陛下、恋をするならご令嬢に!~国王陛下は男装の騎士を片時も離さない~

 夜勤明けの朝はいつもより遅くとも許されているのだが、その日はカテリナが目を覚ましたときもまだ暗かった。
 起きる時間をまちがえてしまったのだろうかと窓を開けて中庭の花時計をのぞいたが、陽射しがまったく照っていないからか何の時間も示してはいなかった。雨も降っていなければ風も吹いていないのに、空は塗りつぶされたように黒く、不気味なくらいに辺りは静かだった。
 騎士団の詰め所を見に行くと、昨夜の馬鹿騒ぎが利いたのか同僚たちは雑魚寝状態で眠っていた。カテリナは彼らを起こさないようにそっと扉を閉めて詰め所を後にすると、宿直室に戻った。
 食堂はもう閉まっている時間のはずなので昨日買いだめしたパンで朝食を終えて、支度を整えて上層階に向かった。
 昨日、国王陛下から王城に勤める者たちに事実上のお休みが言い渡されたからなのだろうが、それにしても誰ともすれ違わないのは奇妙だった。あちこち通行止めで遠回りをしたからか、カテリナの知る王城でもないようだった。
 水槽の中を歩くような、どこか現実味のない気分で陛下の執務室に入ると、陛下だけは普段通りに仕事をしていた。
 カテリナは当たり前の光景に安心して、あいさつの声をかけようとしたところで立ち止まる。
 普段、カテリナが隅の机とセットで使っている椅子が、陛下の机の前に移動していた。今日はその椅子にかけて陛下の前で仕事をしている女性がいた。
 王妹マリアンヌは陛下と言葉を交わすでもなく、分け隔てなく国民に見せる微笑もなく、ただ事務的に書類に加筆しては陛下に返していた。対する陛下も、マリアンヌの顔も見ずに書類を受け取り、手短に書類に目を通しては印を押すという動作を繰り返していた。
 カテリナは恐ろしく素早く、感情を挟まない国王陛下と王妹殿下の執務風景を今初めて見たわけではなく、二人が良き仕事のパートナーであることは知っていた。ただ王妹マリアンヌは普段、国王陛下から外交を任されて大使たちの相手をしているから、こうして机に向かって国王陛下と事務仕事をしているのは珍しかった。
 カテリナが声をかけられなかったのは、そこに兄妹の無二の信頼を見ていたからだった。マリアンヌが諸外国に誇る才媛であるのはずっと知っていた。けれど国王陛下が自分に一番近い椅子を誰のために用意しているのか、突然理解したのだった。
 そうだった、私に対するようにイライラする必要も、言葉を尽くして教える必要もない。……王妹殿下は、生まれながらの姫君だもの。
 ふいにギュンターが顔を上げて、立ちすくんでいたカテリナを見た。
「おはよう。カティ、危ないところを通ってこなかっただろうな」
 今空を覆う雲のようにカテリナが重い気持ちに押しつぶされそうになっていたとき、ギュンターが苦笑交じりに声をかけた。
 まるで子ども扱いの言葉に普段ならむっとするはずが、はいとだけ答えて、カテリナはしょげて壁際に立った。
 ギュンターはそんなカテリナに一瞬眉を上げたものの、席を立ったマリアンヌに目を移して言う。
「おっと、そろそろ昼だったか」
「ええ。風も出てきたようです。私は今のうちに自室に戻りますが……」
 マリアンヌはふと窓の外を見て足を止めて、何事か思いをめぐらしたようだった。
「何か見えたか?」
 問いかけた兄に、マリアンヌは考え事から覚めたような顔をして、首を横に振って微笑む。
「何でもありません。では、陛下。夜勤明けのカティさんにあまり無理をさせないよう」
 マリアンヌはいつも通りの気配りを見せた後、悠として去っていった。
 十年に一度の大きさの嵐という星読み台の知らせは確かなようだった。マリアンヌが去ってまもなく、窓を激しい雨が打ち、王城自体も風にあおられて少し揺れ始めた。
 普段晴れ晴れとしたカテリナの心の中も、自分が座っている席が本来自分の席ではないと思うにつけ、曇り空が一向に晴れなかった。
「カティ、どうした。意見したいときは言えばいいんだぞ」
 ギュンターが以前なら苛立つところでぎこちない声音で言ったことも、やっぱり自分は未熟なんだと落ち込んだ。
 ギュンターはじろりとカテリナを見て言う。
「そろそろわかっていると思うが、俺は言われなければ気づかない人間なんだ。そんな俺でも最近気づいたが、君は呑みこんだ言葉がたくさんあるな?」
 彼は目を上げて揺れたカテリナの目をとらえると、仕事の話をするようでそうでもないことにも触れた。
「君は言わないだけで思ってることがたくさんあるはずだ。もっとそれを口に出していい」
 そう言われて、カテリナはなんだかむずかゆい感情に背中を押された。カテリナには子どもの頃から周りに隠していることがたくさんあったから、素直な反面、自分を守るために言葉を呑み込む癖もあった。早いうちから父に心配されていたそれを、出会って十日も経たないギュンターにも気づかれていると思うと、少し怖いようでうれしくもあった。
 カテリナは一度うつむいてぽつりと言う。
「マリアンヌ様のように陛下を支えられる方は、きっと他にいないのだと思って」
「マリアンヌ?」
 思わずカテリナが心に抱いた言葉をそのまま見せると、ギュンターはまったく想像していなかったことを言われたように目をまたたかせた。
 カテリナが黙ってうなずくと、カテリナがどういう意図でそれを告げたのかギュンターにも伝わったらしい。
 ギュンターはぷっと吹き出して、頬杖をついて言う。
「ははっ! 考えたこともなかったな。付き合いが誰より長いのは確かだが、マリアンヌは妹だぞ?」
「でも、精霊との約束は……!」
 最愛の人とのダンスなんですと、カテリナが言葉にしようとしたとき、隣室で物音が響いた。
 とっさに騎士としての役目を思い出してカテリナが隣室に走ると、今日はどこも閉じられているはずの窓が開け放たれて雨が入り込んでいた。
「殿下!」
 そこに降り込んでくる雨に濡れながら立ちすくむ姫君をみつけて、カテリナは古い記憶を思い出していた。
 今は多くの国民が忘れかかっていることだが、王妹マリアンヌは幼い頃、崩壊しかかっていた隣国から亡命してきた姫君だった。先王と先王妃は実の子と分け隔てなくマリアンヌを育て、ギュンターとシエルもそれを受け入れてきたから、マリアンヌも完全にヴァイスラントに馴染んでいるように見える。
 それでもカテリナは同じように他国からやって来た母が心に残していたものがあるのだと、父やチャールズから聞いて育ってきた。
 カテリナは雨の中に揺れるものを示して言う。
「……ツヴァイシュタットの旗が心配なんですね。私がお取りしますから、お待ちください」
 マリアンヌが食い入るようにみつめる先、そこに彼女が幼い日に隣国から持ってきた旗が揺れていた。
 ヴァイスラントの精霊は人々に好意的だが、隣国ツヴァイシュタットで信じられていた精霊は元々人間に敵対する恐ろしいものだった。隣国では、精霊が描かれた物は大切に扱わなければ人々に災いをもたらすと言われていた。
 数十の旗の中で、黒髪に青い瞳の精霊の横顔が描かれた隣国の旗は、風にあおられて今にも破れてしまいそうだった。カテリナはどうにかマリアンヌを説得して下がらせると、雨の中ベランダに出る。
 旗はベランダの外に向かってしなっていて、身を乗り出さないと手は届かないようだった。カテリナはベランダの端に移動して、少し背伸びをしながら虚空に手を伸ばす。
「カティ! 馬鹿、何をしてる!」
「大丈夫です! こういうことは得意なんです!」
 背後でギュンターの怒声が聞こえたが、雨音にかき消されそうだった。カテリナは構わずベランダから身を乗り出しながら答える。
 いつか父が母に言っていた。人が忘れ掛かっていて気に留めなくなっているものでも、誰かが大切に思っているのなら、それはまだ必要なものだから。大切なものを抱くように、手に取って守ってあげなさい。
 昔、母が隣国から持ってきた物たちを捨てられずにいたとき、父がそう言って母を受け入れたように、カテリナもマリアンヌの心を守りたかった。
「……よし。これで……!」
 やっとカテリナが旗をつかみ、引き寄せようとしたとき、頭上で雷鳴がとどろいた。
 城が大きく揺れたのと共に、世界が落ちてくるような衝撃があった。
「カティ!」
 ギュンターの腕がカテリナの体を抱えて部屋の内に引き込んだのと、どちらが先だったか。
 荒くれた風に巻き込まれて旗が折れたのを見たのを最後に、カテリナの視界も反転した。
 精霊は悪だと言われている国もあるが、星読み台を通じて精霊と長い交流をしてきたヴァイスラントでは、それは誤解だというのがほとんどの国民の考えだった。
 男女の別がなく、人より遥かに長い時を生きる精霊は、人には理解できないものを理解していることもあれば、一方で人が気にすることを全然気にしていなかったりする。精霊とすれ違う原因は、精霊が人とは違う世界にいるために、人にとっては常識のようなことを知らないためだと言われていた。
 星読み博士が言うには、精霊は幼い子どものようなところがあって、何かを一生懸命伝えようとしているのだが、その方法が独創的なので、昔は長年混乱したのだそうだ。
 カテリナがそう思っていた頃、ギュンターも遠い目をして同じことを思ったらしい。
「たぶんこれが、噂に聞く幼精のいたずらなんだな」
 ギュンターが渋い顔をしたのも無理はなく、先ほどからカテリナと彼は二人きりで国王陛下の執務室に閉じ込められている。
 精霊の仕業だとわかったのは、本来あるはずの扉も窓も消えて、側にいたはずのマリアンヌの姿が見えないからだった。
 カテリナはちょっと弾んだ声でギュンターに返す。
「「今外に出るのは危ない」って教えてくれたんですよ。さすが精霊、徹底してますね」
 カテリナも、こういうことは星読み台発行の特集新聞でも、単に夏の怪奇現象としてもよく聞かされていた。それを初体験できたことの興奮から拳を握りしめて主張すると、ギュンターは呆れ顔でぼやいた。
「喜ぶな。大体は時間が経てば解けるというが、精霊の機嫌を損ねたらどうなるか知れんぞ」
 大人しく座っていろと言いつけられて、カテリナはしぶしぶ隅の事務机に戻った。
 そうは言っても幼精は細部にはこだわらないらしく、ギュンターとカテリナの手元に書類はなかった。怪奇現象の中でも仕事をしようとした生真面目な二人の希望は打ち砕かれて、ギュンターとカテリナの間に微妙な空気が流れた。
 仕方なくギュンターの方が先に仕事をあきらめて、執務室に飾られている肖像画の前を歩く。
 先王と先王妃は数年前に生前退位して、今は辺境で田舎暮らしをしている。だからまだ肖像画には覆いがされず、ギュンターの希望で、彼と二人の弟妹、先王と先王妃の国王一家がそろった肖像画が飾られていた。
「カティ、こちらに」
 普段は背を向けている肖像画をギュンターは時間をかけてみつめると、ふいにカテリナを呼んだ。
 カテリナが側に近づくと、ギュンターは並んで描かれた自分とマリアンヌを見ながら言った。
「すまなかったな」
「え?」
「ツヴァイシュタットの旗は、俺が気づくべきことだった」
 少しの沈黙の後、それが真の精霊の狙いだとしたら相当手練れなのかもしれないが、ギュンターは普段被っている国王の仮面を外して、ただの兄の顔を見せた。
「どうして忘れていたんだろうな。マリアンヌが初めてやって来たとき、あの子はなかなか旗を手放そうとしなかった。昔から弱音一つ言わない子だったが、考えてみれば少し前までは戦争をしていた敵国に、両親から引き離されてやって来たんだ。心細くないはずがなかったのに」
 カテリナはギュンターの苦い表情に、それが国王という公の立場では言いづらいことなのだと察した。
 思い返せばマリアンヌはギュンターの私室にはほとんど出入りしなかった。アリーシャでも仕事中に訪れていたのだから、ギュンターの仕事のパートナーであるマリアンヌなら日常的に来訪してもおかしくなかった。
 カテリナは、マリアンヌが自分を初めてギュンターのところに連れてきたときも、最小限のことを告げて去っていったマリアンヌを見ている。
「聞き分けの良すぎる子なんだ」
 ギュンターは苦い声音で続ける。
「マリアンヌとは喧嘩一つしなかった。いつもマリアンヌが引き下がった。弟のシエルのように、わかりやすく反抗してはくれない」
 ギュンターは頭を押さえてうなった。カテリナは手元に握ったままの、折れたツヴァイシュタットの旗を見下ろして、たぶんそうなのだろうと思った。
 確かに王妹殿下はこの旗を気にしていることさえ口に出さなかった。たぶん幻想から覚めた後も、折れたことに文句一つ言わないだろう。
 どうしたらと考えて、カテリナはふと心によぎったことを口にしていた。
「いたずらしてみたらどうでしょうか」
 ギュンターが訝しげにカテリナを見て、彼女はひらめいた考えを続ける。
「マリアンヌ様がこの国にいらしたとき、陛下がマリアンヌ様に星の金貨を渡したニュースはみんな知ってます。マリアンヌ様が受け取らずに、列席者で一番幼かったアリーシャ様に譲ったのも話題になりました」
 カテリナは容貌といい仕草といい、どこから見ても完璧な姫君として描かれたマリアンヌを見上げながら言う。
「誰より公正で、慈悲深いマリアンヌ様をいじめてはだめです。だからちょっといたずらするだけでちょうどいい。……降臨祭の最後の日、マリアンヌ様を突然ダンスに誘ってみたらどうでしょう」
「い、いや待て」
 ギュンターは慌てて言葉を挟む。
「精霊との約束がかかった公式行事だぞ」
「心配ご無用です。精霊はそういういたずらが大好きです」
 建国のときから伝わる数々の逸話に基づいて、カテリナは胸を張って断言する。
「国民一同、前夜祭から二日間かけて踊りに踊るんですから。その間陛下が妹君と踊っても僕たち国民は全然構いませんし、それが最後の方でも、いっそ本当の最後になっても、たぶんみんな自分のダンスに夢中で気づきませんよ」
 カテリナはくすっと笑って肖像画を仰ぐ。
「降臨祭は、大切な人に言葉で想いを伝えるのが下手な人のために、精霊が特別な時間をくれるんじゃないでしょうか」
 どこかで子どもが口笛を吹くような音が聞こえて、カテリナの視界がくるりと回転した。
 精霊が見せる幻想はあるきっかけで、夢から覚めるようにあっけなく解けるという。カテリナもまばたきをしたときには、扉も窓もあるいつもの国王陛下の執務室にいた。
 そこにはマリアンヌもいて、にこにこしながらカテリナとギュンターを見ていた。
「陛下、もう大丈夫ですからお離しください」
 それより幻想の直前にそうだったようにギュンターが両腕でカテリナの体を抱き寄せていて、しかもマリアンヌの御前だった。
「あ、ああ。無事か、カティ」
「は、はい」
 ギュンターが慌てて腕を解くと、カテリナも焦りながら一歩離れてわけもなく腕をさする。
 微妙な沈黙と距離を取っている二人に、マリアンヌから声がかかる。
「ありがとう、カティ。もう少し遅ければ折れていたかもしれません」
 マリアンヌに言われてカテリナが腕の中の旗を見ると、それは雨風に濡れてはいるものの無事なままだった。
 カテリナは不思議な心地でギュンターを見やると、彼も夢から覚めたようにまじまじと見つめ返した。
「小降りになってきましたね。雨雲も、じきに海の向こうに帰るのでしょう」
 マリアンヌが雲間から差し込む光に目を細めて言う。
 降臨祭の八日目、子どもがわがままを叫ぶようにヴァイスラント中を吹き荒れた嵐は、こうして去っていったのだった。
 建国のときに精霊がまたやって来ると約束した日、それが降臨祭の最終日と決められている。
 初代国王は騒ぐことが大好きなヴァイスラントの国民性は当然知っていて、最終日から数えて十日間を降臨祭としたわけだが、公式見解では最終日以外はただの祝日だ。現在の国王ギュンターも、別段降臨祭に便乗して国民に何かの義務を課すつもりはないのだった。
 しかしそんな良心的な国王の下、ヴァイスラント国民はのびのびと降臨祭を満喫していて、いつの間にか国民の手によって公式行事を創設することに成功していた。
「ということですので、陛下。早速サロンへお出ましください」
 最終日の前日の朝、いつものように執務室で仕事を始めようとしたギュンターの下に、ある重臣が訪れて進言した。
 ギュンターはむっつりと顔を引き結んで言う。
「どういうことかわからない上に、私は忙しいのだが」
「お忙しくはないはずです。昨日、マリアンヌ様が大方片付けてくださったとのことですから」
 ギュンターが毎度心の中で舌打ちするこの重臣、ゲシヒト・バルガス総帥は、元が農夫であったとは思えないほど理詰めで動く男だった。
 ギュンターはじろりとゲシヒトを見て言う。
「何より私はその行事について聞かされていない」
「はっ……申し訳ございません! 失念しておりました」
 大いなる到達点に向けてあらゆる困難を乗り越えて進み、その過程で肝心なところをすっ飛ばすところなど、さすがカテリナの父親でもあった。
 ゲシヒトは熊のような体躯を小さく丸めて謝罪する。
「私の責任です。荷物をまとめて午後にでも辺境に帰ります」
「帰るな、卿よ。あなたにはやってほしい仕事がまだ山ほどあるんだ」
 その気概は大いに国を盛り立ててくれたのだが、未だに新米騎士並みの素直さで仕事に当たるので、ギュンターは彼の前でうっかり舌打ちもできないのだった。
「わかった。いや、何もわかってはいないがわかったことにして話を進める。私は何をすればいいんだ?」
 ギュンターが油断したのは、いつもヴァイスラント国民が創設する公式行事はそんなに手間がかからないためだった。大体何か食べるか踊るかのどちらかで、国王たるものその程度の余興はたやすくこなしてみせなければならない。
 ゲシヒトはすっきりと過去の苦難は忘れる性質で、陛下が同意してくださったと晴れやかにうなずいて言った。
「陛下には召し上がっていただきたいものがございます」
 ゲシヒトは満面の笑顔で、ギュンターを導いて歩き出した。
 彼が向かったのはローリー夫人のサロンで、衛兵が扉を開くとそこは一面ピンク色の世界だった。
 花もカーテンもピンク、天井からひらひら下がるリボンも実に少女趣味で、イベントならではだった。ヴァイスラントの国民はこういう形から入る盛り上がり方が好きなので、ギュンターも慣れていた。
「ローリー夫人があちこちにお声がけくださいましたので、朝から大変盛況しております」
 精霊が好きだったというピンク色の牛乳でも飲めばいいのだろうかと、気楽な気持ちで辺りを見回していると、普段とは違う濃密な香りがギュンターを包んだ。
 ギュンターは何の香りだろうとは思ったが、女性陣が集まるところにはよくあるような気がして、別段不審には思わなかった。
「こちらへどうぞ。ローリー夫人がお待ちです」
 それはそうと、ゲシヒトは熊のような見た目に反して繊細な心配りができる男で、流れるようにギュンターを席に導いて、ローリー夫人への代理のあいさつもこなしていた。
「カティ、今後の参考によく見ておけ。随行というのはああやって……」
 いつもの癖で斜め後ろに話しかけたがそこに少年騎士の姿はなく、ギュンターはそこに久方ぶりの令嬢の苦笑をみとめた。
「すっかりお側にいるのが当たり前になっているのね、カティさんは」
 鈍さは自覚があるギュンターでも、さすがにアリーシャのその言葉が皮肉だとは気づいた。
「お隣、よろしいかしら?」
「あ、ああ」
 優雅に隣の席に座るアリーシャに、振られて気まずいのは俺の方なんだがと思いつつ、アリーシャが怒っている気配をひしひしと感じて何とも言えないギュンターだった。
 思い返せば今日は、カティは用事があるとかで、遅れて出勤してくる予定だった。今はなぜかお守りのようにカティに側にいてほしかったと、ギュンターは訳もなく冷や汗をかく。
 ゲシヒトはローリー夫人の座る中央のテーブルの前で立ち上がって、列席者を目視で確認する。
「お揃いのようですね。では」
 いつの間にか司会も担当しているらしいゲシヒトは、そつなく出席確認をしてから口を開く。
「降臨祭の成功を祈念して、陛下にチョコレートを召し上がっていただきます」
 ここに来る間にゲシヒトから受けた説明によると、ギュンターはこの行事の最初にチョコレートを食べればいいらしい。
 これまでに数々の行事で種々の食べ物を口にしてきたギュンター、別にチョコレートくらい笑顔で食べきってみせる自信がある。
「国民を代表して、アリーシャ嬢。よろしくお願いします」
 問題は、この行事は「女性が初恋の男性にチョコレートを贈る」というもので、食べてもらえれば今の恋が成功するという、誰が決めたかわからないルールがあるのだそうだ。
 ギュンターの元に進み出て、アリーシャが箱を差し出す。
「陛下、ヴァイスラントの男性代表としてお受け取りください」
「……ありがとう」
 今の恋のためにチョコレートを食べさせられる過去の男の気持ちを考えてくれ。ギュンターはそんな素朴な疑問を世の男性たちにもっと持ってほしいと思いながら、お祭りに頭が春になっているヴァイスラント国民が聞くはずがないのもわかっていた。
 ギュンターはアリーシャから星型の箱を受け取って、そこからチョコレートを取り出す。
 口に入れて、一瞬そのあまりの苦さに噴きそうになった。目だけでアリーシャに訴えると、彼女は涼しげに微笑んで見せた。
 ちなみに苦ければ苦いほど新しい恋がうまくいくらしい。繰り返すが、それを食べさせられる過去の男の気持ちをもう少し汲んでほしい。
 カティ、何の用事かわからんが早く出勤しろ。ギュンターが心の中で叫んでいたのと同じ頃、カテリナは騎士団寮の一室でチョコレートを差し出していた。
 カテリナのその日の姿は普段とは違っていて、見る人が見たら驚いたに違いなかった。
「ウィラルドさま、受け取ってくださいますか」
 カテリナは騎士団寮の自室で着替えて髪も下ろし、地味ではあるが家でだけ着る女性の服装をまとっていた。
「こんなこと言ったら迷惑だってわかってます。私は女で、それで……騎士団に入ったときから、ウィラルドさまが好きだったってことも」
 向かい合って立つウィラルドは、驚くさまもなく、ただ少し目を伏せてカテリナの言葉を聞いていた。
「降臨祭がなければ、私は何も打ち明けずに騎士をやめていました。でも降臨祭は、私を囲む幸せにも気づかせてくれた。私は騎士でいたいんです」
 次第に声が小さくなって、カテリナは赤くなりながらぼそぼそと言う。
「ごめんなさい。黙ってて。……好きなんて言って」
 また彼の下に戻るのを考えるなら、性別も好意のことも、言わない方がいいのはわかっていた。それでも言ってしまったのは、たぶんウィラルドに甘えていた。
 そういうカテリナのことを理解した最初の他人も、きっとウィラルドに違いなかった。
「一応言っとくよ。カティはさ、真面目に仕事しようとするあまり、俺に好かれようってがんばってた気がする」
 ウィラルドは目を上げてカテリナを見やりながら、上司らしい諭すような声音で言った。
「それはたぶん恋じゃないよって言ったら、カティの今の恋を否定することになるか?」
「今の恋? 私が?」
 カテリナは目をまたたかせて、不思議そうに問い返す。
 ウィラルドは苦笑してうなずくと、カテリナはうつむいて思いを巡らせる。
「カティは恋をしてるよ。俺にはわかる」
 ウィラルドの目を見返して、カテリナはふいに息を呑む。
 彼の意図するところに気づいて、カテリナはわたわたと混乱した。
「え、でも、嫌いじゃないだけで、ずっと苦手なだけで……!」
 カテリナはさっきとは別の意味で赤くなって、首を横に振りながら否定する。
 ウィラルドは笑い声を立てて、腰に手を当てて言う。
「気づいたか。さて、俺はどうしよう。……邪魔したいな。意地悪したい。どうしよっかな」
 慌てるカテリナの前でウィラルドはうなって、カテリナの差し出したチョコレートの箱を見る。
「これを食べなかったら、まだ俺への初恋は継続って考えていい?」
 目をくるくる回しているカテリナを面白そうに見て、ウィラルドはぱっとカテリナの手からチョコレートの箱を取った。
 蓋を開けて一つ取り出すと、ウィラルドは悔しそうに言った。
「でもカティは俺よりあの人といる方が、楽しそうだしな」
 ウィラルドはチョコレートを口にして、独り言のようにつぶやく。
「……甘い。ちょっと苦い」
 それが幸いのように苦笑して、ウィラルドは初恋の味をかみしめたのだった。
 太陽が高く上る少し前、カテリナが新行事を満喫して遅れて出勤すると、ギュンターはなぜか恨めしい目で彼女を迎えた。
 カテリナはとっさに自分の格好を確認したが、いつも通り髪は縛って帽子に仕舞い、騎士団服は詰襟の一番上までボタンを留めていた。王城の一角で女性の姿でいたことはばれていないと胸を撫でおろして、そもそもなぜ女性であることをここまで隠す必要があるのか、ふと思いをめぐらせた。
 王城には女性仕官も少ないながら勤務しているし、騎士団にはまだいないが入団を禁止されてはいない。ただどうしてか、今この場では女性の格好でいる自信がない。
 この場だから……陛下の前だから? そう思ったとき、ウィラルドがカティは恋をしていると告げた言葉を思い出して、勝手に顔が赤くなった。
「すみません、新行事に参加していて遅くなりました」
 混乱して自己申告をしたカテリナは、まったく言わなくていいことを報告していたが、過去の女性からのチョコレートの洗礼を受けたばかりの国王陛下はその正直さに気が抜けた。
 ギュンターはため息をつきそうになるところをこらえて言う。
「君もヴァイスラント国民の一人だ。祭りを楽しんでいれば何より」
 ギュンターは大人の余裕を見せるところだと、カテリナの遅刻の詳細は訊かないことにした。実際ははにかんで目を逸らしたカテリナが誰とほろ苦いやり取りをしたのか結構な手順まで想像しかかったのだが、それは要するに過去のことなのだ。
 ギュンターとしては、ビターチョコレートの儀式はヴァイスラント国民の国王への催促だったのだと思っている。国王が最後のダンスを誰と踊るか国民は興味津々でみつめているのに、未だにギュンターは相手の名前すら明かしていない。アリーシャを応援していた国民も多数いたわけで、この機にギュンターへささやかな嫌がらせでもしようという思いだったのだろう。
 カテリナは肩掛けカバンを下げると、近衛兵と目配せして言う。
「準備ができたそうです。参りましょう、陛下」
 いや、国民に周知しようにも俺も彼女の名前を知らないんだがな。ギュンターはぱたぱたと駆け寄ったカテリナを見ながら心の中で愚痴ったが、もう少しの間は知らなくてもいいかと思って目を逸らした。
 前夜祭に当たる今日から、ギュンターはヴァイスラントのあちこちで開かれている祭りを公式訪問するという立派な仕事がある。事務仕事もこの二日間は置いておいて、文字通りのお祭り騒ぎの中、踊りに踊るのがギュンターの仕事だ。
 早速向かった会場は、海の近くにある夏の合宿所だった。砂浜に屋根だけ張り出した壁のない集会所が立ち、笛とリュートを用意した子どもたちとそれを見守る保護者たちが国王陛下の訪問を待ちわびていた。
 だいぶ形だけになったとはいえ、ヴァイスラントにはまだ身分の違いがある。庶民の子どもたちは働くために執事学校や仕官学校といった職業学校に早くから通う一方、貴族の子どもたちはほとんど家庭教師だけで育って他の子どもと交わらない。
 けれどどんな子どもも夏には海風に誘われて合宿所に集い、宵には男の子と女の子が共に踊るダンスパーティに行って、やがて大人になっていく。
 ギュンターは代表で花束を差し出した少女に、屈みこんで手を差し伸べた。
「レディ、私と踊ってくださいますか?」
 どんなに小さくとも女性はレディとして扱う、そんな国王陛下は本日も健在だった。ギュンターは六歳ほどの少女の手を取ると、さすが手慣れた様子で優雅に踊り始めた。
 それを合図に少年少女の楽団は音楽を奏で、子どもたちも踊り始める。降臨祭と、これから彼らが将来をかけて踊るダンスの数々が喜びにあふれていてくれるよう、カテリナもほほえましい思いで見守っていた。
 嵐が明けて空は晴れ渡り、潮風が香ばしく吹いていた。まだ本格的な夏の到来は先だが、まぶしい季節の前はカテリナも心が躍る。
 ギュンターのサーコートの裾が風に揺れるさまが、昔ここに連れてきてくれたチャールズの後ろ姿と重なった。
 カテリナが夏の合宿所に行ったのはずいぶん幼い頃だった。一体いつのことだったのかはっきりと思い出せないが、その日も一面青い空が広がっていて、潮風が今のように心地よく通り過ぎていた。
 カテリナは父が庶民出身であったからその暮らしぶりは貴族然とはしていなかったが、母は隣国の王姉の身分だったから、執事のチャールズはカテリナの教育に大きな誇りと責任を持っていた。
 それに父ゲシヒトも早くに妻を亡くして、妻の忘れ形見の一人娘に過保護になっていた。カテリナはそういう周りの感情を感じやすい子どもで、外に出てみんなと遊びたいとは口にできずにいた。
 結局、来年には仕官学校に入るときになって、チャールズはカテリナをほとんど外の子どもと交わらせずにいたことに気づいて、カテリナに何度も謝ったのだった。別にいいよとカテリナは笑ったけれど、とても幼い頃何かの折にチャールズが連れて行ってくれた合宿所が楽しかったことだけは覚えていて、少しだけ寂しかった。
 あの子はどうしてるかな。ふと思い出したのは、夏の日のひととき。
「踊らないの?」
 ふいに声をかけられて、カテリナは過去と現在が潮風の中に混じったような思いがした。風にあおられて飛びそうになった帽子を押さえて振り向くと、隣に王弟シエルが座っていた。
 シエルが目を向けた先では、陽気なリュートに合わせて子どもも保護者も、王城からやって来た従者たちも踊っていた。石段に座っているのはカテリナとシエルだけで、ぼんやりと思い出の中に浸っているのもカテリナだけのように見えた。
「ううん。今の言い方は素直じゃなかった。……僕と踊ってくれる?」
 優しく言ったシエルの声音が、遠い日の誰かの声と重なる。
 薫る潮風の中、隣に座った男の子がそうカテリナに言ったのはいつの夏だったかはもう思い出せないけれど、そのときの思いは覚えている。
 僕は男で、ダンスは下手で、そんな言い訳を重ねて、男の子から隠すように手を引っ込めた。
「君は昔も今も、とってもかわいいから」
 カテリナが驚いて目をまたたかせたとき、シエルはカテリナの手を取ってキスを落としていた。
 シエルはすぐに手を離してくれたが、カテリナはとくとくと鼓動が早くなっているのが聞こえていた。
 体温が感じられるくらいに近くに手を置いたまま、シエルは長いことカテリナの隣でパーティをみつめていた。
 今夜、王都はどこも前夜祭に浮き立って、街は眠らないまま降臨祭の最終日を迎えるのだろう。
「カテリナちゃん、明日はどこに遊びに行こうね?」
 カテリナはそんな感傷的なことを思ってはみたが、カテリナが実家に帰ると大体そうであるように、子どものようにはしゃぐ父をなだめる方が先だった。
 カテリナは自分が保護者のように指を立てて父に言う。
「お父さん、夜更かししちゃだめだよ。もう大人なんだから」
「うん、うん」
 夜のお茶を用意してくれたチャールズもにこにこしてうなずいていた。明日、カテリナが最後のダンスを父と踊るサプライズは、チャールズと話し合って、父には直前まで内緒なのだ。
 父はうきうきと待ちきれない様子で、眉尻を下げて笑った。
「わかってる。カテリナちゃんが一緒にお祭りに行ってくれるだけでいい」
 カテリナは結局最終日まで王城でお仕事だが、夜になったら実家に帰る。祭りも最高潮の頃、街はてんやわんやだから、親子関係を伏せてきた二人が連れ立っていても案外誰も気づかないかもしれない。
 父とカテリナはいつものように長椅子に座って夜のひとときを過ごす。
「今日もパパ疲れたよ。王城は難しいことばっかだもん」
 父は甘えんぼじみた情けない表情を浮かべながら、生まれながらの貴族のような仕草で紅茶を飲んでいた。父は辺境で農夫の子として生まれ育ち、騎士としても仕官としてもまるで教育など受けていないのに、誰も知らないところで努力を重ねて総帥の地位にまで上り詰めた。どこまでも確実に到達点にたどり着く人なのだ。
 父は愚痴を言ったものの、実にこだわりなく笑った。
「いいけどね。ママと結婚したくて出世して、カテリナちゃんも元気に大きくなったから」
 カテリナは家でのへなへなした父を見て子どもの頃こそ心配していたが、王城で鬼のように働く父を見てからは考えを改めた。カテリナの素直さは父譲りだとチャールズは言うが、父はカテリナのように潔い撤退はしない。戦争という過酷な時代を先頭で駆け抜けて、自分はこれでよかったと紅茶を片手に笑ってみせる父の強さを、カテリナは尊敬している。
 ふわぁとカテリナは大きなあくびをして言う。
「そろそろ寝るよ。たぶん明日はすごく忙しいだろうし。おやすみ、お父さん」
 父は紅茶を置いていつものように両手を差し伸べた。
「はいはい。おやすみ」
 カテリナが夜のあいさつにぎゅっと抱きしめると、父はカテリナの背中をぽんと優しくたたいて笑った。
 父の部屋から回廊を渡って自室に戻ったとき、馬車が屋敷の前に止まる音が聞こえた。
 父はカテリナには告げないし同席もさせないが、夜に客を招くことがある。そういうときはカテリナの前で見せる甘い父親の顔ではないのだろうが、父が見せたがっていないものを見ようとは思わない。
 もしかして新しいお母さんになる人なのかなと思ったこともあるが、父は社交界で貴婦人に好かれる細やかな気遣いもできる割に、未だに母一筋だった。彼女の残した忘れ形見のカテリナは、父からの愛情を独占してきた。
 それはお父さんにとっていいことなのかな。ふとそう思うこともあるけれど、父に言えないくらいにはカテリナは父に甘えている。
 カテリナはベッドに入ってしばらくは目を閉じていたが、明日は降臨祭の最終日だと思うといろいろなことが頭をよぎった。
 精霊がやって来る日、ヴァイスラント中がダンスに興じる日、国王陛下に仕える最後の日。
 待って、最後の一つはただの異動だよと焦ったが、その一つが無性に頭の中をぐるぐると回る。ギュンターに書類のことで叱られたとき、星読み台に出かけたとき、ふいに彼が何か言っただけの記憶、たった十日間だったのに一生分彼の下で働いていたみたいに心に焼き付いている。
 一生が終わるわけじゃないんだよ。そう思った自分の心の声がとても悲しそうで、カテリナはベッドを抜け出していた。
 庭に出て星を仰ぐと、零れ落ちてきそうなほどたくさんの星が見えていた。精霊は星の降る夜にやって来ると言うけれど、今夜だって夜気は深く澄んで、宝物のように星々を包んでいた。
 ふいに星が流れて、カテリナは思わず願っていた。明日はいつもより少しだけ長い一日であってほしいと。
 精霊はきっと今頃たくさんの人に願いをかけられていて、カテリナの他愛ない願い事を聞いている時間はないだろうけど、そんなことを思った。
 カテリナが部屋に戻ると、チャールズの苦笑に迎えられた。カテリナが眠れない日はいつもそうやって、カテリナが夜気に冷えてしまわないように戻って来るまで心配しながら待っているのだった。
「明日は降臨祭の最後の日だね」
 カテリナが照れ隠しに言うと、チャールズはカテリナに温かいミルクを差し出しながら返す。
「終わりたくないというお顔ですね」
「でも元通りになるだけなんだ」
「いいえ。精霊でもない限り、同じ形でいることなどありませんよ」
 チャールズはちらと父の部屋の方を見やって言う。
「たとえば今夜のように、シエル王弟殿下がお嬢様を訪ねていらっしゃるようになった」
「え?」
 カテリナは慌てて聞き返したが、チャールズは安心させるように言った。
「お嬢様は私の娘ということになっています。旦那様は、メイン卿は彼女を連れて降臨祭に出かけていて不在とでもお伝えしているでしょう」
 それは降臨祭が終わった後は通じない言い訳になる。カテリナがどうしようと目を伏せると、チャールズは言葉を続ける。
「それに、私は毎日のように国王陛下からお手紙をいただくようになりました。ご令嬢をまた、サロンに連れてきてもらえないかと」
 今度は、カテリナは息を呑んで言葉に詰まった。どうしようと考えるより、なんだか嬉しいような、くすぐったいような気持ちで言葉が思い浮かばなかった。
 どうにか自分のそういう感情のうねりを収めて、カテリナはチャールズを見上げる。
「ごめん。チャールズにもお父さんにも迷惑をかけて」
 チャールズは首を横に振って、いいえ、と言葉を返す。
「ダンスのお誘いを断るのは女性の権利です。私たちが断るまでもなく、お嬢様は相手が国王陛下だろうとお断りできるんですよ」
 チャールズはカテリナをいたずらっぽく見つめ返して言った。
「でもチャールズにだけ、お嬢様は今誰のことが気になっているか教えてくださいませんか?」
 カテリナは下を向いて赤くなると、チャールズを見上げて、また下を向いて、何度か同じことをしていた。
 もぞもぞとカテリナが口にした名前を精霊が聞いていたかどうかは、夜が明けるまでまだわからないのだった。
 やって来た降臨祭の最終日、ギュンターが朝一番に確認したのは本日の予定だった。
 何事も事前に把握したいタイプの国王陛下は、精霊との約束までに至る行程としてもちろん十日間とも予定を組んであるが、特に最終日は細かい手順まで頭に叩き込んでおきたかった。ついでに何事も紙で見たいタイプでもあったので、朝から入念に書類を読み込んでいた。
 そんなギュンターの元にゲシヒトはやって来て、今日も今日とて仕事を押し込んでくる。
「陛下。辺境から挑戦状が届きました」
 ギュンターの本日の予定でまだ決まっていないのは一番重要な最後のダンスの相手だったはずだが、直前になって飛び込んでくる予定外のことももちろんある。
「常々、予定とは事前に知らせておくものだと」
「辺境に王都の決まり事は通用しませんから」
 舌打ちをして文句を言いかけたギュンターに、辺境の常識人ゲシヒト総帥は澄んだ目でうなずいて手紙を差し出した。
 ギュンターは渋々手紙に目を通すと、そこは寛大な君主らしくわかったと言いかけて、別紙の末尾の方で目を留めた。
「……父上のなさることらしい」
 少しだけ笑みをこぼして手紙を折りたたむと、ギュンターはカテリナに振り向いて出発を告げた。
 馬車で半刻、国王陛下はヴァイスラント国民の憩いの場である中央広場に来ていた。ここは噴水から放射線状に石畳が伸び、市場も劇場も、もちろん王城も徒歩圏内に位置するヴァイスラントの中心地点で、数々の祝祭の開始を見届けてきた場所でもあった。
 本日は最終日ということもあり、集まった国民たちの衣装もまた手が込んでいた。ふんだんにレースのあしらわれたドレス姿の女性もいれば、視線を集めるほど短いスカートと見えるか見えないか程度に胸を隠した女性もいて、ヴァイスラントの夏がどれほど開放的か証明していた。
「カティ、近衛兵の中に隠れているように」
 その中には結構な数の動物の被り物をした男たちがいて、ギュンターは薄々と嫌な予感はしていた。首を傾げたカテリナに念を押してから、広場の中心に用意された開会の演台に向かう。
 暗記はしているが一応手元に用意したあいさつ文に目を落として、ギュンターが祭りの始まりを宣言しようとした、そのとき。
「よく聞け! ここは俺たち辺境の戦士が乗っ取った!」
 人波の中から声が上がって、動物の被り物をした男たちが女性たちの手をつかむ。
「娘ども、言う事をきかねぇと食っちまうぞ!」
 悲鳴というより黄色い声を上げて逃げ惑う女性たちを追って、広場は騒々しさに満ち溢れた。ここぞとばかりに女性に触る男、それを叩き返す女性、舞い上がる土埃に誰かが落とし物を探す声、国一番の広場が狭く感じるほど人が方々に散っていく。
 ギュンターが朝聞かされたこの公式行事は、今現在辺境で田舎暮らしをしている前国王が参加者を急募したもので、辺境の戦士が攻めてきたという設定だ。前国王自ら宣戦布告の手紙をギュンターに送ってきて、そこには戦わなければ予告した女性たちをさらうと書いてあった。
「おっと、美人発見! もらってくぜ!」
 予定通り辺境の戦士が列席していたローリー夫人をみつけて、その手をつかんだ。ギュンターの視線に気づくと、にやりと笑って何かを投げてくる。
 ギュンターに投げられたのはとうもろこしだった。これで叩きあうのが公式ルールとのことだが、それを国王にも適用するところがヴァイスラントだ。
 朝から体力を使う行事をふっかけてくるなと、ギュンターは遠い目をしながらとうもろこしを受け取った。国王として祭りが盛り上がるのは喜ばしいが、ただでさえお祭り好きのヴァイスラント国民をさらに過熱させないでほしい。
 ついでにさらう女性リストにカティの名前もあったので、ギュンターは一抹の不安がよぎって少年騎士を振り向いた。
「陛下! がんばってください!」
 カテリナはというと、自分が狙われていることなど露知らず、どこからか取り出した狼の被り物をして拳を握りしめていた。その童顔で被ると子犬にしか見えなくて、周りの近衛兵たちはほのぼのした目をしてカテリナの被り物をぽんぽんと叩いていた。
「よそ見をしてる場合か?」
 被り物をした男たちは役柄そう言ったのか、素朴に国王に訊きたかったのかはわからないが、ギュンターは決闘を挑まれた国王の役になりきらなければならないのを思い出す。
 ギュンターがとうもろこしを持って進み出ると、辺境の戦士たちは自ら道を開いてギュンターを戦いの場へ導いた。その中から獅子の被り物をした一人の戦士が進み出て、ギュンターに対峙する。
 背格好からするとギュンターと同じくらいの背丈の青年で、年も近いように感じた。無類のお祭り好きの父が現れると思っていたので、ギュンターは多少訝しみながらもとうもろこしを構える。
 一振り目でぶつかったときから、相手は剣を振るったことがあると気づいた。ギュンターは戦争を経験していないとはいえ剣技の訓練は受けているが、ぶつかったときの握力は相手の方が上のように感じた。
 声援を受けながら二度三度ととうもろこしを交わし合って、この男はどこかで会ったことがあると思った。ただその正体を詮索するより気にかかるのが、視界の隅で戦うカティの姿だった。
 事もあろうにゲシヒト総帥にとうもろこしで挑むカティは、素手のゲシヒトの方が圧倒的に優勢だった。子犬のように飛びつくカティを、ゲシヒトはなんだか嬉しそうにあしらっていた。
 これは余興の一つで、負ければ確かに国王として格好は悪いだろうが、本気で国を奪われるわけではない。
 そうはいっても、ギュンターだって面白くないことはある。
「馬鹿者、相手を考えろ!」
 ただ国王の誇りとして叫んだというより、反射的に視界の隅の少年騎士を叱る言葉で、ギュンターは対峙した相手のとうもろこしを弾き飛ばしていた。
 いかん、今完全に素の自分だったと反省しながらギュンターが上がった息を落ち着かせていると、弾き飛ばされた相手が口を開いた。
「……そりゃわかってるけど、やっぱ腹立つじゃんよ」
 聞き覚えのある声にギュンターが目をまたたかせると、彼は獅子の被り物を外してみせた。
「バーバラの旦那は俺なのに」
 ローリー夫人が息を呑んで、祭りに浮き立っていた周りの国民たちも思わず二度見した。
 子どもがすねて甘えるような顔でローリー夫人を見た男、行方不明になっていた彼女のご夫君、ヘルベルト・ローリー将軍その人がそこにいたからだった。
 前国王の仕掛けた馬鹿騒ぎがひと段落した頃、中央広場から少し路地に入った商店街のテラスで、人々はこんがりと焼きあがったとうもろこしとお茶で一服を始めた。
 辺境の特産物であるとうもろこしと麦のお茶は、麦のお酒と共に王都でも愛されている。カテリナも夏になると辺境で暮らしている祖父母がたくさん送ってくれるので、屋敷のみんなとおいしくいただくのが定番だった。
 しかしギュンターを始めとしたその席の面々はお茶ととうもろこしに手をつけないまま黙っていた。代表としてギュンターが神妙に口を開くまで、立ち入りがたい空気が漂っていた。
「つまり船が難破して半月後には辺境に移り住んでいたんだな」
 人々もちらちらと見ているように、国王陛下の休息所として選ばれたレストランのテラスだけは別世界だった。辺りにはとうもろこしとバターが程よく焦げる匂いが立ち込める中、おごそかな事実確認が行われていた。
「名前も身分も偽って、裏街で商いをしていたと」
 国王陛下が向き合っているのはヘルベルト・ローリー、彼は行方不明になる二年前までは将軍の地位にあって、国王陛下の盟友でもあった。着任の間は戦争がなかったので軍功こそないが、カテリナの生まれる前に終わった隣国との戦争の後片付けに尽力した人物で、英雄といえばゲシヒト総帥、陰の功労者といえばヘルベルト将軍と並び称されていた。
 ふいにギュンターはひとつため息をついて、国王からの指摘というよりは友人の苦言の口調で言った。
「……どうしてもっと早く帰ってこなかったんだ」
 ヘルベルトは顔を上げて何か言いかけたが、不自然な距離を空けた隣に座るローリー夫人を横目で見てばつが悪そうな顔をした。その仕草を見て、ギュンターは言葉を続ける。
「一儲けすると言って出航したのに船ごと財産を失って格好がつかなかった、とか言うなよ」
「悪い。半分はそうだ」
「お前な」
「半分はまともな理由もあるんだ!」
 呆れ調子で文句を言いかけたギュンターに、ヘルベルトは力を入れて言い返す。
「辺境は海の向こうに近いんだ。精霊の子どもたちの土地がすぐそこなんだ」
 ヘルベルトが口にした隣国の呼び名を聞いて、ギュンターは友人が隠れていた理由をやっと理解できた気がした。
 かつて戦争に突き進んだ隣国は、ヴァイスラントに敗北宣言をしたのと共に、精霊界にも全面的に門戸を開いた。ギュンターが先日体験した夏の怪奇現象のようなことは日常茶飯事で、動物が話しだすこともあれば、時々は死者も帰って来るのだという。
 隣国は境界を越えてしまった。もう自分たちと一緒には暮らせない。ヴァイスラントの人々は亡くした人を想うような寂しさをもって、隣国の人々を見送った。
 ギュンターも、隣国の選んだ道は国家や人間としてはもう共存できないと思っている。けれど精霊の子どもたちが自分の心に反したことはできないように、隣国の人々が心のままに選んだ境界の無い世界の生活を否定するつもりもなかった。
 ヘルベルトは夢を見るように言葉を続ける。
「二年間、将軍って名前で行ってた頃とは全然違う世界だったんだ。……心配をかけたことはわかってるけどさ」
 ヘルベルトはローリー夫人を気にしながら声を小さくした。ギュンターは、そういえば友人はこういう男だったとひっそりとため息をついた。
 どこまでも情熱的、ただその熱っぽさのせいでいつまでも少年の心を捨てられず、ギュンターと一緒に学問に励んでいた頃から規則違反ばかりして教師に叱られていた。大人になってからもその基本は変わらず、実際に戦争が起こったらまちがいなく軍法違反で処罰されるとギュンターも心配していた。
 どうしたものかとギュンターは口には出さずに頭を悩ませた。二年間国王にも連絡なく無断欠勤したこと、海の向こうには厳正な手続きを取ってから渡らなければいけないところ無断で行き来していたこと、裏町で商いとごまかしたが要するにグレーな仕事をしていたこと、ヘルベルトが処罰される理由は山ほどある。
 ギュンターはうなってから口を開く。
「お前は筆頭貴族ローリー家の子息だろう。一族にも仕えてくれる者たちにも責任がある……と私が裁判をする前にだな」
 ひとまずギュンターは国王としても友人としても言っておかなければいけないことを言って、同席したものの未だ一言もない女性を見た。
「ローリー夫人。この件で一番ご迷惑とご心配をかけられただろうあなたが、今どう思っていらっしゃるか教えてください」
 意見を求められて、黙って夫をみつめていたローリー夫人はうなずいた。ヘルベルトは露骨に肩を緊張させて、子どもが叱られる前のように膝を閉じてローリー夫人をそろりと見返した。
 ローリー家は数々の宰相や将軍を輩出してきた名門貴族だ。しかし妻より二つ年下で、屋敷から出発する前には必ずシャツの襟を妻に直されていたというヘルベルトは、結構な数の国民が知っているとおり妻にまったく頭が上がっていなかった。
 その妻と夫の力関係のまま、ローリー夫人が怒るなり泣くなりしたら、ヘルベルトも少しはその子どもじみた性格を直したのかもしれない。
 ローリー夫人は息を吸って、じろりとヘルベルトを見やる。
「言いたいことはたくさんあるし、後で言うけど」
 ローリー夫人はそう断ってから、憮然として両手を差し伸べた。
「……抱きしめて」
 ヘルベルトの方が泣きそうな顔で、毎度新婚夫婦の熱の冷めやらぬ二人は、子どもじみた方法で仲直りするのだった。
 その一部始終を眺めていたギュンターは、ローリー夫人に最後のダンスをお断りされるのは確定だと思いながら、それでよかったと感じていた。
 精霊が望むのは国王と最愛の人とのダンスだが、女性の側からも国王が最愛の人、世間で言う両想いこそが降臨祭の最後にはふさわしいとギュンターだって思う。
 ただ、ギュンターははた迷惑な二人の復縁劇を前にして、自分も最愛の人と、こういう馬鹿馬鹿しいくらいのあっけなさで結ばれるのを夢見た。
 まったく今の状況では夢見ているだけなのだが、実は十日間くらいその夢は見ている。
 カテリナがそっと歩み寄って来て、ギュンターに何かを差し出してくる。
「陛下、使ってください」
 目元を押さえて沈黙したギュンターに何を勘違いしたのか、カテリナが渡そうとしたのはハンカチだった。
「要らん。泣きたいのは本当だが」
 俺も理由さえ立てば、力いっぱい抱きしめたい人はいるんだがな。
 つい三白眼でカテリナをにらんでしまってから、ギュンターは毎度反省するのだった。
 午後になり、国王陛下の一行が訪れた劇場街ではどこも精霊にまつわる舞台で盛況していた。
 ヴァイスラントの建国のときに現れた精霊は、明るく愛嬌たっぷりの性格をしていて、人々に愛される逸話をたくさん残していた。国王に為政者としての心構えや学問を教えた一方で、趣味は買い食いと水浴びで、王が少し目を離すとパンをくわえてもぐもぐしていたとか、儀式の途中で抜け出して、近所の子どもたちと海で泳いでいたとかいう話がいくつも記録されている。
 ギュンターはそんな精霊にまつわる舞台を特等席で観劇しながら遠い目をする。
「最後に精霊とダンスを踊るところが、私へのあてつけのように見えるのは気のせいだろうか」
 決まって演劇の最後には、初代国王に扮した俳優と精霊に扮した女優がダンスを踊る。ギュンターが半歩後ろに控えていたカテリナに言うと、カテリナは首を傾げて素直に問い返した。
「精霊が望むのは、国王陛下と最愛の人のダンスなのでは?」
「細かいところは気にしないのがヴァイスラントの国民性だからな」
 ちなみに演劇の最後には観客も一緒に踊る決まりで、それを国王陛下にも適用するのがヴァイスラントだった。俳優や女優が舞台から降りてくるのを合図にして、劇場前の通りがダンス会場になる。そんなときは街を練り歩いている楽団が、ダンスにリズムを添えてくれる。
 ダンスと音楽は兄弟にたとえられるもので、今日は一日中音楽が止むときはこない。ヴァイスラントの人々はダンスと共に音楽が大好きで、もし楽器がなければ手拍子や歌で応じてくれるのだった。
 夜には王城で燕尾服の貴公子と着飾った貴婦人が集って正式な舞踏会が開かれるが、真昼の街でのダンスはもっと自由なもので、服装も客も選ばない。ギュンターは明るい緑色の生地に金糸で刺繍されたサーコート姿ではあるが、踊ることを考えてマントはカテリナに預けてある。いつもより表情も気楽で、ダンスの合間には近衛兵と冗談を言い合っていた。
 折りたたんだギュンターのマントを抱えて控えていたカテリナに、ギュンターは気楽に言う。
「行ってくる。カティも踊ってこい。マントは椅子にでも置いておけ」
 それを聞いたカテリナは、ふと浮き立つ音楽の中で思っていた。
 ……今なら陛下と私がダンスを踊っても変じゃないかも。なぜかそんな考えがよぎった自分に、カテリナはぶんぶんと首を横に振った。
 男の格好をしている自分、しかもお付きの騎士と国王陛下がダンスを踊ったら変に決まっている。いや、普通とか変とか言う以前に、そんなことを望んでいいとは思えない。
 なぜってそれは、と自分に言い聞かせる。
「だって私は今日までしかいないんだよ」
 お祭りにふさわしくない言葉は心でつぶやいただけだったのに、家々に幾重にも反響するようにして戻ってきた。
 カテリナは人波の中で立ち止まって、違和感に気づいた。人々は踊っているのに、音楽が聞こえない。まるで世界が半分切り取られて壁の向こうに行ってしまったように、カテリナは音のない世界に立っていた。
 覆いかぶさるような寂しさに震えると、そんなカテリナに声がかかる。
「大丈夫。ただの幼精のいたずらだよ」
 ふいに人波から抜けてカテリナに歩み寄ったのは王弟シエルだった。彼が先ほどまで奏でていたリュートを手で弾くと、遠い残響がどこかで鳴って消えた。
 カテリナが以前経験したときと同じで、これも夏の怪奇現象でよく聞くものだったのに、自分の声がきっかけでここに落ちてしまったような気がして怖かった。シエルを見返したカテリナの目にその不安が現れたのか、彼は苦笑してうなずく。
「わかるよ。僕も初めて起こったときは怖かった。……覚えてるかな、星読み台で僕と会ったときのこと」
「で、殿下。無理にお話しいただく必要はありません」
 カテリナはそのときのシエルの真っ暗な声を思い出して、触れてはいけない話題だと留めた。あのとき「自分など要らない」と王弟殿下が思いつめた理由はわからないが、日々を楽しめるようになったのなら、それでまた傷ついてほしくない。
 シエルはカテリナを優しくなだめて言う。
「いいんだ。僕のそのときの悩みはもう終わったこと。でも今は、君にかかったまじないを解いてあげないと」
 シエルは噴水の脇に掛けてカテリナを呼んだ。カテリナは少し迷ってから、そっと彼の隣に腰を下ろす。
 辺り一面、ダンスに興じる人々に囲まれているのに、音楽がないだけで独りぼっちのような気分だった。湧き上がる噴水も受け止めてくれる音がないと寂しげだった。当たり前にあるものがない世界で、カテリナは迷子の子どものような顔をしていた。
 シエルはため息をついて一言告げる。
「兄上は無神経なんだよね」
 いきなりシエルが告げた言葉に大きくうなずきかけて、カテリナは慌ててシエルを見返した。
「あ、君もわかるって顔だ。いや、兄上にいいところはいっぱいあるんだよ。よく考えると優しいとか、これ以上ないくらい面倒見がいいとかね。でももうちょっと気を遣ってほしいって思うときがあるんだよね」
「……女性には気を遣っていらっしゃいますよ」
 極めて控えめにカテリナが反論すると、シエルはぷっと笑って言った。
「そう、そこ。兄弟でもそうだったんだよ。子どもの頃、姉上は女の子だし隣国から来たばかりでもあったから気を遣ってたんだけど、男兄弟の僕には投げやりそのものでさ。あんまり腹が立ったから、兄上と口を利かないって決めて」
 聞いてよかったのかわからない兄弟喧嘩の真相にカテリナが目を回していると、シエルは苦い顔をして告げた。
「今はかえって僕の方が扱いづらそうにしてる。そんなとき、君が兄上と一緒に星読み台に来た。……出会って数日の君の方が、兄上と打ち解けているみたいに見えた」
 カテリナは、それは違うとシエルを見返して首を横に振った。
 けれどカテリナが言葉にしなくても、今のシエルは彼の兄のことを理解しているようだった。
「そうじゃない。兄上はずっと、心配そうに僕を見ていたよ。それが当たり前になって、僕が見なくなっただけなんだ」
 ふいにシエルはカテリナを見て、その瞳に映る世界の形をのぞくようにして首を傾げた。
「君の十日間の仕事は、じきに鳴る日暮れの鐘で終わる。君を縛ることは、この仕事を命じた姉上にだってできないけど」
 カテリナがふいに瞳に浮かべた寂しさを見て、シエルは笑った。
「本当に見えないかな。もう君はみつけてると思うんだけど。……僕がそれを証明してみせるよ」
 シエルはカテリナを引き寄せて、抱きしめながら頬にキスを落とした。
 好き。音のない世界でシエルの声だけが響いて、カテリナは頬を紅潮させながら言っていた。
「ごめんなさい! 私、好きな人がいるんです!」
 瞬間、子どもの口笛のような音が聞こえて、世界が生まれ変わるように音楽が溢れかえった。
 陽気なリズムと人の笑い声、足音さえもにぎやかで、カテリナは全身でそれを受け止めた。
 そんなカテリナとシエルを見て、ギュンターだけが「あ」という口のまま停止した。シエルはくすっと笑って、カテリナの頭をぽんと叩く。
「うん。知ってる」
 幼精のいたずらは、キス一つで簡単に解ける。
 それは建国のときの王弟殿下、つまり初代星読み博士が発明した伝統的な方法だったが、国王陛下に大誤解を招いたようだった。
 シエルは晴れやかに笑って、またカテリナの額にキスを落とした。
「だから意地悪したくなったんだ」
 とはいえこれも、伝統的なヴァイスラントの兄弟喧嘩の一幕なのだった。
 夜の始まりを告げる鐘が鳴ったとき、人々から上がった歓声とは裏腹にカテリナの心は力なくしぼんだ。
 カテリナは夜になったらお休みを取らせてほしいと頼んでいて、王妹マリアンヌは残念そうではあったものの許してくれた。
 けれど国王陛下にも伝えてあるそのことに後悔に似た感情を持っていて、ギュンターを見上げた自分が浮かない顔をしていた自覚はあった。
 ちょうど国王陛下のために門扉は開かれ、彼は今まさにそこの主人として王城に立ち入る直前だった。
 カテリナが見上げれば王城の室内は星々の海のように灯りがともされ、庭を挟んだ城門には次々と馬車が到着しつつあった。ここからは昼間のように騎士の警護は必要なく、陛下はただ選ばれた貴公子と貴婦人に囲まれて祭りの最高潮を迎えるのだろう。
 ギュンターは一呼吸考えて、たぶん用意していたらしい精一杯の言葉をくれた。
「そんな顔をしなくていい。君は十日間よくやってくれた」
 めったになかった優しい言葉を惜しみなく与えてくれたのも、本当に最後の夜なのだと悲しくなった。カテリナはにじみそうになる目を伏せて、早口にギュンターに言葉を返す。
「僕は結局、陛下が最後のダンスを踊るのを見届けることができませんでした」
「いいんだ。君のおかげで、私は今までこんなに楽しい十日間を過ごしたことはなかった」
 無数の人々の生活を背負い、数えきれない人々のために仕事をしてきた彼は今一騎士のためだけに立ち止まって、ねぎらいの言葉を選んでくれた。
「ありがとう。カティ、握手をしてくれるか」
 手を差し伸べられて、カテリナは言葉に詰まった。自分こそ、どれほどのことを陛下に教えてもらったか知れない。
 鐘は鳴り続け、ヴァイスラント中が喜びの時を待つ。まもなく精霊はやって来る、愛する人の手を取る準備はできているかと、優しく人々を急かしているようだった。
 カテリナがギュンターの手を掴むと、大きな手が彼女の手を包み込んだ。その温かさに胸がいっぱいになって、カテリナはぽろっと涙が落ちた。
 遠くには、城門から入ってくるたくさんの人々とは逆に、王城から歩いて出ていく父の背中が見えた。今日一日、馬鹿騒ぎの最中では騎士団の従者たちさえ踊っていたのに、父が踊っている姿はついに見ることができなかった。
 父が踊ったのは、子どもの頃、カテリナに母の踊り方を教えたときだけだった。父にとってダンスは母とのかけがえのない思い出の一部で、他人とは共有しない神聖なものなのだった。
 カテリナのまなざしの先に気づいたのか、ギュンターは彼女の手を離す代わりに、彼女の帽子の上から優しく頭を叩いた。
「行きなさい。君の最愛の人のところに」
 カテリナが顔を上げたとき、ギュンターは国王でも上司でもない顔をしていた気がした。
 カテリナは精一杯の敬礼をして、振り向かずにそこを立ち去った。十日間の思い出に何度も胸が熱くなって、頬をつたってくるものは止められなかったが、立ち止まったりはしなかった。
 実家に着くと、父は祭りに出かける衣装をいくつも用意して待っていてくれた。総帥にまでなったのに、父は自分の服を未だに数えるほどしか持っていない。けれどカテリナが男の格好の他にも、家でくつろぐときや近所に出かけるときには女の子の服も着たいだろうと、カテリナのためには服や装飾品にお金をかけることを惜しまないのだった。
 カテリナは祭りの衣装を着る前に、父に用意していた言葉を告げた。
「お父さん、今日は私と踊ってくれる?」
 母がお忍びのときに着ていたというワンピースを前に、カテリナは少しだけ緊張しながら父にねだった。
 父は一瞬驚いた顔になって、照れくさそうに問い返す。
「……踊ってくれるのか」
「お父さんがよければ」
 父は大きくうなずいて言った。
「嬉しいよ。ああ、本当だ。お父さんと踊ってくれ」
「うん! ちょっと待っててね!」
 カテリナも笑い返して白いワンピースを手に取ると、隣室に飛び込んで急いで支度をした。
 着替えて戻ってきたカテリナに、父はもぞもぞと言葉を濁す。
「カテリナちゃん、そのスカートはちょっと足が見えすぎじゃないかい?」
「そうなの? チャールズは、お母さんが初デートのときに着たらお父さんがすごく喜んでたって」
「それは……ほら、パパもまだ若かったから」
 普段男装しているカテリナは、夏なら手足が見えるなど日常茶飯事なのであまり気にしていなかった。女性で手足が見えると注目の的だということをどう教えようかゲシヒトが迷っていると、カテリナは潔く決めてしまう。
「ん、これにする! 侍女のみんなも似合うって言ってくれたし」
 うなずいて見守っていたチャールズは、だからカテリナに似合うから心配なんだってとゲシヒトが言いたかったことは知っていたが、こういう機会でもないとカテリナがそれを着てくれないので黙って見送ることにしたのだった。
 一歩街に出ればそこは真昼のようなにぎやかさで、すぐにカテリナと父も祭りの一部になった。ひたすら買い食いをするのもよし、一晩中踊りあかすのもよし、降臨祭は国民に何も強いるものではない。
 父に甘く浸けたりんごのお菓子を買ってもらって、野菜のお面を被って、河畔に出たら星を見上げる。またたく星々は落ちてきそうなほどたくさん輝いていて、カテリナは父に問いかけた。
「今日は奇跡が降る夜なんだって。でも奇跡って見たことないな。どんなものなんだろ」
「そうだな。めったに降るものじゃないからなぁ」
 父はカテリナの隣で星を見上げながら黙った。
 涼しい風が流れたとき、父は飛来した思い出に口を開かされたようだった。
「でもパパは奇跡、見たことあるよ。……カテリナが生まれた夜だ」
 カテリナが振り向くと、父はカテリナには見えないものをみつめるように目を細めていた。
「リリーは体が弱かったから、子どもは無事に生まれないと言われていたんだ。ひどい難産で、夜遅くになっても生まれなくて、リリーも苦しそうなのに、どうしてやったらいいのかもわからなくて」
 ふいに父はカテリナを見下ろして笑った。
「そんな心配なんて嘘みたいに、カテリナは突然、元気いっぱいに飛び出してきたんだよ。大きな声で泣いて、いっぱい食べて、病気もしない。まっすぐで、いつでも前を見て走っていく。パパはさ」
 父の声が震えて、彼は目をにじませながら指先で目をこすった。
「そりゃ嬉しいよ。カテリナが踊ってくれたら。ずっと一緒にいてくれたら。いつまでもパパのところに帰ってきてくれたら。……でも、パパはさ」
 カテリナの肩に手を置いて、父は言葉に詰まりながら言った。
「……同じくらい、カテリナがパパのところから元気に飛び出してくれるのだって、うれしいんだよ」
 カテリナが息を呑んだとき、父は懐から何かを取り出してカテリナに差し出した。
「ごめんね。何度もカテリナが引き出しを開くのをつい見ちゃってさ」
 父はカテリナがギュンターからもらった星の金貨を彼女の手に包むと、その上から大きな手で包み込んだ。
 男性の手、けれどそれに包まれるときの気持ちが違うのに気づいて、カテリナはまだ揺れる目で父を見上げた。
「カテリナはパパの仕事の邪魔をしちゃいけないって、周りにパパのこと黙ってきたね。でもパパはカテリナのことでどんなこと言われたって仕事してみせるし」
 父はうなずいてカテリナを見つめ返す。
「……そんなことよりパパは、カテリナに自分の望むように生きてほしいよ」
 そのときに父の手から流れ込んだものは、きっと勇気という名前のものだった。
 河畔に止まった馬車が開いて、現れたチャールズは帽子を取るなりにっこりと笑った。