虚構士ハロルは夢を見る

 白いシャツに太ももまでのスカート。そのスカートの先と同じところまで裾があるポンチョを羽織り、ハロルは家を出た。膝を覆い隠すほど長いロングブーツを履いて。

 朝早いので、学校にはまだ人がまばらだ。花壇に行くと、ミーンが居た。弱っている花にちょろちょろと水をあげている。こちらに気付いた彼女が手を振って「おはよう」と言う。ハロルは微笑んで挨拶を返した。
 ハロルは隣に立って、創筆(そうひつ)を取り出した。

「なあミーン。もしもミーンが見守ってなくても花が大丈夫になったとしたら、お母さんとお父さんに話してくれるか?」

 ハロルの表情は硬かった。断られるかもしれないという気持ちは当然ある。それに、ミーンは虚構士になった方がいいというのは、その方が幸せになれる公算が高いというのが第一にあるものの、単純に自分の友達が欲しいという個人的な願望も含まれている。そんなものに彼女の人生を巻き込むのは気が引ける。しかしハロルは、願望を放つ心のそのもっと奥の方で、彼女を望んでいた。宝石のように煌めく緑色の瞳。それをしまい込んだ瞼は半開きで。まなじりはやさしく垂れていて。キメの細かい白い肌と淡い唇。それが痛みに歪めば自分の心もきゅうきゅうと苦しそうな音を立て、それが幸せな笑みを零せば心がふわりと軽くなり自分の顔を綻ばせる。この気持ちがなんなのか、さっぱり想像がつかないが、彼女が傍に居ない未来を考えると心がざわつくのだ。

「もしも虚構士が花を守れるなら、わたしも虚構士になりたい」

 想像外の返答だった。断られるか、或いは頷かれるにしても両親に話してみるという類の曖昧なものだと思っていた。これほどまでハッキリと自分の意思を表明するとは。
 ハロルは拳を固く握ってコクッと頷いた。

 構えた創筆が花壇の上で舞い始める。

【花は生きている。言葉を許された存在。踏まれれば痛い。その気持ちを口にする。痛い痛いと口にする。やめて欲しいと主張する。お前は生きている。人間だけがわからずに。それでもお前は生きている】

 ハロルは創筆を腰のベルトにぶら下がっている小さなホルスターにしまった。

「もういいの?」
「ああ。これでブロンの野郎もミーンが言っていたことを信じるぜ」

 虚構術の発動は間違いなくする。ブロンの驚く顔が目に浮かび、クックックと笑いを零した。

 学校の始業を知らせる鐘が鳴ったのでミーンは教室へ向かい、ハロルはしばらくそこで待つことにした。校庭の木の陰に隠れて、腰を下ろした。

 鳥のさえずりが渡り、雲が流れる。青々とした空はどこまでも体を軽くしてくれる。もたれかかった木の湿り気。風に葉がサラサラと涼やかな音を奏でる。
 植物は確かに生きているかも知れない。そこに意思がないと、なぜ言えるのか。あの雲にも空にも、生命がないとどうして言えるのか。ここまで人々に活力を与えているというのに。もしかしたら彼らは、この世界の生きとし生けるすべてのものに生命を分け与えているのかも知れないのに。
 ミーンが言っていたのは妄想だ。だがそれもあながち間違いではないのかも知れない。

 虚構士は妄想する。夢見子は妄想する。妄想が眠っている間にも発現すれば、虚構士としての能力が高いと言うことだ。
 ハロルは自らを天才と称するだけあり、毎晩夢を見る。最近決まって同じ夢だと言うのが気になってはいたが、それでも夢を見ないよりはマシに思えた。ハロルは虚構士のスーに育てられたから、虚構士と言うものになんの疑念も羞恥心もない。あるのは誇り。スー・レフォストと言う大虚構士に対する畏敬の念のみだ。
 ミーンも虚構術を学び、スーの下で修業すれば虚構士であること、夢見子であること、妄想することを恥じ入ることもなくなるだろう。

 ハロルはゆっくりと息を吐いた。頭の中の熱が外に吐き出されるような心地よさを覚えた。それを何度か続けたら、いつの間にか意識が空に吸い込まれて行った……。

「ぎゃあああああ!」

 意識が劈《つんざ》かれた。

 ハロルは跳び起きて声のした方を向いた。そこには小太りの少年が蒼い顔で口をパクパクさせて寝そべっていた。腰を抜かしたのか、その状態から起き上がれないでいた。

「は、はははは、花が、しゃ、しゃべった!」

 ブロンは取り巻きの二人を交互に見た。

「お前らも見たよな!?」
「ああ!」
「見た!」

 二人はブロンを支えて、花壇から急いで離れて行った。
 それを見ていたハロルは跳びあがってガッツポーズを決めた。

「さっすが天才虚構士! このハロル様にやれないことはないぜ!」

 腰に手を当てて、ワハハハッ! と豪快に笑う。

「これであいつらも二度と花壇には近づかないだろ」

 しばらく悦に入っていたらミーンがやって来た。花壇の花を一つ一つ確かめて、ホッと一息ついた。ブロンがこちらに歩いていくのを見ていたのだろう。ことの顛末《てんまつ》を教えてやろう。そして改めて虚構士にならないか聞いてみよう。
 そう思い、木の陰から出たところで、騒々しい足音が花壇に向かってくるのに気付いた。その足音の群れはブロンが先頭だ。後ろには大人たちが3人ほど居る。今ここで出て行ったら自分の虚構術によるものだとバレてしまう。
 大人が居る前で、ブロンが乱暴を働くとは思えない。ハロルはこのまま傍観することを選んだ。

「本当だ。本当にしゃべったんだ! 痛い、痛いって! まるで人間みたいに!」

 大人の一人が花壇の上に立つ。
 それをミーンが心配そうに見ている。

「あ、あの……」

 大人は掌を彼女に向け、花を靴底で踏んだ。

「痛い、痛い! やめて、やめて!」

 花から声が響いて、大人は仰け反りながら花壇から離れた。

「こ、これは、病気か? 新種の病気なのか?」
「いずれにせよこの花をこのままにしておくわけにはいかん」
「もしかしたら他の植物に伝染するかも」
「なら切ったり抜いたりするのも危ないな」
「このままでは子供たちが怪我をするかも知れん」

 大人二人が話し合っている中、もう一人の大人が缶を片手にぶら下げて帰って来た。それを花壇にかけている。

 すぐにミーンの顔が青ざめた。

「これ、え、……これって!」
「灯油だよ。危ないから離れていなさい」
「ダメ! 先生ダメです!」
「子供たちのためなんだ」

 言うが早いかマッチを擦ってそれを投げ入れる。土に染み渡った灯油から炎が上がり、花壇が炎に包まれた。

 ハロルは叫びながら駆け出す。

「やめろおお!」

 走りながら自分の行いを悔いる。

(オレのせいで花が燃やされちまう……! オレのせいで……また……! ……また?)

 ないはずの記憶。既視感が足を止める。直後、鋭い激痛が頭の内側に走った。自分の頭を両手で抱える。

 ミーンはハロルに気付いて走ってくる。

「ハロル! 助けて! お花が全部燃やされちゃうよお!」

 その声が耳に入ったかどうかも曖昧になるほどの痛みがハロルを襲っていた。
 ただその中でも、ミーンが困り果てていることだけはわかっていて、それをどうにかして救わなければいけないことを自覚していた。だがそれ以外は、考えられない。なにかを考えようとすると、頭の中を稲妻が駆け巡り、思考そのものが霧散してしまう。考えられない。なにも。そうするうちにいつしか、自分の思考が酷く曖昧なものになっていくのも感じていた。もはや立っているのか座っているのかもわからない。ふわふわと宙に浮くような感覚だった。
 ハロルはミーンの名を呼ぼうとするが舌が回らない。焦点の合わない目でミーンを見るので精一杯だ。ハロルにはもう彼女の声すら聞こえていない。
 完全に力が抜けて倒れそうになるところを、ミーンが支えた。

「大丈夫!? ハロル!」

 ミーンが支える中で、ハロルの髪の右半分が銀色から金色に変色した。彼女は驚きを露わにしつつも、必死にハロルを支えた。だらりと垂れていた手に力が戻り、足は大地をしっかりと踏みしめ直した。
 ハロルが意識を取り戻したことで、ミーンは体からそっと離れた。そしてハロルの顔を見て、口元を押さえた。

「ハロル、目……」

 ミーンにバラのように赤いと褒められたハロルの右目には青い石ころが挟まっていた。その形容がピタリと当てはまるほどに、無機質的な瞳だった。
 ハロルは花壇に向かって右手を向けた。すると炎の中から絶叫が聞こえる。

「熱いぃぃぃいいいい!!」

 ハロル以外全員が耳を塞いだ。

 そしてその中に、炎以外のものがのたうち回り始めた。それは蔓のようなものだった。やがて小さかった花が一気に膨れ上がり、大人たちの身長を越えた。その巨大花から蔓が伸びて灯油をかけた大人の足に絡まる。

「ぎゃっ!」

 足を取られた大人は仰向けに倒れ、そのままずるずると引っ張られる。燃え盛る炎の中に引きずり込まれそうになっている。

「た、たたた、たあすけてえええ!」

 情けない声が上がる。大人たちが彼の両サイドに立ってそれぞれ腕を引いた。

「ハロル! やめてあげて!」

 ミーンがハロルの腕を引っ張るが、固定されたように動かない。一瞥もやらない。表情もない。石のようにただ、目の前で行うべきことを断行しているに過ぎないと言ったような雰囲気である。

 ミーンはあたふたしながらも、深呼吸を一度だけした。すると、その直後には彼女の瞳は落ち着いていた。今できることを必死に考えている、そんな瞳に変じていた。
 瞼から半分だけ覗いたエメラルドが鋭く光る。

「ブロン君! 先生のベルトを外して!」

 言われるままにブロンは足を取られている教員のベルトを外した。その瞬間、ベロンとズボンは脱がされ、炎の壁の中に入っていった。

「あぶなかっ——」

 しかし蔓はまたしても炎を突き破り出て、鞭のようにしなりながら足に絡みついた。今度はもう、脱がす服はない。

「うああああ!」

 絶叫が響き渡った。

 不意に、暗雲が立ち込めた。ちょうど花壇の真上辺りにだけだ。そこから大量の雨が、文字通り滝のように降り注いだ。その滝は火を消し止め、周りの人々に花壇の泥を被せた。これで教師が丸焼きになることは免れた。しかし絡んだ蔓がまだ取れていない。先の雨は花壇の花の力を衰えさせたわけではない。
 ハロルの隣を影がすり抜けた。ウェーヴの掛かった茶髪が揺れている。ゆったりとしたローブに身を包んで現れたのはスーだった。彼は創筆を手にしている。その尻軸《しりじく》からはフィガロチェーンが伸びており、ローブの上から締められたベルトに取り付けられた創筆のキャップリングにまで続いていた。

 スーは彫金が施された創筆を花に向けて躍らせ始めた。距離はあるが、それでも効果が有ると確信しているのだろう。ペン先が動く度、フィガロチェーンが艶やかに踊る。なにかを書いているが、それがなにを示しているのかを知ることが出来る者はこの場には居ないだろう。
 書き終えると、花から伸びていた蔓は萎《しお》れ、花は元の大きさに戻って空を仰いだ。

 スーは振り返ってすぐにぎょっとした。
 しかしすぐさまハロルの額の上で創筆を躍らせた。書き終えるとハロルは、意識を失い、項垂れた。

 バランスを崩してハロルが前のめりに倒れるのをスーが抱きかかえたとき、立ち込めていた暗雲が消えて行った。

「あ! あれ!」

 一人の少年が空を指さして叫んだ。
 暗雲を切り裂き現れたのは黒龍。すべての鱗は漆黒だが、その所々が太陽を反射していて輝いているようにも見えた。夜空を纏《まと》ったようなドラゴンだった。
 しかしそれはここに降りてくるわけではなく、南の空へ向かって飛んで行った。

 その先はイアルグ。七年前全焼した村。
 ハロルが目を覚ましたのは自室のベッドの上だった。起き上がろうとすると、隣で呻き声が聞こえた。それはミーンのものだった。ベッドの横に椅子を置いて、そのまま寝てしまったようだ。
 看病してくれていたのか。ハロルは穏やかなまなざしを向けた。その両方にはバラの赤。

 カーテンが揺れる。この季節の風は、森から草の匂いを運んでくれる。ハロルは深呼吸をして、それからミーンのオリーブ色の髪を撫ぜた。心の中を泡が満たしていくような感覚。

 不意にノックの音が響き、スーが部屋に入ってくる。目が合った瞬間、スーは足早に近づいてきてベッドに腰掛けた。恭しい手つきでハロルのおでこに掌をピタリと付ける。やわらかくて冷ややかな指先が心地良い。

「師匠」

 ハロルが気まずげに言葉を零すと、スーはなにも言わずそっと抱き寄せてくれた。ゆったりとしたローブに包まれ、ハロルは安心した気持ちになる。銀色の髪を梳《と》かすように、スーの指が数回通った。

「良かった。本当に良かった」

 ぎゅうぅっと力を籠められ、ハロルは呻き声をあげた。慌ててハロルから離れる。

「だあ! 殺す気かよ!」
「すみません。つい、嬉しくて」

 スクウェアタイプの眼鏡の奥の瞼を細めて、眉をハの字に曲げた。

「いいけど……でも」

 ハロルは項垂れて、言葉を探した。記憶の片鱗を拾って集めている最中だ。情景が断片的で、上手く整理できない。

「オレ、……オレの虚構術のせいで、花壇が燃えちまった。ミーンを助けるためにと思ったのに、そのせいで、勘違いされて」
「そのあとのこと、覚えていませんか?」
「あと? そういやそこですげぇ頭痛がして、声が遠くなって、気付いたらここに居た。あのあとなにかあったのか? ……あ、花は?」

 スーは表情を変えずに、緩やかに息を吐いた。

「花なら大丈夫。覚えてないようですけれど、君は虚構術を使って花を巨大化させたのですよ」
「オレが?」
「ええ。そして、その花が暴れて、周りの人たちを襲い始めました」

 ハロルは目を見開き蒼褪めた。自分が無意識に使った虚構術で人を傷付けるなど、虚構士としてあってはならない。自分の指先を見つめる。

「それで、そのあとは……」

 ポンと頭の上に掌が置かれる。

「僕が豪雨を降らせて火を消し、花は元通りにしておきましたよ。君が正常ではなかったようなので、気を失うように虚構術を掛けましたが、存外長引いてひやひやしました」

 スーの声は穏やかだが、それゆえにハロルの胸は締め付けられた。いっそ叱って欲しかった。君はなにをやっているのだと、張り倒された方が良かった。ハロルは知らず震えだした手を握っていた。

「師匠、その、オレ、なんて言えばいいのか、その」
「ありがとうと、ごめんなさい」

 包み込むようなやわらかな声だった。ハロルは顔を上げてスーを見つめた。

「それだけでいいのですよ。君は未熟で、そのために僕は居る。さあ、言ってごらんなさい」

 ハロルは震える唇を開いた。

「ありがとう」

 スーは微笑を返す。

「ごめんなさい」

 ハロルの髪は何度も()かれた。その度に瞳から溢れ出した雫が、ぽとぽとと布団を濡らした。
 存外長引いて、とスーは言っていたが、まさか4日間も寝込んでいるとは想像していなかった。その間にミーンは弟子入りを果たしていた。スーが両親を説得するまでもなく、ミーンが納得させていた。もとより両親は、ミーンが夢見子であることを悩んでいるのは知っていたようで、彼女の意思が尊重されるような形になるのであれば、どうあれそれに越したことはないとのことだった。

 ハロルの意識が目覚めない間、スーは看病の合間に虚構術の勉強をしていたようだ。スーから貰った創筆で簡単な虚構術なら使えるようになっていたし、古代文字で書かれた書物もほんの少しだけなら読み解いて見せてくれた。
 ハロルは感覚で虚構術を使っていたので、勉強のために本を読んだことはなかった。彼女の、段階を踏んでしっかりと勉強をしている姿は、姉弟子としてのハロルの心を急かすものだった。
 とは言え、ミーンの虚構術は初歩中の初歩に留まっていたし、妄想力と言った部分での差がそのまま力の差になってしまう虚構士の世界では、二人の力の差は歴然としていた。

「さてハロル。出掛けますよ。準備をしなさい」
「また学校か?」
「いいえ、王宮に出向きます」


※  ※  ※  ※


 スーの家があるのはアシオンの端の森だ。王宮はアシオンの中心に在るため、馬車を使っての移動となった。

 王宮の門の前に着き、馬車を降りる。ハロルは門を見上げた。スーは同年代の男よりも身長が高いが、そのスーを縦に3人並べても届かない。と、師匠を勝手に定規に使っていた。
 しばらくすると門の横の小さな扉が開き、兵士が出てきた。こちらへと勧められるまま、兵士のあとに続いた。

 王宮へ続く石畳の横では、兵士たちが土煙を上げながら訓練に励んでいた。その中で一際目立つ兵士が一人。背中まで伸びた青い髪を一本に結んで、身の丈ほどある大剣を振り回している。その剣圧は凄まじく、10メートル以上離れたハロルに風が届くほどだった。肩と胸だけを守るタイプのブレストプレートを着ていて、腹から足まではボディタイツに覆われていた。防御力を犠牲に敏捷性を高める装備のようだった。しなやかなに動く筋肉が、戦士としての練度を窺わせる。しかしハロルがなにより気になったのは——

(女だ)

 ピンと張りつめた冷たく鋭い眼光に、美しい顔立ち。それは氷の花のよう。
 周りに居るのは男の兵士ばかり。その中で、当たり前のように凛と立っているだけで、胸が空いた。ミーンが見たらなんと言うだろう。綺麗なのにもったいないと言うだろうか。ハロルは自分を彼女に重ねずにはいられない。
 知らず、じっと見ていると剣士と目が合った。なんとなく目線を切れずにいたら、向こうからつかつかと歩み寄って来た。

「なにか用か」

 ハロルを見下ろして女剣士は冷静な表情を変えずに聞いた。

「あ、えっと、女が兵士って、珍しいなと思って」

 女剣士は鼻を鳴らす。

「ふん。奇異の目で見ていたというわけか」
「あ、いや、そうじゃなくて!」
「すみませんねえ、うちの弟子が不躾なことを」

 スーが前に出て謝罪を口にした。彼よりも女剣士の身長の方が高い。

(でけえ)

 身長だけではない。ハロルの位置から見上げると、ブレストプレートを蹴破らんばかりに主張する暴力的な乳房の膨らみに圧倒されてしまう。

「その腰にぶら下げているのは……なるほど虚構士か。私は、虚構士は好かんのでな」

 ガツンと頭を叩かれたような感覚に襲われた。怒りは感じない。寧ろ、束の間ではあるが憧れを抱いた女性に突き放された喪失感が大きかった。それから彼女が踵を返して元の位置に戻るまで、ハロルはなにも言えないで背中を見ていた。
 謁見の間で待っていると、王がどかどかと足音を鳴らしながらやって来た。スーとハロルはその場で跪く。王が立っている場所とは、人一人分ほどの高低差があった。
 玉座にどかりと座ると、肘掛けに肘を突いて拳の上に頬を乗せた。そのまま、目配せで隣の近衛兵に合図を送る。

「良いぞ」

 近衛兵の言葉に、二人は顔を上げた。

「大臣が出した手紙は読んだな?」
「はい」
「単刀直入に言うが、わしはお前たちを疑っている。なんでも羽の生えたトカゲのすぐそばに、銀髪赤目の女が居たという話だ。お前の弟子、まさにその容姿に当てはまるな」

 白髪交じりの前髪が、タラリと垂れた。前髪の間から覗く目がハロルを凄む。思わず息を呑み、ゴクリと咽喉を鳴らした。

「それに学校で虚構術を使い、人を襲ったとも聞いたぞ」

 スーは視線に割って入るように言葉を放つ。

「学校での件は弁明の余地もありません。ひとえに私の教育不足が招いたこと。しかし手紙に書いてありました事件に関しましては、我々は無実です」
「信じられんな。潔白を証明して見せよ。畑を荒らした羽の生えたトカゲは、南の空へ飛び立ったという。そこにはお前の家があるであろう」
「はい」
「お前と弟子ではないと言うのなら、その先にあるイアルグか、或いはエノスか。羽の生えたトカゲの正体を突き止めろ。もしもお前たちではない他の虚構士が後ろで手引きをしているのなら、そいつを捕まえて来い。虚構士ならば虚構士が相手をするのが良かろう?」
「仰せのままに。それでは、国境を超えるにあたって、許可証を戴けますでしょうか」
「無論だ」

 王は視線をハロルの隣に居た兵士に向けた。
 兵士は王に向かって礼をすると、スーに証書を渡した。それに目を通したスーは、王へ進言する。

「通行許可証をくださり痛み入ります。しかし王。大変恐縮ではございますが、虚構術の使用許可証を頂かないことには、虚構士と相対したときに捕まえることが出来ません」
「はん」

 王は嘲りを交えたような短い笑い声を漏らした。

「言ったであろう。わしはお前らを信用していない。使用許可を出して他国で暴れられてはかなわぬ」
「しかし」
「しかし? さっきの今で忘れたのか? お前の弟子は一度しでかしているのだぞ」

 スーは拳を握った。ハロルも歯を食いしばる。

「なあ……、お前戦争を起こしたいのか?」

 ギロリと睨まれる。王の静かだが気迫がこもった視線に、スーは息を呑んで俯く。

「いえ」
「安心しろ。お前たちには護衛を付ける。腕利きの剣士だ。それで問題なかろう。もとよりわしがお前に依頼しているのは調査だ。虚構士の相手は虚構士。それはあくまで謀《たばか》りを見抜けというだけの話だ。戦えと言っているのではない。もしも戦うハメになるのなら、わしの兵が戦えば良い。兵士が戦わざるを得ない状況ならば、相手側に落ち度があると言える。国同士での問題になったときに、その方が話をまとめやすいのだ。わかれ」

 断定的な物言いに、スーは短く「承知いたしました」とだけ返した。


※  ※  ※  ※


 王が選定した兵は、スーの家に馬車を連れて直接来ると言うことらしく、その日はそのまま帰された。いつ来るとも言われなかったので、それが明日の朝なのか一週間後の夜なのかもわからない。

「ったくあのクソ王。偉そうにしやがって! 舐めてんのか! 舐めてんだな! あー、もうっ、イライラするっ! いつか虚構術でぎゃふんと言わせてやる!」
「情けない師匠で申し訳ないですねえ」

 おっとりとした笑みのスーは、暴言を咎めようとはしない。いつもの調子で叱ってくれると思っていたハロルは、面食らってしまい言葉をなくした。それからややあって、ため息交じりに言葉を返す。

「あ、いや、その……オレが学校でヘマしてなけりゃあ良かったんだよな。ごめん師匠」

 肩を落とす。するとそんなハロルの肩に、スーはポンと手を置いた。

「学校の件は残念でしたが、畑荒らしは君ではないのですよね」
「それはもちろんだぜ!」
「では無実を証明しなければなりませんね……しかし、危険を伴う旅になりますから、ハロルはうちで待っていてください」
「はっ、冗談キツイぜ。なんのための弟子なんだよ。それに、オレが居た方が師匠も心強いだろ?」
「それはなんとも言えませんねえ」
「はあ!? オレの強さは知ってんだろ? それに師匠より運動は得意なんだ。足手まといになるつもりはないぜ」
「君が頼もしいのは知っていますよ。それよりもミーンのことです。彼女のことを思うと、君が一緒に居てくれた方が安心かなと思いまして」
「ああ、そっか……」

 家に帰ってからやることはいくつかあるが、まずはミーンだ。二人で家を空けるとなると、彼女を一度家に帰さなければいけない。元々、週に何回かは家に帰ってはいたので、その期間が長くなるだけだと思えば、生活面での影響はさほどない。しかし虚構士としての鍛錬を積むのに期間が空いてしまうのは良いことではなかった。せっかく覚えた虚構術も、虚構士ライセンスを持っているハロルやスーが居ない場所では使えないのだ。カンコツを忘れてしまうかも知れない。であればせめて姉弟子のハロルが一緒に残って修行をしながら留守番をするのがベターな選択と言えた。が——

「わたしも行く。お師匠さま、行かせてください」

 そう思っていたのはハロルとスーだけだった。

「しかしね、遊びに行くわけではないのですよ」
「わたしは元々遊ぶために弟子入りしたわけじゃあないよ?」
「それはもっともですが、危険が伴うのです」
「修行って、そういうものなんじゃあないの?」
「それももっとも。しかし修行は、わたしが安全だと思える範囲内で行われるものです。厳しいですが、死なない保証があります。僕は死ぬかもしれない旅に出るのですよ」
「だったらわたしがお手伝いする。わたしが行けばハロルも行けるんでしょう? そうすれば——」
「わかんねえやつだな!」

 ハロルは声を荒げた。ミーンの肩がビクリと震える。

「師匠は、お前のことを思って言ってんだ! わかれよそれくらい!」

 勢いよく捲し立てられ、ミーンはしゅんと萎《しぼ》んでしまう。

「ハロルはどうしてわたしを虚構士に誘ったの?」

 突然の質問に、ハロルは間抜けな声を出す。

「え?」
「わたしは、ハロルみたいに成りたいって思ったの。カッコ良くなりたいって。虚構士になったら、ビクビクして生きなくていい。人とは違う自分にも自信を持って生きて行ける。それに、お花を守ることも出来るって。ここで家に帰ったら、わたしはなにに自信を持つの? なにに胸を張れるの? なにを守れるの?」

 エメラルドの瞳が、半開きの瞼の奥で輝きを放っている。ハロルは胸を締め付けられてしまい、言葉を返せない。彼女が虚構士になれば、彼女のためになると思っていた。しかしもっと端的な、私利私欲の部分では、友達が欲しかっただけだ。だと言うのに、彼女はとてつもない覚悟で弟子入りしたのだ。師匠の下で過ごさざるを得なく、弟子入りせざるを得なかったハロルとは違う。すべて自分で選んで覚悟を決めてここに来たのだ。

「ミーン」

 スーは包み込むような深くやさしい声を向けて、膝を曲げた。

「君の気持ちはよくわかりました。同行を許します。ただし、ご両親を納得させてください。今回の調査がとても危険であると言うこと、死ぬかもしれないと言うことを伝えたうえで」
「はい」
「そして今日のところはおうちに帰りなさい。早ければ明日、兵士が迎えに来るでしょうから」

 ミーンは落ち込むハロルの顔を上目遣いに見てきた。目が合って、微笑が零れる。つられてハロルも笑みを返したが、どこか白々しい、乾いたものだと自覚していた。
 ミーンは親を説得し、スーとハロルに同行することとなった。弟子入りのときもそうだったが、ミーンの両親は彼女のやりたいことを第一に考えてくれる理解のある人たちだった。決して子供に対して無関心な親であるというわけではない。それは、ミーンと一緒に彼女の家に出向いた際、ハロルが確認している。二人とも誠実でやさしい人だと、会話を聞いているだけで充分に伝わって来た。

 旅立ちの日までは、引き続きスーの家で住み込みながら虚構術を学ぶこととなった。実技はてんで駄目だが座学は相当できる。ハロルは姉弟子として教えてやろうと隣で勉強していたが、まったくなにもわからず、ミーンに呆れられてしまった。

「どうしてこれがわからないのに、あんなに凄い虚構術が使えるの?」

 言われてみればまったくわからない。ハロルにとって都合の良いことだったので考えたことすらなかったが、確かに理不尽である。自分は天才だからという理由では、一つも二つも足りなかった。

 スーの家に(ほろ)馬車に乗って兵士が現れたのは二日後の朝だった。
 馬車の御者としてやって来たのは、意外にも『虚構士は好かん』と言っていたあの青髪の女剣士だった。

「ナガー・プリッドだ。ナガーでいい」

 短く自己紹介をして、座席に乗るように促した。
 だがミーンが乗ろうとしたとき、ナガーの手がそれを阻んだ。手ではミーンを止めながら、視線はスーを刺している。

「レフォスト殿、舐めているのか?」
「いいえ。まったく。彼女も虚構士ですから」
「こんな幼子を——」
「守り切る自信がありませんか?」

 スーの言葉は時々誰の言葉よりも鋭利になる。普段のやわらかな物腰からは想像できないほどに。一刀のもとに伏されたナガーは、短く息を吐くとミーンの手を引いて車内の座席に案内した。

「ありがとう! わたしはミーン。よろしくね!」
「あ、ああ」

 顔に氷を張り付けたような彼女だったが、ミーンの輝きに少し溶かされてしまったようで、恥ずかしそうに視線を泳がせていた。

 続いてハロルとスーが乗り込むと、ナガーは御者《ぎょしゃ》台《だい》に腰を下ろし、手綱を引いた。

 カラカラカラと木の車輪が回る。

「ミーン。尻が痛くなったら言えよ」
「痛くなったらどうするの?」
「膝の上に座れ。オレがクッションになってやるよ」

 ミーンはパッと顔を輝かせてサッと立ち上がり、ハロルの膝の上にお尻を乗せる。

「待て待て待て! 痛くなってからだ。こんな序盤から座られたらオレだって尻が痛くなっちまうぜ!」

 言われてミーンはすごすごと席に戻った。

「お話は自由にしていていいですが、あまり騒がしくしてはいけませんよ」

 馬車はそれからしばらくはなにごともなく進み続けた。行く道は、森林の隙間を踏み固めたような道であり、レンガなどの舗装もないところだったが、人々の通行が多いためか雑草の類は少なく、馬が足を取られる場面などもなかった。
 スーは揺れる馬車の中で立ち上がり、御者台に足を掛けた。

「よっと」

 馬を操るナガーの隣に座った。

「なんの用だ」
「いくつか気になることがありまして。質問よろしいですか?」
「答えられる範囲ならばな」

 ハロルは二人のやり取りに口を挟まなかったが、耳を傾けてはいた。視線はと言うと、ナガーのタイツに包まれたむちむちとした尻に注がれている。

「ナガーは虚構士がお嫌いなのでしょう? どうしてこの度我々の護衛を引き受けてくださったのですか?」
「お前たちに頼まれたのならば断わっていただろう。王の命令とあらば従わざるを得ない」
「なるほど。それはつまり、やはり虚構士がお嫌いなのは変わらないと言うことですね」
「その通りだ」

 冷たく言い放たれるも、スーは笑みを深める。

「そんな確認をするなど、随分自虐的なのだな。レフォスト殿は」
「スーでいいですよ。変わりましょう」

 スーは両手を出した。手綱を貰い受けるつもりだろう。

「構うな。これも私の仕事だ」
「いえ。あなたの仕事は護衛です。我々を守ってくれるその力を、別の所に使うなどもったいない」
「今一度言うが、私は虚構士が嫌いだ。信用もしていない。この意味がわかるか?」
「ええ。もしも僕が進路を勝手に変えたなら、首を刎ねれば良いのです」

 ——ガタッ。

 ハロルは立ち上がり、二人の間に顔を出していた。

「おや、聞いていたのですか」
「物騒なこと言うなよ、師匠」
「ですが、それもナガーの役目。そうですよね?」

 再度スーは両手を出す。ナガーはその手に手綱を渡しながら、呆れた顔で息を吐いた。

「そうだが……どうしてそう思った?」
「簡単なこと。アシオン王は、虚構士の存在を良く思っていません。未知を恐れる臆病者ですからね。我々のことも御疑いだ。今回の事件も僕たちの仕業だと思っておいででしょう。おかしな動きをしたら即断即決で殺せる兵が良い。そう言うことではないですか?」
「その通りだ。だがもう一つ、私が宛がわれた理由がある」

 スーは視線で先を促す。

「私が女だからだ」
「なにか関係が?」
「白々しいことを言うのだな。わかるだろう。面白くないのだ。女が男の兵士より強いと言うのが。今回の調査は、もしも虚構士絡みで戦わなければならないとなれば、命を落とす危険性もある」
「王はあなたに死んで欲しいのですね」
「師匠!」

 ハロルは堪らず声を上げた。眉を吊り上げているハロルに、スーは笑顔のまま片眉を上げて、肩を竦めた。

「ははっ。僕としたことが弟子の前で不躾な質問でしたね」
「いや、お前の言う通りだろうから、構わん」
「ならば、我々は似た者同士ですね」
「は?」

 ナガーはキョトンとした。

「強い兵が死んでしまっては戦のときに不利になると言うのに、それよりもなによりも王は強い女と言う未知を怖がっておいでです。自分の想像外の生き物が、本当に苦手なようだ」

 眼鏡の奥の瞳はますます笑みを深める。底が知れない。

「しかしながら、ナガーは違いますよね。臆病さゆえに、虚構士を嫌いになったわけではなさそうです。お聞かせ願えませんか。どうしてそこまで嫌うのか」

 ナガーは俯いて、なにかを考えているようだった。
 と、そこで不意に馬の挙動が変わる。スーは手綱を引いて馬を止め、ペダルを踏んで幌馬車を止めた。
 ハロルが馬車の横から身を乗り出して先を見ると、そこには三人の大人が立っていた。

「金を置いて行け。そうすれば見逃してやる」

 男たちはそれぞれに剣を構えている。追剥ぎか。
 ハロルが腰の創筆に手を伸ばすと、スーの声が被さる。

「ハロル。なりません」
「なんでだよ」
「もう国境を越えています。いくら同盟国のイアルグとは言え、ここで我々が力を使えば国際条約に反します。それに」

 眼鏡の奥の双眸が、ナガーの横顔に流れた。

「我々が手を貸せば、彼女の力不足を証明することになる。それは面白くないでしょう?」

 ハロルは言葉を飲み込んだ。

 ナガーは二人のやり取りを聞きながら、追剥ぎの三人から目を切らないでじっと見ていた。

「なぜ我々を狙った? 子供も頭数に含めれば、貴様らの方が人数は少ないのだぞ?」

 追剥ぎたちは顔を見合わせ笑う。

「子供二人に御者が一人。こいつらは戦えそうにない。んで頼みの綱の剣士も女だ。人数が一人多いからって、こっちが不利になるわけねえだろ!」

 ナガーは「なるほど」と小さく呟き、剣を背負ったまま跳んだ。
 助走なしの跳躍で、一気に馬の頭を越える。着地の瞬間、ズンッという音が響き、近くの木々が震えた。ナガーは高身長だ。筋肉もある。だからそれなりに体重は有ると言える。だが、ボディタイツに包まれた腹回りのくびれを見るに、それでも一般的な男性より少し重いかどうかと言った程度だろう。この鉄塊が地面に突き刺さったような音は、恐らく彼女が背中に担いでいる大剣の重さからなるものだと推測できる。それでなおあの跳躍を見せたのだから、彼女の脚力とそれを活かし切る運動神経は想像に難くない。
 男たちは少しだけ後退った。

「人数は関係ないな、確かに」

 背中の大剣を掴んでいる鞘に左手を回して革製の留め具を3か所外す。柄に右手首を掛けて下向きに力を入れると、テコの原理でぐるんと回転しながら彼女の真横に剣身が躍り出た。
 常識的ではない跳躍。流れるような抜剣。この一連の流れを見れば、手練れであることを知るのは容易だ。相手の強さを測れる者ならとっくに逃げ出しているだろう。三人掛かりでも分はない。それはたとえ追剥ぎごときにでもわかることだった。だが男たちも退く気はないようだ。それは男のプライドか、それとも追剥ぎのプライドか。いずれにせよちゃちなものに縋りつくため、彼らは生命を張っている。
 ナガーは腰を落とし大剣を中段に構え、捻り、刃先を後ろに回した。薙ぐつもりである。

「う、うわああ!」

 一人の男が捨て鉢に叫ぶと、他の二人もつられて流れ込むように駆けだしてくる。人は自棄になったときが一番怖い。なにをするかわからないからだ。ナガーはしかし1ミリも後退することなく、剣を横薙ぎに振った。ただの一度だけ閃くと、男たちは団子のように連なって、剣の軌道に巻き込まれる。

「ぐぇえっ!」

 肺の中の空気をすべて吐き出した音の三重奏。大人三人の体重が乗った剣だが、速度は落ちることなく振り切られ、投げ飛ばされるような形で、ベクトルの先まで吹っ飛んで行った。
 彼らが振り翳していた剣が手から離れ、三本一気にナガーに向かって降り注ぐ。彼女はこれをバックステップにてあっさりと躱したが、回転によって生じたカーブまでは見切れず、切っ先が太ももを軽く掠めた。タイツが裂かれ、浅く短い線が走ると、それは次第に赤くなっていった。
 だがナガーは痛みに顔を歪めることもなく、木の幹に叩きつけられた追剥ぎが気を失っているのを確認すると、大剣を背中に担ぎ直し、再び御者台に座り直した。
 なにごともなかったかのような、すました顔だった。息も切らしていない。

「すげえ!」

 ハロルが前のめりになって見上げると、彼女は笑みの代わりにため息を零した。

「これが私の役割なのでな。ハロル。スーの言うことを聞いて虚構術を使わなくて正解だ」

 ハロルは少し気まずげに視線を逸らす。

「いや別に、ナガーの強さを信じてなかったわけじゃあないんだぜ?」
「ならこれからも信じて使わないことだ。スーは正しい判断をした」

 それからしばらく進んだところで、陽が落ちてきたので野営をすることになった。
 ハロルとミーンは木の枝を拾ってくるように言われた。枝拾いから帰ってくると、スーがテントを張り、ナガーは馬に水を飲ませていた。

 ハロルがナガーに近づくと、彼女は口元を歪ませていた。

「なんか悪いことでもあったのか?」
「いや、なんと言うか、お前の師匠は変わり者だな」
「そうか?」
「ああ。テント張りなんて、肉体労働が得意な私に任せればいいものを、休んでいてくださいだと」

 彼女の表情の謎が解け、悪いことがあったわけではなかったのだと安心する。ハロルは彼女の太ももに目を落とす。先程傷付けられたのを、ハロルは見ていた。

「なあ、ナガー。ちょっといいか?」

 ハロルはポンチョを翻して創筆を抜き取ると、それを彼女の太ももに近づけた。

「おい。怒られるぞ」
「せめてこれくらいいいだろ?」
「スーの言いつけを破るのか?」
「師匠は、困っている人や傷付いた人を助けなさいって、いつも言ってるぜ?」

 言いながら創筆を走らせると、ナガーの傷口が小さくなり、カサブタも少し薄くなった。

「あー……。しまったな」

 ナガーはブレストプレートと胸の隙間から1枚の布を取り出す。

「なんだそれ?」

 不思議に思って問うハロルに、彼女は仄かに笑いを返す。

「秘密の道具だ」

 首を傾げるハロルを尻目に、彼女は小さな布を傷の上に貼った。タイツをこれ以上破れないようにするために貼ったようにも見える。

「それにしても師弟とは似るものなのだな」
「ん? 全然似てねえと思うけど」
「そうか? まあいい」

 ナガーはバケツを持ってテントの方へ向かう。

「さて、そろそろ火を起こさないとな」
 明け方、野営の片付けを済ませた一行は、太陽を左手に見ながら馬車を走らせた。
 昨日と同じく、御者(ぎょしゃ)はスーが務めた。

「もうお怪我はよろしいようですね」
「おかげさまで」

 ナガーは昨夜張った布をパンパンと叩いた。
 ハロルは御者台の方に体を向け、椅子に膝立ちになって二人の話を聞いた。隣のミーンは昨日眠れなかったのか、うとうとしていた。

「それで、昨日は邪魔が入りましたが、虚構士をお嫌いな理由を聞かせて頂けませんか?」
「ああそうだったな。しかしなぜそこまで聞きたいのだ?」
「君に首を刎ねられるのが僕だけならばそこまで気にしません。というか、他人の過去などは出来ることなら詮索したくはありません。しかし、ここにはハロルもミーンもいる。彼女たちを嫌わなくても良い理由を見つけられる可能性が1%でもあるのなら、それを高めたい。それが師の務めです」

 しっかりと前を見たまま、意志の強い声を放つ。ナガーはやおら顔を上げて、スーの横顔を見つめた。

「昔な……」

 森の湿り気をたっぷりと含んだ土が、馬車の車輪に絡まって、ビチビチビチビチと粘質的なリズムを刻む。


※  ※  ※  ※


「本当に大丈夫なのか? ジルヴァ」

 ナガーは帽子を手渡しながら不安げに呟いた。ジルヴァはにへらっと笑って、中折れの帽子を被った。

「大丈夫さ。ナガーは心配性だなあ」
「何日も帰らないんだろう?」

 玄関に背を向けて歩き出したジルヴァのあとをついていく。募る不安は払拭出来ない。

「まあねえ。と言っても、5日後には帰ってくる予定ではあるし、行き先も決まっているから。入籍は10日後だし、それまでには間に合わせるよ」

 二人の出会った記念日を、結婚記念日にしようと約束していた。
 ジルヴァは肩まで上げた手をプラプラと振って、平気さをアピールする。

「しかし、虚構士と言うのは、その、実際のところどうなのだ? あまり良い噂は聞かないが」
「そうだねえ。アシオンではあんまりいい噂はない。でも、他の国ではそうでもないんだよ?」
「そうなのか?」
「ああ。一年くらい前にこの国に来たスー・レフォストって言う方は、虚構士先進国のジルアラではトップクラスの虚構士だったらしいんだけど、全然気取ってなくて物腰がやわらかでいい人なんだよ。それに、志がものすごく高い方なんだ。君も会えば気に入ると思う」
「ジルヴァが言うのなら、そうなのだろうな。だが、今回護衛するのは別の虚構士なのだろう?」
「そうだね。そっちの方は会ったことがないけれど、でもまあ、同じ虚構士、同じ人間なんだから大丈夫。それに僕はこう見えても兵士なんだよ?」

 また、にへらっと笑う。その様子がどうにも兵士らしくない。ナガーはそれがおかしくていつも笑ってしまう。

「なんだよぉ」

 ジルヴァが拗ねたように口を尖らせると、ナガーは口元を指で押さえてクスクスと笑いを堪えた。年上なのに、こういう子供っぽいところがあるのも、彼の魅力だった。

「すまない。気の抜けた笑顔が好きでな」
「それって褒めてるの? けなしてるの?」
「もちろん褒めているよ」
「じゃあ愛してるの? 愛してないの?」
「な!?」

 今度はジルヴァがニヤニヤと笑みを浮かべた。とても意地悪な質問。ナガーが素直に言葉にできないことを知っているのだ。

「急に話が変わってないか!?」
「僕の質問に答えられないのかなあ」

 腕を組んで胸を張っている。ナガーは視線を逸らした。

「あ、愛し、てる……」

 顔を赤く染め上げ下向き加減に言ったが、それは風に揉み落とされた。

「なんて?」

 彼は耳を近づけてますます口角を吊り上げた。

「もう!」
「あっはっは!」

 ナガーに突き飛ばされながらも、ジルヴァはトントンとバックステップで衝撃を緩和する。時折、彼の何気ない挙動から、兵士らしさが垣間見える。

「まっ! 帰ったら任務完了のご褒美としてもう一度聞くことにするよ。行ってくるね」

 踵を返す彼の背中に、ナガーは小さく「あ」と漏らす。愛しているくらい、いいじゃないか。しばらく会えなくなる、こんなときくらい。そう思ったのだ。

「僕は愛してるよ、ナガー。じゃあね!」
「な!?」

 自分の思惑など簡単に見透かした彼の言葉が、ナガーの耳に熱を持たせた。抱えていた不安もなにもかもを吹き飛ばしてしまう、愛している。

 それから数日間はとても忙しい日々となる。彼が居ない間に、ナガーは成れないケーキ作りを近所の人から教わったり、彼へのプレゼントなどを街に買いに行ったりした。誰にも話していなかったというのに、どこからか聞きつけた仕立屋がドレスの試着を勧めてきたこともあった。ナガーは高身長をコンプレックスに思っており、自分に似合うドレスなどないと決めつけていたが、仕立屋に促されるままに試着すると、息を呑むほどの感動を味わうことになった。だがしかし、いくら気に入ったからと言っても、旦那の了承を得ず勝手に買うわけにはいかない。そう言って断ると、

「いえいえ、ジルヴァ様からは既にオーダーを頂いております。ナガー様を残し家を空ける日が来ることを予告されておりまして、その際に準備を済ませて欲しいと。本日は仰せのままに伺った次第です。ジルヴァ様より大体の寸法は伺っておりましたので、微調整だけなら3日もあれば」

 彼は、ナガーの好みを熟知しているからこそできるデザインをオーダーしていた。文句のつけようのないそれは、確かに微調整だけで済みそうだ。その場に彼が居なかったことが悔やまれるが、本人も当日まで楽しみに待っていたいのだろう。だから、わざわざ不在の日を指定したのだ。
 彼の不在を埋めるように、ナガーは充実した日々を送った。

 見送ってから5日後。ジルヴァの帰宅予定日。仕事上予定は前後しやすいとは言え、彼の帰りを待ちきれない。早めの朝食を済ませると、外に出て花壇の水やりを始めた。今はまだ芽すら出ていない、埋められた種子。いつか必ず芽吹くはずの花の色は青。その色が良いとジルヴァが決めた。青はナガーの髪と目の色だからと。
 虹色の光の粒を作っては歩き、作っては歩き。

 気が付くと塀の向こうに馬車が止まっていた。そして玄関前には一人の兵士が立っていた。彼はこちらに気付くと、左胸に右手を宛てがい、丁寧にお辞儀をした。つられて会釈をする。

「ナガー・プリッドさんで間違いありませんね」
「はい、そうですが」
「読み上げます」

 兵士は神妙な面持ちで一枚の紙を懐から取り出して、ピシッと張った。

「ジルヴァ・フォサイン伍長は、この度の任務により、二階級特進し、曹長となりました。ジルヴァ曹長にはご親類の方がおらず、婚約者のあなたに報告するよう王より命がありました。これより王宮にて、王より直接お言葉をお納め頂きたく参った次第です。馬車を用意しておりますので、どうぞこちらへ」

 ナガーは雷に撃たれたように全身を引きつらせて、ただただ目をみはるのみだった。思考が追い付かない。いったいなんと言った。兵士は。紙を広げて。なんと。

「に、……特、しん?」

 ぼそぼそとした呟きは兵士に聞こえてはいない。彼は持っていた紙をナガーに手渡し、そのまま手を取って、馬車へと誘導した。

 ガタガタと揺れる籠の中で、いつの間にか意識が戻ってきていた。ただこれが、果たして正気の意識なのかは定かではない。確かめる気力もない。
 光の反射を拒絶した瞳で、馬車の外を見上げた。青が青すぎて夜が落ちてきそうな、蒼褪めた青空だった。
「ジルヴァを殺した犯人は、護衛対象の虚構士だった」

 大きな石で頭をぶたれたような衝撃だった。ハロルは眩暈(めまい)のようなものを覚えて、座席にドスンと座った。その衝撃で目を覚ましたミーンが心配そうな顔をしてこちらを見ている。だらんと垂らした手に彼女の手が重なり、指が絡まった。やわらかくて温かい。

「信用できないのも無理はないですね」
「そいつはそのあと異国に渡って、その国で捕まり裁きを受けたらしい。だが、自分の居ない場所で勝手に裁かれては、実感が湧かない。寧ろなにも始まってないようにすら思える。もう4年も前のことだと言うのに」

 スーは首を傾げ、思案顔で呟く。

「4年前……その虚構士、アミトラ・レオフェという名前ではありませんでしたか?」

 ナガーは身を乗り出した。

「どうしてその名を……!」
「同い年の虚構士は珍しかったので、覚えていたのです。確か彼女はエノスの出でした」
「やつが私の家族を殺してから渡った国もエノスだ。故郷なら温情があるとでも思ったのか?」
「彼女がどのように考えていたのかは知る由も有りませんが、それほど頭の回らない人ではなかったように思います……しかし人を殺したのですから狂人の類。僕が見抜けなかっただけで、狂っていたのだとすれば、自分に都合の良い温情を求めて国を渡ったと考えられなくもないですね」
「虚構士は皆そうだと思っていた。しかし、スーからはそんな狂人染みた雰囲気は感じられないな。ジルヴァの言うことは本当だったようだ」

 そう言ってまた、太ももに貼った布を擦った。

「アシオン王と国の政治は虚構士に対して偏見のまなざしを向けています。ですが、皆が皆狂人と言うわけではありませんよ。ハロルはとても強くて溌溂《はつらつ》としていますがあれでナイーブなところも有りますし、ミーンはやさしくて気遣いが出来る子ですが芯が強く譲らない子でもあります。我々に共通しているのは、一般人が思いつけないことを思いつくと言うこと。妄想と夢を見ると言うこと。ただそれだけです」

 ナガーの表情に張りつめた氷の雰囲気はなくなっていた。
 太ももに手を置いていたナガーをじっと見ていたハロルは「あ」と声を上げる。

「どうしました?」

 スーの問いに唇を尖らせるハロル。

「どうしましたかじゃねえぜ。ナガーが師弟は似るって言ってた理由がわかったんだよ」
「なんの話ですか」
「とぼけたってダメだぜ。師匠、昨日虚構術使っただろ。人にはやるなって言っておいて」
「いいえ。使っていませんよ」
「じゃあナガーが太ももに貼った布はなんだよ。傷を治す布を虚構術で創ったんじゃあねえのか?」

 ハロルの詰問を彼はふふっと笑い飛ばした。

「笑ってごまかそうったってそうは——」
「ハロル。僕は虚構術を使っていません。僕がこの布に傷の治癒の効果を付与したのは、アシオン国内です」
「ふぇ?」

 ハロルは間抜けな声を出してしまった。

「虚構術には、前もって仕掛けておいて効果を持続させる持続性虚構術があると言うのを教えましたよね?」

 ハロルは二拍ほど間を置いてから、視線を彷徨わせる。

「あれぇ? そうだったっけ?」

 いつもの修行の中で、確かに言っていたことではあるのだが、使う場面がなかったため、今の今まで忘れてしまっていた。

「君は頭の回転が早いし創筆も流れるようにスムーズですから、別段使えなくても良いと聞き流していたのでしょうねえ。けれども、人から教わったことはしっかり覚えておいてもらわないといけませんね」
「うう、すんません」
「これは道具に付与するパターンが多いため、付与虚構術とも呼ばれたりします。ちなみに、この付与虚構術は通常使う虚構術より効果が薄いです。その理由は説明できますか?」
「え、えっと……えーっと、あ! いや! 忘れたわけじゃあないぜ!? 師匠の言葉は覚えてるんだけど、ちょっと待って」
「使える状況が限定されてないからだよね」

 隣で話を聞いていたミーンがハロルの隣から顔を出した。

「その通りです」
「どゆこと?」

 ハロルは首をひねる。

「えっとね、虚構術は状況が限定されればされるほど効果が強くなるの。例えば、同じ火を出すのでも、単純に【火が点く】って言うよりは【三角形に並べた枝の上でのみ強烈な火が上がる】みたいに、具体的な状況を示してあげた方が強い火を点けられるんだよ」
「へえ……そうなん——あ、いや、やっと思い出したぜ! ははっ! だから師匠は心配しないで前見て運転してくれよ」

 まなじりから流されていたスーの視線が前を向く。

「お師匠さまがやった付与虚構術は、いつでもどこでも誰にでも使える虚構術だから、条件が曖昧なの。だから弱い。こういうのを確か説得力がないって言うんだよね」
「そうなのか?」
「そうなのですよ」
「あ、はい」

 スーの表情は変わらないが、ハロルはどんどん表情を強張らせていく。

「虚構術は虚構に虚構を重ねて、この世界に真実として具現化する能力です。つまり、リアルではないですが、リアリティは求められるのです。それを説得力と呼ぶのです。と言うのは、いつも言っていることなのですがね」
「うう……」
「ハロルは残念でしたが、ミーンはお利口さんでしたね。僕の教えのみならず、書籍から得た情報もしっかり頭の中に入れている」
「えへへ」

 ミーンがほわっと笑う。いつもは心地の良い()れた笑顔も、今のハロルには不愉快だった。思わずむすっとした表情でミーンを睨んでしまう。

「ところでハロル。君、先ほどナガーが師弟は似ると言っていた理由がわかったと話していましたね。あれはどういう意味ですか?」

 ギクッ! と言う音が響いたのではないかと錯覚するくらい、ハロルは肩を引きつらせた。
 ナガーと目が合う。すると彼女はクスクスと笑い始めた。

「どうしました?」

 スーがナガーの顔を窺うと、彼女は笑ったまま首を振る。

「いやいや、さっきの発言はハロルの思い違いだろう? なら許してやったらどうだ。お前の弟子はやさしい子だぞ?」

 そう言うと、スーは驚いたように目を丸くしてからフッと目を細めた。

「そうですか。ナガーが言うのなら」

 スーが前を向くと、ナガーはハロルの方を振り返った。彼女は口と鼻の前に人差し指を立ててニヤリと笑った。
 アシオンを出てから、朝陽を数えて2回目にイアルグの村に到着した。ナガーは着くなり馬車を止める場所を探しに行った。

 ハロルはスーの後ろに付いて、イアルグの村長に会いに行った。村長と言っても、生き残りの中で最も年長だと言うだけで、村を収めるにはまだ若い。

「アシオンからわざわざご苦労様。もし今日ここに泊まって行くつもりなら、この村を再建するために国が建てた簡易居住施設がまるっと空いているから、そこを使ってくれりゃあいい。それと、夜は野犬が出るから絶対外に出ないように頼む」
「ありがとうございます」

 スーは村長に自分と弟子を紹介した。ハロルと言う名前を聞いたとき、村長の表情が変わり、顔を覗き込まれた。

「ん? なんだ?」
「……あ、いや。人違いだ」
「この村にもハロルと言う名の子が?」

 スーが村長に問いかけると、頷いた。

「この村が火事になったときにいなくなっちまったが……どっちかといやあハロルじゃあなくてドリシエに似てるな。ああ、ドリシエってのもその日に居なくなった子供だ。そう言えば、アンタが探している羽の生えた黒いトカゲだが、この村を焼いたのも同じ姿だったと聞いたことがある」

 ドリシエ。初めて聞く言葉だ。だがどこかで聞いたことがあるような、ハロルの頭の端の方に靄が掛かり始める。

 村長の言葉にミーンは、ポンと手を叩く。

「それってドラゴンって言うんだよね」
「ドラゴン?」

 耳慣れない言葉に、ハロルが首を傾げた。

「よく知っていますね」
「お師匠さまの書斎にあった本に書いてあったの。鱗を(まと)ったトカゲのような体躯に、大きな翼をもつ生き物。それがドラゴンだって」

 えっへんと胸を反らす。

「素晴らしいですね、ミーン。ハロルも見倣ってくださいね」

 ハロルはむくれて下唇を尖らせた。

「もしもこの村にまだハロルとドリシエが居るってんなら、犯人はそいつらだって言えるんだがな。6年前の火事以降、姿を見てない。そう言うわけで、ちょっと力になれそうもない。すまないな」

 ドリシエ、火事、ドラゴン、犯人……。自分の中に在る記憶のピースが揃いそうで揃わず、パズルがぐしゃぐしゃと崩れていく。頭の中を掻き回されるような感覚に襲われ、ハロルは顔を(しか)めた。

「ぐっ……!」

 さらに激痛が走る。あの、花壇の前で炎を見たときと同じ、稲妻のごとき痛み。頭の内側に出来たカサブタを無理矢理剥がされるような。

 耐えられず、ハロルはその場に倒れ込んでしまった。

 ハロルは名前を呼ばれた気がしたが、返事をすることも出来ず、遠退く意識を他人事のように傍観するしかなかった。
 炎の壁と柱が至る所にあった。それが、燃焼中の家屋であることに気付いたのは、数秒置いてのことだった。
 必死に逃げていた。遠くから近くから、叫び声と泣き声が聞こえてくる。幼い自分に出来ることは、ただ逃げること。

「居たぞ!」

 村人の声が聞こえた。同時に石が投げつけられた。肩や背中に当たって、よろめき倒れる。立ち上がろうとすると激痛が走った。立てない。しかし、彼らに捕まったら殺されてしまう。

「待て!」
「捕まえろ!」
「お前のせいで……!」
「今すぐあの黒トカゲをなんとかしろ!」

 黒トカゲ? それを自分が連れてきた? どうやって? 花壇の花を大きくしたときと同じく、無意識のうちにやってのけたのだろうか。
 周囲を見渡すと確かに黒トカゲが居た。咆哮を上げながら暴れていた。家屋に火を吐きかけ、泣き喚く子供に容赦なく尻尾を振りかざした。
 どうやって止めればいいのかわからない。
 混乱の極みに至っても、迫る炎と村人は待ってはくれなかった。


※  ※  ※  ※


 ハロルは見慣れない天井をいつの間にかぼんやりと見ていた。覚醒は随分前にしていたようなのに、ぼんやりとしたダルさに縛り付けられ、起き上がることが出来ない。ハロルはそのまま目を閉じた。

「お師匠さま、ハロルは大丈夫なのかな……」

 ミーンの心配そうな声が聞こえた。

「心配ないですよ。いきなり倒れてしまいましたが、今は寝ているだけです」

 スーは穏やかな口調だった。

「あのときみたいに、変わっちゃうのかと思った」
「花壇のときの、ですか?」
「うん。あのときもハロルは急に気を失って、それから半分だけ髪の色が変わって、目も半分だけ青くなっていたの。お花に手を向けただけで、お花を大きくしたんだよ。虚構術って、そんなことが出来るの?」

 スーは眼鏡のブリッジをくいっと中指で押し上げる。

「出来ないと言う解答は虚構士としては出来ませんね。しかし、経験則で言えば出来なさそうではあります。そもそも我々が創筆を使うのは、頭の中にあるイメージを文章化してより明瞭にして具現化するためです。そのプロセスを省いて良いと言うのなら、ハロルが思ったように世界を作り変えてしまえると言うことですから、出来ればそうであって欲しくないと思いますね」

 スーは切実に願っているような口調で言った。
 ミーンは言うのを躊躇うような仕草を見せてから、おもむろに口を開いた。

「ハロルは、何者なの?」
「何者、とは?」
「ハロル、出会ったとき言ってた。師匠と会うまでの記憶がないって。それってつまりハロル自身も自分がなんなのかわかってないってことでしょう? お師匠さまが、記憶を失う前のハロルを知っているなら、知りたい」

 スーは一度天井を見つめ、ゆっくりと視線を下ろした。ハロルの瞼は下りている。

「この村の近くで拾ったのが最初です」


※  ※  ※  ※


 スー・レフォストがイアルグ国に在る名もなき村に派遣されたのは、調査のためであった。
 なぜ火事が起きたのか。
 それは人為的によるものか、自然災害か。
 だが道中、それらすべてを後回しにすることになる事件が起きた。

「大丈夫ですか!? 君!」

 村の近くの池のほとりに、少女が倒れていた。声を掛け抱き起すと、銀色の髪がサラサラと揺れた。
 ケガなどはないうえ、息もしっかりしていたが、意識がない。火事の生き残りか。まったく関係のない捨て子か。いずれにせよここでは手当てができない。村に行ったところでそれは変わりないだろう。

 スーは少女を背負って一度家に戻ることにした。

 少女の意識が戻ったのを確認してからもう一度その村を訪れたが、村の家屋はほとんど倒壊しており、生存者も両手の指で足りるほどだった。またスーは、これは自然災害ではなく人為的なものであると言う旨の資料を作って提出したのだが、だからと言ってアシオンが積極的に犯人捜しをすることはなかった。所詮はパフォーマンスだったからだ。友好国が大変な状況に、人を遣わせて調査をしたという事実が欲しかっただけなのだ。実際、そのあとアシオンの兵士が数人出向き、数日分の食料を与えたらしいが、それ以上の関与をしたとは聞いていない。

 やがてその火事は忘れ去られ、スーの元には、ハロル・バードリーと名乗る少女だけが残ったのだった。


※  ※  ※  ※


「当時は王からの命令で、村の火事の調査をするだけで終わってしまい、村の人々に彼女のことを聞いて回ることも出来ませんでした。国も違いますし、気軽には来られなかったのです。村の生き残りかも知れないと思いはしましたが、彼女の記憶がなかったので僕の下で育てることにしました。虚構士の才能も有りましたからね」
「じゃあ、お師匠さまも知らないんだ」
「そう……ですがまあ」

 スーはハロルに視線を向けて、やわらかく笑んだ。

「ハロルはハロルですよ」