「ええ、ちょっと気になる事があって。でも、どうしてそんな事を聞いたの?」雅麗姫は何食わぬ顔で尋ねた。
「いえ、単なる好奇心です」
「興味を持ったのは何故? もしかして私の身体に魅力を感じたのかしら?」
「いえ、まったく」きっぱりと断言されて雅麗姫はむくれた。
「まぁ、でも」と、ここで美玲が会話に加わってきた。「貴女に色仕掛けは通用しないようですし、残念です」
美玲の言葉に趙が振り返った。「色……、ああ、貴女が」
雅麗姫の眉が吊り上がった。「え? もしかして知り合い?」
美玲は何も言わずにただ微笑んでいる。その笑みを見て雅麗姫は確信した。「美玲!」「はい」と美玲が嬉しそうな声で答える。
「これは、どういうこと? 何を隠してる?」「隠していませんよ」
美玲がクスクス笑うと雅麗姫はカッとなった。「あたしが何をしたというのよ?」
「いえ、何も。強いて言うなら、これからしようとしてる事でしょうか?」「何? 何をするつもり?」
美玲は笑っている。そして言った。「大丈夫ですよ。痛いのは最初だけですから」
「何よそれ!? まさか」
美玲は笑っていた。だが、瞳の奥に怒りが見えたような気がした。
趙の顔が強張った。「では、やはり貴女方が噂になっていた……」
雅麗姫は反射的に身構えたがすぐに脱力してしまった。「あたしが、なんなのかしら?」「……その件については我々にご説明させて下さい」「お願いするわ」
趙の態度は先ほどとはまるで違っていた。背筋を伸ばし表情を引き締めている。
その変わりように美玲が苦笑する。「仕方ないじゃないですか。あの女とまともにやり合える人間は限られているんですよ」「……ええと、誰のこと?」「私と同じで、あの女の事を嫌がってる人」「……」
趙が語った内容は次の通りだ。
二〇一八年、東京医科大学医学部において医学科に所属する大学院生・高階英章氏が提出した博士論文に問題が生じた。論文審査を担当する教授のデスクに置かれていたパソコン内にウイルスの痕跡が見つかったためだ。
本来、この手の問題は大学側のセキュリティの問題として扱われる事が多いのだが、高階氏は大学側を相手にせず、独自に調査を始めた。その結果判明したことは驚くべきものだった。
問題の博士論文をインターネットを通じてダウンロードした人物がいた。それが当時、東城大学医学部講師だった黒崎博氏である。彼はこの論文について、インターネット上で公開することに同意したらしい。
その後の展開は驚くほど早かった。黒崎氏は二ヶ月後、「論文データの入ったUSBメモリをなくしてしまった」と言い出した。それを受けて大学のサーバーを調査したところ、当該のファイルが発見されたのだった。ただしそれはすでに削除された後だった。そしてデータはコピーされ、ネット上で公開される事となった。
「誰がこんなことを? どうやってパスワードを突破したんですか?」
「それはわかっていません。我々は捜査機関に照会しましたが情報開示を拒否したのです」と趙昌弘主任は憤然とした様子で答えた。「ところが事態はさらに悪化する一方だった」
問題のデータをネット上に流したのは誰かわからないままだったが、別の問題が浮上した。データの内容があまりにも衝撃的なものだったために世間が騒ぎ出し、さらに警察上層部まで関与してきたのだ。そのため、一旦アップロードしたデータを消して再度公開したという経緯があった。
「結局、犯人を逮捕することはできずじまいでした。そのせいで今でも一部のマスコミからは非難の声が上がっている有様です」と趙主任は吐き捨てるように話を結んだ。
「それでよく国安局が出てくることになったのですね?」「ええ、実はその事で話がしたいと特調の方から連絡がありまして」
美玲は肩をすくめた。「何しろ私は医師の資格しか持っていませんから。それにこの仕事、割がいいんで辞めたくありませんし」
美玲が特調からの報酬目当てで自分に近づいた事に趙は落胆したが、その一方でほっとした。少なくともこの少女が自分と同じような目的で仕事をしているわけではなかったからだ。
(そうよ、よく考えてみればそんな事をするような人間ならあんな真似はしない)「国安局からの呼び出しに応じなかった理由はそれでわかりました。では次にお伺いします。今度の事、どこまで関わっておいでですか?」「正直な所、さっぱり見当がつきません」
趙主任が目を細めると美玲は小さく息を漏らした。
「そもそも私とあなた方との接点は一体何なのですか?」
趙主任の目が泳いだ。それを見て雅麗姫は呆れ返った。どう見ても怪しい。「その点に関しての質問は一切お受けできないと思いますが?」「そうでしょうね」と雅麗姫が鼻で笑った。「で、本当の目的を聞かせてもらえないかしら?」「ですからさっき申し上げた通りで……」
「もう、結構です」と雅麗姫は両手を挙げた。「つまりは国家権力を後ろ盾にして、うちの病院に嫌がらせをしようとしているのよね?」「違います! 我々はあくまで……」
「あらぁ~?私はただ質問してるだけなんだけど」と雅麗姫はわざとらしく口元に手を当ててみせる。「で、さぁ? どうして欲しいの? 私を殺して遺体を処理しようっていうわけ?」
「と、とんでもない!」と趙主任は慌てて否定した。その慌てぶりに今度は美玲が小さく舌打ちをした。「でもさぁ、そう思われても仕方がないんじゃなくて?」
「ですから、我々の話をちゃんと聞いてください! お願いですから! どうか! どうか! どうか! どうか! どうか! 」
(こいつ、泣いている?)美玲の視線を感じて雅麗姫が趙主任を見下ろし、蔑んだ目で見た瞬間、彼の頬には一筋の涙が流れ落ちた。「わぁ!」
あまりの形相に驚いて、つい一歩退いてしまう。「どうか、落ち着いて話を」雅麗姫の足もとには白目を剥いた看護師の死体が横たわっている。
「あーあ」美玲は大仰に溜息をつくと、「これじゃぁダメですよ。もう少し時間をかけてゆっくり落としていかなければ」「すみません」
趙が頭を下げたが美玲が睨む。「まず、こちらの誤解を解くことから始めて頂かないと」「誤解? 私が? どうして? そもそもあなた方はいったいどこから来たのかしら?」
雅麗姫は腕組みをして考え込んだ。
(なぜ、ここまで疑われる? 何が問題なんだ?)
その時、趙はようやく気づいた。
(そうか、そういう事か! 我々がやろうとしていることの根底にあるものが、目の前にいる彼女にとって不愉快極まりないからなのだ。だから警戒される! これは思ったよりも難問になりそうだぞ! しかも、この娘を納得させねばならならんのか? どうすればいい?)
「まぁ、よろしいでしょう。どうやらそちらさん、相当困ってらっしゃるようですし。ここは一つ私に任せていただけないでしょうか?」「貴女に?」
趙は首を傾げた。「ええ、こう見えて私は交渉事には自信があるんです」

***
雅麗姫は美玲の運転する車に揺られながらぼんやりしていた。
(何者なのかしらこの子……?)
一見すると無邪気で可愛らしい少女にしか見えない。だが、それだけではない気がした。どこか底知れぬ闇のようなものを感じさせる時が時々ある。
「それで何をしようというの?」