夜勤明けの朝はいつもより遅くとも許されているのだが、その日はカテリナが目を覚ましたときもまだ暗かった。
 起きる時間をまちがえてしまったのだろうかと窓を開けて中庭の花時計をのぞいたが、陽射しがまったく照っていないからか何の時間も示してはいなかった。雨も降っていなければ風も吹いていないのに、空は塗りつぶされたように黒く、不気味なくらいに辺りは静かだった。
 騎士団の詰め所を見に行くと、昨夜の馬鹿騒ぎが利いたのか同僚たちは雑魚寝状態で眠っていた。カテリナは彼らを起こさないようにそっと扉を閉めて詰め所を後にすると、宿直室に戻った。
 食堂はもう閉まっている時間のはずなので昨日買いだめしたパンで朝食を終えて、支度を整えて上層階に向かった。
 昨日、国王陛下から王城に勤める者たちに事実上のお休みが言い渡されたからなのだろうが、それにしても誰ともすれ違わないのは奇妙だった。あちこち通行止めで遠回りをしたからか、カテリナの知る王城でもないようだった。
 水槽の中を歩くような、どこか現実味のない気分で陛下の執務室に入ると、陛下だけは普段通りに仕事をしていた。
 カテリナは当たり前の光景に安心して、あいさつの声をかけようとしたところで立ち止まる。
 普段、カテリナが隅の机とセットで使っている椅子が、陛下の机の前に移動していた。今日はその椅子にかけて陛下の前で仕事をしている女性がいた。
 王妹マリアンヌは陛下と言葉を交わすでもなく、分け隔てなく国民に見せる微笑もなく、ただ事務的に書類に加筆しては陛下に返していた。対する陛下も、マリアンヌの顔も見ずに書類を受け取り、手短に書類に目を通しては印を押すという動作を繰り返していた。
 カテリナは恐ろしく素早く、感情を挟まない国王陛下と王妹殿下の執務風景を今初めて見たわけではなく、二人が良き仕事のパートナーであることは知っていた。ただ王妹マリアンヌは普段、国王陛下から外交を任されて大使たちの相手をしているから、こうして机に向かって国王陛下と事務仕事をしているのは珍しかった。
 カテリナが声をかけられなかったのは、そこに兄妹の無二の信頼を見ていたからだった。マリアンヌが諸外国に誇る才媛であるのはずっと知っていた。けれど国王陛下が自分に一番近い椅子を誰のために用意しているのか、突然理解したのだった。
 そうだった、私に対するようにイライラする必要も、言葉を尽くして教える必要もない。……王妹殿下は、生まれながらの姫君だもの。
 ふいにギュンターが顔を上げて、立ちすくんでいたカテリナを見た。
「おはよう。カティ、危ないところを通ってこなかっただろうな」
 今空を覆う雲のようにカテリナが重い気持ちに押しつぶされそうになっていたとき、ギュンターが苦笑交じりに声をかけた。
 まるで子ども扱いの言葉に普段ならむっとするはずが、はいとだけ答えて、カテリナはしょげて壁際に立った。
 ギュンターはそんなカテリナに一瞬眉を上げたものの、席を立ったマリアンヌに目を移して言う。
「おっと、そろそろ昼だったか」
「ええ。風も出てきたようです。私は今のうちに自室に戻りますが……」
 マリアンヌはふと窓の外を見て足を止めて、何事か思いをめぐらしたようだった。
「何か見えたか?」
 問いかけた兄に、マリアンヌは考え事から覚めたような顔をして、首を横に振って微笑む。
「何でもありません。では、陛下。夜勤明けのカティさんにあまり無理をさせないよう」
 マリアンヌはいつも通りの気配りを見せた後、悠として去っていった。
 十年に一度の大きさの嵐という星読み台の知らせは確かなようだった。マリアンヌが去ってまもなく、窓を激しい雨が打ち、王城自体も風にあおられて少し揺れ始めた。
 普段晴れ晴れとしたカテリナの心の中も、自分が座っている席が本来自分の席ではないと思うにつけ、曇り空が一向に晴れなかった。
「カティ、どうした。意見したいときは言えばいいんだぞ」
 ギュンターが以前なら苛立つところでぎこちない声音で言ったことも、やっぱり自分は未熟なんだと落ち込んだ。
 ギュンターはじろりとカテリナを見て言う。
「そろそろわかっていると思うが、俺は言われなければ気づかない人間なんだ。そんな俺でも最近気づいたが、君は呑みこんだ言葉がたくさんあるな?」
 彼は目を上げて揺れたカテリナの目をとらえると、仕事の話をするようでそうでもないことにも触れた。
「君は言わないだけで思ってることがたくさんあるはずだ。もっとそれを口に出していい」
 そう言われて、カテリナはなんだかむずかゆい感情に背中を押された。カテリナには子どもの頃から周りに隠していることがたくさんあったから、素直な反面、自分を守るために言葉を呑み込む癖もあった。早いうちから父に心配されていたそれを、出会って十日も経たないギュンターにも気づかれていると思うと、少し怖いようでうれしくもあった。
 カテリナは一度うつむいてぽつりと言う。
「マリアンヌ様のように陛下を支えられる方は、きっと他にいないのだと思って」
「マリアンヌ?」
 思わずカテリナが心に抱いた言葉をそのまま見せると、ギュンターはまったく想像していなかったことを言われたように目をまたたかせた。
 カテリナが黙ってうなずくと、カテリナがどういう意図でそれを告げたのかギュンターにも伝わったらしい。
 ギュンターはぷっと吹き出して、頬杖をついて言う。
「ははっ! 考えたこともなかったな。付き合いが誰より長いのは確かだが、マリアンヌは妹だぞ?」
「でも、精霊との約束は……!」
 最愛の人とのダンスなんですと、カテリナが言葉にしようとしたとき、隣室で物音が響いた。
 とっさに騎士としての役目を思い出してカテリナが隣室に走ると、今日はどこも閉じられているはずの窓が開け放たれて雨が入り込んでいた。
「殿下!」
 そこに降り込んでくる雨に濡れながら立ちすくむ姫君をみつけて、カテリナは古い記憶を思い出していた。
 今は多くの国民が忘れかかっていることだが、王妹マリアンヌは幼い頃、崩壊しかかっていた隣国から亡命してきた姫君だった。先王と先王妃は実の子と分け隔てなくマリアンヌを育て、ギュンターとシエルもそれを受け入れてきたから、マリアンヌも完全にヴァイスラントに馴染んでいるように見える。
 それでもカテリナは同じように他国からやって来た母が心に残していたものがあるのだと、父やチャールズから聞いて育ってきた。
 カテリナは雨の中に揺れるものを示して言う。
「……ツヴァイシュタットの旗が心配なんですね。私がお取りしますから、お待ちください」
 マリアンヌが食い入るようにみつめる先、そこに彼女が幼い日に隣国から持ってきた旗が揺れていた。
 ヴァイスラントの精霊は人々に好意的だが、隣国ツヴァイシュタットで信じられていた精霊は元々人間に敵対する恐ろしいものだった。隣国では、精霊が描かれた物は大切に扱わなければ人々に災いをもたらすと言われていた。
 数十の旗の中で、黒髪に青い瞳の精霊の横顔が描かれた隣国の旗は、風にあおられて今にも破れてしまいそうだった。カテリナはどうにかマリアンヌを説得して下がらせると、雨の中ベランダに出る。
 旗はベランダの外に向かってしなっていて、身を乗り出さないと手は届かないようだった。カテリナはベランダの端に移動して、少し背伸びをしながら虚空に手を伸ばす。
「カティ! 馬鹿、何をしてる!」
「大丈夫です! こういうことは得意なんです!」
 背後でギュンターの怒声が聞こえたが、雨音にかき消されそうだった。カテリナは構わずベランダから身を乗り出しながら答える。
 いつか父が母に言っていた。人が忘れ掛かっていて気に留めなくなっているものでも、誰かが大切に思っているのなら、それはまだ必要なものだから。大切なものを抱くように、手に取って守ってあげなさい。
 昔、母が隣国から持ってきた物たちを捨てられずにいたとき、父がそう言って母を受け入れたように、カテリナもマリアンヌの心を守りたかった。
「……よし。これで……!」
 やっとカテリナが旗をつかみ、引き寄せようとしたとき、頭上で雷鳴がとどろいた。
 城が大きく揺れたのと共に、世界が落ちてくるような衝撃があった。
「カティ!」
 ギュンターの腕がカテリナの体を抱えて部屋の内に引き込んだのと、どちらが先だったか。
 荒くれた風に巻き込まれて旗が折れたのを見たのを最後に、カテリナの視界も反転した。