場所は東京。季節は冬。
35歳無職の紳士、ノリマサという男がいた。
なぜ無職なのかを話せば長い。
新しい仕事先に勤めはじめるや、数日もするとフッと、まるで木の葉が風で空高く舞ったかのように忽然とすがたを消して二度と職場を訪れぬのがこの男の常であった。
いったいなにがあったのか、この男は容易に語ろうとはせぬ。
容易には語れぬほど筆舌に尽くしがたいなにかが起きたのか、あるいは語るほどのなにかがあったからっていうか単になんとなくイヤになっちゃった、人間のクズだからしかたないよね僕ぁ、と自己を正当化しながら鼻をほじっているためか、それを知るのは天をおいてほかにない。
「まーたバックれたのかあんたは!」
妻の怒声が部屋をゆるがしたことで、いっときはしおらしいさまを見せるノリマサだったが、しかし妻の説教が終わるやいなや横になり、スマホで動画を見つつお尻をブリンと高速で振って高らかに屁をひとつ放った。
怒られなれてしまったことで、説教が骨の髄まで響かぬのだ。
しかしノリマサは同時に、そのとき偶然ある動画を再生したことで電撃がからだじゅうを駆けめぐるがごとき衝撃におそわれた。
「おれ、プロゲーマーに、世界一のストツープレイヤーになるわ!」
とつぜん大音声で宣言すると、妻はたいそう驚いたが説教のあとで疲れていたので放っておいた。
夫の飽き性がさんざん身にしみているから、放っておくのが最適解と理解してのことでもあろう。
「ストツー」というのは、「ストリートファインディングツーリズム」という格闘ゲームである。夫が最近出たという最新作をプレイしているのは知っていた。
ストツーといえば、YouTuber のタモキンを避けては語れぬ。
彼がストツーをいかにも楽しげに行う動画をアップしたことでかのゲームの人気に激烈な火がついた。
プロゲーマーでもあるタモキンは、ゲームの腕も一級品で、天下第一のストツーリストといってよかろう。
ストツーは30にも及ぶキャラクターの中から、己が操作する人物を選び、相手と1対1で技を競い合うゲームである。
常人なら16コンボ、殴る蹴るおのれの気を放出する、と息をつかせぬ連打を浴びせるだけで喝采が湧くところ、タモキンは試合中に坐禅を組み、半眼で空を見やりつつ、機をつかむやたったの2秒操作しただけで58コンボをたたきだし、相手を瞬殺する動画をアップしたことでその名声を確固たるものにした。
勝利の歓びを表に出さず、空をとらえたまま「感謝これあるのみ」というのがそのときのタモキンの言である。
ノリマサはこのタモキンの過去動画を目にする否や、
(いまや、ストツー道を究むることこそが、おれが取り組むべき一大事業である。そして、天下無双への一番の近道は、まずは現在の王者に学ぶことであろう)
と天命を授かったかのごとき使命感を胸に宿し、幾度もタモキンのもとをおとずれて雨の日も風の日も弟子にしてくれろと懇願した。
この不審者としての要素をフルマックスで満たす訪問者を、最初は門前払いとしていたタモキンであったが、このオンライン時代に足しげく通うノリマサの熱意と覚悟に打たれ、また「どうせおれの厳しい修行にはついてこれまい」といった楽観視もあり、最終的にはこれを肯った。
タモキンは新入りの門人に、まず「まばたきせざること」を学べと命じた。
「えっ、まばたきしちゃダメなんすか。なんか目ぇ乾いちゃいません? おれドライアイなんすよ」
へらへらとしてすなおに従わぬノリマサに、貴様が常識にとらわれるなら、なるほど常人の域は出ぬわけであろう、去れ、と師タモキンは応じた。
「やだなあウソっすよ。まばたきしなけりゃいいんでしょ、ちょっと練習してきますわ!」
ノリマサは勢いを得て家に帰り、妻が所有するマンションのひとつを訪れた。
妻の実家は代々つづく土地持ちである。
そのマンションは駅から近く、なかなかに豪奢で、入室希望者は引きも切らぬ。
戸数も多いため、マンションの出入りは頻である。
マンションのロビーには自動ドアがある。これに可能なかぎり顔を近づけ、ひらいたときにちょうどドアとまつげとが接触する距離にノリマサはたたずんだ。
開いたドアが眼球に直撃・破壊される寸前の距離で、自動ドアがいそがしく行き交うのを、じっとまたたかずに見つめていようという工夫である。
理由を知らない妻は大いに驚き、憤慨した。
「やめろ。こんな不審者がロビーに常駐してたら入居してる方々がおびえんだろが」
おのれの野心に理解を示さぬ妻に対し、ノリマサは一喝を加えたが、普通にしばかれて家に連れ戻された。
では警備員の格好をしていればよいだろう、と通販で警備員の服装を妻のカードにより購入したノリマサは、翌日に届いた警備員の服を着て家を飛び出した。
自宅警備員ともいえたこのおれが、本当に警備員になる(なっていない)日が来ようとは、運命というものは実に皮肉なものだとノリマサは感慨にふけり、かすかに口もとをゆがめた。
おのれの夢のために、すべてを捧げてみせようと警備員の帽子を端然とかぶり直すと、自動ドアのガラスに顔の脂がつくかつかぬかの至近距離にたたずむ。
来る日も来る日も彼はこのおかしな格好で、入居者が出ていくときには「いってらっしゃーい!」、入居者が帰ってきたときは「おかえりなさーい!」とクワッとまばたきせざるまま叫んだ。
その目のかっぴらき具合たるや正気の人間とは思われず、近所のこどもは「妖怪いってらっしゃいおじさん」と名づけている。
この厳しい修練が実を結び、6カ月ののちには、自動ドアが何度まつげをかすめても、絶えてまたたくことがなくなった。
トラックが横をとおり埃を巻きあげようが、ゲームの画面が激しく明滅しようが、彼は決して目をパチつかせない。
彼のまぶたはもはやそれを閉じるべき筋肉の使用法を忘れはて、夜、熟睡しているときでも、ノリマサの目はクワッと大きく見ひらかれたままである。
意識も鋭敏となり、いまではただ外出か否かのみならず、ゴミ出しのときは「ゴミ出しお気をつけてーい!」、買い物のときは「お買い得品が見つかりますよーぅに!」と気配で用途を嗅ぎ分けることが可能となり、そのうち慣れるかと思った住人をいっそう気もち悪がらせている。
この境地に達して彼はようやく自信を得て、妖怪の地位をなげうち師のタモキンにこれを告げに走った。
タモキンは一瞬「こいつ誰だっけ」という顔をしたあと、威儀を正し、のたまう。
またたかざるのみでは、まだストツー道の入り口に踏み入ったに過ぎぬ。次には、「見ること」を学べ。
視覚を極限までみがき、小を見ること大のごとく、スギ花粉を見ることゾウさんのごとくなったならば、また報告に来るがよいと。
「おまかせください!」
応じたノリマサはふたたび家に戻り、秘蔵のフォルダからエロ画像をひとつ抜き出すと、可能なかぎり小さくしてパソコンの壁紙に設定した。
お気に入りでかつて何度もお世話になった半裸のセクシーお姉さんは、いまやごま粒としか見えぬ。そうしてそれを終日にらみ暮らすことにした。
毎日毎日、彼はディスプレイの中のごま粒セクシーお姉さんを眺める。
はじめ、もちろんそれはひと粒のごまに過ぎない。2~3日経っても依然としてごまである。
ところが、10日あまり過ぎると、気のせいか、どうやらそれがほんの少しながら髪の毛と肢体の境目ぐらいは浮かびあがってきたように思われる。
あるいは行き場のない性欲が見せた幻像かもしれぬ。
しかし、3カ月を過ぎようというころには、わずかにお姉さんの胸部のふくらみが見えてきたではないか。
ノリマサ所有のパソコンでは、音声としてゲーム実況チャンネルをたれ流しており、お気に入りのいかがわしいゲームのキャンペーン情報が否応なく耳に入る。
修練をはじめた秋には紅葉まつりキャンペーンが開始され、冬のお正月イベントに移行し、春のお花見キャンペーンが来たかと思えば、毎年楽しみにしていた夏の新作水着イラスト開放イベントもおとずれた。
ふだんのノリマサがこの情報を見のがせば血の涙を流すところ、それでも高い集中力で目をうつさず、ディスプレイの中心に鎮座するごま粒エロ画像を見つづけ、はやくも1年の月日が流れた。
ノリマサはある日、ふと、お姉さんが等身大のナイスバディに見えていることに気がついた。
しめたとノリマサは膝を打ち、表へ出る。
彼はわが目を疑った。
人は塔のようであった。道ゆく車はクジラのようであり、あたりのマンションは巨大な山であった。
そしてまた、1年ものエロ画像との対峙のすえに、おのれがいつしか性欲を完全に飼いならしていることにも気がついた。
家にもどり、呼吸をととのえて合掌をすると、お世話になったエロ画像に深く一礼をし、いきりたつ息子を瞬速でひと撫でし精を吐き出すノリマサ。
あと処理を終え、おだやかな気もちでテレビの前のコントローラーに手をそえる。
修行の前は最高で20コンボを達成したことがあるノリマサは、何に心をわずらわせることもなく、息をするような自然さで78コンボを叩き出した。
ノリマサはさっそく師のもとにおもむいてこれを報告する。
師タモキンは一瞬のキョトン顔ののち、喜びがあふれて踊るように足を踏み鳴らし、はじめて「でかした!」と吼えるようにほめた。
そうして、ただちにストツーの奥義秘伝をあますところなくノリマサに授けはじめる。
ストツーのコントローラーは、ゲームセンターにあるような、レバーのついた専用のものを使うのが通常である。
しかし師タモキンは、まずスマホで専用コントローラーと同等のことができるようになれと命じた。
スマホでできるようになれば、常在戦場、いつでも偉業を為せるわけであろう。
これまでであればなんらかの反論をしたかもしれぬノリマサも、おのれの尋常ではあり得ぬ上達ぶりを実感したいまでは賢者のごときうやうやしさでこう答える。
「師の仰せのままに」
目の基礎訓練に時をついやした甲斐もあり、ノリマサの腕前の上達は、驚くほど速い。
奥義伝授がはじまって10日後のこと、ノリマサは、料理をしながらの片手間のスマホ操作で50コンボを生み出すことが可能となった。
20日ののち、水をいっぱいに溜めたコップを頭のうえにのせ、そのまま85コンボを踊るように繰り出したときは、その水に一波のゆらぎもない。
ひと月ののち、水を頭にのせたうえ、さらに目のあいておらぬひょっとこ面をかぶせられ、心眼をもって操作を命じられたときも、川のおもてを花びらが流れゆくように一片の淀みなく148コンボを実現せしめた。
師タモキンはこっそりその様子を録画、『弟子がひょっとこのお面つけて珍妙な修行をしてる件についてwww』という動画をアップし、プチバズりしたことで「よしっ!」と叫んだ。
2カ月後、たまたま家に帰って妻から「はよ働けこの無職が!」とえらいどやされたノリマサは、なんの解決にもならぬのだが妻をおどしてやろうとほくそ笑んだ。
ツバを飛ばして怒声を吐く妻の眼前で41コンボを2連続で放ちつつ、10コンボごとにちらちらスマホの画面を向けると同時にドヤ顔を見せつける。
しかし、それらを見せつけられたはずの妻は一向に気づかず、やむことなく夫の無職をののしりつづけた。
けだし、ノリマサの至芸ともいうべき操作スピードとドヤ顔の際のあごのしゃくれ具合は、実にこの域にまで達していたのである。
「もはや師から学び取るべきもの無し」と感じたノリマサは、ある日、ふとよからぬ考えを起こした。
いまおれがストツーの頂点に立って燦然と輝くにあたり、邪魔となるものは師のタモキンのみなのではないか……?
であるならば、あらゆる手を使い、師を排除してしまえばよいではないか、と。
多忙な折、SNS にて「きょうはひさびさの休みっすぅ~」とつぶやいたタモキンのアカウントを見るや、ノリマサは前に「いつでもきていいからね」と渡されていた合鍵を手にタモキンの自宅へ向かう。
パジャマがわりのスウェット姿で鼻をほじりつつ、ストツーを片手間でこなす師の目の前に「わっ」と叫んで飛び出し、師を驚かしながら試合に乱入した。
有事を察し、瞬時にキリリとした顔と精神を取り戻したタモキンは、突如としてはじまった試合にも動じずかたわらのティッシュで鼻くそを拭きノリマサの繰り出す技に応じてゆく。
ノリマサが拳を放てば、タモキンもこれに応ずる。
タモキンが蹴りを放てば、ノリマサもまたまったくの遅れなく蹴りで相殺する。
互いの体力ゲージが1ミリたりとも減らぬのは、両人の技が神に入っていたからであろう。
ノリマサが禁忌たる「相手のコントローラーを勝手に操作して邪魔する」という小学生なら出禁にされても文句を言えぬ技を繰り出したとき、タモキンは手元にあったティッシュでノリマサの顔を覆ってわさわさしながらなぜか中国拳法っぽいポーズを決めた。
画面からタイムアップの音声が流れたのは、そのときである。
息を切らしながら引き分けを告げる声を聞いたとき、ノリマサの心に、成功したならば決して生じなかったに違いない「恥」の観念が突如めばえた。
おれは、大恩ある師に、なんという恥ずかしい行いを。
逆に、成功したならば生まれたであろう「そのティッシュ、さっき鼻くそ拭いてなかった?」という疑問もまた、その恥ずかしさに埋もれついぞ芽を出すことはなかった。
またタモキンのほうでは、突然の危機をみごと乗り越えたおのれの技量に対する満足が心を占め、同時にとっさに出てきた中国拳法っぽいポーズが猛烈に恥ずかしくなってきたため、敵に対する憎しみをすっかり忘れてしまった。
これまでの生涯で出色の出来といえる勝負を終え、肩で息をするふたりは、ふとお互いを見つめ合うと、どちらからともなく抱きあった。
しばし、ふたりは美しい師弟愛の涙にかきくれる。
(このできごとを、「ふつうここで抱きあったり泣いたりする?」と今日の道義観をもって見るのは当たらぬ。とある巨大掲示板でちょっと見当はずれなことを書き込むと「半年ROMってろ」と叱責され、また別のところでは「逝ってヨシ」「日本語でおk」「オマエモナー」といった罵詈雑言が飛び交う、すべてそのような悪しき時代の話である)
さて、抱きあいながら涙にくれるタモキンではあったが、一方で弟子がふたたびこのような企みをしては自分の身が危ないと、ノリマサに新しい目標を与えて気をそらそうと考えた。
彼はこの危険な弟子に向かい、言った。
もはや、おまえには私のすべてを伝えた。
おまえがもしこれ以上この道を極めたいと望むなら、西へ行き、ニワカ乙という山の頂きにいるアマバエ老師のもとをたずねよ。
アマバエ老師は語彙力なくなっちゃうほどとにかくめっちゃすごい人で、老師の技に比べれば、我々のストツーのごときはほとんど児戯に類する。
いまのお前の師になり得るのは、アマバエ老師以外に存在しない。
ノリマサは師タモキンのその言葉を聞き、即座に西へ向かって旅立つのであった――