仮眠から目覚めて星読み台で一夜を過ごした日、それはカテリナにとって新しい扉を開いた日になった。
 もっとも近衛兵たちが想像したような甘く情熱的な共同作業を陛下と成したわけではなく、ある意味で大人への階段を駆け上って、そして新しい扉の向こうで力尽きた。
「よくやった、カティ」
 星読み台に設けられた臨時の国王陛下の執務室で、まさか陛下から聞けるとは思わなかった労いの言葉をもらっても、カテリナはしばらく机の一点をみつめたまま動けなかった。
 机には一面、カテリナの身長ぎりぎりまで積まれた書類とインクの切れた数本のペンが転がっている。足元にはもちろん、部屋の至るところにもうず高く書類が積まれて、陛下もその隙間からカテリナに声をかけたのだった。
 一晩、カテリナは陛下の元で星読み台の秘された職務に就いていた。その職務というのは星の配置や動きから精霊の言葉を解読するという、一見夢のある仕事だった。
 たとえ星が半刻と同じ配置をしておらず、二度と同じ配置に戻らないとしても、それを一晩愚直に追い続けるのが星読み台の仕事だと知ることになった。
 カテリナはまだ呆然としながらギュンターに訊ねる。
「これで本当に当たるんでしょうか」
「外れることもある。ところが恐ろしいことに、大体精霊の言う通りになる」
 カテリナが独り言のようにつぶやくと、ギュンターもさすがに疲れた様子で言った。
「恵みも災いも、人には見えないものの答えを、精霊はめったに間違えたりしない。教え方が多少迷惑なだけだ」
 精霊の言葉である星の解読法則は、建国のときから変わっていないという。国防に関わるので一般国民には法則を知らせていないが、この仕事に就いて一日のカテリナでも一応理解できる難易度で、ギュンターに教わりながらではあるが実際の解読もできた。一晩でペンが五本インク切れになるほど絶え間なく数式を書き続けただけだ。
「ちなみに今日の君の運勢は、「悪くない」。たぶん精霊の言う通りになるだろう」
 ギュンターは年の功だけ余裕を持っていたのか、ちゃっかり個人的な星占いも収集していたらしかった。
 ギュンターは少し考えてカテリナに問う。
「君は星読み仕官に向いているな。どう思う?」
 騎士をやめたら星読み仕官になるのもいいかもしれない。そう思っていたはずだが、カテリナは即答できなかった。
 昼間の星読み仕官室の冷え方が理解できた。彼らは一種の冬眠に入っていて、夜にできるだけ力を温存していたらしかった。
「もう少し陛下の下で働かせてください」
 転職の理想と現実を前に少しだけ弱気になったカテリナは、それほど陛下に悪い印象ではなかったらしい。
 そうかとほっとしたようにうなずいた陛下にカテリナは気づかず、なんだか声が優しいことも麻痺した耳ではぼんやりと聞くしかできなかった。
「疲れただろう。帰りの馬車では寝ていることを許す。あと、王城に帰る前に少し休んで、朝食を取ってきなさい」 
「お言葉のとおりに」
 カテリナはのろのろと立ち上がって一礼した。ギュンターは苦笑して、転ぶなよ、と子どもにするように言ってから、ふと扉の方を見た。
「わかっていたつもりだが、やはり来なかったな」
 カテリナがギュンターを見ると、彼もやはり疲れていたのか、普段口にしない弱音のような言葉を口にした。
「星読み台には弟がいるんだ。真面目で素直なんだが、年が離れすぎていて言葉をかけ間違えたように思う。……もうずっと私と口を利かない。星読み博士から仕事に苦戦しているとは聞いているが、俺が仕官室に立ち入って労いをするのも、今更遅いのだろう」
 カテリナは思わず掛ける言葉を探したが、事は国王と王弟の関係で、たやすい解決は通用しないような気がした。カテリナが父と喧嘩したときは、怒りながらも永遠に縁が切れることなど想像もしていないが、王と王弟という立場はもっと難しいに違いなかった。
 ギュンターはため息をついて言う。
「君は少し弟に似ている。悪いな、こんな話をして。だからどうということもないんだ」
 行ってくれとギュンターが先に話を打ち切って、カテリナは部屋を去るしかなかった。
 廊下を渡りながら、あまり回っていない頭でギュンターの言葉を思っていた。陛下はアリーシャのことも年が離れているから結婚などと言っていたことがある。ヴァイスラントでは別に十歳程度の年の差結婚、珍しくはないのにとカテリナは不思議に思っていたが、それは王弟とのことがあったからのようだった。
 言葉一つで永遠に縁が切れたりなんてしないんじゃないかな。そう思うくらいには、カテリナは家族に甘えている。
 階下に降りて食堂に入り、パンとスープを受け取って席に向かった。
 パンをかじりながら、自分だったらどうやって仲直りするだろうと考えていたときだった。
「昨日はありがとう」
 夜を徹しての仕事の後、カテリナのようにぼんやり朝食を取っている仕官たちの物音の中で、聞き覚えのある声が耳に入った。
 瞬間的に顔に熱が蘇って恐る恐る隣を見ると、ブロンドに灰青の瞳、明るい陽射しの中で見れば実に陛下とよく似ている少年が、控えめに笑いかけていた。
 シエル王弟殿下はカテリナの一つ年下、次期星読み博士となるべく勤め始めて一年になると聞いている。王族という立場上、あくまで名誉職であって実務に詳しくなくともという陰口に苦しみながら、星読み台で昼夜問わず仕官たちと仕事に打ち込んでいて、王城にもほとんど帰ってこない人だった。
「カティというんだね。今日の服装は何だか雰囲気が違う。素敵だ」
 昨日は暗かったから声を聞かれなければ同一人物とはわからないかも。そういう甘い考えはあっさり覆されたが、さすが陛下の弟君、女性には流れるような褒め言葉だった。
 カテリナは何か言い訳しようと思ったが、何を言い訳していいかわからなかった。女性ということを知られた以上に、王弟殿下と初めてのキスをしてしまったその事実は、カテリナにとって大事件だがこの場で口にすべきことでもない。
 けれどシエルはそれ以上カテリナに追及することはなく、友達にするように声をかけた。
「さ、食べよう」
 顔を赤くしたり青くしたり忙しいカテリナの心の動揺を知ってか知らずか、シエルは優雅に笑って手元に目を戻した。
 周りで食器の擦れる音が鳴る中、しばらくシエルは無言で朝食を取っていた。さすが育ちがいいのか、音も立てなければ味気のないパンでも美味しそうに口にする。カテリナはその仕草に少しみとれてから自分も食事をしようとしたが、いくらカテリナでもこの場合何事もなかったかのように過ぎてはいけないと知っていた。
 ごくんと息を呑んで、カテリナは頭を下げる。
「昨夜は無礼を申し上げて、大変申し訳ありませんでした」
「……ん、ううん」
 まだ十六歳とは思えない落ち着いた物腰を持つ殿下、そういう噂は聞いていた。けれどカテリナを振り向こうとして目を伏せたのは、少年が年相応に言葉に詰まる様子だった。
 食べよう、と彼はもう一度早口に言った。カテリナもつられて言葉に詰まって、二人の間に沈黙が下りた。
 王弟殿下も昨日のことは勢いだったのだろうし、先ほど陛下から聞いたように国王陛下と喧嘩中でもあるしと、カテリナはこの場合関係ないこともぐるぐる考える。
 シエルは息を吸って、照れくさそうに言った。
「一つだけ聞いて。だからどうということもないのだけど」
 シエルは陛下のような前置きをして、カテリナを見やった。
「昨日の夜は、見えなかったものがずっとそこにあったみたいな気持ちだった」
 シエルは先に食事を終えて、恋人に呼びかけるように言った。
「またね、精霊さん」
 カテリナは頭を下げて王弟殿下が退出するのを見送りながら、彼とこれから何度も会いそうな気がしていた。
 昨日の夜は精霊のくれた偶然だったのかもしれない。カテリナは夢みたいな考えに苦笑しながら、それも素敵なことのように感じていた。