村に車が滑り込んでいく。村は、花畑みたいに鮮やかだった。どの家も色が被っていない。ひと際大きな建物が通り過ぎていく。教会のような佇まいだ。入口に木の板が張られている。美術館、と書かれていた。タイヤが土をこすりながら止まった。目の前には白い家が建っていた。ドアの上に、白い鳩の絵が描かれた看板が吊り下げられている。

 エーデルが家に近づいていく。薄い黄色が混じった白い髪が揺れた。腰まで伸びた髪は、貴族の馬みたいな上品さが漏れていた。

 家の中からけたたましい物音が聞こえてくる。エーデルが足を速めた。扉を開けると、顔の横を筆がかすめていった。

「あらごめんなさい」

「護身術でも始めたの?」

「エーデル」

 姉のワイスが、店の中で立っている。薄緑色のシャツの上から、絵具にまみれたエプロンを着ていた。ワイスのそばには、真っ白なキャンバスが置かれている。

「何を描こうか迷ってて」

 ワイスがエプロンを外す。それから、エーデルを抱きしめた。ワイスから濡れた粘土みたいな臭いが漂ってくる。

「都会の娘は花の匂いなのね」

 ワイスがエーデルから体を離す。くるりと体を回して、後ろのキッチンへと歩いていった。レンガを半円に積み重ねたようなキッチンだ。カエルの口みたいに開いている。舌に当たる部分に白い台が作られていた。ワイスが台の上の鍋置きに、水の入った鍋を置いた。

「田舎の臭いはなれないでしょう」

「街は不自由の臭いで溢れているわ。鳥も住めないもの」

 ワイスが乾燥した花を湯気の立つ水の中へ入れていく。透明だった水が、薄い桃色に染まっていった。それから棚に近づいた。頭よりも上に取り付けられた棚に向かって、腕を伸ばす。服が体に張り付いた。エーデルよりも筋肉が混じった背中と柔らかな胸の横が浮き出る。

 ワイスがはちみつの瓶を取ると、蓋を取った。木のスプーンをゆっくりと瓶に入れていく。金色のはちみつを一すくい、鍋に入れる。部屋の中に、甘い匂いが漂った。まるで花畑だ。

 エーデルがワイスの隣に近づく。

「わたしがお菓子を出すよ」

「壁の棚に置いてあるわ」

 エーデルが棚に近づく。中にガラスの瓶が置かれていた。灰色の四角いクッキーが入っている。

 エーデルが鼻の頭にシワが刻み込まれていく。

「白い鳩のクッキーがいいわ」

「昨日、憲兵に取られちゃった」

 ワイスが鍋を火からおろした。エーデルが木のテーブルにクッキーを置いた。テーブルにはガーベラの花があしらわれた布が敷かれている。

 部屋の中を食器の音が響いては溶けていく。ティーカップに紅茶が注がれた。ワイスがテーブルにティーカップを置く。二人が椅子に座った。

 ワイスの白の混じった黄色い髪が揺れる。肩までの短さだ。二人は同時に横髪を耳に持ち上げた。

「国から逃げましょう」

「嫌よ」

「この国にいたら、一生白い鳩は見えないわ」

「描くわ」

 エーデルが灰色のクッキーをかじった。氷みたいに硬くて、土みたいに味がない

「牢屋に入れられちゃうわ」

「そんなことしていたら、国民が暴れるよ」

「街じゃ憲兵の方が強いわ」

 ワイスが紅茶を飲み干す。灰色のクッキーの瓶を手に持って立ち上がった。キッチン横のゴミ箱に捨てる。

「西に一時間歩けば国が変わる」

「一緒に歩こう」

「あなただけで行って」

 窓の外から、車の音が響いてくる。礼儀知らずなけたたましいエンジン音だ。ワイスが窓に近づいた。エーデルが視線を外に向ける。

 軍用車両が三台、村に入っていた。車のドアが開けられて、憲兵が降りてくる。しつけのいい犬みたいに丁寧な歩き方で、美術館へ入っていった。女性の悲鳴が聞こえて、男の怒鳴り声が村に響く。

 美術館を覆うように植えられた木から、鳥たちが羽ばたいていく。青い空へと逃げていった。憲兵たちが美術館から出ていく。手には絵を持っていた。

 男が赤子のように這いずって出てくる。

「取り上げるな。芸術は人生の楽しみなんだ!」

「戦争が起きるときになぜ協力しない?」

「息子は出兵した」

 男が目を見開きながら、自分の右手を憲兵に向けた。人差し指がなくなっている。

「俺だって前の戦争で戦ったんだ」

「ご苦労。益々の協力を頼む」

 憲兵たちが絵画や石像を車に投げ込んでいく。投げ込むたびに、石像の首が折れ、油絵の絵の具が剝がれていった。一人の若い憲兵が、念入りに絵を置いている。別の憲兵が若い憲兵を殴りつけた。

「さっさと積め!」

 男が立ち上がって、走り出す。後ろから女がしがみついた。

 ワイスが家の中でため息を吐いた。鼻からとげとげしい息が漏れている。

「憲兵にはあの絵の価値がわからないのね」

「学んだのは人の殺し方とふんぞり返り方だけみたいね」

 ワイスが窓のカーテンを閉めた。部屋の中がほんのりと暗くなる。ワイスがエーデルに微笑んだ。笑みには散りかけの花みたいな切なさが混じっていた。

 *    *     *

 空から太陽が消えていた。黒い夜が空いっぱいに広がっている。エーデルは二階のベッドで目を開けていた。ベッド横の窓から、足音が聞こえている。エーデルがカーテンを開ける。軍服姿の青年が走っていた。弱々しい息を繰り返しながら、美術館の前で足を止めた。

 美術館から、中年の男女が出てくる。二人は青年を抱きしめた。月明かりが三人を照らしている。

 青年が服を脱ぐと茂みの中へ捨てた。白い肌着だけになって、歩きだす。男女も一緒だった。三人は月明かりが当たらない道を選びながら歩いている。

 エーデルがカーテンを掴んだ。視界が下に向く。軍服姿の男が視界に入った。若い男がライフルを構えたまま立っている。銃口は青年たちに向けられていた。

 エーデルが手で口を押ええた。その拍子に、肘が窓枠にぶつかって音が鳴る。

 若い軍人が顔を上げた。エーデルと目が合う。軍人の瞳は、月明かりに照らされて揺れていた。

 エーデルがカーテンをはたくように素早く閉めた。ベッドに横になって毛布を体にかける。息は乱れている。胸が大きく膨らんではしぼんでいった。

 エーデルは暗い部屋で目を閉じた。静かな夜に、自分の呼吸の音だけが響いている。