが。
「どうなさいました、お坊ちゃま」
目の前にいるのは、どう見ても執事である。アラ還と思われる、白髪のロマンスグレイのおじさまが、恭しくそこには立っていた。
間違って執事喫茶に入ってきてしまったのだろうか。
「おやおや、外は雨でしたか。ご連絡をいただければお迎えに上がったものを」
執事は懐から白いきれいに折り畳まれたハンカチを取り出すと、ふわりと政之の髪を拭いた。
枯れ専用の執事喫茶か!
そうとわかれば話は早い。
「間違えました。おじゃましましたー」
くるりと政之は後ろを振り返り店を出ようとした。
が。
「お待ちなさい!」
鋭く呼び止められて、政之は思わず硬直した。政之は突発的な出来事に弱かった。
執事がゆっくりとこちらに近づいてくる。
「買いに、来たのでしょう? 本を」
「な、何故それを……」
政之はぎくりと身を固くした。
本屋に入ってきたのだから、本を買いに来たと思って当然だろうし、単なる雨宿りで別に本を買いに来たわけではないのだからハズレなのだが、動揺していた政之は頭が回らなかった。
執事はゆったりとした笑みを浮かべる。
「長年お仕えしてきたお坊ちゃまのことですから。お坊ちゃまに喜んでいただける本をたくさんご用意してありますよ」
いや、あんたとは初対面だが。そう思ったが、気圧されていた政之は黙って頷いた。元々本を読むのは好きなほうだ。この春に就職してからとんとご無沙汰していたが、たまには本を買って読むのもいいだろう。
「どうぞ、こちらへ」
執事が手を差し伸べた方へと、政之はついていった。
「こちらにございます」
そこはアダルト雑誌コーナーだった。
「いや、喜ばないし!?」
実を言えばこういった雑誌は嫌いではない。むしろ好きだ。が、今はミステリー小説などを読みたい気分だった。
執事はくすりと笑った。
「いいのですよ、お坊ちゃま。このわたくしの前では恥ずかしがらなくとも」
「そんなドヤ顔されても!」
執事は困ったような笑顔を見せた。
「長年お仕えしたお坊ちゃまのこと、なんでもわかっておりますよ」
「いや、さっきからはずれてるし!」
「ーー黙らっしゃい!」
突然執事がキレた。
「お坊ちゃまはこういう雑誌がお好みなはずです!」
「いや、そりゃ好きだけど!?」
政之もつられてキレた。執事は胸を張った。
「ほら、ご覧なさい。長年お仕えしてきたわたくしの目はごまかせませんよ」
「長年仕えてなくても、男がこういうの好きなのは普通にわかるだろ!」
政之は疲れてきた。もうこんな本屋からは早々に撤退するに限る。
「俺、もう帰らないと! じゃっ!」
政之は出口に向けてダッシュした。
が、執事が同じ勢いで追いかけてくる。
「待つのです!」
ダン! と政之は壁際に押しつけられた。顔の両側を執事の腕で囲われた。
真剣な表情をした執事の顔が近づいてくる。
「店内は走ってはいけませんよ? そんな悪い子には……」
政之はごくりと喉を鳴らした。背筋に冷たいものが走る。
「今、ときめきましたね?」
「……は?」
執事はおちゃめにウインクをする。
「でもいけませんよ、お坊ちゃま。わたくしめには妻も子も孫も」
政之は何かが吹っ飛んだ。
「ときめいてねーし! てかなんなの、あんた」
壁ドンされたままわめくが、執事は苦笑した。
「いいんですよ、お坊ちゃま、恥ずかしがらなくても」
「人の話を聞け! てか、恥ずかしがらせるのが性癖なの!?」
ぽっぽー。
緊迫した二人の間に、のんきな鳩時計の音が響いた。
執事は時計を振り返り、眉を寄せた。
「お出かけのお時間ですね、お坊ちゃま」
「は?」
「残念ですが、しばしのお別れです」
執事は壁ドンから政之を解放すると、恭しく一礼をした。
「あ? う、うん、そう! それ! 俺行かなくちゃ!」
政之は早口でまくしたてた。やっとこの状況から解放される。
「じゃ、じゃあ!」
「お待ちください!」
またしても待ったがかかった。
「お出かけ前に、何か本を買っていかなくてはいけないと、幼少の頃からのお約束でしたよね」
執事が店内を指し示す。
「あ、そうそう、そうだったね」
一刻も早くこの場所から逃れたい政之は、適当に話を合わせた。
一番手近にあった本を一冊手に取る。「誰でも簡単♪ あみぐるみ」と書いてあったが、この際なんでもよい。執事に金と一緒に渡すと、入り口の脇にあるレジで会計をした。
「行ってらっしゃいませ、お坊ちゃま」
その声を背中で聞きながら、政之は足をもつれさせながら店を出た。
外は雨脚が強くなっていたが、それよりも一刻も早くこの場を立ち去りたかった。
日曜日。
政之は近所のいつも立ち寄る本屋に向かった。
久しぶりに小説を読みたいと思ったからである。
先日買った「誰でも簡単♪ あみぐるみ」の本は、何故か家に帰ると手に持っていなかった。きっと夢中で走っているうちにどこかに落としてしまったのだろう。
いつもの本屋に到着する。そして、いつもの自動ドアを抜ける。
「ーーお帰りなさいませ、お坊ちゃま」
政之は立ち止まった。後ろを振り返る。
後ろは、ゆっくりとシャッターが下りているところだった。
「当店の本を買いましたよね」
背後からゆったりとした声がかかる。
「黄泉竈食いですよ」
政之は店内に目を戻す。あの日の執事が、にこやかに立っていた。
「よ、よもつへぐい……?」
政之は繰り返す。執事は笑った。そして、一着の衣装をこちらに向けて寄越した。
***
「お帰りなさいませ、お嬢様」
あゆみは入り口を振り返る。そして前に目を戻す。
そこには、二十代半ばくらいの執事が、うつろな目をして立っていた。
「……は?」
政之は後ろを振り返った。そこは、確かに本屋の入り口のはずだった。
仕事帰り、突然雨が降り出した。目の前によくある本屋チェーン店のような建物が見えたから、思わず駆け込んだのであるが。
「どうなさいました、お坊ちゃま」
目の前にいるのは、どう見ても執事である。アラ還と思われる、白髪のロマンスグレイのおじさまが、恭しくそこには立っていた。
間違って執事喫茶に入ってきてしまったのだろうか。
「おやおや、外は雨でしたか。ご連絡をいただければお迎えに上がったものを」
執事は懐から白いきれいに折り畳まれたハンカチを取り出すと、ふわりと政之の髪を拭いた。
枯れ専用の執事喫茶か!
そうとわかれば話は早い。
「間違えました。おじゃましましたー」
くるりと政之は後ろを振り返り店を出ようとした。
が。
「お待ちなさい!」
鋭く呼び止められて、政之は思わず硬直した。政之は突発的な出来事に弱かった。
執事がゆっくりとこちらに近づいてくる。
「買いに、来たのでしょう? 本を」
「な、何故それを……」
政之はぎくりと身を固くした。
本屋に入ってきたのだから、本を買いに来たと思って当然だろうし、単なる雨宿りで別に本を買いに来たわけではないのだからハズレなのだが、動揺していた政之は頭が回らなかった。
執事はゆったりとした笑みを浮かべる。
「長年お仕えしてきたお坊ちゃまのことですから。お坊ちゃまに喜んでいただける本をたくさんご用意してありますよ」
いや、あんたとは初対面だが。そう思ったが、気圧されていた政之は黙って頷いた。元々本を読むのは好きなほうだ。この春に就職してからとんとご無沙汰していたが、たまには本を買って読むのもいいだろう。
「どうぞ、こちらへ」
執事が手を差し伸べた方へと、政之はついていった。
「こちらにございます」
そこはアダルト雑誌コーナーだった。
「いや、喜ばないし!?」
実を言えばこういった雑誌は嫌いではない。むしろ好きだ。が、今はミステリー小説などを読みたい気分だった。
執事はくすりと笑った。
「いいのですよ、お坊ちゃま。このわたくしの前では恥ずかしがらなくとも」
「そんなドヤ顔されても!」
執事は困ったような笑顔を見せた。
「長年お仕えしたお坊ちゃまのこと、なんでもわかっておりますよ」
「いや、さっきからはずれてるし!」
「ーー黙らっしゃい!」
突然執事がキレた。
「お坊ちゃまはこういう雑誌がお好みなはずです!」
「いや、そりゃ好きだけど!?」
政之もつられてキレた。執事は胸を張った。
「ほら、ご覧なさい。長年お仕えしてきたわたくしの目はごまかせませんよ」
「長年仕えてなくても、男がこういうの好きなのは普通にわかるだろ!」
政之は疲れてきた。もうこんな本屋からは早々に撤退するに限る。
「俺、もう帰らないと! じゃっ!」
政之は出口に向けてダッシュした。
が、執事が同じ勢いで追いかけてくる。
「待つのです!」
ダン! と政之は壁際に押しつけられた。顔の両側を執事の腕で囲われた。
真剣な表情をした執事の顔が近づいてくる。
「店内は走ってはいけませんよ? そんな悪い子には……」
政之はごくりと喉を鳴らした。背筋に冷たいものが走る。
「今、ときめきましたね?」
「……は?」
執事はおちゃめにウインクをする。
「でもいけませんよ、お坊ちゃま。わたくしめには妻も子も孫も」
政之は何かが吹っ飛んだ。
「ときめいてねーし! てかなんなの、あんた」
壁ドンされたままわめくが、執事は苦笑した。
「いいんですよ、お坊ちゃま、恥ずかしがらなくても」
「人の話を聞け! てか、恥ずかしがらせるのが性癖なの!?」
ぽっぽー。
緊迫した二人の間に、のんきな鳩時計の音が響いた。
執事は時計を振り返り、眉を寄せた。
「お出かけのお時間ですね、お坊ちゃま」
「は?」
「残念ですが、しばしのお別れです」
執事は壁ドンから政之を解放すると、恭しく一礼をした。
「あ? う、うん、そう! それ! 俺行かなくちゃ!」
政之は早口でまくしたてた。やっとこの状況から解放される。
「じゃ、じゃあ!」
「お待ちください!」
またしても待ったがかかった。
「お出かけ前に、何か本を買っていかなくてはいけないと、幼少の頃からのお約束でしたよね」
執事が店内を指し示す。
「あ、そうそう、そうだったね」
一刻も早くこの場所から逃れたい政之は、適当に話を合わせた。
一番手近にあった本を一冊手に取る。「誰でも簡単♪ あみぐるみ」と書いてあったが、この際なんでもよい。執事に金と一緒に渡すと、入り口の脇にあるレジで会計をした。
「行ってらっしゃいませ、お坊ちゃま」
その声を背中で聞きながら、政之は足をもつれさせながら店を出た。
外は雨脚が強くなっていたが、それよりも一刻も早くこの場を立ち去りたかった。
日曜日。
政之は近所のいつも立ち寄る本屋に向かった。
久しぶりに小説を読みたいと思ったからである。
先日買った「誰でも簡単♪ あみぐるみ」の本は、何故か家に帰ると手に持っていなかった。きっと夢中で走っているうちにどこかに落としてしまったのだろう。
いつもの本屋に到着する。そして、いつもの自動ドアを抜ける。
「ーーお帰りなさいませ、お坊ちゃま」
政之は立ち止まった。後ろを振り返る。
後ろは、ゆっくりとシャッターが下りているところだった。
「当店の本を買いましたよね」
背後からゆったりとした声がかかる。
「黄泉竈食いですよ」
政之は店内に目を戻す。あの日の執事が、にこやかに立っていた。
「よ、よもつへぐい……?」
政之は繰り返す。執事は笑った。そして、一着の衣装をこちらに向けて寄越した。
***
「お帰りなさいませ、お嬢様」
あゆみは入り口を振り返る。そして前に目を戻す。
そこには、二十代半ばくらいの執事が、うつろな目をして立っていた。