降臨祭の初日、日帰りで終わったお忍びにカテリナは大打撃を受けた。
 最愛の人を決めるにはあと九日あって、まだ時間は十分あると言い聞かせても、進展らしい進展がなかったからだった。
 翌日の陛下の私室にて、書類仕事に励んではいるがあからさまに虚ろな目のカテリナの落胆ぶりは、付き合いの短いギュンターでさえ気づいた。
 マリアンヌはこの騎士を国王付きにした理由を単に「異動」と言っていたが、ギュンターは時期的にどう考えても降臨祭のためだろうと察しがついていた。
「カティ、ここに。話しておくことがある」
 ギュンターはカテリナを執務机の前に呼び寄せると、よくその目をみつめながら言った。
「わかっているかもしれないが君は誤解しやすい」
「はい」
「昨日、君なりに一生懸命動いたのはわかるが、勝手に宿を取ってきたのは適切でなかった。俺はただそれを伝えたかっただけで、怒っているわけじゃない」
 ここで甘やかすのは彼のためにならないと、ギュンターなりに気遣って言葉を尽くしながら説明する。
「君はまだ着任して間もないのだから、わからないところは訊いても悪いわけじゃない。一人で考えて突っ走らない。いいな」
 まだ数日しか見ていなくても、彼の仕事ぶりは悪くないと思っているから、あえて厳しく言う。
 この少年はころっと大きな誤解をすることはあるが、書面を見ていれば真面目で誠実なのは十分わかっている。話し方も慎重で気配りもできている。
 ちゃんと的確に軌道修正してやれば彼は大成する。ここに彼が来てからというもの、ギュンターにはある種の使命感がふつふつと湧いてくるのだった。
 一方カテリナは、なぜ国王直々に仕事の進め方を指導されているのか理解はしていなかったが、ずいぶんと面倒見のいい人だなぁ、上司ってこんなに細かいことまで指導してくれるんだと感心して、素直に言葉の一つ一つを聞いていた。
「わかりました。お言葉のとおりにします」
 よし、今日も一日がんばろう。わりとあっさりやる気を取り戻して自分の机に戻っていったカテリナを、ギュンターは目の端で見てうなずいた。
 事務仕事を進めて半刻、カテリナははたと気づいて立ち上がった。陛下の執務机に歩み寄ると、自分の本来の仕事を口にする。
「陛下、今日のサロン行きはどうなさいますか」
「ん? ああ、誰か文句言ってきたら行こう」
 陛下は手元の仕事に集中していて、生返事と共にぽろっと本音が出た。
 カテリナは大きく息を呑んで、さすがにギュンターもその驚きように顔を上げた。
「どうした」
 カテリナは真っ青になって震えていて、何か言いかけては言葉を呑み込んでいた。
 こんな大事なことにどうして今まで気づかなかったのだろう。カテリナは頭の中で組み立てていた大いなる計画の欠陥を目の当たりにしていた。
 何か変だと思ったら必ず基本に戻って考え直しなさいと、父に教えられていたはずだった。カテリナの父は前提をすっ飛ばして最終形ばかり組み立ててしまう娘のボードゲームを見ながら、いつも手がかりを教えてくれていた。
「あ、えと、今落ち着きます。少しお待ちください」
 席を立ちかけたギュンターを制して、カテリナはあらためてそこに座る国王の姿を見た。
 王妹殿下は彼を最愛の人のところへ導きなさいと言った。すでに王妹殿下は彼と三人の姫君が巡り合うように仕向けていて、カテリナもアリーシャと出会った途端、なるほどこの方が一人目だとすんなりと受け入れた。
 王妹殿下が選んだ方なら、ヴァイスラント公国の王妃としてふさわしい方が勢ぞろいしているはずで、カテリナが見極める必要があるのだろうかと思っていた。
 つまり見極めるのは、女性の王妃としての適性ではないのだ。カテリナが始終みつめているべきなのは、お相手の女性ではなく陛下の方だ。
 カテリナは息を吸って、恐る恐る進言を口にした。
「恐れ多いことですが、陛下。陛下は降臨祭の最終日に最愛の人とワルツを踊らなければなりません」
「わかっている。だからアリーシャに頼もうと思っている」
「つまりアリーシャ様をお妃にお迎えするということですね?」
 カテリナは単純ではあるが愚かではなく、実はギュンターがどう答えるは薄々気づいていた。
 ギュンターは至極当たり前のことのように首を横に振って言った。
「それは無理だろう。アリーシャは従兄の子どもだぞ。一回りも年下で、常識的に考えて却下だ」
「国王陛下に常識は要りません!」
 何となく気づいてはいたが、カテリナは事実を突きつけられて愕然とした。
 全然良しを出さない細かさ、自室にこもって黙々と書面仕事をしている国王陛下。カテリナは素直だ堅物だと褒め言葉半分呆れ半分で言われてきたが、上には上がいるのだ。
 しかもこの人には、そこに慎重さという余分な年の功がついてしまっていて……十日間のうちに最愛の人を選ぶつもりがない。
 カテリナは組み立てていたボードゲームが反転したような気持ちになっていた。国王陛下の恋のために全力を尽くすつもりが、国王陛下は恋をしようとしていない。
 けれど一度ごちゃごちゃ考えた手順を巻き戻して頭の中を真っ白にすると、星読み博士が精霊の訪れを知らせた日のことを思い出した。
 精霊が望んでいるのは、国王と最愛の人とのワルツだと博士は言った。
 そのときカテリナは国王陛下にお会いしたこともなかったけれど、ああ、ワルツを踊るんだと、朝に目を覚ますように当然に受け入れた。自分たち国民は最愛の人と踊る役目はないけれど、誰だって最後のワルツは特別なものだ。
 ……私も最愛の人と踊ってみたいなと思ったのは、別に今は関係がなくて。
「陛下の恋、僕が叶えてみせます」
 余計なお世話かもしれないが、カテリナは心底黙って見ていられなかった。
 まばたきをしたギュンターの目を見返して、カテリナは言う。
「命じられてもいないのに宿を取ってきたみたいに、叱られるかもしれません。国王陛下だって恋をするのは誰に指図されるものでもないし、最愛の人なんて十日間で決められるものじゃないと思われるでしょう。でも」
 カテリナはそのまっすぐな目をギュンターに向けて、決意するように告げる。
「十日間、僕はどこへでもお供します。どの扉を開けるか慎重になってしまうお立場の陛下の代わりに、扉を開き続けますから。僕は信じられなくてもいいですから、精霊の奇跡を信じてみてください。……だって建国のとき、精霊が言っていたみたいに」
 その言葉を言うと乙女じみていると思って、カテリナは言葉を引っ込めた。
 ギュンターはカテリナを見上げたまま硬直したようで、少しの間黙っていた。
 やがてぷっと吹き出して、いたずらっぽく目配せする。
「「最愛の人は、勇気を持って開いた扉の向こうであなたを待っている」。君は意外とロマンチストらしい」
 ギュンターが笑いながらからかうので、カテリナは赤面して言い返す。
「誰だって最愛の人に巡り合いたいと思うでしょ!」
 そのとき、一つだけ開いた窓から初夏の香りのする風が通り過ぎた。
 二人顔を見合わせたまま時が止まったみたいに沈黙して、二人ともその正体がわからなかった。
 ヴァイスラントではそういう沈黙を、精霊が通り過ぎた時間と言う。精霊がくすくす笑いながら見ていて、奇跡を与えてくれる前触れだという。
「……まあいいか」
 ギュンターは席を立って、気まずさをごまかすように数歩歩きながら言った。
「マリアンヌの手前もあるし、サロンには行こう」
「では……」
「ただし」
 ギュンターはカテリナの顔の前に指を立てて言った。
「ここでの仕事は続けるからな。君の書類で直したいところはまだ山ほどある。側を離れないように」
「はい!」
 顔を輝かせてうなずいたカテリナと、少しばつが悪そうな顔をしたギュンターを、夏の香りの風は笑いながら外へと呼んでいた。