ぴーん、こわいよう、こわいようー。
俺はギクリとしてぱっと手を離した。
ーー今のは何だ?
俺はまじまじと目の前の患者を見つめた。本日の往診先は、年老いた男性。先程の声はどう考えてもこの人の声ではない。
子供のような声だったが……。
患者は寝台に腰掛けながら不安そうに俺の顔を見た。
「先生。わしはもう駄目なんかのう?」
「あ、いえ」
俺は慌てて手を左右に振った。患者はなおも不安そうに俺を見つめた。そして、立ち上がって叫んだ。
「おしまいじゃ! この震旦(中国)で一番の名医と言われる先生に見離されたら、わしはもうおしまいじゃあああ!!!」
「いやいや、まだ何も診察できていませんから!」
「おしまいじゃあああ!!」
「はーい、じゃあ診察しますからねー!!」
無理やり肩を押さえて座らせると、やっと患者はおとなしくなった。
ーー気のせいか?
俺は患者の脈にもう一度触った。その途端。
「うわーん、どうしよう、どうしよう、ねえ、ヤマイン」
耳に聞こえてきたその声に俺は思わず声を上げそうになるが、なんとか堪えた。患者に不安を与えてはいけない。
「お、落ち着くんだ、ビョウキン!」
俺は頭を振った。
幻聴か? そうだな、昨日は遅くまで別の患者を診ていたからな。疲れているのかも知れない。
「脈は問題ありません。横になっていただけますか」
「おお、わかった! 今ちょうど眠たかったのだ!」
患者が勢いよくぱたんと寝台に横になる。その瞬間、何か親指ほどの小さなものが二つ、取り残されたように目の前に浮かんだ。
ーー子供?
俺は見間違いかとまばたきする。
「あっ、体の外に出ちゃったよ。早く戻ろう、ビョウキン!」
「うん、ヤマイン! 急げー、急げー、わー、わー」
小さな子供のようなものは手をバタバタさせた。
ーーはっきりと見えているし、聞こえている。
どう考えても見間違いでも聞き間違いでもない。俺は確信した。
これが古来より伝わる「名医だけが見ることのできる病気」というものか!
ビョウキンと呼ばれた子供は、患者の胸のあたりで中に入ろうとわたわたした。そして、もう一人のヤマインと呼ばれた子供のほうを振り返った。
「でも、どうしよう。この人お医者さんだよ。僕たちやられちゃうよう。こわいよう」
「大丈夫だよ! 実は必殺技があるんだ」
「えっ、何? 何? 教えて、ヤマイン!」
「先生? どうなさいました」
患者の声で我に返った。
「あ、すみません。では診察を「わーっ、早く! 早くヤマイン! 僕たち死んじゃうよう」「うん! 行くよ! 僕にちゃんとついてくるんだよ!」「先生? わしはずっと横になってるのも腰が痛くてのう」「あ、失礼しました。では、胸元を失礼しま「僕は膏に入るから、ビョウキンは肓に入るんだ!」「えっ、僕がこうでヤマインもこう? こうとこうってどこ?」「僕が心臓の上の膏! ビョウキンは横隔膜の下の肓だよ!」「うん、わかった!」「先生、わし、ちょっとしょんべんしたくなってきてしまったのじゃが」「ああ、すみません、では先に厠へ行っ「ーー必殺! ヤマイコウコウニイル!」「ヤミャイコーコーニュイル!」
その瞬間的、患者の胸のあたりが白く光った。そしてすぐその光は消えた。
ーーまずい!
俺は我に返った。
病膏肓に入る、つまり薬も鍼も届かない所の病だ。もう手の施しようがない。
なんてことだ。つい子供たちに気を取られてしまっていた。
どうしたらーー
「先生、わし漏れちまうから行ってくるよ!」
患者はひょいと起き上がり、慌てたように内股で厠へと駆けていった。
「うわーん、また体の外に出ちゃったよ、どうしよう、どうしよう、ヤマイン」
寝台の上にまたしても二人の小さな子供が取り残されていた。
「すぐ追っかけるんだ! 必殺、ヤマイコウコウニイル! をやれば大丈夫だよ」
「でも、でも、もしこのお医者さんがおじいちゃんに八毒丸のお薬を飲ませちゃったら」
「しっ! 誰が聞いてるかわからないよ」
ーーなるほど。
俺はホッとした。八毒丸で治る病か。ちょうど今持参している。患者が戻ってきたら早速飲ませよう。
俺は布包みから八毒丸を取り出した。そしてそれを持って寝台を振り返った。
俺はギクリとした。
二人の小さな子供が、八毒丸を見てガタガタと震えている。そして目からは涙が溢れている。
「ヤ、ヤマイン……」
「ビョウキン……」
二人は抱き合った。顔を涙と鼻水でグショグショにしながら。そして、わーん、わーんと大声で泣き出した。
「こっ、こんっな、ことにっ、なるなら……おじいちゃんじゃなくてっ、ここに活けてあるお花の中に、入れば、よかっ……!」
「も、もうっ、僕たち、終わりだ、ね……」
俺は立ち上がった。と同時に部屋の扉が開いた。
「先生、お待たせしてしまってすまなかったなあ。大のほうも出ちまってなあ」
「ーー療養に行くのが良いです!」
「は?」
俺は部屋の外にいる患者の家族に呼び掛けた。
「ここは場所が悪い! 今すぐ私の住まいに連れていきますので、荷物は後から頼みます!」
「は? わしの治療は?」
「大丈夫です! 療養で治ります!」
俺は患者を俵担ぎして、部屋を飛び出した。
数歩歩いて部屋を振り返る。
そこには、嬉しそうに手を繋いでくるくるくるくると回っている、ヤマインとビョウキンがいた。
俺はギクリとしてぱっと手を離した。
ーー今のは何だ?
俺はまじまじと目の前の患者を見つめた。本日の往診先は、年老いた男性。先程の声はどう考えてもこの人の声ではない。
子供のような声だったが……。
患者は寝台に腰掛けながら不安そうに俺の顔を見た。
「先生。わしはもう駄目なんかのう?」
「あ、いえ」
俺は慌てて手を左右に振った。患者はなおも不安そうに俺を見つめた。そして、立ち上がって叫んだ。
「おしまいじゃ! この震旦(中国)で一番の名医と言われる先生に見離されたら、わしはもうおしまいじゃあああ!!!」
「いやいや、まだ何も診察できていませんから!」
「おしまいじゃあああ!!」
「はーい、じゃあ診察しますからねー!!」
無理やり肩を押さえて座らせると、やっと患者はおとなしくなった。
ーー気のせいか?
俺は患者の脈にもう一度触った。その途端。
「うわーん、どうしよう、どうしよう、ねえ、ヤマイン」
耳に聞こえてきたその声に俺は思わず声を上げそうになるが、なんとか堪えた。患者に不安を与えてはいけない。
「お、落ち着くんだ、ビョウキン!」
俺は頭を振った。
幻聴か? そうだな、昨日は遅くまで別の患者を診ていたからな。疲れているのかも知れない。
「脈は問題ありません。横になっていただけますか」
「おお、わかった! 今ちょうど眠たかったのだ!」
患者が勢いよくぱたんと寝台に横になる。その瞬間、何か親指ほどの小さなものが二つ、取り残されたように目の前に浮かんだ。
ーー子供?
俺は見間違いかとまばたきする。
「あっ、体の外に出ちゃったよ。早く戻ろう、ビョウキン!」
「うん、ヤマイン! 急げー、急げー、わー、わー」
小さな子供のようなものは手をバタバタさせた。
ーーはっきりと見えているし、聞こえている。
どう考えても見間違いでも聞き間違いでもない。俺は確信した。
これが古来より伝わる「名医だけが見ることのできる病気」というものか!
ビョウキンと呼ばれた子供は、患者の胸のあたりで中に入ろうとわたわたした。そして、もう一人のヤマインと呼ばれた子供のほうを振り返った。
「でも、どうしよう。この人お医者さんだよ。僕たちやられちゃうよう。こわいよう」
「大丈夫だよ! 実は必殺技があるんだ」
「えっ、何? 何? 教えて、ヤマイン!」
「先生? どうなさいました」
患者の声で我に返った。
「あ、すみません。では診察を「わーっ、早く! 早くヤマイン! 僕たち死んじゃうよう」「うん! 行くよ! 僕にちゃんとついてくるんだよ!」「先生? わしはずっと横になってるのも腰が痛くてのう」「あ、失礼しました。では、胸元を失礼しま「僕は膏に入るから、ビョウキンは肓に入るんだ!」「えっ、僕がこうでヤマインもこう? こうとこうってどこ?」「僕が心臓の上の膏! ビョウキンは横隔膜の下の肓だよ!」「うん、わかった!」「先生、わし、ちょっとしょんべんしたくなってきてしまったのじゃが」「ああ、すみません、では先に厠へ行っ「ーー必殺! ヤマイコウコウニイル!」「ヤミャイコーコーニュイル!」
その瞬間的、患者の胸のあたりが白く光った。そしてすぐその光は消えた。
ーーまずい!
俺は我に返った。
病膏肓に入る、つまり薬も鍼も届かない所の病だ。もう手の施しようがない。
なんてことだ。つい子供たちに気を取られてしまっていた。
どうしたらーー
「先生、わし漏れちまうから行ってくるよ!」
患者はひょいと起き上がり、慌てたように内股で厠へと駆けていった。
「うわーん、また体の外に出ちゃったよ、どうしよう、どうしよう、ヤマイン」
寝台の上にまたしても二人の小さな子供が取り残されていた。
「すぐ追っかけるんだ! 必殺、ヤマイコウコウニイル! をやれば大丈夫だよ」
「でも、でも、もしこのお医者さんがおじいちゃんに八毒丸のお薬を飲ませちゃったら」
「しっ! 誰が聞いてるかわからないよ」
ーーなるほど。
俺はホッとした。八毒丸で治る病か。ちょうど今持参している。患者が戻ってきたら早速飲ませよう。
俺は布包みから八毒丸を取り出した。そしてそれを持って寝台を振り返った。
俺はギクリとした。
二人の小さな子供が、八毒丸を見てガタガタと震えている。そして目からは涙が溢れている。
「ヤ、ヤマイン……」
「ビョウキン……」
二人は抱き合った。顔を涙と鼻水でグショグショにしながら。そして、わーん、わーんと大声で泣き出した。
「こっ、こんっな、ことにっ、なるなら……おじいちゃんじゃなくてっ、ここに活けてあるお花の中に、入れば、よかっ……!」
「も、もうっ、僕たち、終わりだ、ね……」
俺は立ち上がった。と同時に部屋の扉が開いた。
「先生、お待たせしてしまってすまなかったなあ。大のほうも出ちまってなあ」
「ーー療養に行くのが良いです!」
「は?」
俺は部屋の外にいる患者の家族に呼び掛けた。
「ここは場所が悪い! 今すぐ私の住まいに連れていきますので、荷物は後から頼みます!」
「は? わしの治療は?」
「大丈夫です! 療養で治ります!」
俺は患者を俵担ぎして、部屋を飛び出した。
数歩歩いて部屋を振り返る。
そこには、嬉しそうに手を繋いでくるくるくるくると回っている、ヤマインとビョウキンがいた。