ゲシヒト・バルガス総帥、彼ほど星読み台に憎まれ、国民に愛されている人はいない。
彼は精霊の定めた運命をころころと変えて、誰も予想していなかった未来に着地してきた。
生まれた辺境の村でいつものように農作業をしていたところ、侵略してきた隣国の正規軍を斧一つで打ち負かしてしまったことに始まり、その後の隣国との戦で軍功を上げるかと思いきや、敵国の将軍も感涙するほど無駄な犠牲を嫌い、その結果として隣国の農村化という歴史学者も首を傾げるような現実に至った。
彼が天命に導かれた英雄か、ただ目の前のことに愚直に進み続けた農夫なのかは置いておいて、彼の後半の功績が隣国の王姉であったカテリナの母に恋をして、ただ彼女と結婚したいという個人的願望からの行動であったのは、カテリナだけでなく国民の大体が知っている。
星読み台の一室で、またもそんなゲシヒトの行動に振り回されている人々がいた。
王弟シエルは羊皮紙から顔を上げたものの、すぐに突っ伏すように頭を垂れた。
「何度見ても運命が変わってる。またゲシヒト総帥のせいなのか」
シエルがため息をついたのも無理はなく、ゲシヒトは星読み台が日夜力を尽くして読み解いた運命を朝飯前に変えてしまう。あらかじめ運命を定めた精霊も、ゲシヒトが突き進んだ先にある未来を見て「案外悪くないかも」と考えてしまっている節がある。
王妹マリアンヌは弟より強かった。目にしたものを受け入れずに跳ね返した。
「だめよ、シエル。今回こそは運命を変えられるわけにはいかないの」
まだ太陽が高く、本来の仕事が始まる前の星読み台でも、既に彼らの戦いが始まっていた。シエルが算式で導いた星の運命にも、王妹マリアンヌは断じて抵抗する心づもりだった。
「国王陛下は降臨祭の最後の日、最愛の人とダンスを踊る。私たちはその約束を果たさないと。……カテリナ」
「は」
カテリナは国王陛下にも隠している弟妹殿下の二人だけの密談の時間に、どうして自分が呼ばれているのかさっぱりわからないながらも、恐縮して頭を下げた。
「今日を含めて、降臨祭もあと四日です。私が陛下に引き合わせた三人の令嬢はわかったかしら?」
マリアンヌの問いかけに、カテリナは少し迷ってから告げた。
「二人でしたら、わかりました。アリーシャ嬢とローリー夫人ですね」
「もう一人もわかっているはずよ」
「で、でもそれは」
カテリナはごくんと息を呑んで言葉に詰まった。
カテリナが傍目にもわかるほどうろたえていると、シエルもくすっと笑って言葉を添えた。
「姉上のお考えはわかるな。本命が陛下を好きになってくれるように、いろいろ演出したんだろう」
「ええ。彼女は今回みたいな特別な機会を用意しないと、たぶんいくら王城に勤務していても陛下に接触しようとしなかったのですもの」
くるくると目を回して考えているカテリナに、ね、とマリアンヌは親しみをこめて呼びかけた。
「私はあなたをずっと前から知っていて、きっと陛下もあなたを気に入るとわかっていた。私のいたずらは、半分は成功したと思うの」
ふいにマリアンヌは青い瞳を輝かせて問いかける。
「カテリナ、今の気持ちを教えて。……陛下と最後のダンスを踊ってくれる?」
その言葉を聞いたとき、カテリナの中で小さな子どもが泣き出すような感覚があった。
だめ、それはだめ。小さなカテリナはわがままを言うように叫んで、どうしてと問いかける大人のカテリナの声をかき消した。
母の肖像画の前、大きな背中を丸めて震えていた父、みつめることしかできない自分。いつのことかは忘れてしまったのに、記憶の底に張り付いて離れない。
自分の手に涙が落ちた感覚で目が覚めた。カテリナと気づかわしげに声をかけられて顔を上げる。
「あ、あの、私にできることなら何なりとします」
カテリナは慌てて涙を拭って、けれどまだ溢れてくる涙に喉を詰まらせながら言った。
「た、大変な名誉とわかっています。でも、それでも私は……最後のダンスは、父と踊りたいのです」
姫君の言葉にきちんとした返答をと考えているのに、心は子どものような拙い言葉でカテリナの気持ちを告げさせた。
「私にとって最愛の人は父ですから」
最愛の人とダンスを踊るのは国王だけに決められたもので、一国民のカテリナはそのとおりにする必要はない。
それでもカテリナは、どうしても降臨祭の最終日に父とダンスを踊りたかった。二度と最愛の人に会うことの叶わない父に、一人でその日を過ごしてほしくなかった。
うつむいて黙ったカテリナは、マリアンヌとシエルの戸惑いの気配を感じていた。ダンスは王族にとっては儀式の一つで、カテリナの子どものわがままのような気持ちが伝わったかは定かでなかった。
シエルはマリアンヌをなだめるように見ると、彼はカテリナに言った。
「無理にとは言わないよ。ダンスの相手を選ぶのはその人次第だ。喜びを相手に伝えるダンスが哀しい儀式に変わってしまうのは、精霊の望むところじゃない」
シエルは助け舟を出したが、ちょっと考え込む時間があった。
カテリナもうつむいたまま考えていると、シエルは再び口を開く。
「でも僕は不思議に思う。精霊が、女の子を泣かせるような運命を選ぶかな」
シエルは席を立ってカテリナの椅子の前に屈むと、彼女と目線を合わせて言った。
「ゲシヒト総帥はよく運命を転じる。今回もそうなのだと思う。今運命のサイコロは転がっている最中なんじゃないかな」
顔を上げたカテリナと目が合うと、シエルは不思議な労わりを彼女に送ってみせた。
「そう、あと四日もあるんだよ。もうちょっと運命と踊ってもいいはずだ」
シエルがマリアンヌを振り向くと、王妹殿下は弟の言葉に少し考えたようだった。
ただマリアンヌは王に次ぐ立場から、確かな気がかりは口にしてみせた。
「星は今日動きを変えた。今のままでは国王陛下と最愛の人のダンスは叶わない」
シエルは星読み仕官として事実にうなずくと、マリアンヌはふいに責任を取り払ったような苦笑を浮かべた。
「……でも、運命は星が決めるもの。星に任せましょう」
マリアンヌは一息ついて、いたずらっぽくカテリナに目配せした。
「今夜もゲシヒト総帥にダンスパーティの招待状を送ってあるの。ぜひいらして」
カテリナはその言葉に慌てたが、マリアンヌはシエルと顔を見合わせて楽しそうに笑っていた。
彼は精霊の定めた運命をころころと変えて、誰も予想していなかった未来に着地してきた。
生まれた辺境の村でいつものように農作業をしていたところ、侵略してきた隣国の正規軍を斧一つで打ち負かしてしまったことに始まり、その後の隣国との戦で軍功を上げるかと思いきや、敵国の将軍も感涙するほど無駄な犠牲を嫌い、その結果として隣国の農村化という歴史学者も首を傾げるような現実に至った。
彼が天命に導かれた英雄か、ただ目の前のことに愚直に進み続けた農夫なのかは置いておいて、彼の後半の功績が隣国の王姉であったカテリナの母に恋をして、ただ彼女と結婚したいという個人的願望からの行動であったのは、カテリナだけでなく国民の大体が知っている。
星読み台の一室で、またもそんなゲシヒトの行動に振り回されている人々がいた。
王弟シエルは羊皮紙から顔を上げたものの、すぐに突っ伏すように頭を垂れた。
「何度見ても運命が変わってる。またゲシヒト総帥のせいなのか」
シエルがため息をついたのも無理はなく、ゲシヒトは星読み台が日夜力を尽くして読み解いた運命を朝飯前に変えてしまう。あらかじめ運命を定めた精霊も、ゲシヒトが突き進んだ先にある未来を見て「案外悪くないかも」と考えてしまっている節がある。
王妹マリアンヌは弟より強かった。目にしたものを受け入れずに跳ね返した。
「だめよ、シエル。今回こそは運命を変えられるわけにはいかないの」
まだ太陽が高く、本来の仕事が始まる前の星読み台でも、既に彼らの戦いが始まっていた。シエルが算式で導いた星の運命にも、王妹マリアンヌは断じて抵抗する心づもりだった。
「国王陛下は降臨祭の最後の日、最愛の人とダンスを踊る。私たちはその約束を果たさないと。……カテリナ」
「は」
カテリナは国王陛下にも隠している弟妹殿下の二人だけの密談の時間に、どうして自分が呼ばれているのかさっぱりわからないながらも、恐縮して頭を下げた。
「今日を含めて、降臨祭もあと四日です。私が陛下に引き合わせた三人の令嬢はわかったかしら?」
マリアンヌの問いかけに、カテリナは少し迷ってから告げた。
「二人でしたら、わかりました。アリーシャ嬢とローリー夫人ですね」
「もう一人もわかっているはずよ」
「で、でもそれは」
カテリナはごくんと息を呑んで言葉に詰まった。
カテリナが傍目にもわかるほどうろたえていると、シエルもくすっと笑って言葉を添えた。
「姉上のお考えはわかるな。本命が陛下を好きになってくれるように、いろいろ演出したんだろう」
「ええ。彼女は今回みたいな特別な機会を用意しないと、たぶんいくら王城に勤務していても陛下に接触しようとしなかったのですもの」
くるくると目を回して考えているカテリナに、ね、とマリアンヌは親しみをこめて呼びかけた。
「私はあなたをずっと前から知っていて、きっと陛下もあなたを気に入るとわかっていた。私のいたずらは、半分は成功したと思うの」
ふいにマリアンヌは青い瞳を輝かせて問いかける。
「カテリナ、今の気持ちを教えて。……陛下と最後のダンスを踊ってくれる?」
その言葉を聞いたとき、カテリナの中で小さな子どもが泣き出すような感覚があった。
だめ、それはだめ。小さなカテリナはわがままを言うように叫んで、どうしてと問いかける大人のカテリナの声をかき消した。
母の肖像画の前、大きな背中を丸めて震えていた父、みつめることしかできない自分。いつのことかは忘れてしまったのに、記憶の底に張り付いて離れない。
自分の手に涙が落ちた感覚で目が覚めた。カテリナと気づかわしげに声をかけられて顔を上げる。
「あ、あの、私にできることなら何なりとします」
カテリナは慌てて涙を拭って、けれどまだ溢れてくる涙に喉を詰まらせながら言った。
「た、大変な名誉とわかっています。でも、それでも私は……最後のダンスは、父と踊りたいのです」
姫君の言葉にきちんとした返答をと考えているのに、心は子どものような拙い言葉でカテリナの気持ちを告げさせた。
「私にとって最愛の人は父ですから」
最愛の人とダンスを踊るのは国王だけに決められたもので、一国民のカテリナはそのとおりにする必要はない。
それでもカテリナは、どうしても降臨祭の最終日に父とダンスを踊りたかった。二度と最愛の人に会うことの叶わない父に、一人でその日を過ごしてほしくなかった。
うつむいて黙ったカテリナは、マリアンヌとシエルの戸惑いの気配を感じていた。ダンスは王族にとっては儀式の一つで、カテリナの子どものわがままのような気持ちが伝わったかは定かでなかった。
シエルはマリアンヌをなだめるように見ると、彼はカテリナに言った。
「無理にとは言わないよ。ダンスの相手を選ぶのはその人次第だ。喜びを相手に伝えるダンスが哀しい儀式に変わってしまうのは、精霊の望むところじゃない」
シエルは助け舟を出したが、ちょっと考え込む時間があった。
カテリナもうつむいたまま考えていると、シエルは再び口を開く。
「でも僕は不思議に思う。精霊が、女の子を泣かせるような運命を選ぶかな」
シエルは席を立ってカテリナの椅子の前に屈むと、彼女と目線を合わせて言った。
「ゲシヒト総帥はよく運命を転じる。今回もそうなのだと思う。今運命のサイコロは転がっている最中なんじゃないかな」
顔を上げたカテリナと目が合うと、シエルは不思議な労わりを彼女に送ってみせた。
「そう、あと四日もあるんだよ。もうちょっと運命と踊ってもいいはずだ」
シエルがマリアンヌを振り向くと、王妹殿下は弟の言葉に少し考えたようだった。
ただマリアンヌは王に次ぐ立場から、確かな気がかりは口にしてみせた。
「星は今日動きを変えた。今のままでは国王陛下と最愛の人のダンスは叶わない」
シエルは星読み仕官として事実にうなずくと、マリアンヌはふいに責任を取り払ったような苦笑を浮かべた。
「……でも、運命は星が決めるもの。星に任せましょう」
マリアンヌは一息ついて、いたずらっぽくカテリナに目配せした。
「今夜もゲシヒト総帥にダンスパーティの招待状を送ってあるの。ぜひいらして」
カテリナはその言葉に慌てたが、マリアンヌはシエルと顔を見合わせて楽しそうに笑っていた。