騎士団寮にしょんぼりと戻って一夜を明かし、翌日カテリナは久しぶりに実家に帰った。
王城から徒歩圏内の閑静な住宅街、だがカテリナの実家は他のお屋敷と違う作りをしていて大変目立つ。
母は元々他国出身の人で、父は生活習慣が違う母のために、ヴァイスラントでは一般的でない屋敷を建てたのだった。カテリナも理解しきれない複雑なルールで配置されたニレの木を騎士のように従えて、幾何学模様を描いた黒いレンガ造りの壁がそびえたっている。
入口から二度曲がって青い輝石の飛び石を五つ数えたところ、ローズマリーの香る鈴を鳴らして、館の扉は開かれる。
もっともカテリナは父との関係を伏せているために、いつもその奥にある裏口から召使いのふりをしてこっそり入るようにしていた。
「ただいま……」
まだ朝早いからと声をひそめたものの、素直なカテリナは帰ったら当然ただいまを言うように育っている。
裏口の扉を開いたとき、早朝の常として屋敷は静まり返っていた。カテリナのただいまを聞いたのは、ご老人の常として早くに起きすぎてしまっていて、今は庭師として第二の人生を送っている先代の執事だった。
「……お嬢様」
彼はやはりご老人の常として最近涙もろくなり、カテリナの姿をみとめるなり目を潤ませて、裏口に備えられているベルを素早く鳴らした。
ちょっと過剰だとカテリナが思っている荘厳なベルと共に、屋敷中が一斉に動き出す。家中のカーテンが開かれて日の光が差し込み、厨房に火が入って、カテリナが気を利かせてだいぶ遠回りして居間に着いたときには、召使いたちが勢ぞろいしてカテリナを待っていた。
「おかえりなさいませ、お嬢様。お待ちしておりました。……もう少しでお待ちできなくなるところでした」
代表して一礼した執事は、確かにカテリナを待っていてくれたのだろう。一分の隙もなく髪も黒服も整えていたが、目の下には何日も寝ていないようなクマができていた。
彼のほっそりとした端正な面差しと禁欲的なまなざしがだいぶやつれていて、カテリナは心配そうに言った。
「チャールズ、ちゃんと寝なきゃだめだよ」
「これが寝ていられますか!」
副業として学校で行儀作法も教えているチャールズ・メイン卿は、普段の落ち着きを振り払って声を荒らげる。
「降臨祭がもう半分終わっております! この長期休暇こそ日頃の疲れを癒していただこうと、召使い一同準備しておりました。野蛮な男ばかりの騎士団で、お嬢様が日頃どれほどつらい思いを」
「してないよ。みんなで休憩時間の球技を楽しみにしてるよ」
カテリナが澄んだまんまるの目で主張すると、チャールズは首を横に振った。
「旦那様がどれだけご心配されているか察してくださいませ。せっかくの降臨祭ですのに、お嬢様が仕事中だからと、お出かけにもならずに気を落としていらっしゃいました」
そう言われるとカテリナも心が痛い。下を向いて、そうなんだ、としょげた彼女は、召使いたちが目を合わせてうなずきあったのに気づかなかった。
申し訳なさから、カテリナはもぞもぞと問いかけを口にする。
「お父さんはどこ?」
「昨日から王城に呼ばれていらっしゃいます。国王陛下の降臨祭のダンスの相手が決まらないとのことで」
たぶんそれは今頃決着がついていることだろう。カテリナはあいまいに笑って、そうなんだ、とこれにもしょげた様子で答えた。
チャールズは、カテリナの沈んだ様子は父と入れ違いになってがっかりしたのだと思ったらしい。眉を上げて言葉を続けた。
「国王陛下のダンスなどどうでもよろしい。とにかくようやくお嬢様がお帰りになった、それが何よりです。旦那様も本音ではそうお考えですよ」
元々は他国出身の母の筆頭従者であるチャールズは、今もまったく国王陛下に忠誠心がない。精霊との約束もどうでもいいと言い切るそのあっさりした価値観に、カテリナはいつもながらちょっと感心した。
彼はふと何かに気づいたように目を見張って、カテリナに歩み寄る。
「ああ、またそのように髪をぞんざいに扱って。リリー様譲りの美しい御髪になんということをなさいます」
チャールズはカテリナの帽子を恭しく取ると、縛って隠している黒髪が傷んでいないかというように懸命に手で梳いて整えていた。
チャールズはカテリナが子どもの頃から髪を切るのを大反対していて、ヴァイスラントでは一般的な髪色である茶色に初めて染めたときは一晩寝込んだ。カテリナは自分のまっすぐで真っ黒な髪はそんなに好きではないのだが、チャールズは宝石のようにカテリナの髪に触れる。
それは亡きカテリナの母が美しい黒髪で知られていた人だからなのだろうが、母が亡くなったときカテリナは幼すぎて、肖像画の中でしか母との共通点を探せない。母に仕えていたチャールズの手前、そんなに似てるかなとも言えなくて複雑だった。
カテリナの髪を整え終えると、チャールズは手を叩いて使用人たちに命じる。
「さ、お嬢様に朝餉を」
まもなく朝食が運ばれてきて、馴染んだ実家の朝が始まる。主人であるカテリナの父は元々庶民の出であるから、市場で買ってきたパンや野菜、小さなお店の牛乳、豪勢ではないけれどしっかり力のつく朝食が並ぶ。
けれど食事が終わると、チャールズが選び抜いた侍女たちに囲まれて令嬢として過ごす時間が始まる。
「お嬢様、書庫に蔵書が増えましたよ」
「庭の薔薇が満開ですよ」
「お出でになりませんか?」
カテリナの母は他国とはいえ身分の高い人で教養も深い人だったから、今もチャールズが家にちょっとした図書館並みの蔵書と華やかな庭園を整えていた。カテリナは美女軍団と勝手に名前をつけている侍女たちと、本を読んだり庭を散歩したりして休日を過ごす。
母は幼い日に亡くしているが、愛情を持って育ててくれた執事も侍女たちもいて、何より父が側にいた。ひだまりのような家に帰って来ると、ここ数日の仕事づくめの日々の方が夢だったような気もしてくる。
今度の父の誕生日のプレゼントを侍女たちとあれこれ考えていた、そんなときだった。
「お嬢様、見ていただきたいものがあるのですが」
夕刻の頃まで好きなようにくつろいでいたカテリナに、チャールズが声をかけてきた。
うん、どうしたのと言って、カテリナはチャールズに続いて自室に入る。
そこに広げられていたものを見て、カテリナは息を呑んだ。チャールズは恭しくそれを示しながら言う。
「十七歳のとき、リリー様が初めてサロンにデビューされたときの衣装を仕立て直したものです」
それは黒絹に銀糸で刺繍のほどこされた異国のドレスだった。ヴァイスラントで一般的なふんだんにあしらわれたレースと膨らんだ裾を持つ型ではなく、しなやかなラインとシンプルな裾で、ヴァイスラント国民の感覚では地味ともいえるものだった。
「きれい」
でもそれを身に着けた母の肖像画は姫君のように可憐で、カテリナは子どもの頃から目を輝かせて見上げていた。思わずカテリナがつぶやくと、チャールズはためらいがちに言った。
「一度だけ……どうかこれをお召しになって、私とサロンに出かけてはくださいませんか?」
「え?」
チャールズは願うようにカテリナを見て続ける。
「お嬢様が少年の格好を気に入っていらっしゃるのは知っています。けれどこれを着ていただきたい方は、もうお嬢様しかいらっしゃいませんから」
カテリナはチャールズを見上げて、少しの間返す言葉に迷った。自分が母のように美しく着こなせるとは思わなかったが、彼の言う通り、自分が着なければ彼はこれを誰に着せようともしないのだろう。
いつまでもチャールズに母の形見を保管させるのは、彼に重荷なんじゃないだろうか。そういう思いがあって、カテリナはうなずいていた。
「……うん。いいよ」
結局チャールズの望むとおり、カテリナは侍女たちに手伝ってもらいながらドレスを身に着けることにした。
「お嬢様がドレスを! 私どもにお任せくださいませ」
侍女たちに話したら、母が隣国にいた頃から仕えている侍女頭も含めて手放しで喜ばれた。彼女らは熱烈に目を輝かせてカテリナを取り囲むと、口々に言い合う。
「こちらはいかがですか?」
「悪くはないけど、もうひとこえほしいわ。お嬢様の御髪の色にぴったりのものがあるはずよ」
「ここで惜しむ理由はありません。あるもの全部出してきましょう!」
「そうね。絶対に負けられないわ!」
何に勝つのかはカテリナにはわからなかったが、絶妙に統制の取れた侍女たちは手早くプランを練って取り掛かってくれた。
カテリナだったら一結びで終わるところ、髪を編みこんで結いあげて、童顔だから似合わないよと断ったお化粧も、必ずお美しくいたしますからと断言して施してくれた。
「な、なんだかお姫様みたいだね」
カテリナは普段着ないだけで、柔らかい生地の感触も繊細な花の模様も、別に嫌っているわけではない。初めて母と同じものに包まれることに気が付けば心は踊っていて、侍女たちを振り向いて喜んでいた。
侍女頭は侍女たちと顔を見合わせて目を丸くすると、大真面目に指を立てて言った。
「何を当たり前のことを仰います。私どもにとっては、お嬢様はお生まれのときからお姫様ですよ」
侍女頭はカテリナの髪を優しく整えながら、ふいに声をにじませた。
「リリー様も喜んでくださるはずです。……お嬢様がお生まれになったとき、いつか一緒にドレスを着てサロンに出かけましょうと、笑っていらしたから」
カテリナは目を伏せて、今までドレスを着たことがなかったことを母に申し訳なく思った。
「さあ、お顔を上げてごらんくださいませ。バルガス家の誇る、唯一無二のお姫様ですよ」
侍女頭は明るく声を上げて、姿見の前にカテリナを導こうとする。
カテリナはちょっといたずら心がわいて、侍女頭に声をかけた。
「あ、待って。最初に見てもらう人は決めてるんだ」
カテリナは口の前に指を当てて、そろそろと隣室に向かった。
「チャールズ、こっちを見て」
カテリナは出来上がったドレス姿を自分で確かめる前に、隣室で待っているチャールズに見せるつもりでいた。
母のドレスに恥じないように精一杯足運びも表情もおしとやかに、けれどうさぎのようにひょこりと、隣室に立ち入る。
「どうかな?」
振り向いたチャールズは、しばらく言葉を失っているようだった。
カテリナがドレスの裾をつまんでくるりと回ると、絹よりも鮮やかな黒髪も光を放つように輝いた。健康的でまっさらな肌に、頬と唇とだけにほんの少し差した朱が映えていた。
感想を聞きたいカテリナが、チャールズ、とむくれてもう一度問いかけるまで、チャールズは身動き一つ取らずにカテリナをみつめていた。
彼は息を詰めてカテリナをみつめた後、やっとというように言葉をこぼした。
「……まるで夢の中のようで、言葉がみつかりません」
カテリナは冗談のように感じて、くすっと笑い返す。
「いいよ、無理しなくて。お母さんみたいにはいかないってわかってるもの」
カテリナはいつものように気楽に言ったが、チャールズは嘆息して首を横に振った。
「いいえ。……いいえ。お嬢様はリリー様のすべてを受け継いでいらっしゃる」
「チャールズは褒めるのが上手だなぁ。そんなことより、行こうよ」
カテリナは笑って、子どもが母親に甘える仕草でチャールズの腕に自分の手を添えた。
チャールズは姫君をエスコートするうやうやしさでその手を取って、屋敷の外に待つ馬車へ向かった。
走り出した馬車の中、隣に座るチャールズを見上げてカテリナは告げる。
「チャールズに恥をかかせたらごめんね」
「ご心配は無用です。私にお任せください」
「うん。頼りにしてるよ」
貴族で、こういったエスコートも慣れているチャールズなら大丈夫だろうと思って、カテリナも安心できた。
日が静まる頃に馬車は小さな館に着いて、チャールズに手を引かれて馬車を降りる。
そこは庭に赤茶色の灯がともされ、にぎやかではないが心地よい笑い声を交わす貴婦人たちが行き来していた。
彼女らの服装はカテリナと同じで隣国の名残があったが、交わす言葉はヴァイスラントのもので、静かに宵の時を共有していた。
「……私、何か変かな」
馬車を降りるなりカテリナに集中した視線に、彼女は何か失敗をしてしまったのかと反射的にチャールズを見やる。
「姫君のご到着は人目を引くもの。さ、参りましょう」
チャールズは安心させるように笑って、カテリナの手を引いて進む。
灯りに照らし出されて陰をはらみながら花が咲く庭は、昼間とは違うひそやかさがあった。カテリナは緊張しながらチャールズの腕につかまって、そっと問いかける。
「ここは?」
「とても高貴な御方のサロンですよ。お嬢様をデビューさせるなら、このサロンと決めておりました」
チャールズはぽつりと告げて、あるテーブルの前で立ち止まる。
女主人らしい方の前で片膝をついてその手に口づけを落としたチャールズの隣で、カテリナも腰を折って礼を取る。
顔を上げたカテリナはそこに王妹マリアンヌの微笑をみとめて、一瞬不思議な心地がした。
「……君は?」
そしてマリアンヌの隣にギュンターが立っていることに気づく。
彼が問いかけた声がいつも自分にかけられる声と違う気がして、どきりとしたのだった。
王城から徒歩圏内の閑静な住宅街、だがカテリナの実家は他のお屋敷と違う作りをしていて大変目立つ。
母は元々他国出身の人で、父は生活習慣が違う母のために、ヴァイスラントでは一般的でない屋敷を建てたのだった。カテリナも理解しきれない複雑なルールで配置されたニレの木を騎士のように従えて、幾何学模様を描いた黒いレンガ造りの壁がそびえたっている。
入口から二度曲がって青い輝石の飛び石を五つ数えたところ、ローズマリーの香る鈴を鳴らして、館の扉は開かれる。
もっともカテリナは父との関係を伏せているために、いつもその奥にある裏口から召使いのふりをしてこっそり入るようにしていた。
「ただいま……」
まだ朝早いからと声をひそめたものの、素直なカテリナは帰ったら当然ただいまを言うように育っている。
裏口の扉を開いたとき、早朝の常として屋敷は静まり返っていた。カテリナのただいまを聞いたのは、ご老人の常として早くに起きすぎてしまっていて、今は庭師として第二の人生を送っている先代の執事だった。
「……お嬢様」
彼はやはりご老人の常として最近涙もろくなり、カテリナの姿をみとめるなり目を潤ませて、裏口に備えられているベルを素早く鳴らした。
ちょっと過剰だとカテリナが思っている荘厳なベルと共に、屋敷中が一斉に動き出す。家中のカーテンが開かれて日の光が差し込み、厨房に火が入って、カテリナが気を利かせてだいぶ遠回りして居間に着いたときには、召使いたちが勢ぞろいしてカテリナを待っていた。
「おかえりなさいませ、お嬢様。お待ちしておりました。……もう少しでお待ちできなくなるところでした」
代表して一礼した執事は、確かにカテリナを待っていてくれたのだろう。一分の隙もなく髪も黒服も整えていたが、目の下には何日も寝ていないようなクマができていた。
彼のほっそりとした端正な面差しと禁欲的なまなざしがだいぶやつれていて、カテリナは心配そうに言った。
「チャールズ、ちゃんと寝なきゃだめだよ」
「これが寝ていられますか!」
副業として学校で行儀作法も教えているチャールズ・メイン卿は、普段の落ち着きを振り払って声を荒らげる。
「降臨祭がもう半分終わっております! この長期休暇こそ日頃の疲れを癒していただこうと、召使い一同準備しておりました。野蛮な男ばかりの騎士団で、お嬢様が日頃どれほどつらい思いを」
「してないよ。みんなで休憩時間の球技を楽しみにしてるよ」
カテリナが澄んだまんまるの目で主張すると、チャールズは首を横に振った。
「旦那様がどれだけご心配されているか察してくださいませ。せっかくの降臨祭ですのに、お嬢様が仕事中だからと、お出かけにもならずに気を落としていらっしゃいました」
そう言われるとカテリナも心が痛い。下を向いて、そうなんだ、としょげた彼女は、召使いたちが目を合わせてうなずきあったのに気づかなかった。
申し訳なさから、カテリナはもぞもぞと問いかけを口にする。
「お父さんはどこ?」
「昨日から王城に呼ばれていらっしゃいます。国王陛下の降臨祭のダンスの相手が決まらないとのことで」
たぶんそれは今頃決着がついていることだろう。カテリナはあいまいに笑って、そうなんだ、とこれにもしょげた様子で答えた。
チャールズは、カテリナの沈んだ様子は父と入れ違いになってがっかりしたのだと思ったらしい。眉を上げて言葉を続けた。
「国王陛下のダンスなどどうでもよろしい。とにかくようやくお嬢様がお帰りになった、それが何よりです。旦那様も本音ではそうお考えですよ」
元々は他国出身の母の筆頭従者であるチャールズは、今もまったく国王陛下に忠誠心がない。精霊との約束もどうでもいいと言い切るそのあっさりした価値観に、カテリナはいつもながらちょっと感心した。
彼はふと何かに気づいたように目を見張って、カテリナに歩み寄る。
「ああ、またそのように髪をぞんざいに扱って。リリー様譲りの美しい御髪になんということをなさいます」
チャールズはカテリナの帽子を恭しく取ると、縛って隠している黒髪が傷んでいないかというように懸命に手で梳いて整えていた。
チャールズはカテリナが子どもの頃から髪を切るのを大反対していて、ヴァイスラントでは一般的な髪色である茶色に初めて染めたときは一晩寝込んだ。カテリナは自分のまっすぐで真っ黒な髪はそんなに好きではないのだが、チャールズは宝石のようにカテリナの髪に触れる。
それは亡きカテリナの母が美しい黒髪で知られていた人だからなのだろうが、母が亡くなったときカテリナは幼すぎて、肖像画の中でしか母との共通点を探せない。母に仕えていたチャールズの手前、そんなに似てるかなとも言えなくて複雑だった。
カテリナの髪を整え終えると、チャールズは手を叩いて使用人たちに命じる。
「さ、お嬢様に朝餉を」
まもなく朝食が運ばれてきて、馴染んだ実家の朝が始まる。主人であるカテリナの父は元々庶民の出であるから、市場で買ってきたパンや野菜、小さなお店の牛乳、豪勢ではないけれどしっかり力のつく朝食が並ぶ。
けれど食事が終わると、チャールズが選び抜いた侍女たちに囲まれて令嬢として過ごす時間が始まる。
「お嬢様、書庫に蔵書が増えましたよ」
「庭の薔薇が満開ですよ」
「お出でになりませんか?」
カテリナの母は他国とはいえ身分の高い人で教養も深い人だったから、今もチャールズが家にちょっとした図書館並みの蔵書と華やかな庭園を整えていた。カテリナは美女軍団と勝手に名前をつけている侍女たちと、本を読んだり庭を散歩したりして休日を過ごす。
母は幼い日に亡くしているが、愛情を持って育ててくれた執事も侍女たちもいて、何より父が側にいた。ひだまりのような家に帰って来ると、ここ数日の仕事づくめの日々の方が夢だったような気もしてくる。
今度の父の誕生日のプレゼントを侍女たちとあれこれ考えていた、そんなときだった。
「お嬢様、見ていただきたいものがあるのですが」
夕刻の頃まで好きなようにくつろいでいたカテリナに、チャールズが声をかけてきた。
うん、どうしたのと言って、カテリナはチャールズに続いて自室に入る。
そこに広げられていたものを見て、カテリナは息を呑んだ。チャールズは恭しくそれを示しながら言う。
「十七歳のとき、リリー様が初めてサロンにデビューされたときの衣装を仕立て直したものです」
それは黒絹に銀糸で刺繍のほどこされた異国のドレスだった。ヴァイスラントで一般的なふんだんにあしらわれたレースと膨らんだ裾を持つ型ではなく、しなやかなラインとシンプルな裾で、ヴァイスラント国民の感覚では地味ともいえるものだった。
「きれい」
でもそれを身に着けた母の肖像画は姫君のように可憐で、カテリナは子どもの頃から目を輝かせて見上げていた。思わずカテリナがつぶやくと、チャールズはためらいがちに言った。
「一度だけ……どうかこれをお召しになって、私とサロンに出かけてはくださいませんか?」
「え?」
チャールズは願うようにカテリナを見て続ける。
「お嬢様が少年の格好を気に入っていらっしゃるのは知っています。けれどこれを着ていただきたい方は、もうお嬢様しかいらっしゃいませんから」
カテリナはチャールズを見上げて、少しの間返す言葉に迷った。自分が母のように美しく着こなせるとは思わなかったが、彼の言う通り、自分が着なければ彼はこれを誰に着せようともしないのだろう。
いつまでもチャールズに母の形見を保管させるのは、彼に重荷なんじゃないだろうか。そういう思いがあって、カテリナはうなずいていた。
「……うん。いいよ」
結局チャールズの望むとおり、カテリナは侍女たちに手伝ってもらいながらドレスを身に着けることにした。
「お嬢様がドレスを! 私どもにお任せくださいませ」
侍女たちに話したら、母が隣国にいた頃から仕えている侍女頭も含めて手放しで喜ばれた。彼女らは熱烈に目を輝かせてカテリナを取り囲むと、口々に言い合う。
「こちらはいかがですか?」
「悪くはないけど、もうひとこえほしいわ。お嬢様の御髪の色にぴったりのものがあるはずよ」
「ここで惜しむ理由はありません。あるもの全部出してきましょう!」
「そうね。絶対に負けられないわ!」
何に勝つのかはカテリナにはわからなかったが、絶妙に統制の取れた侍女たちは手早くプランを練って取り掛かってくれた。
カテリナだったら一結びで終わるところ、髪を編みこんで結いあげて、童顔だから似合わないよと断ったお化粧も、必ずお美しくいたしますからと断言して施してくれた。
「な、なんだかお姫様みたいだね」
カテリナは普段着ないだけで、柔らかい生地の感触も繊細な花の模様も、別に嫌っているわけではない。初めて母と同じものに包まれることに気が付けば心は踊っていて、侍女たちを振り向いて喜んでいた。
侍女頭は侍女たちと顔を見合わせて目を丸くすると、大真面目に指を立てて言った。
「何を当たり前のことを仰います。私どもにとっては、お嬢様はお生まれのときからお姫様ですよ」
侍女頭はカテリナの髪を優しく整えながら、ふいに声をにじませた。
「リリー様も喜んでくださるはずです。……お嬢様がお生まれになったとき、いつか一緒にドレスを着てサロンに出かけましょうと、笑っていらしたから」
カテリナは目を伏せて、今までドレスを着たことがなかったことを母に申し訳なく思った。
「さあ、お顔を上げてごらんくださいませ。バルガス家の誇る、唯一無二のお姫様ですよ」
侍女頭は明るく声を上げて、姿見の前にカテリナを導こうとする。
カテリナはちょっといたずら心がわいて、侍女頭に声をかけた。
「あ、待って。最初に見てもらう人は決めてるんだ」
カテリナは口の前に指を当てて、そろそろと隣室に向かった。
「チャールズ、こっちを見て」
カテリナは出来上がったドレス姿を自分で確かめる前に、隣室で待っているチャールズに見せるつもりでいた。
母のドレスに恥じないように精一杯足運びも表情もおしとやかに、けれどうさぎのようにひょこりと、隣室に立ち入る。
「どうかな?」
振り向いたチャールズは、しばらく言葉を失っているようだった。
カテリナがドレスの裾をつまんでくるりと回ると、絹よりも鮮やかな黒髪も光を放つように輝いた。健康的でまっさらな肌に、頬と唇とだけにほんの少し差した朱が映えていた。
感想を聞きたいカテリナが、チャールズ、とむくれてもう一度問いかけるまで、チャールズは身動き一つ取らずにカテリナをみつめていた。
彼は息を詰めてカテリナをみつめた後、やっとというように言葉をこぼした。
「……まるで夢の中のようで、言葉がみつかりません」
カテリナは冗談のように感じて、くすっと笑い返す。
「いいよ、無理しなくて。お母さんみたいにはいかないってわかってるもの」
カテリナはいつものように気楽に言ったが、チャールズは嘆息して首を横に振った。
「いいえ。……いいえ。お嬢様はリリー様のすべてを受け継いでいらっしゃる」
「チャールズは褒めるのが上手だなぁ。そんなことより、行こうよ」
カテリナは笑って、子どもが母親に甘える仕草でチャールズの腕に自分の手を添えた。
チャールズは姫君をエスコートするうやうやしさでその手を取って、屋敷の外に待つ馬車へ向かった。
走り出した馬車の中、隣に座るチャールズを見上げてカテリナは告げる。
「チャールズに恥をかかせたらごめんね」
「ご心配は無用です。私にお任せください」
「うん。頼りにしてるよ」
貴族で、こういったエスコートも慣れているチャールズなら大丈夫だろうと思って、カテリナも安心できた。
日が静まる頃に馬車は小さな館に着いて、チャールズに手を引かれて馬車を降りる。
そこは庭に赤茶色の灯がともされ、にぎやかではないが心地よい笑い声を交わす貴婦人たちが行き来していた。
彼女らの服装はカテリナと同じで隣国の名残があったが、交わす言葉はヴァイスラントのもので、静かに宵の時を共有していた。
「……私、何か変かな」
馬車を降りるなりカテリナに集中した視線に、彼女は何か失敗をしてしまったのかと反射的にチャールズを見やる。
「姫君のご到着は人目を引くもの。さ、参りましょう」
チャールズは安心させるように笑って、カテリナの手を引いて進む。
灯りに照らし出されて陰をはらみながら花が咲く庭は、昼間とは違うひそやかさがあった。カテリナは緊張しながらチャールズの腕につかまって、そっと問いかける。
「ここは?」
「とても高貴な御方のサロンですよ。お嬢様をデビューさせるなら、このサロンと決めておりました」
チャールズはぽつりと告げて、あるテーブルの前で立ち止まる。
女主人らしい方の前で片膝をついてその手に口づけを落としたチャールズの隣で、カテリナも腰を折って礼を取る。
顔を上げたカテリナはそこに王妹マリアンヌの微笑をみとめて、一瞬不思議な心地がした。
「……君は?」
そしてマリアンヌの隣にギュンターが立っていることに気づく。
彼が問いかけた声がいつも自分にかけられる声と違う気がして、どきりとしたのだった。