前国王の仕掛けた馬鹿騒ぎがひと段落した頃、中央広場から少し路地に入った商店街のテラスで、人々はこんがりと焼きあがったとうもろこしとお茶で一服を始めた。
辺境の特産物であるとうもろこしと麦のお茶は、麦のお酒と共に王都でも愛されている。カテリナも夏になると辺境で暮らしている祖父母がたくさん送ってくれるので、屋敷のみんなとおいしくいただくのが定番だった。
しかしギュンターを始めとしたその席の面々はお茶ととうもろこしに手をつけないまま黙っていた。代表としてギュンターが神妙に口を開くまで、立ち入りがたい空気が漂っていた。
「つまり船が難破して半月後には辺境に移り住んでいたんだな」
人々もちらちらと見ているように、国王陛下の休息所として選ばれたレストランのテラスだけは別世界だった。辺りにはとうもろこしとバターが程よく焦げる匂いが立ち込める中、おごそかな事実確認が行われていた。
「名前も身分も偽って、裏街で商いをしていたと」
国王陛下が向き合っているのはヘルベルト・ローリー、彼は行方不明になる二年前までは将軍の地位にあって、国王陛下の盟友でもあった。着任の間は戦争がなかったので軍功こそないが、カテリナの生まれる前に終わった隣国との戦争の後片付けに尽力した人物で、英雄といえばゲシヒト総帥、陰の功労者といえばヘルベルト将軍と並び称されていた。
ふいにギュンターはひとつため息をついて、国王からの指摘というよりは友人の苦言の口調で言った。
「……どうしてもっと早く帰ってこなかったんだ」
ヘルベルトは顔を上げて何か言いかけたが、不自然な距離を空けた隣に座るローリー夫人を横目で見てばつが悪そうな顔をした。その仕草を見て、ギュンターは言葉を続ける。
「一儲けすると言って出航したのに船ごと財産を失って格好がつかなかった、とか言うなよ」
「悪い。半分はそうだ」
「お前な」
「半分はまともな理由もあるんだ!」
呆れ調子で文句を言いかけたギュンターに、ヘルベルトは力を入れて言い返す。
「辺境は海の向こうに近いんだ。精霊の子どもたちの土地がすぐそこなんだ」
ヘルベルトが口にした隣国の呼び名を聞いて、ギュンターは友人が隠れていた理由をやっと理解できた気がした。
かつて戦争に突き進んだ隣国は、ヴァイスラントに敗北宣言をしたのと共に、精霊界にも全面的に門戸を開いた。ギュンターが先日体験した夏の怪奇現象のようなことは日常茶飯事で、動物が話しだすこともあれば、時々は死者も帰って来るのだという。
隣国は境界を越えてしまった。もう自分たちと一緒には暮らせない。ヴァイスラントの人々は亡くした人を想うような寂しさをもって、隣国の人々を見送った。
ギュンターも、隣国の選んだ道は国家や人間としてはもう共存できないと思っている。けれど精霊の子どもたちが自分の心に反したことはできないように、隣国の人々が心のままに選んだ境界の無い世界の生活を否定するつもりもなかった。
ヘルベルトは夢を見るように言葉を続ける。
「二年間、将軍って名前で行ってた頃とは全然違う世界だったんだ。……心配をかけたことはわかってるけどさ」
ヘルベルトはローリー夫人を気にしながら声を小さくした。ギュンターは、そういえば友人はこういう男だったとひっそりとため息をついた。
どこまでも情熱的、ただその熱っぽさのせいでいつまでも少年の心を捨てられず、ギュンターと一緒に学問に励んでいた頃から規則違反ばかりして教師に叱られていた。大人になってからもその基本は変わらず、実際に戦争が起こったらまちがいなく軍法違反で処罰されるとギュンターも心配していた。
どうしたものかとギュンターは口には出さずに頭を悩ませた。二年間国王にも連絡なく無断欠勤したこと、海の向こうには厳正な手続きを取ってから渡らなければいけないところ無断で行き来していたこと、裏町で商いとごまかしたが要するにグレーな仕事をしていたこと、ヘルベルトが処罰される理由は山ほどある。
ギュンターはうなってから口を開く。
「お前は筆頭貴族ローリー家の子息だろう。一族にも仕えてくれる者たちにも責任がある……と私が裁判をする前にだな」
ひとまずギュンターは国王としても友人としても言っておかなければいけないことを言って、同席したものの未だ一言もない女性を見た。
「ローリー夫人。この件で一番ご迷惑とご心配をかけられただろうあなたが、今どう思っていらっしゃるか教えてください」
意見を求められて、黙って夫をみつめていたローリー夫人はうなずいた。ヘルベルトは露骨に肩を緊張させて、子どもが叱られる前のように膝を閉じてローリー夫人をそろりと見返した。
ローリー家は数々の宰相や将軍を輩出してきた名門貴族だ。しかし妻より二つ年下で、屋敷から出発する前には必ずシャツの襟を妻に直されていたというヘルベルトは、結構な数の国民が知っているとおり妻にまったく頭が上がっていなかった。
その妻と夫の力関係のまま、ローリー夫人が怒るなり泣くなりしたら、ヘルベルトも少しはその子どもじみた性格を直したのかもしれない。
ローリー夫人は息を吸って、じろりとヘルベルトを見やる。
「言いたいことはたくさんあるし、後で言うけど」
ローリー夫人はそう断ってから、憮然として両手を差し伸べた。
「……抱きしめて」
ヘルベルトの方が泣きそうな顔で、毎度新婚夫婦の熱の冷めやらぬ二人は、子どもじみた方法で仲直りするのだった。
その一部始終を眺めていたギュンターは、ローリー夫人に最後のダンスをお断りされるのは確定だと思いながら、それでよかったと感じていた。
精霊が望むのは国王と最愛の人とのダンスだが、女性の側からも国王が最愛の人、世間で言う両想いこそが降臨祭の最後にはふさわしいとギュンターだって思う。
ただ、ギュンターははた迷惑な二人の復縁劇を前にして、自分も最愛の人と、こういう馬鹿馬鹿しいくらいのあっけなさで結ばれるのを夢見た。
まったく今の状況では夢見ているだけなのだが、実は十日間くらいその夢は見ている。
カテリナがそっと歩み寄って来て、ギュンターに何かを差し出してくる。
「陛下、使ってください」
目元を押さえて沈黙したギュンターに何を勘違いしたのか、カテリナが渡そうとしたのはハンカチだった。
「要らん。泣きたいのは本当だが」
俺も理由さえ立てば、力いっぱい抱きしめたい人はいるんだがな。
つい三白眼でカテリナをにらんでしまってから、ギュンターは毎度反省するのだった。
辺境の特産物であるとうもろこしと麦のお茶は、麦のお酒と共に王都でも愛されている。カテリナも夏になると辺境で暮らしている祖父母がたくさん送ってくれるので、屋敷のみんなとおいしくいただくのが定番だった。
しかしギュンターを始めとしたその席の面々はお茶ととうもろこしに手をつけないまま黙っていた。代表としてギュンターが神妙に口を開くまで、立ち入りがたい空気が漂っていた。
「つまり船が難破して半月後には辺境に移り住んでいたんだな」
人々もちらちらと見ているように、国王陛下の休息所として選ばれたレストランのテラスだけは別世界だった。辺りにはとうもろこしとバターが程よく焦げる匂いが立ち込める中、おごそかな事実確認が行われていた。
「名前も身分も偽って、裏街で商いをしていたと」
国王陛下が向き合っているのはヘルベルト・ローリー、彼は行方不明になる二年前までは将軍の地位にあって、国王陛下の盟友でもあった。着任の間は戦争がなかったので軍功こそないが、カテリナの生まれる前に終わった隣国との戦争の後片付けに尽力した人物で、英雄といえばゲシヒト総帥、陰の功労者といえばヘルベルト将軍と並び称されていた。
ふいにギュンターはひとつため息をついて、国王からの指摘というよりは友人の苦言の口調で言った。
「……どうしてもっと早く帰ってこなかったんだ」
ヘルベルトは顔を上げて何か言いかけたが、不自然な距離を空けた隣に座るローリー夫人を横目で見てばつが悪そうな顔をした。その仕草を見て、ギュンターは言葉を続ける。
「一儲けすると言って出航したのに船ごと財産を失って格好がつかなかった、とか言うなよ」
「悪い。半分はそうだ」
「お前な」
「半分はまともな理由もあるんだ!」
呆れ調子で文句を言いかけたギュンターに、ヘルベルトは力を入れて言い返す。
「辺境は海の向こうに近いんだ。精霊の子どもたちの土地がすぐそこなんだ」
ヘルベルトが口にした隣国の呼び名を聞いて、ギュンターは友人が隠れていた理由をやっと理解できた気がした。
かつて戦争に突き進んだ隣国は、ヴァイスラントに敗北宣言をしたのと共に、精霊界にも全面的に門戸を開いた。ギュンターが先日体験した夏の怪奇現象のようなことは日常茶飯事で、動物が話しだすこともあれば、時々は死者も帰って来るのだという。
隣国は境界を越えてしまった。もう自分たちと一緒には暮らせない。ヴァイスラントの人々は亡くした人を想うような寂しさをもって、隣国の人々を見送った。
ギュンターも、隣国の選んだ道は国家や人間としてはもう共存できないと思っている。けれど精霊の子どもたちが自分の心に反したことはできないように、隣国の人々が心のままに選んだ境界の無い世界の生活を否定するつもりもなかった。
ヘルベルトは夢を見るように言葉を続ける。
「二年間、将軍って名前で行ってた頃とは全然違う世界だったんだ。……心配をかけたことはわかってるけどさ」
ヘルベルトはローリー夫人を気にしながら声を小さくした。ギュンターは、そういえば友人はこういう男だったとひっそりとため息をついた。
どこまでも情熱的、ただその熱っぽさのせいでいつまでも少年の心を捨てられず、ギュンターと一緒に学問に励んでいた頃から規則違反ばかりして教師に叱られていた。大人になってからもその基本は変わらず、実際に戦争が起こったらまちがいなく軍法違反で処罰されるとギュンターも心配していた。
どうしたものかとギュンターは口には出さずに頭を悩ませた。二年間国王にも連絡なく無断欠勤したこと、海の向こうには厳正な手続きを取ってから渡らなければいけないところ無断で行き来していたこと、裏町で商いとごまかしたが要するにグレーな仕事をしていたこと、ヘルベルトが処罰される理由は山ほどある。
ギュンターはうなってから口を開く。
「お前は筆頭貴族ローリー家の子息だろう。一族にも仕えてくれる者たちにも責任がある……と私が裁判をする前にだな」
ひとまずギュンターは国王としても友人としても言っておかなければいけないことを言って、同席したものの未だ一言もない女性を見た。
「ローリー夫人。この件で一番ご迷惑とご心配をかけられただろうあなたが、今どう思っていらっしゃるか教えてください」
意見を求められて、黙って夫をみつめていたローリー夫人はうなずいた。ヘルベルトは露骨に肩を緊張させて、子どもが叱られる前のように膝を閉じてローリー夫人をそろりと見返した。
ローリー家は数々の宰相や将軍を輩出してきた名門貴族だ。しかし妻より二つ年下で、屋敷から出発する前には必ずシャツの襟を妻に直されていたというヘルベルトは、結構な数の国民が知っているとおり妻にまったく頭が上がっていなかった。
その妻と夫の力関係のまま、ローリー夫人が怒るなり泣くなりしたら、ヘルベルトも少しはその子どもじみた性格を直したのかもしれない。
ローリー夫人は息を吸って、じろりとヘルベルトを見やる。
「言いたいことはたくさんあるし、後で言うけど」
ローリー夫人はそう断ってから、憮然として両手を差し伸べた。
「……抱きしめて」
ヘルベルトの方が泣きそうな顔で、毎度新婚夫婦の熱の冷めやらぬ二人は、子どもじみた方法で仲直りするのだった。
その一部始終を眺めていたギュンターは、ローリー夫人に最後のダンスをお断りされるのは確定だと思いながら、それでよかったと感じていた。
精霊が望むのは国王と最愛の人とのダンスだが、女性の側からも国王が最愛の人、世間で言う両想いこそが降臨祭の最後にはふさわしいとギュンターだって思う。
ただ、ギュンターははた迷惑な二人の復縁劇を前にして、自分も最愛の人と、こういう馬鹿馬鹿しいくらいのあっけなさで結ばれるのを夢見た。
まったく今の状況では夢見ているだけなのだが、実は十日間くらいその夢は見ている。
カテリナがそっと歩み寄って来て、ギュンターに何かを差し出してくる。
「陛下、使ってください」
目元を押さえて沈黙したギュンターに何を勘違いしたのか、カテリナが渡そうとしたのはハンカチだった。
「要らん。泣きたいのは本当だが」
俺も理由さえ立てば、力いっぱい抱きしめたい人はいるんだがな。
つい三白眼でカテリナをにらんでしまってから、ギュンターは毎度反省するのだった。