「イヤーッ!!」
 「やめなさい!」

 そんな言葉と共に、壁越しでも十分伝わってくるほどのどよめきが、起こっていた。
 何事か、と二人で病室を出ると、廊下はすでに何人もの群衆で、渋滞していた。

 「何の騒ぎですか!?」
 近くにいる女性に、八代が訊ねる。
 彼女は興奮気味に答えてくれた。

 「様子のおかしい男の子が、男性を殺そうとしてるのよ! ナイフを首に突きつけて、脅してるの! 近づかない方が良いわ!」
 「男の子?」

 嫌な予感がして、女性の肩を掴んで、食い気味に訊く。

 「その男の子は、いくつぐらいですか? 小柄ですか? トイレから出てきましたか?」

 彼女は私の剣幕に、しどろもどろになりながらも、一つ一つ回答してくれる。

 「ええっと、高校生くらいで、そうね確か小柄な方だったと思う。トイレから出てきたかは、わからないわ。私も誰かの悲鳴を聞いて、ここにきたから――あっ、ちょっと!」

 危ないわよ! という制止を意に介さずに、人波を掻き分けていく。
 別の人かもしれない。ここは大きな病院だし、小柄な十代後半の少年など、たくさんいるかもしれない。
 そんな期待を抱きながら、突き進む。
 しかし、残念ながら私の期待は、外れた。

 人垣を割っている途中で、目に飛び込んできたのは、理人君の背中だった。
 女性の言った通り、がっちり捕まえている男性を、刃物で脅し付けている。
 ドラマで人質を押さえる犯人のように、身体を密着させて、腕を男性の首もとに巻き付けていた。
 キラリ、と光るナイフの先端が、かすかに目に入る。
 全身が総毛立つ。

 「理人君!」
 私の叫び声で、彼の肩がビクッと跳ねる。
 そして、拘束している男性ごと、ゆっくりと振り返った。

 「大和さん!?」
 私の隣にきていた八代が、驚愕の声を上げた。

 ——いいや、違う。動きを封じられている男性は、大和さんではない。
 距離があるせいで分かりづらいが、確かに大和さんに少し似ている。しかし、知らない人だった。

 見知らぬ彼は、恐怖と苦しみで歪んだ顔をしていた。ナイフの切っ先から目を離せないらしく、食い入るように見つめては、呼吸を荒く、おかしくしている。

 「わ、私のせいだ……私が通りかからなければ、こんなことには……」
 低い位置から、かすれた声がした。
 目線を下げると、初老の男性が可哀想なほどに震えながら、理人君を見ていた。

 その人の足元には、小型のバスケットと、そこから落ちたと見られる、果物たちがごろごろと転がっていた。
 今理人君が、他人に突きつけているのは、おじいさんから奪った果物ナイフだ、とわかった。

 「理人! やめろ!」
 八代が、腹の底から出ているような大声で、訴える。

 「もうこうするしかないんだよ、兄さん。こいつが……」

 理人君は、焦点の定まらない瞳で、果物ナイフを、腕の中の人物に押し当てる。
 皮膚が少し切れて、一滴の血液がポタリ、と床に落ちた。
 それを見た周りの人たちが、口々に叫び声を上げる。

 「少しでも動いたら、こいつを殺す!」
 人々に牽制するように、理人君が宣言する。
 そして八代の方へ視線を戻し、語り出した。

 「トイレで落ち込んで、幸の名前を繰り返し呟いていたら、こいつに声をかけられたんだ。『幸さんの友達ですか?』って」

 驚いたよ、と薄ら笑いを浮かべる。

 「誰? って訊いたら、幸さんのお姉さんと交際している――って言い出してさぁ。思わず胸ぐらを掴んだよ」
 「ち、違う! 俺は大和の――」
 「喋るな!」
 「ひっ!」

 理人君は、何か言いかけた男性を、一喝する。
 怒鳴られた彼は、口をつぐんで、弁明を諦めた。

 たぶん彼は、大和さんが私を見舞いに来たときに、付いてきてくれたという従兄弟だ。わざわざ、知り合いの知り合いでしかない幸の様子を、見に来てくれたのだ。
 トイレで、『幸さんのお姉さんと交際している者の、従兄弟です』と言おうとしたのに、理人君は最後まで聞かずに、突っ走ってしまったんだ。なんという不運か。
 『その人は、違う。何も関係ない人だよ』と伝えるために、口を開いたけれど、理人君の声によって、遮られる。

 「それで思ったんだ。こいつがいるから、悪いんだ、って。こいつさえいなければ、僕はこんな糞みたい気分にならなくてよかった」
 「理人……」

 呆然とする八代を一瞥して、理人君はフンッと鼻を鳴らした。

 「こいつと付き合ってたから、幸――ああいや、樹里亜だったね。樹里亜はあんなことしたんだよね。僕が最初に彼女と出会っていれば、妹殺しなんてさせなかった。そして二人で幸せになれていたはずなんだ。こいつを殺せば、きっと何もかも上手くいくはずなんだ」

 マシンガンのような勢いで、唾を飛ばしながら、そんなことを口走る彼は、もう何も見えていないみたいだった。
 本気なんだ、と恐怖した。本当に腕の中の人物の、命を奪うつもりだ。

 「理人君! 駄目! そんなことしても、何にもならない! 誰も幸せになんてなれない! それにその人は――」

 樹里亜の彼氏じゃないよ! と続けようとすると、理人君がこちらを見て、叫んだ。

 「うるさい! 君に何がわかるんだ! 僕には彼女しかいなかったんだ!」

 血走った目で、こちらを睨み付けてくる。