白いシャツに太ももまでのスカート。そのスカートの先と同じところまで裾があるポンチョを羽織り、ハロルは家を出た。膝を覆い隠すほど長いロングブーツを履いて。
朝早いので、学校にはまだ人がまばらだ。花壇に行くと、ミーンが居た。弱っている花にちょろちょろと水をあげている。こちらに気付いた彼女が手を振って「おはよう」と言う。ハロルは微笑んで挨拶を返した。
ハロルは隣に立って、創筆を取り出した。
「なあミーン。もしもミーンが見守ってなくても花が大丈夫になったとしたら、お母さんとお父さんに話してくれるか?」
ハロルの表情は硬かった。断られるかもしれないという気持ちは当然ある。それに、ミーンは虚構士になった方がいいというのは、その方が幸せになれる公算が高いというのが第一にあるものの、単純に自分の友達が欲しいという個人的な願望も含まれている。そんなものに彼女の人生を巻き込むのは気が引ける。しかしハロルは、願望を放つ心のそのもっと奥の方で、彼女を望んでいた。宝石のように煌めく緑色の瞳。それをしまい込んだ瞼は半開きで。まなじりはやさしく垂れていて。キメの細かい白い肌と淡い唇。それが痛みに歪めば自分の心もきゅうきゅうと苦しそうな音を立て、それが幸せな笑みを零せば心がふわりと軽くなり自分の顔を綻ばせる。この気持ちがなんなのか、さっぱり想像がつかないが、彼女が傍に居ない未来を考えると心がざわつくのだ。
「もしも虚構士が花を守れるなら、わたしも虚構士になりたい」
想像外の返答だった。断られるか、或いは頷かれるにしても両親に話してみるという類の曖昧なものだと思っていた。これほどまでハッキリと自分の意思を表明するとは。
ハロルは拳を固く握ってコクッと頷いた。
構えた創筆が花壇の上で舞い始める。
【花は生きている。言葉を許された存在。踏まれれば痛い。その気持ちを口にする。痛い痛いと口にする。やめて欲しいと主張する。お前は生きている。人間だけがわからずに。それでもお前は生きている】
ハロルは創筆を腰のベルトにぶら下がっている小さなホルスターにしまった。
「もういいの?」
「ああ。これでブロンの野郎もミーンが言っていたことを信じるぜ」
虚構術の発動は間違いなくする。ブロンの驚く顔が目に浮かび、クックックと笑いを零した。
学校の始業を知らせる鐘が鳴ったのでミーンは教室へ向かい、ハロルはしばらくそこで待つことにした。校庭の木の陰に隠れて、腰を下ろした。
鳥のさえずりが渡り、雲が流れる。青々とした空はどこまでも体を軽くしてくれる。もたれかかった木の湿り気。風に葉がサラサラと涼やかな音を奏でる。
植物は確かに生きているかも知れない。そこに意思がないと、なぜ言えるのか。あの雲にも空にも、生命がないとどうして言えるのか。ここまで人々に活力を与えているというのに。もしかしたら彼らは、この世界の生きとし生けるすべてのものに生命を分け与えているのかも知れないのに。
ミーンが言っていたのは妄想だ。だがそれもあながち間違いではないのかも知れない。
虚構士は妄想する。夢見子は妄想する。妄想が眠っている間にも発現すれば、虚構士としての能力が高いと言うことだ。
ハロルは自らを天才と称するだけあり、毎晩夢を見る。最近決まって同じ夢だと言うのが気になってはいたが、それでも夢を見ないよりはマシに思えた。ハロルは虚構士のスーに育てられたから、虚構士と言うものになんの疑念も羞恥心もない。あるのは誇り。スー・レフォストと言う大虚構士に対する畏敬の念のみだ。
ミーンも虚構術を学び、スーの下で修業すれば虚構士であること、夢見子であること、妄想することを恥じ入ることもなくなるだろう。
ハロルはゆっくりと息を吐いた。頭の中の熱が外に吐き出されるような心地よさを覚えた。それを何度か続けたら、いつの間にか意識が空に吸い込まれて行った……。
「ぎゃあああああ!」
意識が劈《つんざ》かれた。
ハロルは跳び起きて声のした方を向いた。そこには小太りの少年が蒼い顔で口をパクパクさせて寝そべっていた。腰を抜かしたのか、その状態から起き上がれないでいた。
「は、はははは、花が、しゃ、しゃべった!」
ブロンは取り巻きの二人を交互に見た。
「お前らも見たよな!?」
「ああ!」
「見た!」
二人はブロンを支えて、花壇から急いで離れて行った。
それを見ていたハロルは跳びあがってガッツポーズを決めた。
「さっすが天才虚構士! このハロル様にやれないことはないぜ!」
腰に手を当てて、ワハハハッ! と豪快に笑う。
「これであいつらも二度と花壇には近づかないだろ」
しばらく悦に入っていたらミーンがやって来た。花壇の花を一つ一つ確かめて、ホッと一息ついた。ブロンがこちらに歩いていくのを見ていたのだろう。ことの顛末《てんまつ》を教えてやろう。そして改めて虚構士にならないか聞いてみよう。
そう思い、木の陰から出たところで、騒々しい足音が花壇に向かってくるのに気付いた。その足音の群れはブロンが先頭だ。後ろには大人たちが3人ほど居る。今ここで出て行ったら自分の虚構術によるものだとバレてしまう。
大人が居る前で、ブロンが乱暴を働くとは思えない。ハロルはこのまま傍観することを選んだ。
「本当だ。本当にしゃべったんだ! 痛い、痛いって! まるで人間みたいに!」
大人の一人が花壇の上に立つ。
それをミーンが心配そうに見ている。
「あ、あの……」
大人は掌を彼女に向け、花を靴底で踏んだ。
「痛い、痛い! やめて、やめて!」
花から声が響いて、大人は仰け反りながら花壇から離れた。
「こ、これは、病気か? 新種の病気なのか?」
「いずれにせよこの花をこのままにしておくわけにはいかん」
「もしかしたら他の植物に伝染するかも」
「なら切ったり抜いたりするのも危ないな」
「このままでは子供たちが怪我をするかも知れん」
大人二人が話し合っている中、もう一人の大人が缶を片手にぶら下げて帰って来た。それを花壇にかけている。
すぐにミーンの顔が青ざめた。
「これ、え、……これって!」
「灯油だよ。危ないから離れていなさい」
「ダメ! 先生ダメです!」
「子供たちのためなんだ」
言うが早いかマッチを擦ってそれを投げ入れる。土に染み渡った灯油から炎が上がり、花壇が炎に包まれた。
ハロルは叫びながら駆け出す。
「やめろおお!」
走りながら自分の行いを悔いる。
(オレのせいで花が燃やされちまう……! オレのせいで……また……! ……また?)
ないはずの記憶。既視感が足を止める。直後、鋭い激痛が頭の内側に走った。自分の頭を両手で抱える。
ミーンはハロルに気付いて走ってくる。
「ハロル! 助けて! お花が全部燃やされちゃうよお!」
その声が耳に入ったかどうかも曖昧になるほどの痛みがハロルを襲っていた。
ただその中でも、ミーンが困り果てていることだけはわかっていて、それをどうにかして救わなければいけないことを自覚していた。だがそれ以外は、考えられない。なにかを考えようとすると、頭の中を稲妻が駆け巡り、思考そのものが霧散してしまう。考えられない。なにも。そうするうちにいつしか、自分の思考が酷く曖昧なものになっていくのも感じていた。もはや立っているのか座っているのかもわからない。ふわふわと宙に浮くような感覚だった。
ハロルはミーンの名を呼ぼうとするが舌が回らない。焦点の合わない目でミーンを見るので精一杯だ。ハロルにはもう彼女の声すら聞こえていない。
完全に力が抜けて倒れそうになるところを、ミーンが支えた。
「大丈夫!? ハロル!」
ミーンが支える中で、ハロルの髪の右半分が銀色から金色に変色した。彼女は驚きを露わにしつつも、必死にハロルを支えた。だらりと垂れていた手に力が戻り、足は大地をしっかりと踏みしめ直した。
ハロルが意識を取り戻したことで、ミーンは体からそっと離れた。そしてハロルの顔を見て、口元を押さえた。
「ハロル、目……」
ミーンにバラのように赤いと褒められたハロルの右目には青い石ころが挟まっていた。その形容がピタリと当てはまるほどに、無機質的な瞳だった。
ハロルは花壇に向かって右手を向けた。すると炎の中から絶叫が聞こえる。
「熱いぃぃぃいいいい!!」
ハロル以外全員が耳を塞いだ。
そしてその中に、炎以外のものがのたうち回り始めた。それは蔓のようなものだった。やがて小さかった花が一気に膨れ上がり、大人たちの身長を越えた。その巨大花から蔓が伸びて灯油をかけた大人の足に絡まる。
「ぎゃっ!」
足を取られた大人は仰向けに倒れ、そのままずるずると引っ張られる。燃え盛る炎の中に引きずり込まれそうになっている。
「た、たたた、たあすけてえええ!」
情けない声が上がる。大人たちが彼の両サイドに立ってそれぞれ腕を引いた。
「ハロル! やめてあげて!」
ミーンがハロルの腕を引っ張るが、固定されたように動かない。一瞥もやらない。表情もない。石のようにただ、目の前で行うべきことを断行しているに過ぎないと言ったような雰囲気である。
ミーンはあたふたしながらも、深呼吸を一度だけした。すると、その直後には彼女の瞳は落ち着いていた。今できることを必死に考えている、そんな瞳に変じていた。
瞼から半分だけ覗いたエメラルドが鋭く光る。
「ブロン君! 先生のベルトを外して!」
言われるままにブロンは足を取られている教員のベルトを外した。その瞬間、ベロンとズボンは脱がされ、炎の壁の中に入っていった。
「あぶなかっ——」
しかし蔓はまたしても炎を突き破り出て、鞭のようにしなりながら足に絡みついた。今度はもう、脱がす服はない。
「うああああ!」
絶叫が響き渡った。
不意に、暗雲が立ち込めた。ちょうど花壇の真上辺りにだけだ。そこから大量の雨が、文字通り滝のように降り注いだ。その滝は火を消し止め、周りの人々に花壇の泥を被せた。これで教師が丸焼きになることは免れた。しかし絡んだ蔓がまだ取れていない。先の雨は花壇の花の力を衰えさせたわけではない。
ハロルの隣を影がすり抜けた。ウェーヴの掛かった茶髪が揺れている。ゆったりとしたローブに身を包んで現れたのはスーだった。彼は創筆を手にしている。その尻軸《しりじく》からはフィガロチェーンが伸びており、ローブの上から締められたベルトに取り付けられた創筆のキャップリングにまで続いていた。
スーは彫金が施された創筆を花に向けて躍らせ始めた。距離はあるが、それでも効果が有ると確信しているのだろう。ペン先が動く度、フィガロチェーンが艶やかに踊る。なにかを書いているが、それがなにを示しているのかを知ることが出来る者はこの場には居ないだろう。
書き終えると、花から伸びていた蔓は萎《しお》れ、花は元の大きさに戻って空を仰いだ。
スーは振り返ってすぐにぎょっとした。
しかしすぐさまハロルの額の上で創筆を躍らせた。書き終えるとハロルは、意識を失い、項垂れた。
バランスを崩してハロルが前のめりに倒れるのをスーが抱きかかえたとき、立ち込めていた暗雲が消えて行った。
「あ! あれ!」
一人の少年が空を指さして叫んだ。
暗雲を切り裂き現れたのは黒龍。すべての鱗は漆黒だが、その所々が太陽を反射していて輝いているようにも見えた。夜空を纏《まと》ったようなドラゴンだった。
しかしそれはここに降りてくるわけではなく、南の空へ向かって飛んで行った。
その先はイアルグ。七年前全焼した村。
朝早いので、学校にはまだ人がまばらだ。花壇に行くと、ミーンが居た。弱っている花にちょろちょろと水をあげている。こちらに気付いた彼女が手を振って「おはよう」と言う。ハロルは微笑んで挨拶を返した。
ハロルは隣に立って、創筆を取り出した。
「なあミーン。もしもミーンが見守ってなくても花が大丈夫になったとしたら、お母さんとお父さんに話してくれるか?」
ハロルの表情は硬かった。断られるかもしれないという気持ちは当然ある。それに、ミーンは虚構士になった方がいいというのは、その方が幸せになれる公算が高いというのが第一にあるものの、単純に自分の友達が欲しいという個人的な願望も含まれている。そんなものに彼女の人生を巻き込むのは気が引ける。しかしハロルは、願望を放つ心のそのもっと奥の方で、彼女を望んでいた。宝石のように煌めく緑色の瞳。それをしまい込んだ瞼は半開きで。まなじりはやさしく垂れていて。キメの細かい白い肌と淡い唇。それが痛みに歪めば自分の心もきゅうきゅうと苦しそうな音を立て、それが幸せな笑みを零せば心がふわりと軽くなり自分の顔を綻ばせる。この気持ちがなんなのか、さっぱり想像がつかないが、彼女が傍に居ない未来を考えると心がざわつくのだ。
「もしも虚構士が花を守れるなら、わたしも虚構士になりたい」
想像外の返答だった。断られるか、或いは頷かれるにしても両親に話してみるという類の曖昧なものだと思っていた。これほどまでハッキリと自分の意思を表明するとは。
ハロルは拳を固く握ってコクッと頷いた。
構えた創筆が花壇の上で舞い始める。
【花は生きている。言葉を許された存在。踏まれれば痛い。その気持ちを口にする。痛い痛いと口にする。やめて欲しいと主張する。お前は生きている。人間だけがわからずに。それでもお前は生きている】
ハロルは創筆を腰のベルトにぶら下がっている小さなホルスターにしまった。
「もういいの?」
「ああ。これでブロンの野郎もミーンが言っていたことを信じるぜ」
虚構術の発動は間違いなくする。ブロンの驚く顔が目に浮かび、クックックと笑いを零した。
学校の始業を知らせる鐘が鳴ったのでミーンは教室へ向かい、ハロルはしばらくそこで待つことにした。校庭の木の陰に隠れて、腰を下ろした。
鳥のさえずりが渡り、雲が流れる。青々とした空はどこまでも体を軽くしてくれる。もたれかかった木の湿り気。風に葉がサラサラと涼やかな音を奏でる。
植物は確かに生きているかも知れない。そこに意思がないと、なぜ言えるのか。あの雲にも空にも、生命がないとどうして言えるのか。ここまで人々に活力を与えているというのに。もしかしたら彼らは、この世界の生きとし生けるすべてのものに生命を分け与えているのかも知れないのに。
ミーンが言っていたのは妄想だ。だがそれもあながち間違いではないのかも知れない。
虚構士は妄想する。夢見子は妄想する。妄想が眠っている間にも発現すれば、虚構士としての能力が高いと言うことだ。
ハロルは自らを天才と称するだけあり、毎晩夢を見る。最近決まって同じ夢だと言うのが気になってはいたが、それでも夢を見ないよりはマシに思えた。ハロルは虚構士のスーに育てられたから、虚構士と言うものになんの疑念も羞恥心もない。あるのは誇り。スー・レフォストと言う大虚構士に対する畏敬の念のみだ。
ミーンも虚構術を学び、スーの下で修業すれば虚構士であること、夢見子であること、妄想することを恥じ入ることもなくなるだろう。
ハロルはゆっくりと息を吐いた。頭の中の熱が外に吐き出されるような心地よさを覚えた。それを何度か続けたら、いつの間にか意識が空に吸い込まれて行った……。
「ぎゃあああああ!」
意識が劈《つんざ》かれた。
ハロルは跳び起きて声のした方を向いた。そこには小太りの少年が蒼い顔で口をパクパクさせて寝そべっていた。腰を抜かしたのか、その状態から起き上がれないでいた。
「は、はははは、花が、しゃ、しゃべった!」
ブロンは取り巻きの二人を交互に見た。
「お前らも見たよな!?」
「ああ!」
「見た!」
二人はブロンを支えて、花壇から急いで離れて行った。
それを見ていたハロルは跳びあがってガッツポーズを決めた。
「さっすが天才虚構士! このハロル様にやれないことはないぜ!」
腰に手を当てて、ワハハハッ! と豪快に笑う。
「これであいつらも二度と花壇には近づかないだろ」
しばらく悦に入っていたらミーンがやって来た。花壇の花を一つ一つ確かめて、ホッと一息ついた。ブロンがこちらに歩いていくのを見ていたのだろう。ことの顛末《てんまつ》を教えてやろう。そして改めて虚構士にならないか聞いてみよう。
そう思い、木の陰から出たところで、騒々しい足音が花壇に向かってくるのに気付いた。その足音の群れはブロンが先頭だ。後ろには大人たちが3人ほど居る。今ここで出て行ったら自分の虚構術によるものだとバレてしまう。
大人が居る前で、ブロンが乱暴を働くとは思えない。ハロルはこのまま傍観することを選んだ。
「本当だ。本当にしゃべったんだ! 痛い、痛いって! まるで人間みたいに!」
大人の一人が花壇の上に立つ。
それをミーンが心配そうに見ている。
「あ、あの……」
大人は掌を彼女に向け、花を靴底で踏んだ。
「痛い、痛い! やめて、やめて!」
花から声が響いて、大人は仰け反りながら花壇から離れた。
「こ、これは、病気か? 新種の病気なのか?」
「いずれにせよこの花をこのままにしておくわけにはいかん」
「もしかしたら他の植物に伝染するかも」
「なら切ったり抜いたりするのも危ないな」
「このままでは子供たちが怪我をするかも知れん」
大人二人が話し合っている中、もう一人の大人が缶を片手にぶら下げて帰って来た。それを花壇にかけている。
すぐにミーンの顔が青ざめた。
「これ、え、……これって!」
「灯油だよ。危ないから離れていなさい」
「ダメ! 先生ダメです!」
「子供たちのためなんだ」
言うが早いかマッチを擦ってそれを投げ入れる。土に染み渡った灯油から炎が上がり、花壇が炎に包まれた。
ハロルは叫びながら駆け出す。
「やめろおお!」
走りながら自分の行いを悔いる。
(オレのせいで花が燃やされちまう……! オレのせいで……また……! ……また?)
ないはずの記憶。既視感が足を止める。直後、鋭い激痛が頭の内側に走った。自分の頭を両手で抱える。
ミーンはハロルに気付いて走ってくる。
「ハロル! 助けて! お花が全部燃やされちゃうよお!」
その声が耳に入ったかどうかも曖昧になるほどの痛みがハロルを襲っていた。
ただその中でも、ミーンが困り果てていることだけはわかっていて、それをどうにかして救わなければいけないことを自覚していた。だがそれ以外は、考えられない。なにかを考えようとすると、頭の中を稲妻が駆け巡り、思考そのものが霧散してしまう。考えられない。なにも。そうするうちにいつしか、自分の思考が酷く曖昧なものになっていくのも感じていた。もはや立っているのか座っているのかもわからない。ふわふわと宙に浮くような感覚だった。
ハロルはミーンの名を呼ぼうとするが舌が回らない。焦点の合わない目でミーンを見るので精一杯だ。ハロルにはもう彼女の声すら聞こえていない。
完全に力が抜けて倒れそうになるところを、ミーンが支えた。
「大丈夫!? ハロル!」
ミーンが支える中で、ハロルの髪の右半分が銀色から金色に変色した。彼女は驚きを露わにしつつも、必死にハロルを支えた。だらりと垂れていた手に力が戻り、足は大地をしっかりと踏みしめ直した。
ハロルが意識を取り戻したことで、ミーンは体からそっと離れた。そしてハロルの顔を見て、口元を押さえた。
「ハロル、目……」
ミーンにバラのように赤いと褒められたハロルの右目には青い石ころが挟まっていた。その形容がピタリと当てはまるほどに、無機質的な瞳だった。
ハロルは花壇に向かって右手を向けた。すると炎の中から絶叫が聞こえる。
「熱いぃぃぃいいいい!!」
ハロル以外全員が耳を塞いだ。
そしてその中に、炎以外のものがのたうち回り始めた。それは蔓のようなものだった。やがて小さかった花が一気に膨れ上がり、大人たちの身長を越えた。その巨大花から蔓が伸びて灯油をかけた大人の足に絡まる。
「ぎゃっ!」
足を取られた大人は仰向けに倒れ、そのままずるずると引っ張られる。燃え盛る炎の中に引きずり込まれそうになっている。
「た、たたた、たあすけてえええ!」
情けない声が上がる。大人たちが彼の両サイドに立ってそれぞれ腕を引いた。
「ハロル! やめてあげて!」
ミーンがハロルの腕を引っ張るが、固定されたように動かない。一瞥もやらない。表情もない。石のようにただ、目の前で行うべきことを断行しているに過ぎないと言ったような雰囲気である。
ミーンはあたふたしながらも、深呼吸を一度だけした。すると、その直後には彼女の瞳は落ち着いていた。今できることを必死に考えている、そんな瞳に変じていた。
瞼から半分だけ覗いたエメラルドが鋭く光る。
「ブロン君! 先生のベルトを外して!」
言われるままにブロンは足を取られている教員のベルトを外した。その瞬間、ベロンとズボンは脱がされ、炎の壁の中に入っていった。
「あぶなかっ——」
しかし蔓はまたしても炎を突き破り出て、鞭のようにしなりながら足に絡みついた。今度はもう、脱がす服はない。
「うああああ!」
絶叫が響き渡った。
不意に、暗雲が立ち込めた。ちょうど花壇の真上辺りにだけだ。そこから大量の雨が、文字通り滝のように降り注いだ。その滝は火を消し止め、周りの人々に花壇の泥を被せた。これで教師が丸焼きになることは免れた。しかし絡んだ蔓がまだ取れていない。先の雨は花壇の花の力を衰えさせたわけではない。
ハロルの隣を影がすり抜けた。ウェーヴの掛かった茶髪が揺れている。ゆったりとしたローブに身を包んで現れたのはスーだった。彼は創筆を手にしている。その尻軸《しりじく》からはフィガロチェーンが伸びており、ローブの上から締められたベルトに取り付けられた創筆のキャップリングにまで続いていた。
スーは彫金が施された創筆を花に向けて躍らせ始めた。距離はあるが、それでも効果が有ると確信しているのだろう。ペン先が動く度、フィガロチェーンが艶やかに踊る。なにかを書いているが、それがなにを示しているのかを知ることが出来る者はこの場には居ないだろう。
書き終えると、花から伸びていた蔓は萎《しお》れ、花は元の大きさに戻って空を仰いだ。
スーは振り返ってすぐにぎょっとした。
しかしすぐさまハロルの額の上で創筆を躍らせた。書き終えるとハロルは、意識を失い、項垂れた。
バランスを崩してハロルが前のめりに倒れるのをスーが抱きかかえたとき、立ち込めていた暗雲が消えて行った。
「あ! あれ!」
一人の少年が空を指さして叫んだ。
暗雲を切り裂き現れたのは黒龍。すべての鱗は漆黒だが、その所々が太陽を反射していて輝いているようにも見えた。夜空を纏《まと》ったようなドラゴンだった。
しかしそれはここに降りてくるわけではなく、南の空へ向かって飛んで行った。
その先はイアルグ。七年前全焼した村。