もうすぐヴァイスラント公国に精霊がやって来る。
星読み台から国中にその知らせが走ったとき、カテリナはまさかそれが自分を大きく変えるとは思ってもみなかった。
いつものように王城に出勤し、朝礼の後に剣技の訓練、そろそろ増えてきた後輩の騎士たちの指導をしてから書類仕事をする。カテリナは騎士ではあるものの、カテリナが生まれてから戦争は一度もなく、時々偉い方の護衛をする以外は文官と変わらない仕事をしていた。
山と積んだ書面をめくりながら、ありがたい、今日の上司の機嫌はいいようだとうなずいていたところで、上司の上司から呼ばれた。
「カティ、ちょっと」
カテリナの上司は多少むらっ気があるが、その上の室長は軍人に向いていないほど温厚な方だ。ただこの「ちょっと」の後に何かしら言いづらいことを告げる癖があるので、カテリナは緊張をまといながら頭を垂れて室長の元に参上した。
「ご指摘をいただきたく存じます」
肩をすぼめて叱られるのを待ったカテリナに、室長は困ったようだった。
「それが、私にも何を指摘していいのかわからないんです」
カテリナが疑問を表情に浮かべるか迷ったとき、室長は声をひそめて彼女にだけ聞こえるように言った。
「カティ、本日から祝祭が明けるまで、あなたの任を解きます」
「……は」
「異動……みたいなものだと思ってください」
ものすごく歯切れが悪い異動内示だった。どう考えても不吉で、上官に絶対服従がまかり通る職場でも聞き返すくらいは許されてしかるべきだった。
「はい。ご命令に従います」
それを一も二もなく素直に聞き入れるのがカテリナで、彼女はぺこりと一礼しただけだった。
顔を上げた彼女は、後輩たちに混じって訓練をしていると新人に間違われるというつるんとした童顔、大きな澄んだ目で室長を見返していて、大丈夫なんだろうかと心配するのはいつも上官の仕事だった。
「もしかしたらあなたはとても幸運なのかもしれません」
室長は事の次第はわからないながらも、はなむけに言葉を贈った。
「建国以来の有事を、一番近くで見ることになるんですから」
室長からカテリナに下された辞令は、正午にいつも通りの私服でローリー夫人のサロンへ参上することだった。
カテリナはその通りに従った。一旦宿直室に戻って私服に着替えて、ふと鏡に映った自分を見た。
カテリナは男として騎士団に入団して、普段も下町の男の子として生活している。男にしては小柄な方だがどうにか少年で通してきた。
女性的なものは肩に届く長さがある豊かな黒髪だが、いつも縛って帽子に入れていた。私服も目立たない灰色の上着と、そっけないズボンでまとめるといった感じだ。
男の格好には理由がある。過保護な父が誘拐されないようにと男の格好をさせていたのと、カテリナ自身もこの国で珍しい黒髪を隠したいからだった。
中性的な顔立ちとすとんとした体型とはいえ、カテリナも十七歳。そろそろ性別を偽るのは無理がある気もしている。
「いつも通りって言われたから」
けれど女の子の格好で外を歩いたことがないカテリナは、今日も帽子をしっかり被って髪を隠すと、一度うなずいて部屋を出た。
ローリー夫人のサロンは王城の中庭に面したテラスで、夏の近づく今、豊かな草木の薫りが風と共に舞い込んでいた。
サロンは紹介が必要なところも、ドレスコードが厳しいところもある。ところがいつでもどなたでもどうぞと公言するローリー夫人のサロンは違った。近所のパン屋に買い物に来るような気楽な格好で訪れたカテリナも、快く迎え入れてくれた。
「僕のことはお構いなく」
お菓子と紅茶が振舞われたが、カテリナは正装の代わりに緊張を着こんできたのですぐに隅っこに引っ込んだ。必要以上に辺りを見ることもなく、壁の一部のような思いで壁際の椅子に腰を下ろす。
お辞儀をして一口紅茶に口をつけたきり、笑いさざめく令嬢たちや自慢話をする青年士官たちに混じることもなく、真剣に室長の命令の意図を考え込んでいた。
何か自分の仕事に問題があったのだろうか。難しい顔で思考の迷路に落ちていて、周りがざわめいたのに気づくのが遅れた。
「まあ……ようこそいらしてくださいました。どうぞこちらへ」
「お気になさらないで。少しお部屋をお借りできるかしら?」
どなたか人目を引く方が出入りされたらしいと一応気づき、とはいえ仕事中だからきょろきょろしちゃいけないと思うカテリナだった。肩を叩かれて振り向いた先に近衛兵がいても、自分は膝に紅茶でもこぼしていただろうかと別の意味で緊張した。
「隣室へ」
「は、お言葉のとおりに」
そう言われるとそのとおりにする性格は、今が平和な世でなければ災いしていたに違いない。
大人になったらお父さんと同じ仕事がしたいと願って王城に入ったカテリナに、心配でたまらないと男の格好をさせた父の愛は、それほど的外れでもなかった。
隣室に一歩踏み込むなり、カテリナは目をぱちりと瞬かせた。そこではマリアンヌ王妹殿下が座していらしたからだった。
「殿下!」
王城に仕えていることと王族に対面することはまったく意味が違う。たとえるなら豪邸に届け物をすることと豪邸に住むことくらい違う。
「よろしいのよ。硬くならないで」
カテリナは血の気が引いて膝をついたが、マリアンヌは微笑んで向かいの席につくよう促した。
自分に何が起きたのかと膝が震えたものの、ここでもカテリナは王妹殿下の言葉どおりに従った。カテリナがお顔を拝見するのは失礼と目を伏せたまま席につくと、マリアンヌは優雅にティーカップに手を伸ばしたようだった。
マリアンヌはカテリナの三つ年上の二十歳、幼少の頃から多くの言語と芸術をたしなむ、国民なら誰でも憧れる姫君だった。今はみつめるのは失礼に当たるが、カテリナもその豊かに波打ったブロンドと青い瞳を肖像画で見上げるたび、まっすぐな黒髪と茶色の瞳の自分と本当に同じ人間なのか不思議に思っていた。
「こちらを見て、カテリナ」
普段は隠している本名を呼ばれて、カテリナはようやく正面からマリアンヌを見返した。
青い瞳と目が合って、そこに浮かぶ不思議な親しみに少しだけ緊張を解く。
「……まっすぐで、きれいな紅茶色の瞳。きっと、あなたなら」
マリアンヌは柔らかく微笑むと、姫君らしい凛とした空気をまとって口を開いた。
「もうすぐヴァイスラント公国に精霊がやって来るのはご存じね。明日から祝祭が始まって、最終日にはワルツを踊る」
それは星読み博士が告げた、ヴァイスラント公国の建国行事だった。カテリナももちろん国民の一人として、最後の日にワルツを踊るつもりでいた。
「国王のワルツは、建国のときに精霊と特別な約束をしているの。国王の最後のワルツは最愛の人と踊らなければならない。……でも陛下はまだ、独身」
カテリナはうなずくべきか迷った。それも国民の密かな心配事だった。独身の陛下はこれから始まる伝統の儀式が果たせないのではと、人々は案じていた。
「私ども臣下は」
マリアンヌは妹というよりは臣下の口ぶりで切り出した。
「陛下に、精霊との約束を果たしていただかなければなりません。ゆえに私は、これから十日の間に三人の姫君を陛下に引き合わせるよう手配しました」
建国のときに精霊が持っていたといわれる青い瞳でみつめて、マリアンヌはカテリナに言った。
「あなたには側でそれを見極めてほしい」
「見極め……ですか」
マリアンヌはうなずいて、正面からカテリナをみつめて言った。
「カテリナ。その澄んだ目で、陛下を最愛の人のところに導きなさい」
建国の降臨祭が始まるその前日。お姫様からカテリナに、直々に下った命令だった。
王城に仕えている者は数百人にのぼるが、カテリナのような勤続三年目の騎士が国王のお側に仕えるというのは珍しい。
カテリナも、王妹殿下直々の命でそのお役目を授かったのは幸運とわかっていたが、国王の目に留まりたいとは思っていなかった。
それは国王の側に父がいるからだった。父は公平に部下を取り立ててきた人で、カテリナはそんな父の公平さを疑わせないために、父との関係を伏せて働いていた。
そもそもカテリナは仕官学校を卒業後、王都から遠く離れた辺境の砦に希望を出したはずだった。ところが何か大きな力が働いて、蓋を開けたら王城の勤務となっていた。
お父さん、そういうことしちゃだめだよ。さすがにカテリナもこれが父の仕業だと感づいたが、父はしょげた様子ながらカテリナに諭した。
ごめんな、カテリナ。パパ、ほんとはずるくて汚いんだ。言い訳だけど、実はほとんどの大人がそうなんだぞ。パパはカテリナちゃんがだまされて傷つくのだけが心配だ……。
戦場では鬼と呼ばれた父が家では娘を砂糖漬けのように甘やかしているのは、カテリナも人に言ったことはない。
人には表の顔と裏の顔があるんだなぁ。父を見ていてほのぼのと思ってはいたが、このたび別の形でそれを目の当たりにすることになった。
「陛下、どうしましょう。このままでは負けてしまいますわ」
貴婦人が弱り切った様子でボードゲームから目を逸らし、長身の青年に振り向く。
頼られた青年は癖のないブロンドを首の後ろで括り、湖面のような灰青の瞳をしていた。肩幅が広く手足が長いので、武装の名残があるサーコートがよく似合う。
静止していれば彫像のような冷たく整った風貌だったが、彼はすぐに貴婦人に甘く笑いかけた。
「心配はいりませんよ。男に美しい女性を打ち負かす一手などありはしないのです」
彼は手を差し伸べて駒を動かし、周りでボードゲームを見ていた観客から歓声が上がった。
その打ち返しが決め手となったらしい。状況は一転し、やがて相手をしていた壮年の貴族から降参の声が上がった。
「ほら、美しさの前にはどんなものも敗北するでしょう?」
「陛下ったら」
この国で唯一陛下と呼ばれる方、国王ギュンターは優雅に一礼すると、花を移る蝶のようにそこを離れた。
弱った貴婦人をみつけては一手を指導し、甘い微笑みとともにそこを去る。
噂に聞いてはいたけど、女性に対しては子どもから老婦人まで糖分全開の笑顔なんだなぁ。カテリナは隅で一人対局をしながら感心して見ていた。
貴婦人方はうっとりと扇で口元を押さえながらささやきあう。
「陛下にご指導いただければ、デビュー前の少女でもサロンの花となれるでしょうね」
カテリナはというと、国王というのはかくも大変なお仕事なんだと他人事のようにうなずきかけて、今の自分の仕事を思い出した。
祝祭までの十日間、陛下は最愛の人にダンスのお相手を申し込むべく、このようなサロンを転々とすることになる。いわば恋をするのが仕事で、いくらカテリナが時々飲むレモン水が何よりおいしい書面仕事に戻してほしいと思っていても、今は国を背負った恋の成就こそがカテリナに下った使命なのだった。
カテリナは一人対局を切り上げて席を立つと、事情通らしい壮年の貴婦人にそっと耳打ちした。
「陛下には、サロンにエスコートされたい特別な女性がいらっしゃるのでしょうか」
臣下の都合で申し訳ないが、陛下には不特定多数の女性に甘いのではなく、最愛の人にだけ甘くなっていただかなければならない。人の輪に入るのは苦手だが、カテリナは勇気を出して調査を開始する。
「カティさんは今日陛下付きの騎士になられたんですって?」
「はい、職責では。けれどみなさんの方が陛下のことをよく知っていらっしゃると思って」
しかも女性を口説くすべならよほど陛下ご自身の方が卓越しているような気がする。自分は何を尽力すればいいのでしょうと直接訊くわけにもいかないが、カテリナは素朴に貴婦人方にすがった。
貴婦人方は不思議そうに顔を見合わせると、驚きの目でカテリナを見た。
「あら、あら……。ずいぶん陛下に熱が入っていらっしゃるのね?」
「それはもう。全力でお仕えする覚悟です」
「素敵!」
貴婦人方は少女のように目を輝かせると、扇を口元から離してカテリナの肩に手を置いた。
「がんばってちょうだい。応援しているわ」
「は、はい。でも何をがんばれば……?」
「お側にいるだけでいいのよ。大きな転機があるかもしれないわ」
転機という何気ない一言が、ふとカテリナを迷わせた。
父のようにと同じ仕事に就いたけれど、ずっと男の格好をしているわけにもいかない。書面仕事の多い今ならいざ知らず、辺境に着任すれば兵士としては貧弱そのもののカテリナは足手まといにしかならない。
十七歳、性別を偽るにはそろそろ限界を感じている今こそ、まったく別の生活を考えるべきかもしれない。
でも大人になったら誰かの役に立つべきと思って進んできた道の行きつくところ、その理想の形は今も父に変わりがない。
十日間後、騎士の仕事に戻って、いつまでそれが続けられるだろうか?
「……精霊のくれた転機のその先は、精霊にしかわからない」
カテリナは迷路に入りかけた悩みを振り払って、屈託なく笑った。
「恋だって精霊が祝福してくれなければ、いずれ縁が切れてしまうものなのでしょう?」
「あら、まだ若い殿方が恋の力を信じなくてどうするの」
明るい気分が戻ってきて、カテリナは貴婦人たちと笑いあう。
自分の悩みは恋とは違うけれど、今は精霊の手に任せてみたいと思う。
未来のことがわからないように、カテリナには恋のことだって、まだ全然わからない。精霊がくれる贈り物というけれど、蓋を開くまでわからないものだともいう。
そういうの、ちょっと苦手だな。そう思ったとき、なぜだかギュンターと目が合った。
「では私はそろそろ」
国王陛下をみつめては失礼だと目を逸らしたら、ギュンターも目を逸らして席を立ったようだった。
カテリナは慌てて席を立って、貴婦人たちにあいさつをしてからギュンターのところに向かう。
ギュンターはカテリナを後ろに連れてサロンを出て、足早に自室に向かった。
お仕えする初日にしてすでに三回目、カテリナが目の当たりにしてきたのは、サロンに顔を出す合間に私室で書面仕事をしている陛下の姿だった。
「ちっ。あいつ、またくだらん案件を上げてきたな」
それもサロンで見せる貴公子然とした姿は嘘のようで、舌打ちもすれば独り言も多く、しばしば部下を罵倒している。
「こっちは時間がないんだよ。俺の仕事をさせろ」
彼に言わせるとサロンへ行くことは公の仕事で、私室での仕事は自分のためにする仕事なのだそうだ。
しかめつらで苛立ちながら、けれど私室の陛下は一種燃え上がるような情熱をまとっている。
「あれもこれも、やることが多すぎる。降臨祭さえなけりゃな……」
御年二十七歳、働き盛りに加えて、このたび建国以来の降臨祭を迎えることになった。正直、彼に恋をしている時間はないのかもしれない。
ただそういう文句を公の場で微塵も見せないところはカテリナも尊敬している。言葉を返すのは無礼なのでうなずいていたら、ふいにギュンターは口を開いた。
「ところで、君はボードゲームが下手だろう」
綺麗に梳かれたブロンドを片手でくしゃくしゃにして何事か文句をつぶやいた後、ギュンターは唐突に三白眼でカテリナを見た。
「見てないとでも思ったか?」
男の格好をしているカテリナが悪いのかもしれないが、彼は完全にカテリナを少年だと思っているようだった。だからまるで言葉に遠慮がなくて、貴婦人に対するような甘い笑顔も気配りもない。
カテリナは少しむっとした。それは案外にも図星で、気にしているカテリナの弱点そのものだった。
「十手先まで読んで布陣を組み立てた、その想像力は買う。でもまっすぐな戦略に過ぎて、相手に読まれやすい。勝算は薄いな」
カテリナに対局を教えてくれた父も同じことを言いづらそうに教えてくれた。それを出会って半日で言い当てられると、驚くより腹が立ってくる。
「そのくせ引き際は潔すぎて……」
「陛下、次のサロン行きのご予定はとりやめますか。お時間が少ないようですが」
頭が切れる人なのは認める。でも女性と男性への態度が違いすぎるし、今のように繕っていないときはとても無神経だ。カテリナは一瞬相手が国王であることを忘れて、彼女にしては珍しく冷ややかに言った。
ギュンターも気にくわないという顔をしたが、さすがにそこで怒り出すほど子どもでもなかった。
「予定通り向かう。ついでにこの書類を返してきてくれ」
ギュンターは言うときは容赦がないわりに、引くときも早い。それが手加減されたようでますます気に入らなくて、カテリナは書類を受け取ると、一礼してさっと踵を返した。
カテリナは今まで仕事で好き嫌いは抱かないことに決めていた。第一、国王陛下のなされている仕事は尊敬しているし、精霊との約束のために恋までしようとしているのならどうにか叶えて差し上げたいとは思っている。
好きにはなれそうにないが、嫌いなわけじゃない。そう、これは苦手なだけ。
カテリナはむっつりと口を引き結んで、いつの間にか陛下からうつった罵倒文句を心の中でつぶやいた。
各地で一斉に鐘の音が鳴り響くとともに白い鳩が放たれ、祝祭は始まった。
今日からは建国以来の長い祝日が続き、日頃は稼ぎに精を出す人々も財布のひもを緩めて美食に旅行にと出かけていく。
カテリナは祝祭中の特命を課せられてしまったが、仕事だものとやる気だった。パパとケーキを食べに行こうよとごねる父に、日頃は故郷にも帰れない同僚も多いんだから、こういうときこそ実家まで徒歩圏内の自分ががんばるんだよと力説したのだった。
お父さんケーキ食べてるかな。最終日の夜はお休みだと伝えているから、たぶんそれまで食べずに待ってるんだろうなと思いながら、カテリナは初日の仕事に向かった。
朝、騎士団の詰め所の代わりに王城の四階に位置する国王陛下の私室に出勤して、十日間の仕事に就いた。
カテリナが立ち入った私室は書斎で、重臣と会議をしたり謁見をしたりする公の場ではなく、寝室や食事をする部屋はもっと奥にあるらしい。
ギュンターの執務机と椅子、ひとまわり小さい一対の机と椅子が置かれ、後は底が抜けそうなほど本が詰まった棚に囲まれた部屋で、花も飾られていなければ宝石細工もない。唯一の装飾というと、陛下が背にしている国王一家の肖像画くらいだった。
「おはようございます」
「ああ。おはよう」
カテリナは時間に余裕をもって出勤したが、ギュンターは既に自分の席について書き物をしていた。
カテリナももう一対の小さな事務机に着いて事務仕事を始めたが、早々にギュンターから声がかかる。
「待っていた。カティ、君の作ったこの文書だが」
「まちがっていましたか」
カテリナが自席から立ち上がって陛下の執務机に歩み寄ると、彼は眉間にしわを寄せて言った。
「まちがってはいない。だからかえって問題なんだ。読む人間によっては、無用の誤解を招く可能性がある」
もっとも、正確には祝祭の半日前からカテリナの仕事は始まっていて、ギュンターのサロン巡りに随行してきた。
ところが当初の随行の仕事は、既に昨日の後半から彼の熱血指導を受けながら文書を作ることに変わっていた。
「そうでしょうか。僕は公平に意見を拾っていると思います。項目も五つに分類して、偏りなくまとめました」
騎士として着任して二年間、戦うのではなく四六時中事務仕事をしてきたカテリナは、その情熱を惜しみなく事務仕事に注いできた。自信がある分野で、国王陛下も意見を封殺しないので、いつの間にか陛下相手に本気で言い返してしまう。
「行間に厚みがありすぎるんだ。統計に意思を透けさせてはいけない」
カテリナが彼の言葉の意味を考え込んで黙ると、ギュンターはその書面を脇に置いた。
「これは後にしよう。先にこっちをまとめてくれ」
はいと書類を受け取って、いつの間にかカテリナの固定席になった書物机で作業をする。
カテリナは仕官学校で一生懸命勉強して、武術はともかく学問に関しては優秀な成績を治めた。もちろんまだ仕官学校を卒業して間がなく、経験が浅いことは十分承知しているが、昨日までの職場ではそれなりに評判が良かった。
「これも却下。外には出せない」
ところがここに来て、およそギュンターが良しとした書類は一枚もない。駄目出しの嵐に、いくら仕事とはいえちょっとめげた。
ただそれが自分の本務ではないのだし……とは欠片も思わないのが、カテリナの堅物さだった。
何がいけなかったのか、行間とは何なのか、とんでもない致命的な穴が空いていたのか? カテリナは書類に穴が開きそうなほどみつめて、カリカリとペンを走らせた。
「……ィ、カティ。手を止めろ」
真剣に書類に向き合っていたので、そばにギュンターが立っていることに気づかなかった。きょとんとして顔を上げると、彼は横から手を出して書類を引き抜く。
「違う。足りないと言ったんじゃない。それは後だと言ったはずだ」
後だとは言われたがやらなくていいとは言われていない。カテリナの不満はたぶん目に現れていて、ギュンターの灰青の瞳も不機嫌に細められた。
「細かいところにこだわりすぎるな。いいか、俺が言いたいのは……」
彼が何か言いかけたとき、ノックの音が聞こえた。ギュンターは一つため息をついて、外向きの朗らかな国王の顔をまとった。
「入ってきなさい」
ギュンターがカテリナに対するのとはまるで違う優しい声をかけたとき、カテリナにはそこから春の名残のような甘い風が入り込んだように感じた。
「陛下、だめよ。祝祭の間はお仕事しないって約束じゃないの」
現れたのは、柔らかそうな亜麻色の髪を持つ令嬢だった。シフォンの青いドレスが星をまとうように似合い、声も足音さえも聞き心地のいい、彼女が精霊だと言われたら多くの人が信じてしまいそうなほど甘い風貌の持ち主だった。
ギュンターは微笑んで首を横に振ると、冗談めかして言った。
「アリーシャ、違うよ。ここでの私は身の回りのことを片付けているだけで、仕事をしているわけじゃない」
「嘘。陛下の嘘ってすぐわかる」
彼女はくすくすと笑って、戸口から中を覗き見た。
「お気に入りの部下を私にも見せてちょうだい? 噂になってるわ。ここの部屋にまで連れてくる部下なんて、今までいなかったもの」
彼女はカテリナの姿をみとめると、あら、と声を上げる。
「可愛らしい仕官さんね。まだ入隊して間もないくらいかしら。陛下の部下は大変でしょう? お疲れ様」
彼女はカテリナと変わらないくらいの年で、いたずらっ子のような邪気のない笑顔が愛くるしかった。同じ女性のカテリナでも照れくさくなって下を向いた。
目を逸らしながら、カテリナは想像を少しずつ確信に変えてきていた。彼女の存在は王城の末端で働くカテリナにも聞こえてきていた。
「理想の令嬢」、アリーシャ。社交界の華たる美貌と機転を持ち、王家に連なる血筋から生まれた非の打ちどころのない令嬢だ。
「困ったね、アリーシャ。何をねだりにきたの?」
「あら、心外。祝祭が始まったのに、陛下ったら自室にこもったまま出てこないから心配しているのよ」
ギュンターの腕をぎゅっとつかんで、アリーシャは笑った。
「お仕事は今すぐ終わり。でなきゃ、もう陛下とダンスを踊ってあげないの」
この方が、たぶん一人目なのだ。
腕を振りほどかずに苦笑したギュンターに彼女への好意を見て、カテリナはこれからやって来る未来を探ろうとしていた。
ヴァイスラント公国の王都の治安は、衛兵の主な仕事が酔っ払いの道案内になっているくらいに良好だった。
かつて指名手配犯の張り紙が貼られていた掲示板は迷い猫のチラシが貼られるようになり、戦時の早馬の詰め所は旅行代理店に看板を変えた。人々は祭りもサロン通いも大好きで、女性や子どもに至るまで街歩きを楽しんでいた。
ところがヴァイスラント国民にあるまじきことに、街歩きの習慣がない少女がここにいた。
カテリナは王城と実家の往復でパンも洋服もそろうために、その対角線上からはみ出ずに大人になった。学生時代は買い食いもせず、新しいチョコレート店ができたんだってと何かを期待するまなざしで言う父にも頓着せず、いつもの牛乳店に足しげく通うカテリナだった。
そんなカテリナが無事王城に就職して騎士という称号を得て、大手を振るって盛り場に繰り出したかというと、まさかそんなはずはなかった。むしろ王城内に出入りする商人や食堂という強い味方を得て、街歩きの能力は本格的に劣化した。
「……しまった」
ギュンターとアリーシャのお忍びの馬車が走り出して数刻後、まもなくカテリナはここがどこかわからなくなった。
「何か言ったか?」
「いいえ。徒歩通勤にこんな穴があったと知らなかったんです。お話を続けてください」
カテリナは道案内の役目が果たせなかったらどうしようと思ったが、一瞬ギュンターがアリーシャとの話を中断してしまったので、慌てて言いつくろった。
馬車の窓からうかがう王都は、建国以来の祭りにどこも浮き立っていた。音楽隊が行き交い、商店からは呼び込みの声が響く。道行く人々は小旅行や買い食いを満喫していて、昼前から既ににぎやかだった。
カテリナはというと、街のにぎわいに目を輝かせるより、目先の仕事を注意深くみつめていた。まったく自信はないが、ギュンターとアリーシャをどこに道案内するか、ボードゲームを組み立てるように計画を練っていた。
ふいに腕を組んで密やかに目配せをしながら路地に入っていった男女を見て、カテリナはぴんと閃いた。
「待て、カティ。どこに行く」
庶民は立ち入れない目抜き通りに馬車が到着するなり、カテリナは近衛兵に耳打ちして、自分は明後日の方向に歩き出そうとした。ところが馬車の中では始終アリーシャと話に花を咲かせていたギュンターが、途端に声を低くして呼び止めた。
カテリナはギュンターを振り向いたが、その目は大いなる到達点をみつめていた。つまり国王陛下が最愛の人とワルツを踊ること、そのために自分ができる最善の方法をこれから実行する予定だった。
「夜勤に備えてパンを買いに行こうと思います」
「何の夜勤だ。君の仕事は私の付き人のはずだ」
「はい、ですから」
彼女の頭の中ではすでにギュンターとアリーシャは恋仲で、これから雨が降ってどこかの宿で夜を明かすところまで進行していた。
初日からこの進捗なら最終日を待たずに目標が達成できると、カテリナは澄んだ瞳でじっと国王陛下をみつめた。まさか彼女の頭の中をのぞいたわけではないが、ギュンターはその真剣で有無を言わさないまなざしに眉を寄せた。
ふとカテリナの目は上に動いて、落胆の色を浮かべた。空は晴れ渡っていて雨の気配がない。
「わかりました。近くに控えています」
雨でなくとも足止めの手段はある。カテリナはすぐに気持ちを切り替えて顔を引き締めた。
ギュンターはというと、そもそも外出の目的は令嬢とのお忍びなのであって、なぜお付きの騎士などに気を取られているのかわからなくなった。
「アリーシャ、リボンが靴に合わないと言っていなかったか。気に入る品をプレゼントするよ」
ギュンターも気持ちを切り替えてアリーシャのエスコートを始めた。
国王たるもの呼吸をするように令嬢をエスコートしなければと自負していて、滞りなく心地いい話題を提供するのも慣れている。
流行のリボン、街で噂の新作菓子、暮らしを飾る花に、王城のサロンまで話題をさらった演劇。どれもアリーシャが好んで、いつまででも息の合う会話を続けてくれるのをギュンターは知っている。
「ありがとう。あ、ちょうど新作が出ているみたい」
アリーシャはショーウインドーでリボンをみつけて、ギュンターと共に中に入っていく。カテリナは近衛兵たちにならって、ギュンターたちからつかず離れず続いた。近衛兵も含めて五人も店内に入ってしまったが、邪魔にならないよう、人形になったつもりで壁に張り付いて待機する。
ギュンターがアリーシャをエスコートした店は、ドレスのアクセントとなるリボンを中心に、貝殻のペンダントやショールが絵のように並び、店員の控えめさも相まって、カテリナが普段出入りする下町の雑貨店とはまったく違っていた。
「靴……そうなの。靴を変えたのが失敗だったわ」
けれど目に留まった靴が、少しアリーシャに引っかかったらしい。はしゃいでいた声を収めて、早々にため息をつく。
「私に濃い色は合わないって知っていたはずなのに、靴を変えてしまったの。だから全体のバランスが悪くなって、どのリボンを見ても違うって思うのよ」
アリーシャは自分が王城に出入りする令嬢の憧れと自負していて、時にその自負が彼女の足かせになる。いつも平常心ではいられないところは、まだ年相応の少女だった。
女性の心を晴らすのは難しいなと思いながら、ギュンターが差しさわりのない別の話題を持ち出そうとしたときだった。
壁際で石像のように微動だにしなかったカテリナが、店員に何か耳打ちした。店員は訝しげな顔をしたが、そっとアリーシャに歩み寄ってリボンを差し出す。
「こちらはいかがでしょう?」
「……あら、これ」
日頃、アリーシャは自分で身に着けるものはすべて自分で選んで見せると自信を持っているが、店員の差し出したリボンを見て歓声を上げた。
「すごいわ! その合わせ方は初めて。ね、陛下。結んでくださる?」
言われるままにギュンターがアリーシャの髪を結うと、彼女は子どものように喜んで鏡の前で繰り返しリボンを撫でる。
「似合うでしょう?」
確かにその淡い緑のシルクのリボンは彼女の靴と色こそ違うが、レースの形がそろっていて、少し大きいところもつり合いがよかった。
「あ、ああ。似合うよ」
ギュンターはちらとカテリナを見やったが、カテリナはもう石像に戻ってしまっていた。
「こちらなどもお似合いです」
「本当! 陛下、見てみて」
それからアリーシャのご機嫌はみるみるうちに良くなった。アリーシャはお洒落ゆえにギュンターすら手を焼くほど好みにはうるさいはずが、いつもなら相手にもしない店員の差し出す商品を手放しで喜んだ。
ただ決まって店員が歩み寄るその前にカテリナが店員に耳打ちしているのは、カテリナを背にしているアリーシャは気づかなかったらしい。
「やっぱり精霊が降りてきてるのね。今日は運命の出会いばかり」
いや、違うんだアリーシャ。そこの、壁と一体化しているような新米騎士が服の色にも生地にも、最新のリボンの結び方にも詳しいんだ。
「喜んでくれて何よりだ」
と、ギュンターはもう少しで言うところだったが、自分より一回りも年下の、子どものような顔をした少年に負けを認めるわけにもいかず、そつのない笑顔を浮かべただけだった。
アリーシャが仲良くなった店員と談笑している間、ギュンターはカテリナに近づいて小声で言った。
「君には姉妹がいるのか」
カテリナはどうしてかびくりと震えると、目を逸らして答えた。
「申し訳ありません、一人っ子です。一人っ子のおかげで、なぜか令嬢教育も惜しみなく受けて育ちました」
ギュンターはカテリナの言葉を考えて、ふと思い出して言った。
「そういえば君の身元保証人はメイン卿だったな。「令嬢が選ぶ家庭教師」第一位の」
メイン卿は身分では下級貴族だが、教育者としては最高峰の紳士だった。ドレスの着こなしからお稽古事、歩き方まで、どこのサロンに出ても恥ずかしくない令嬢に育て上げてくれるという評判だった。
ついでになかなかの美男子で、アリーシャも何度となく父親にねだって家庭教師に来てくれるよう頼んだというが、叶わなかったという。
「個人の家庭教師は引き受けてくれないらしいが、もしかして君はメイン卿の教育を受けたのか」
カテリナはばつが悪そうにうなずくので、ギュンターはようやくカテリナの素養の理由を知った。
「なるほど。女性だったら社交界の華になれただろうな」
ギュンターが悪気なく笑って言ったときだった。
「……僕は男ですから」
あきらめたようにカテリナがつぶやいたのが、ギュンターにはなぜか気がかりだった。
ギュンターとて女性の機嫌は時々損ねることがあるもので、放っておけばそのうち戻ると知っているが、ふとこの少年はどうなのだろうと思った。
別にお付きの騎士の機嫌などどうでもいい……と思うのなら、気になるはずもなかった。機嫌を直せと命令するわけにもいかないから、余計に変な気分になる。
以前、妹のマリアンヌが苦笑して告げた言葉が耳に蘇る。陛下は口が回るくせに、肝心なとき何も言わないのよ。慣れた相手ならそれは陛下の優しさだってわかるけれど、付き合いの短い方だとどうでしょうね。
妹の声に心の中で言い訳する。俺は国王で、誰かを特別扱いするわけにはいかないんだ。
……でもそれを言うなら私室に入れた時点で、他とは違う扱いをしてしまっている。
「陛下、どうなさったの」
店員のところから戻ってきたアリーシャが声を上げる。彼女が見たのは、近衛兵から紙袋に入ったパンを受け取ったギュンターだった。
「みな、外に出て少し休憩にしなさい」
ギュンターは店外に部下たちを呼び寄せると、手ずから彼らに一つずつくるみパンを配って労った。
「アリーシャ、君にも」
「ありがとう。でもどうして突然?」
「わざとらしいのは承知している。しかし付き合わされる立場の者たちも、それ相応の扱いを受けていいと思ってな」
自分は男と女で言葉面や態度を違える癖があるのは知っているが、男でもきちんとその労を認めてきたはずだった。今までにも臣下を育てるために指導をしたし、しかるべきところへ推薦もした。
だからこれはいつもの延長で、決してある騎士がパンのことを口にしたから買ったものではないと、自分に言い聞かせる。
そう思ったところまでは、確かに平常心だったはずだった。
「……カティはどこに行った」
けれどお付きの騎士が視界から消えただけで、その行方を案じてしまったのは変だった。
先ほどまで控えていたカテリナの姿がどこにもないことに気づく。ギュンターは何度となく呼んだその名前を、一昨日まで知らなかった。
近衛兵であっても家がある。家に帰ることもあれば異動もする。ずっと側にいられるはずもないのは人間として当然で、誰にも責められない。
だとしたら急に辺りが暗闇に落ちたような思いがしているのは、何なのだろう?
もう一度無意識に呼ぼうとして、アリーシャという令嬢の前で不機嫌な顔をするのさえ抑えられない自分に苛立った。
「はい。御前に」
ところが憎たらしいほどまんまるな目をして、カテリナはギュンターの前に戻ってきた。
ギュンターは気づかれないよう詰めていた息を吐いて、じろりとカテリナを見た。
「どこにいた?」
「知識としては知っていましたが、宿の予約を取るのは初めてで」
ギュンターは慈悲深くあれと教えこまれた帝王学を、一瞬かなぐり捨てたくなった。
ざわざわと周囲の喧噪が耳に戻って来る。気が付けば踏み出しかけていた足を一歩下げて、ギュンターは深く息を吐いた。
「一つ言っておこう。今日の君の仕事に、労いの言葉はやれない」
指示していない仕事をするなと教えるのは、この無尽蔵なやる気を持つ新米騎士の芽をつぶしてしまいそうで、何とか思いとどまった。
「あとはもう一つ。……今日はもう帰る」
ギュンターは未だわからない新人教育の難問にぶつかって、軽く頭を押さえた。
降臨祭の初日、日帰りで終わったお忍びにカテリナは大打撃を受けた。
最愛の人を決めるにはあと九日あって、まだ時間は十分あると言い聞かせても、進展らしい進展がなかったからだった。
翌日の陛下の私室にて、書類仕事に励んではいるがあからさまに虚ろな目のカテリナの落胆ぶりは、付き合いの短いギュンターでさえ気づいた。
マリアンヌはこの騎士を国王付きにした理由を単に「異動」と言っていたが、ギュンターは時期的にどう考えても降臨祭のためだろうと察しがついていた。
「カティ、ここに。話しておくことがある」
ギュンターはカテリナを執務机の前に呼び寄せると、よくその目をみつめながら言った。
「わかっているかもしれないが君は誤解しやすい」
「はい」
「昨日、君なりに一生懸命動いたのはわかるが、勝手に宿を取ってきたのは適切でなかった。俺はただそれを伝えたかっただけで、怒っているわけじゃない」
ここで甘やかすのは彼のためにならないと、ギュンターなりに気遣って言葉を尽くしながら説明する。
「君はまだ着任して間もないのだから、わからないところは訊いても悪いわけじゃない。一人で考えて突っ走らない。いいな」
まだ数日しか見ていなくても、彼の仕事ぶりは悪くないと思っているから、あえて厳しく言う。
この少年はころっと大きな誤解をすることはあるが、書面を見ていれば真面目で誠実なのは十分わかっている。話し方も慎重で気配りもできている。
ちゃんと的確に軌道修正してやれば彼は大成する。ここに彼が来てからというもの、ギュンターにはある種の使命感がふつふつと湧いてくるのだった。
一方カテリナは、なぜ国王直々に仕事の進め方を指導されているのか理解はしていなかったが、ずいぶんと面倒見のいい人だなぁ、上司ってこんなに細かいことまで指導してくれるんだと感心して、素直に言葉の一つ一つを聞いていた。
「わかりました。お言葉のとおりにします」
よし、今日も一日がんばろう。わりとあっさりやる気を取り戻して自分の机に戻っていったカテリナを、ギュンターは目の端で見てうなずいた。
事務仕事を進めて半刻、カテリナははたと気づいて立ち上がった。陛下の執務机に歩み寄ると、自分の本来の仕事を口にする。
「陛下、今日のサロン行きはどうなさいますか」
「ん? ああ、誰か文句言ってきたら行こう」
陛下は手元の仕事に集中していて、生返事と共にぽろっと本音が出た。
カテリナは大きく息を呑んで、さすがにギュンターもその驚きように顔を上げた。
「どうした」
カテリナは真っ青になって震えていて、何か言いかけては言葉を呑み込んでいた。
こんな大事なことにどうして今まで気づかなかったのだろう。カテリナは頭の中で組み立てていた大いなる計画の欠陥を目の当たりにしていた。
何か変だと思ったら必ず基本に戻って考え直しなさいと、父に教えられていたはずだった。カテリナの父は前提をすっ飛ばして最終形ばかり組み立ててしまう娘のボードゲームを見ながら、いつも手がかりを教えてくれていた。
「あ、えと、今落ち着きます。少しお待ちください」
席を立ちかけたギュンターを制して、カテリナはあらためてそこに座る国王の姿を見た。
王妹殿下は彼を最愛の人のところへ導きなさいと言った。すでに王妹殿下は彼と三人の姫君が巡り合うように仕向けていて、カテリナもアリーシャと出会った途端、なるほどこの方が一人目だとすんなりと受け入れた。
王妹殿下が選んだ方なら、ヴァイスラント公国の王妃としてふさわしい方が勢ぞろいしているはずで、カテリナが見極める必要があるのだろうかと思っていた。
つまり見極めるのは、女性の王妃としての適性ではないのだ。カテリナが始終みつめているべきなのは、お相手の女性ではなく陛下の方だ。
カテリナは息を吸って、恐る恐る進言を口にした。
「恐れ多いことですが、陛下。陛下は降臨祭の最終日に最愛の人とワルツを踊らなければなりません」
「わかっている。だからアリーシャに頼もうと思っている」
「つまりアリーシャ様をお妃にお迎えするということですね?」
カテリナは単純ではあるが愚かではなく、実はギュンターがどう答えるは薄々気づいていた。
ギュンターは至極当たり前のことのように首を横に振って言った。
「それは無理だろう。アリーシャは従兄の子どもだぞ。一回りも年下で、常識的に考えて却下だ」
「国王陛下に常識は要りません!」
何となく気づいてはいたが、カテリナは事実を突きつけられて愕然とした。
全然良しを出さない細かさ、自室にこもって黙々と書面仕事をしている国王陛下。カテリナは素直だ堅物だと褒め言葉半分呆れ半分で言われてきたが、上には上がいるのだ。
しかもこの人には、そこに慎重さという余分な年の功がついてしまっていて……十日間のうちに最愛の人を選ぶつもりがない。
カテリナは組み立てていたボードゲームが反転したような気持ちになっていた。国王陛下の恋のために全力を尽くすつもりが、国王陛下は恋をしようとしていない。
けれど一度ごちゃごちゃ考えた手順を巻き戻して頭の中を真っ白にすると、星読み博士が精霊の訪れを知らせた日のことを思い出した。
精霊が望んでいるのは、国王と最愛の人とのワルツだと博士は言った。
そのときカテリナは国王陛下にお会いしたこともなかったけれど、ああ、ワルツを踊るんだと、朝に目を覚ますように当然に受け入れた。自分たち国民は最愛の人と踊る役目はないけれど、誰だって最後のワルツは特別なものだ。
……私も最愛の人と踊ってみたいなと思ったのは、別に今は関係がなくて。
「陛下の恋、僕が叶えてみせます」
余計なお世話かもしれないが、カテリナは心底黙って見ていられなかった。
まばたきをしたギュンターの目を見返して、カテリナは言う。
「命じられてもいないのに宿を取ってきたみたいに、叱られるかもしれません。国王陛下だって恋をするのは誰に指図されるものでもないし、最愛の人なんて十日間で決められるものじゃないと思われるでしょう。でも」
カテリナはそのまっすぐな目をギュンターに向けて、決意するように告げる。
「十日間、僕はどこへでもお供します。どの扉を開けるか慎重になってしまうお立場の陛下の代わりに、扉を開き続けますから。僕は信じられなくてもいいですから、精霊の奇跡を信じてみてください。……だって建国のとき、精霊が言っていたみたいに」
その言葉を言うと乙女じみていると思って、カテリナは言葉を引っ込めた。
ギュンターはカテリナを見上げたまま硬直したようで、少しの間黙っていた。
やがてぷっと吹き出して、いたずらっぽく目配せする。
「「最愛の人は、勇気を持って開いた扉の向こうであなたを待っている」。君は意外とロマンチストらしい」
ギュンターが笑いながらからかうので、カテリナは赤面して言い返す。
「誰だって最愛の人に巡り合いたいと思うでしょ!」
そのとき、一つだけ開いた窓から初夏の香りのする風が通り過ぎた。
二人顔を見合わせたまま時が止まったみたいに沈黙して、二人ともその正体がわからなかった。
ヴァイスラントではそういう沈黙を、精霊が通り過ぎた時間と言う。精霊がくすくす笑いながら見ていて、奇跡を与えてくれる前触れだという。
「……まあいいか」
ギュンターは席を立って、気まずさをごまかすように数歩歩きながら言った。
「マリアンヌの手前もあるし、サロンには行こう」
「では……」
「ただし」
ギュンターはカテリナの顔の前に指を立てて言った。
「ここでの仕事は続けるからな。君の書類で直したいところはまだ山ほどある。側を離れないように」
「はい!」
顔を輝かせてうなずいたカテリナと、少しばつが悪そうな顔をしたギュンターを、夏の香りの風は笑いながら外へと呼んでいた。
降臨祭の二日目に国王陛下がそのサロンを訪れるのは、誰でも予想の上でまるで公式行事のようだった。
王城の中庭に面した広々としたテラスに雑多な人々が行き来するのは、濁らない川の流れにたとえられる。そこでは堅苦しい芸術や学問より、日々愉快に過ごすための楽しみが集められている。
誰よりも遊興を愛し、楽しいことの前では誰しも貴族と微笑むそのサロンの女主人、その名をローリー夫人という。
ギュンターがカテリナを伴ってサロンに足を踏み入れたとき、ローリー夫人は席を立ち上がって滑るように国王陛下の前に参上した。
「陛下、よくいらしてくださいました。……と申し上げたいところですが、少々遅かったようです」
「降臨祭二日目にして、私は何かに乗り遅れてしまったのだろうか」
「乗り遅れたのは我々臣下の方です」
豊穣の母神にたたえられるローリー夫人は、はちみつ色の肌に銀髪という神秘的ないでたちをしていて、彼女の吸い込まれるような瞳でみつめられて否と言える男性はいないと言われている。
「降臨祭の最終日、陛下がどなたと踊るかは全国民の関心事で、私も及ばずながらこの慶事を盛り上げていたのですが」
「君は確か、賭け事はしないとご夫君に誓ったのではなかっただろうか」
「何せ建国以来の祭典ですから」
「賭けたんだな」
その浮世離れした風貌としっとりとした話し方に反して、彼女は溢れんばかりの庶民的関心を持っている。その世俗への愛が彼女のサロンに国一番のにぎわいを招いていた。
ローリー夫人は美酒を口にしたように嘆息して言った。
「二日目にして急上昇、まるで彗星のようです」
少女のように瞳にきらめきを宿して、ローリー夫人は壁際で控えていたカテリナを見やった。
「思えば精霊は、最愛の人は姫君とは一言も言っていませんでした。私も目を開かされる思いがしましたわ」
「待ってくれ。人の嗜好はそれぞれだが、君の嗜好に私を巻き込まないでくれ」
ギュンターは眉の辺りに彼本来の不機嫌をにじませながら、かろうじて相手は貴婦人と思いとどまる。
いつの間にそんな誤解がはびこったのか思い返したが、思い当たることばかりだった。ギュンターは降臨祭の前日も合わせるとここ三日間、片時もカテリナを側から離していない。
いやそれは、優秀なのに方向性をまちがえているそこの新米騎士をどうにか育成しようとしていたのであって、始終いらだちと爆発一歩手前の感情を行き来していた。好きで一緒にいたのではなく、ましてあちこちではびこったと思われる娯楽劇場のような幕はなかった。
「こんなに扱いに困る部下がいたことがなかっただけだ」
常に首根っこを押さえていないと不安だっただけで、断じて可愛がっていたわけではないと主張する。
カテリナを振り向くと、当の本人はまんまるな目できょとんとしていた。貴婦人方の妄想に利用されたことをわかっていないのか、自分に集中する視線にも不思議そうに首を傾げていた。
……可愛くはないと念のためもう一度心の中で繰り返して、ギュンターがカテリナから目を逸らしたときだった。
ローリー夫人は底の見えない微笑みを浮かべて扇を広げる。
「きっと陛下はそう仰ると思って、マリアンヌ様にお伺いを立てましたのよ」
ギュンターがいぶかしげに眉を上げると、ローリー夫人はひらりと扇で手招いた。
「いらっしゃい、ウィラルド」
ローリー夫人に呼ばれて彼女に歩み寄ったのは、騎士団服に身を包んだ青年だった。
ギュンターが見たところ年齢はカテリナの少し上くらいで、新米とはもういえないが、指揮官になれるほど年を重ねてはいない。
彼は小柄でふっくらしていて、髪や仕草はあまり構っておらず、顔立ちもお世辞にも整っているとはいえない。
何より顔色があまり良くなく、思いつめたような表情をしているのが、余計に彼を陰気に見せていた。
「カティ……」
けれど困ったように彼が名前を呼ぶと、カテリナはまるでのぼせたように赤面してうつむいた。そのくせ全身で彼を気にしているのが傍目にもわかって、初恋の人の前であがっているような反応だった。
ギュンターはその反応がなぜか不愉快で、早口に問いかける。
「彼は?」
「カティさんの上官、ウィラルド士官です」
「上官? カティは私の直属の部下のはずだが」
「いいえ、カティさんはマリアンヌ殿下の命で陛下にお仕えしていると伺いました。降臨祭が終われば、ウィラルド士官の下に戻るとも」
ローリー夫人は小首をかしげて、カテリナに話しかけた。
「カティさん。マリアンヌ様はあなたが望むなら、このまま陛下付きの騎士にしてもよいと仰せですが……」
「ごめんな、カティ」
ウィラルドはローリー夫人を押しのけるように言葉を挟んだ。
「俺がいい上官でなかったのはわかってる。いつもいらついてて、やりにくかったよな。細かいところにもケチつけるわりに、どうすればいいのかは指示できなくて」
「いいえ!」
カテリナはぱっと顔を上げてウィラルドに歩み寄る。
「僕がやりにくい新人だっただけです。ウィラルドさまは一生懸命指導してくださいました。それに、ウィラルドさまと僕は仕官学校で一緒だったから、上司と部下という立場にうまくなじめなかっただけで」
カテリナは首を横に振ると、つっかえながら言葉を口にする。
「ウィラルドさまを尊敬しています。ウィラルドさまの部下として働いた日々は幸せでした。降臨祭が終わったら、僕は……」
その先に続く言葉を聞きたくなくて、ギュンターは反射的に視界からカテリナを追い出そうとした。
彼が自分の部下であるのは、あくまでマリアンヌに命じられたからであって、しかも期限付きなのだ。
彼が自分をどう思っているかを、どうして考えなかったのだろう。考えてみたら祝祭の最中に来る日も来る日も書面仕事、それを自分は叱ってばかりで労ったことがあっただろうか。
「……まだこれはお話しするときではないと思います」
けれどカテリナはどこかあきらめたように言葉を切って、その先を告げることはなかった。
カテリナは気持ちを切り替えるように顔を上げてみせると、ギュンターには向けない親密さでウィラルドに話しかけた。
「心配してくださったんですね。でも陛下の元で働くのは、毎日驚くことばかりですけど、楽しいです」
カテリナはうなずいて約束するように言った。
「今は命じられた任務を精一杯果たしてみせます。僕は騎士ですから」
ウィラルドはうなずき返して、そうだよな、とつぶやいた。
「うん。カティらしい。わかったよ」
ウィラルドはカテリナのすぐ目の前まで歩み寄ると、ぽんとカテリナの頭を叩いて言った。
「俺、祝祭の間このサロンにいるから。困ったら頼ってくれよな」
「……ウィラルドさま」
顔を赤くして口の中で彼の名前を呼んだカテリナには、ギュンターを除いてサロン中から応援のまなざしが贈られたのだった。
カテリナには徒歩圏内に実家があるが、普段は王城の騎士団宿舎に住んでいる。
体を壊さないように夜は早く寝るんだよと教えた父の言葉を忘れたわけではないが、同僚が避ける夜勤は自分から取りに行った。ただ、体を壊さないだけの自己管理も生真面目に実行していた。
きちんと時間になったら夕食と仮眠を取り、間食もせず、王城をひととおり見回る以外は宿直室から一歩も出ない。まさかカテリナに限って勤務中にお酒を飲むはずもなく、普段後回しになっていることをしようと、夜勤中は要らない紙とまだ使える紙をより分けて縛る単純作業をするのが日課だった。
そんなカテリナであったので、王城で夜を明かすのは慣れている。ただし完全に仕事に励んでいるのであって、同じ頃同じ建物の中で夜遊びに励む方々がいることは知らなかった。
夜遊びの中心地、そこが王城の一角、昼間はローリー夫人のサロンと呼ばれている居酒屋ローリーである。
女主人ローリーは昼間と同じくどんな来客も快く迎えて、彼らの話を聞いてくれる。
「そうね、いろいろあるわね」
もっとも、出入りしていた子女たちが家に帰った後は、いい年した大人たちが子どものような顔をしてローリー夫人に甘えにやって来るのだった。
ローリー夫人はそのしとやかな話しぶりで、客人たちにささやく。
「でも奥さまにも言い分があると思うのよ。たとえば寂しいとき、どんな風に手に触れたか覚えていらっしゃる?」
ローリー夫人が傾けたグラスの中で、黄金色の酒気が揺らぐ。カテリナは飲んだことがないが、麦で出来た大人のお茶らしい。
「女性は変化に敏感なのよ。殿方は変わらないものを求めがちだけど、長い時を共に過ごす伴侶を同じ形に縛るなんて無骨なことはおやめなさいな」
カテリナはうなずいて、身を乗り出して次のローリー夫人の言葉を待った。
そのやりとりの一部始終は隣のテーブルに席を置いたギュンターとカテリナも耳にしていた。
「カティ、メモは取らなくていい」
ギュンターが事も無げに告げて、カテリナは不満げに彼を見上げた。
「そろそろ本題ですよ」
「夫婦喧嘩に本題も閑話休題もない。ローリー夫人も適当に相槌を打ってるだけだ」
カテリナが目を戻すと、確かにローリー夫人の前に座った男爵の愚痴は娘の婿のことに移っていた。それもまもなく隣に座った別の男性の声が重なって、カテリナも話の筋を追うことができなくなる。
昼間のサロンはテーブルを囲んで椅子が花びらのように並べられているが、居酒屋ローリーは椅子もまばらに置いてある。灯りも控えめで、貴婦人方のおしゃべりも聞こえてこない。時々軽食を運ぶ給仕が回って来るくらいで人の移動もほとんどなく、心なしか時間の流れもゆっくりとしていた。
カテリナが見る限り、父が口うるさく彼女に立ち入りを禁止していた危ない場所ではなさそうだが、普段彼女を囲んでいる世界ではない。カテリナはそういう違いには気づいていて、手帳を懐にしまった。
違うというなら、国王陛下もいつもと違う。
カテリナが知る陛下はサロンに出入りする合間にでも仕事をするはずなのに、今夜の彼はまるで時間を浪費するのを楽しむように、もう一刻ほどもサロンの片隅に腰を下ろして、何をするでもなく物思いに耽っている。国王陛下という身分は背負っているので、女主人であるローリー夫人から一つテーブルが離れただけの席ではあるが、ローリー夫人も国王陛下を特別に扱っているわけではなかった。
カテリナは夜勤の間に暇に任せて紙の束をより分けたように、普段ならさほど関心を持っていないことを思い出していた。
いつかの娯楽新聞、そこにローリー夫人の特集があった。彼女の銀髪とはちみつ色の肌は、彼女の母が不義を犯したからといわれていた頃があったのだそうだ。
実際は祖母に辺境の血が入っているからなのよ。それで破談になった縁組もあったけれど、切れた縁の代わりに夫と出会えたと思うと、精霊に見放されてはいなかったみたいね。ローリー夫人自身はそう話していて、出生の逸話も話題の一つにしかしていなかったから、その記事を読んだカテリナも気に留めていなかった。
ふいにギュンターは頬杖をつくのをやめて、ローリー夫人に声をかけた。
「もう二年になるのか」
ギュンターが告げた言葉は、カテリナには独り言のように聞こえた。
「君がローリーの名を手放しても、ヘルベルトが君を責めるとは思えない」
国民の多くは彼女の夫が船旅に出たきり失踪したことを知っている。
新聞記者でさえご夫君のことを大きく書かないくらいには、ヴァイスラントの国民は彼女を気遣っていた。
だからギュンターの独り言は、ヘルベルト・ローリー将軍を盟友としていた国王陛下でなければ、誰も口にする日が来なかった言葉だったかもしれなかった。
ローリー夫人が話していた、破談になった縁組。カテリナは要らない紙により分けた娯楽新聞は、本当に要らない情報だったのか考えていた。
ギュンターがローリー夫人をみつめるまなざしが今も優しいのは、彼女が親友の妻だからなのか、それとも破談になった元婚約者だからなのか。
ローリー夫人はギュンターの言葉に苦笑してみせた。
「あなたは優しいわね。……だから嫌い」
ローリー夫人は柔らかい棘のような声色でギュンターを刺して、あとは彼の方を見ることなく他のテーブルのところに向かった。
カテリナはギュンターとローリー夫人の間に広がった距離をみつめながら、そこに一度ねじれた縁を見ていた。
精霊は人の知らない基準で恋を取り上げてしまうことがあるらしい。
そっと元に戻しておいてくれることもあるらしいけど、どういう基準なのかな。カテリナはうつむいて、難しい問題に考え込んだ。
ギュンターはふとカテリナの様子を見て言った。
「どうした、カティ。酔ったか」
カテリナはギュンターに返事をしようとしたが、その前に下を見て言葉を引っ込めた。
もし陛下が今もローリー夫人が好きだとしたら、最後のダンスの相手になれる。カテリナの望む仕事の完成形のはずなのに、どうしてかそれはカテリナの中で少しもやがかかっていた。
「カティ?」
ここは普段の執務室とも違うせいか、陛下も知らない人のように見えた。灰青の瞳が仕事中のように張りつめていなくて、かける声もなんだか優しい。
たとえば足を組んでグラスを持つ姿が精悍だと思っても……思うだけ損な気がして、カテリナは目を逸らした。
ギュンターはカテリナの顔を覗き込んで眉を寄せる。
「本当に体調が悪いのか?」
「申し訳ありません、陛下」
手を伸ばしたギュンターの前に、部屋の隅で様子をうかがっていたウィラルドが助け舟を出すように割って入った。
「カティはこういう場は慣れていないものですから。お酒も飲めないんです」
カテリナの肩に触れようとしたギュンターの手が、つかむものを失って宙に浮く。ウィラルドはカテリナの肩を抱いて椅子から立たせると、下からうかがいを投げかける。
「退出させても構いませんか?」
「体調が悪いなら……」
ウィラルドは一礼して、それ以上のギュンターの言葉を待たずに踵を返す。
顔を伏せて連れられて行くカテリナは体調が悪そうだったが、ギュンターはウィラルドがカテリナを見下ろす目が不愉快だった。
ギュンターの視線に気づいたのかウィラルドは顔を引き締めたが、大丈夫だよ、俺がついてると言ったときは、上司というより男性に近い声色だった。
ローリー夫人は後に残されたギュンターがウィラルドと同じ表情をしていたことに気づいていたが、大人の事情で黙っていたのだった。
カーテンごしに白い光を浴びて大きく伸びをしてから、カテリナは清々しい朝の空気を吸い込んだ。
物心ついてからというもの、およそ高い熱を出したこともなければ寝込んだこともないカテリナ、その健康の秘訣は事が大きくなる前の察知能力と、潔い撤退にあった。カテリナの大きく澄んだ心の目は自分の体に負荷がかかっていることを誰より早く見抜き、どんな楽しみがあろうと予定があろうと、布団をかぶって寝る健康第一習慣を身に着けていた。
慣れない陰の空気、好きじゃない酒の匂いを感じたときから、歯向かうのも鬱屈するのもやめた。そういう自分に、ちょっとだけ呆れることもある。
自分は事が起こったときに戦えないんじゃないかな。本当は騎士に向いてないのかもしれないと。
カテリナの上の二段ベッドでもぞりと動く気配がして、カテリナに声が投げかけられる。
「カティ、起きた?」
カテリナはここが騎士団寮の自室だと気づいて慌てた。騎士団は女人禁制ではないが、男として入隊した以上、本来の性別を知られるわけにはいかない。
カテリナはほとんど平らの胸の一番上までボタンが留まっているか一応確認すると、ベッドに下がるカーテンの隙間から顔を出して言う。
「おはようございます。ウィラルドさま、昨日はありがとうございました」
二段ベッドの上で、ウィラルドは気安く笑って返す。
「やめてくれよ。今の俺はカティの上官じゃないんだから」
ウィラルドは器用に片方の眉だけ上げて、ふと気づいたように顎をしゃくって何かを伝えてきた。
胸は見えていなかったが、はだけた肩に下ろした黒髪がそのまま流れていた。カテリナの体型は無理に偽らなくとも少年じみているが、光を抱いているような豊かで滑らかな黒髪は成長するにつれて女性的になっていて、普段はなるべく小さくなるように縛って、帽子の中に隠していた。
カテリナには、髪だけでは性別はわからないと言い切れる自信がない。一瞬ウィラルドが困ったように目を逸らしたために、カテリナの中に焦りがこみあげた。
「着替えます。すぐ終わりますから」
「いいよ。焦るな」
また伸びてきちゃった、そろそろ色も染めないといけないと思いながら、カテリナは慌てて着替えを始めた。
カーテンに囲まれた限られた空間で手早く着替えるのは慣れているが、誰か様子を見に来たらと思うときはあった。学生の頃はもっと無遠慮にお互いの部屋に入り込む同級生もいたのに、その焦りは年々増している気がする。
「大丈夫だよ、カティ。この年で着替えなんて覗く奴いないよ」
カテリナは、たぶんウィラルドには本来の性別を知られているとわかっていた。
ウィラルドとカテリナは、学生時代からずっと同室で寝食を共にしてきた。頑なにいつもカーテンを引いて二段ベッドの下にこもり、着替えをするカテリナを見てきて察しがつかないほど、ウィラルドは周りが見えない人じゃない。
もしかしたら同僚たちだって知っているのかもしれないが、誰もカテリナにそのことを言わなかったし、貶めるようなこともしなかった。ちょうど平和な時代に生まれたのを誰に感謝すればいいのかわからないように、カテリナは誰一人名乗りを上げずに今の彼女のままでいさせてくれたことを周りに感謝している。
いつまでそういう周りの優しさに甘えているの? 時々カテリナの中には後ろめたさが飛来して、心を刺す。
父との関係を伏せている人は他にもいるだろう。騎士になったことだって、それ自体が悪いこととは思わない。けれどそういう選択を取ってきたカテリナをずっと心配してきた人を、カテリナは確実に一人知っている。
「そういえば最終日は実家に帰るんだってな。親父さんが喜ぶよ」
ウィラルドの言葉に、カテリナは喉元のボタンを留める手を一瞬だけ止めた。
誰に何を返せばいいのかはわからない。でもカテリナは父にだけは、いつか自分にできる精一杯の贈り物を返したいと思っていた。
一度息を吸ってボタンを留めると、カテリナはうなずいて、カーテンを引いた。
「……僕は最後のワルツを誰と踊るかは、もう決めてるんです」
ウィラルドが問い返す前に、カテリナはいつもの騎士団服を一分の乱れもなくきちんと着て、二段ベッドの脇に立っていた。
「仕事に行ってきます!」
晴れやかに宣言して敬礼をすると、カテリナは駆け足で寮を出た。
祝祭の最後の日に、自分は性別を明かそう。父との関係も周りに明らかにしよう。
……その結果騎士をやめなければいけないことになっても、それは星が決めた運命なのだから、受け入れて次の道に走り出そう。
四階まで階段を上り回廊を渡り、顔なじみになった近衛兵に敬礼して、その部屋をノックする。
返事がなくて近衛兵を振り向いたが、彼はどうぞと合図を送ってきた。カテリナは首をかしげながら陛下の自室に立ち入る。
いつになく早い時間だからまだ眠っている可能性も想像したが、ギュンターは既に自席に着いて書面仕事をしていた。
カテリナはあいさつを口にして席につけばよかったのに、余分な一言も付け加えた。
「おはようございます。朝食は召し上がったのですか」
反射的に心配したのはカテリナの職務ではないし、陛下に失礼な一言かもしれなかった。
けれどカテリナはつい思ってしまった。この人、誰か止めないと体を壊すんじゃないだろうか。自分がこの任を離れた後、ちゃんと止めてくれる人はいるんだろうか。
「体調は良くなったのか」
そんな心配は余計なお世話だとわかっていたけど、それを言うなら開口一番問われたことだって、別に彼が言わなくてもいいことのように思った。
一騎士が国王陛下の最愛の人を決められるはずもなく、彼がもう決めてしまったカテリナの選択を変えられるとも、もちろん思わなかった。
ギュンターはカテリナのすっきりした顔を見て安心したようで、カテリナの答えを聞くことなくうなずいた。
「あまり時間がない。今日は星読み台へ向かう仕事があるからな。急いで事務仕事を片付けるぞ」
けれどカテリナにはあと八日間、陛下の最愛の人を見極める仕事があって、祝祭の後のカテリナの未来は精霊だけが知っている。
カテリナもうなずき返してギュンターに答えた。
「お望みのとおりに」
もしかしたらふいに星が降るように小さな奇跡が待っているかもしれないと信じて、カテリナは今日も自分の席につく。