殺してくれてありがとう

 マミの目には、大粒の涙が浮かんでいた。自分の鈍さが、この事態を招いたことによる後悔が、溢れかえりそうだった。
 幸が死んでしまったらどうしよう。そんな恐怖と不安に満ちた瞳が、私を見る。

 「やっぱり樹里亜だったんだね」

 答え合わせを終えた私は、深くなった眉間の皺を、指で広げた。そして、長く重い息を吐く。
 樹里亜ならマミの家に上がって、睡眠薬を盛ることも難なく出来る。
 それに気付いて尚、犯人は彼女ではないと思いたかったが——。
 大和さんの言っていたことを、思い出したのだ。

 『5月半ばくらいから、家を売ることに同意するよう頼んでいた』と。
 大和さんに相談したのは、夏休み中ということだ。一人になった病室で、犯人が誰か考えている時、それに気付くべきだった。
 6月1日以前から、幸に殺意を抱いていたと考えられる人物は、私の知っている範囲では、樹里亜だけだった。

 「何でなの? 何で樹里亜先輩は、そんな怖いことをしようと思ったの? わたしが今まで見てた先輩は、嘘だったのかな……?」

 布団に覆われているマミの身体は見えなかったけれど、きっと痙攣したように、震えているのだろう。
 長い間慕っていた人の、恐ろしい一面を見ただけでなく、自分自身が殺されそうになったのだ。
 一生消えないレベルのトラウマかもしれない。

 マミは、言葉を出すのも苦労するように、抑揚の定まらない調子で、訴える。

 「今だにあの場面が――先輩に殴られた瞬間が、フラッシュバックして……しんどくてっ……!」

 私はたまらず、彼女に駆け寄って震える身体を抱き締めたい、と思った。
 しかし、あることに思い当たり、すんでのところで思い留まる。
 そして、泣きじゃくる彼女に、静かに問うた。

 「あんたは樹里亜に、中学の時、幸にしたことを告白したんだよね?」

 鼻を啜りながら、マミは首だけをなんとか動かす。

 「すごく怒られて、『二度と人を陥れる真似はやめて』って言われたんじゃないの?」

 なのに、幸を取り巻いている問題を利用して――。また幸を都合よく使おうとした。
 私と八代だって、ストーカーが捕まえられるのではないか、と期待していた。マミの情報を頼りにしていた。
 樹里亜ほどではないが、マミだって私利私欲のために、他人を利用したじゃないか。
 立ち上がろうと浮かせた腰を、再び椅子におろす。

 私の叱責に、本人はきょとん、とした目を向けた。涙も一時的に引っ込んだようだった。

 「そんなこと言われてないよ? 確かに先輩は怒ったけど、軽い感じで、『暴走するのもほどほどにね』ってデコピンしてきただけだった」
 「え?」
 今度は私がきょとんとする番だった。
 「それ先輩が言ってたの?」
 「そうだけど……」
 「じゃあ、それはたぶん――悠に怪しまれないように先輩が考えた、好感度を上げるための嘘なんじゃないかな」
 「ふっ、あははっ……」
 「悠? 大丈夫?」

 乾いた笑いが出る。不可解な私の挙動に、マミが心配そうな声を上げる。

 「そっか。全部嘘、でたらめ、作り話だったんだね。私の見てきた樹里亜の態度は、すべからく」

 となると、幸が自分に依存しないで、自身の力で幸せを見つけられるように突き放した、というのも、お涙頂戴の作り話だったんだな。
 たいした女優であり、創作家だ。憤りの前に、感心がきてしまう。

 「うん。そうだね。先輩はずっとわたしたちを、騙してた。すごくショックだよ。わたしさ、もう立ち直れないかもしんない……」

 裏切られた、という悲壮感をたっぷり含ませた瞳から、雫が流れ落ち、真っ白な枕にポタリ、と染みを作る。

 「樹里亜先輩は、最低だよ……」
 力なく呟くマミ。
 私は、スッと立ち上がり、ベッドの上の泣き顔を、見下ろす。
 「同じでしょ」
 「え?」

 言葉の意味を図りかねているように、戸惑った声が返ってくる。

 「中学の時に、幸にしたことは、そういうことなんだよ。信じてた人にこっぴどく裏切られた気分が、よくわかったでしょう」
 「けどわたしは、殺そうとまで考えない!  全然違う、はず……」

 反論しようとしたマミだったが、だんだん情けない声音になっていく。

 「そりゃあ、やろうとしたことのえげつなさは、樹里亜の方がずっと上なんだろうけど――でも本質は同じでしょう。自分の欲のために、慕っていた人を裏切って、利用して、トラウマを植え付けたんだから」
 それも一生モノの。

 「だから樹里亜を最低だって言うなら、今までのあんたも最低なんだよ。自分がやったことが、返ってきたんだ」

 淡々と告げる私とは対照的に、マミは稲妻に打たれたような形相をしている。

 「わたし――わ、たし。そんな……」

 ワナワナと唇を震わせ、目を見開く彼女は、過去に犯した罪と、ようやく向き合おうとしているところだった。
 そうして、見られることを恐れるかのように――はたまた消え去りたい衝動に駆られたかのように、私とは反対方向に首を大きく動かした。

 「ごめん。今日は一人にさせて」
 「――わかった」

 椅子を畳んで、部屋の隅に戻す。
 病室を出る寸前、最後に彼女を振り返った。
 顔を背け続けるマミに、これはちゃんと伝えておかなければ、と話し掛ける。

 「回復したらさ、警察にも話してね。あと親御さんに元気な姿を見せてあげて。すごく心配してるはずだから」
 「うん」

 聞こえるか聞こえないかの声量で発せられた返答を確認して、病室の扉を完全に閉めた。
 穏やかな廊下の空気が、肌に伝わってくる。

 ……こちらの話をするどころじゃなくなってしまったな。

 理人君のことや、今のところ予想される樹里亜の動機について、説明するつもりだったのに。
 まあいい。全て解決した後に、知ることになっても問題ないだろう。
 とりあえず八代に、さっき聞いたことを、話しに行かなければ。

 どきどきと脈打つ胸に、そっと手を置く。
 軽く深呼吸した後、外へ向かって歩き出した。
 室内から出ると、暑くも寒くもない絶妙な温度のそよ風を、顔に感じる。
 二人は、広めのベンチに並んで座っていた。

 「待たせちゃったね」
 「まあ、長くなることは想像してたからな。それでどうだったんだ」

 気になって仕方ないという顔に向かって、残念そうに深く頷く。
 予想通りだよ、と。
 最悪だね、と。
 八代は、片手で頭を抱える。その状態で首を振り、「糞……」と洩らす。

 「理人君。私たちこれから、大事な話があるから、ちょっとあそこにいてくれない?」

 怪訝そうに兄を見ている理人君に、お願い、と頼む。
 あそこ、と指し示した先は、30メートルほど離れた場所にある、大木の傍のベンチだ。
 理人君は、不可解そうにしながらも、無言で向かっていった。

 彼がしっかり座るのを目視した後で、よし、と八代の隣に腰を下ろす。
 そして、マミから聞いたことを伝えていく。

 話が進んでいくにつれて、八代の顔は苦しげに歪み、樹里亜がマミを殴ったところで、息を飲んだのがわかった。

 「――それで、幸にも謝れるといいな、って言ってた」
 これで終わり、というように、肩を落とす。

 離れたところにいる理人君は、深刻そうな雰囲気の私たちを、奇妙な目で見ている。
 目が合うと、ふいっと反らされてしまった。
 八代はうつむいていた顔を上げて、彼をじっと見つめる。

 「あいつにも、話さないとな」

 出来ればずっと先送りにしておきたかった重大な仕事に、いよいよ手をつけようとするかのように、八代は言った。

 あなたが心から好いていた『幸』は、彼氏との夢を叶えるために、あなたを利用したかっただけなんだよ。

 そのことをできるだけ傷つかないように、理人君に伝えるには、どうすれば良いのだろう。

 「私から言おうか?」
 「いや、俺から話すよ。ありがとな、気を遣ってくれて」

 そう言って、よいしょ、と立ち上がる。

 「待たせたな、理人」
 おーいと手を振るその姿を見て、私は祈らずにはいられなかった。

 八代がこれ以上家族を失いませんように。
 二人がまた兄弟に戻れますように。

 その時、私の祈りに呼応するみたいに、強風が吹き荒れた。
 髪型が崩れないように頭を押さえながら、空を見上げると、いつの間にか晴天に陰りが出ていた。
 いくつかの雲が、太陽をちらちら覆い隠す。
 そういえば、午後から曇りだと、天気予報が言っていたな。

 「寒……」
 自然とそんな言葉が、口からポロっと出る。
 吹く風が、冬が近いことを知らせていた。

 「中に入るか。幸のところに行こう。その方が話しやすそうだしな」

 八代の提案により、快適な温度に保たれている病院の中へ、戻ることとなった。
 幸は相変わらず、眠り続けている。
 健やかな寝顔は、生死を彷徨っていることなんて、微塵も感じさせない。

 パイプ椅子を広げて、ベッド上の幸を取り囲むように、三人で座る。
 理人君をちらりと見遣ると、彼は苦しそうな顔をしていた。幸を直視するのが辛いみたいで、壁をじっと睨んでいる。

 「理人。これからする話は、お前にとって残酷だろうが、落ち着いて聞いてくれ」

 そう切り出した八代に、理人君は不思議そうな視線を向けた。
 八代は目線を下げて、幸を見る。そして口火を切った。

 「こいつは、確かに幸って名前だけど、お前の求めてた人間じゃないんだ。今までお前とやり取りしてたのは、幸の姉だ」
 「え……?」

 理人君の口から、戸惑いの声が出た。それとほぼ同じタイミングで、バッと幸に顔を向ける。

 「この人は――妹?」
 「ああ。今眠ってるこいつの姉が――樹里亜っていうんだけどな。樹里亜が『幸』って名前を使ってSNSをしていた、ということだ」

 理人君が、ワナワナと震える。
 口元に手を当てて、小さく声を絞り出す。

 「じゃあ……じゃあ、この子と僕はまったく関係なかった、ってことで……」
 「そうだな。6月1日や、丘で遭遇した時の幸の反応は、至極当然だった。理人はずっと、赤の他人を追いかけ回してたんだよ」

 入試試験に必ず出るだろう大切な問題を、繰り返し生徒に言い聞かせるように、八代はゆっくりと告げる。

 「そんな……嘘、だ。そんなの、何で。何で……」

 脳がショートしたみたいに、同じことを呟き続ける彼だったが、話が終わってないことに気づいたらしく、八代を見返した。
 続きを促す気配を受けて、八代が口を開く。

 「樹里亜は、理人の強い気持ちを利用して、妹の幸を殺させようとした。お前と幸を会わせたら、互いがどんな反応をするのか、正確に予測していたんだ」

 理人君が幸に迫り、幸がそれを拒絶する。
 そんな展開になると、樹里亜にはわかっていた。

 「なら、彼女が僕にかけてくれた言葉の数々や、励ましてくれたことは……全部妹を殺すためだったの? 僕は都合よく動く道具として見られてたってこと!?」
 「――残念だが、そういうことだろうな」

 縋るような視線が痛い、という風に、八代は力なく俯いた。

 一言も喋っていない私にさえ、苦痛が伴った。絶対零度の空気が、狭い部屋の中全体に行き渡り、地獄の雰囲気を作り出す。
 ただ一人、意識が隔たったところにある幸だけが、穏やかな形相を保っていた。

 理人君は、顔面蒼白といった様子で、何も見えていないような瞳をしていた。
 大丈夫だろうか、と心配になって、呼び掛けるために息を吸い込んだとき、

 「彼女が……妹を殺そうとした理由は? 僕を騙すような真似をした理由は、一体何だったの……?」

 打ちのめされた彼が、それでも震える声で、八代に問いかけた。

 「樹里亜には、夢があった。恋人と共に、東京の持ち家で暮らす、というものだ」
 「夢……?」
 「そのためには、金が必要だった。樹里亜は、妹の幸と暮らしていた実家を売って、その金で夢を叶えよう、と考えたんだが、幸が同意してくれなかった」

 八代が努めて冷静に話す言葉に、私も真剣に耳を傾ける。
 そして改めて、怒りの感情が襲ってきた。
 落ち着くために、規則正しい呼吸を繰り返す幸を、見つめる。

 「家を売ることに賛同してくれない幸を、邪魔だと思ったんだろう。だからお前が幸を殺してくれることを願って、家に呼んだり、ナイフを持って丘に来るように、なんて指示を出したんだ」

 八代はそこまで淡々と告げ終わった。しかし強く握りしめた拳が、小刻みに震えていることに、確かな心の動乱が感じ取れた。

 「彼氏との暮らしのために、ってこと? じゃあ、あんなに僕に優しくしてくれたのは……好きだよ、って言ってくれたのは……」

 ちゃんと聞き取れたのは、そこまでだった。理人君は、口をもごもごさせて、何事か呟いている。

 その姿に心苦しくなり、どこか遠い場所にでも飛ばされたい、と思った。これ以上理人君のことを見ていたくない、と。
 でもこの部屋の中では、私が一番お気楽なのだ。私なんかよりも、ずっと耐えている優しい人が、ここにいるのだ。
 だから逃げ出すわけにはいかない。
 真剣な眼差しで弟を見守る彼を、しかと瞳に焼き付ける。

 「ちょっと……」

 理人君が、油断すれば聞き逃してしまいそうな声で、ポツリと訴える。

 「ちょっと……トイレに行ってくる」

 そう言い残し、生ける屍のような足取りで、病室を出ていった。
 取り残された私と八代は、数分の間、少しも身動きせず、ぼうっと閉まった扉を眺め続けていた。

 「大丈夫かな……」

 大丈夫なわけない、と重々承知していたけれど、それでも呟かずにはいられなかった。

 「今ごろ頭冷やしてんだろうな。戻ってくるまで長くなるかもだけど、大丈夫か?」

 私の実にならない独り言に、八代は反応してくれた。

 「うん。理人君が少し落ち着くまで、待つよ」
 「そうか」
 「これからどうするの? 警察に樹里亜のことを話しに行く?」
 「いや、まずは樹里亜と話してみようと思う。本人の口から、ちゃんと聞きたい。動機から実行に移すまでの、心境とかもしっかりと」
 「ついてっても良い? 私も樹里亜の本心を知りたい」
 「ああ」

 どうせ樹里亜は、逃げられない。
 マミが助かったので、もう白状するしかないところに来てしまった。それならば彼女の本心を、この目で見届けたい。

 「樹里亜は、マミが救出されたこと、知ってるのかな」
 「折野が連絡してなければ、知らないんじゃねぇか。病院側も、折野の家族にしか電話してないそうだし」

 病院側は、合鍵を持っていた八代のことを、家の人だと思ったらしい。
 その誤解を敢えて訂正しないことで、樹里亜に連絡がいくことを防いだ。
 だから樹里亜は、計画は上手くいっている、と思っているはずだ。真実を知る邪魔者は、今ごろくたばっていると。

 「昨日の夜、色々掃除するために、幸の家に行ってたんだ。そうしたら、物置部屋からこんな物を見つけた」

 八代は、ポケットから折り畳んだ紙を出した。
 手を伸ばして受けとる。それはルーズリーフの切れ端だった。
 そこに書いてある文字を追っていくうちに、身震いが止まらなくなった。

 『樹里亜先輩、ごめんなさい。幸が落下したのは、わたしのせいなんです。幸の近くにあったあのポーチ……あれは昔わたしがプレゼントしたものなんです。わたしからの貰い物だからこそ、幸は風に飛ばされそうになるそれを、懸命に追いかけたんじゃないかと思います。幸がこんなことになったのは、わたしにも責任があるんです。わたしは罪の意識に耐えられません。償いとして最も苦しい自殺方法を取ります。先輩のご実家で死ぬ失礼を、許してください。ここなら防音もしっかりしていて、近所隣の人もいないので、どれほど苦しみ抜こうと誰にも気付かれない、と浅知恵を働かせた結果です。どうか堪忍してください』

 マミらしい丸っこい文字で、綴られている。しかし、マミが書いたものでないことはわかっていた。

 「これ――樹里亜が……」
 「だろうな」

 手のひらの中の紙を、もう一度見る。この文章を書いている時の樹里亜は、どんな顔をしていたのだろうか。
 樹里亜が、血の通っていない化け物のように思えて、心臓が早鐘を打ち始めた。

 胸に手を当てたとき、廊下から聞こえてきた悲鳴が、静寂を切り裂いた。
 「イヤーッ!!」
 「やめなさい!」

 そんな言葉と共に、壁越しでも十分伝わってくるほどのどよめきが、起こっていた。
 何事か、と二人で病室を出ると、廊下はすでに何人もの群衆で、渋滞していた。

 「何の騒ぎですか!?」
 近くにいる女性に、八代が訊ねる。
 彼女は興奮気味に答えてくれた。

 「様子のおかしい男の子が、男性を殺そうとしてるのよ! ナイフを首に突きつけて、脅してるの! 近づかない方が良いわ!」
 「男の子?」

 嫌な予感がして、女性の肩を掴んで、食い気味に訊く。

 「その男の子は、いくつぐらいですか? 小柄ですか? トイレから出てきましたか?」

 彼女は私の剣幕に、しどろもどろになりながらも、一つ一つ回答してくれる。

 「ええっと、高校生くらいで、そうね確か小柄な方だったと思う。トイレから出てきたかは、わからないわ。私も誰かの悲鳴を聞いて、ここにきたから――あっ、ちょっと!」

 危ないわよ! という制止を意に介さずに、人波を掻き分けていく。
 別の人かもしれない。ここは大きな病院だし、小柄な十代後半の少年など、たくさんいるかもしれない。
 そんな期待を抱きながら、突き進む。
 しかし、残念ながら私の期待は、外れた。

 人垣を割っている途中で、目に飛び込んできたのは、理人君の背中だった。
 女性の言った通り、がっちり捕まえている男性を、刃物で脅し付けている。
 ドラマで人質を押さえる犯人のように、身体を密着させて、腕を男性の首もとに巻き付けていた。
 キラリ、と光るナイフの先端が、かすかに目に入る。
 全身が総毛立つ。

 「理人君!」
 私の叫び声で、彼の肩がビクッと跳ねる。
 そして、拘束している男性ごと、ゆっくりと振り返った。

 「大和さん!?」
 私の隣にきていた八代が、驚愕の声を上げた。

 ——いいや、違う。動きを封じられている男性は、大和さんではない。
 距離があるせいで分かりづらいが、確かに大和さんに少し似ている。しかし、知らない人だった。

 見知らぬ彼は、恐怖と苦しみで歪んだ顔をしていた。ナイフの切っ先から目を離せないらしく、食い入るように見つめては、呼吸を荒く、おかしくしている。

 「わ、私のせいだ……私が通りかからなければ、こんなことには……」
 低い位置から、かすれた声がした。
 目線を下げると、初老の男性が可哀想なほどに震えながら、理人君を見ていた。

 その人の足元には、小型のバスケットと、そこから落ちたと見られる、果物たちがごろごろと転がっていた。
 今理人君が、他人に突きつけているのは、おじいさんから奪った果物ナイフだ、とわかった。

 「理人! やめろ!」
 八代が、腹の底から出ているような大声で、訴える。

 「もうこうするしかないんだよ、兄さん。こいつが……」

 理人君は、焦点の定まらない瞳で、果物ナイフを、腕の中の人物に押し当てる。
 皮膚が少し切れて、一滴の血液がポタリ、と床に落ちた。
 それを見た周りの人たちが、口々に叫び声を上げる。

 「少しでも動いたら、こいつを殺す!」
 人々に牽制するように、理人君が宣言する。
 そして八代の方へ視線を戻し、語り出した。

 「トイレで落ち込んで、幸の名前を繰り返し呟いていたら、こいつに声をかけられたんだ。『幸さんの友達ですか?』って」

 驚いたよ、と薄ら笑いを浮かべる。

 「誰? って訊いたら、幸さんのお姉さんと交際している――って言い出してさぁ。思わず胸ぐらを掴んだよ」
 「ち、違う! 俺は大和の――」
 「喋るな!」
 「ひっ!」

 理人君は、何か言いかけた男性を、一喝する。
 怒鳴られた彼は、口をつぐんで、弁明を諦めた。

 たぶん彼は、大和さんが私を見舞いに来たときに、付いてきてくれたという従兄弟だ。わざわざ、知り合いの知り合いでしかない幸の様子を、見に来てくれたのだ。
 トイレで、『幸さんのお姉さんと交際している者の、従兄弟です』と言おうとしたのに、理人君は最後まで聞かずに、突っ走ってしまったんだ。なんという不運か。
 『その人は、違う。何も関係ない人だよ』と伝えるために、口を開いたけれど、理人君の声によって、遮られる。

 「それで思ったんだ。こいつがいるから、悪いんだ、って。こいつさえいなければ、僕はこんな糞みたい気分にならなくてよかった」
 「理人……」

 呆然とする八代を一瞥して、理人君はフンッと鼻を鳴らした。

 「こいつと付き合ってたから、幸――ああいや、樹里亜だったね。樹里亜はあんなことしたんだよね。僕が最初に彼女と出会っていれば、妹殺しなんてさせなかった。そして二人で幸せになれていたはずなんだ。こいつを殺せば、きっと何もかも上手くいくはずなんだ」

 マシンガンのような勢いで、唾を飛ばしながら、そんなことを口走る彼は、もう何も見えていないみたいだった。
 本気なんだ、と恐怖した。本当に腕の中の人物の、命を奪うつもりだ。

 「理人君! 駄目! そんなことしても、何にもならない! 誰も幸せになんてなれない! それにその人は――」

 樹里亜の彼氏じゃないよ! と続けようとすると、理人君がこちらを見て、叫んだ。

 「うるさい! 君に何がわかるんだ! 僕には彼女しかいなかったんだ!」

 血走った目で、こちらを睨み付けてくる。
 「君に僕の気持ちなんて、わかるわけない! 親友もいて、兄さんと良い関係を築いていて――孤独を感じたことのない人間が、邪魔をするな!」

 孤独を感じたことのない人間――。
 放たれたその言葉が、ぐさりと刺さって、上手く声が出なくなる。

 「こいつを殺せば、彼女は僕を見てくれるはずなんだ! そうしたら僕は――」

 そこで言葉を区切り、少しの間をおいて、一際大きな声で叫ぶ。

 「独りじゃなくなる! 彼女は唯一僕を受け入れてくれる人なんだ! 彼女に離れられたら、僕はこの世でひとりぼっちなんだ!」

 喚き散らす理人君の目から、涙が一滴溢れ出す。
 それは止まらなくなり、いくつもの水滴が、彼の頬を伝う。

 「違う!」

 八代が空気を切り裂くように、異議を唱えた。
 その気迫に、肩で息をしていた理人君が、フリーズする。
 ざわめいていた周囲も、水を打ったように静まり返った。

 「聞け、理人」

 八代が、有無を言わせぬ雰囲気を纏って、理人君を納得させようと、言い聞かせる。

 「お前は一生孤独にならない! お前を受け入れる人間となんて、これからごまんと出会える!」
 「なっ……」

 八代の発言に、カチンときたように、理人君は前のめりになりながら、言い返す。

 「都合良いことばっか言わないでよ! じゃあ実際に、ここの人たちに訊いてみようよ!」

 そう言って、集まっている人たちを、ぐるりと見渡す。

 「この中に、僕と親しくしたい、って人はいますかー!?」

 その問いかけに対する反応は、当然沈黙だった。
 さまよう視線とかち合わないように、俯く者、誰かの背中に隠れる者など、賛同者はまったく現れない。

 私はといえば、投げられた言葉がしつこく胸に刺さっていて、声を出すことも、挙手することもできなかった。
 理人君は、満足げに――それでいて落胆したように、真っ赤な目で八代を睨んだ。

 「ほらね、こんなもんじゃん。綺麗事や理想論で、僕が感動するのを期待したの? 残念だったね。やっぱり僕と一緒にいてくれる人なんて、いないんだよ。きっとこれからも現れない」

 壊れた機械のように、べらべらと喋る姿を見て、もうやめてくれ、と思った。
 これ以上は、辛くて直視できない、と瞼を閉じようとした瞬間、
 「ここにいる!」
 ハッとして、隣の八代を見る。

 顔は苦しげに歪み、目は赤く充血していて、今にも血涙が出てきそうだった。
 しかし、それを伝えることが自身の天命だ、とでも言うように、震える唇から言葉を紡いだ。

 「少なくとも一人いる! お前を受け入れる奴がここに! 俺はお前を見捨てたりなんかしない!」

 手のひらを心臓に叩きつけ、八代は必死に伝える。

 「な、なんで……? だって僕は、兄さんに相談もせずに、黙ってあの家を出たんだよ? あの居心地最悪の場所に、兄さんを置き去りにしたんだよ?」

 あの兄弟も死んでれば良かったのに、なんて言っていた親戚たち。
 その人たちから離れたくて、理人君は姿を消した。誰にも何も言わずに。生き残ったたった一人の家族にも、行き先を告げることなく。
 理人君は、泣いていた。全身の怪我の痕から傷が開いたみたいに、痛そうな表情をして、ボロボロ涙を溢れさせていた。

 「わかってるんだよ! 兄さんが僕を恨んでるんだ、ってことは! 再会した時から、ずっと怒ってる雰囲気だったから!」

 そう叫ぶ理人君は、迷子の子どものようだった。
 心細さや不安が、極限にまで達したみたいな顔で、八代に向かって一歩身を乗り出す。

 「俺が怒ってた理由は、お前に頼ってもらえなかった自分への不甲斐なさからくるものだ。理人がこんなに思い詰めるまで、何も出来なかった。そんな自分が憎かった」

 八代は悔しげに、唇を噛み締める。

 「理人を恨んだ日なんて、なかった。本当だ。俺は、お前にずっと会いたかった。それ以外に思うことは、なかった」

 そして、震える理人君に向かって、一歩前へと進み出た。

 「お前は、弟だから。これからもそうだ。お前が嫌がろうと、一生兄貴でいてやる」
 「あ、うわ、あぁっ……!」

 理人君の口から嗚咽が漏れだし、ブルブルと震えた手から、ナイフがするりと落ちた。
 人質が脱兎のごとく逃げ出し、行きがけにナイフを、遥か遠くへ蹴っ飛ばす。
 ナイフは、私の目の届かないほど後方に飛ばされた。きっと近くにいる人が、拾ってくれるだろう。

 ドサッと音がした。理人君が崩れ落ちたのだ。全身の力が抜けたように、床にしりもちをついた彼は、それでも顔を上げて、八代から目を離さずにいた。
 八代が光の速さで、理人君のそばに駆け寄る。

 近づかれた理人君は、不安と期待がない交ぜになった目付きになる。怯えたように息が詰まる音が、聞こえてきた。
 そんな様子の彼に、八代は安心させるように、笑いかけた。私の一番好きな表情。
 そして、固まった理人君を、力強く抱き締めた。

 体温を余さず送るように、背中に腕を回し、優しく包み込む。
 周囲の人々も、そして私も、黙り込んで事の成り行きを見守っていた。
 この場にいる全員が、時が止まったように、二人から視線を外せずにいた。
 八代が、腕の中の大切な家族の耳元で、強く断言する。

 「理人。俺はお前がどんな風になっても、お前のために何かできることはないか、考える。たとえ人の道を外れたとしても、だ。どんなことがあっても、俺は理人の味方だ」

 その言葉は、無事に彼の心に届いたらしい。
 理人君は、おぼつかない手付きで、でもしっかりと、八代の背中に腕を回した。
 そして、八代の肩に顔をうずめて、うめき声を上げる。
 くぐもっているが、泣き叫んでいるのだとわかった。

 その声は、つい先ほどまでの叫びとは、まったく異なる響きを伴っていた。
 意識が正常に動き出した周囲の人々が、再びざわつき出す。

 「警察に連絡――」「もうしてます!」という会話がして、もうすぐ警察官が理人君を連行するだろう、と思った。

 私は、何かが引っ掛かるような気がして、ぼんやりとその場に立ち尽くしていた。

 何だろう。閃きが落ちてきそうな予感がする。ずっと抱えていた重大な謎が、判明するような。そんな予感が――。
 『どんなことがあっても、俺は理人の味方だ!』
 八代がさっき言ったことが、頭の中でこだました。

 「人の道を外れても……」
 半開きの口から、特に何も考えずに溢れた言葉が、耳に届いた時、電流が流れたような衝撃が、脳に走った。

 八代が現代で、犯人と見なされていた殺人事件――大和さんと樹里亜がズタズタに殺された残忍な事件。

 あれは、本当に八代の犯行だったのか?
 抱き締め合う二人に、おそるおそる視線を向ける。
 あの事件が、理人君が起こしたものだとしたら?

 八代は、理人君が疑われないように、自分が犯人だと思われるように、逃亡していたんだとしたら――。
 樹里亜に、役に立たない、と見なされ、捨てられた理人君が、大和さんとの新居を突き止めて、家に押し入った――。

 頭の中で組み立てたその考えは、とても自然で納得できるものだと思った。
 私を後押しするように、ニュースキャスターが言っていたことを、ふと思い出した。
 事件が起きる前、被害者宅には、男の声でイタズラ電話が何度か掛かっていた、と。

 その声が八代に似ている、と大和さんは周囲に話していた。
 だから世間も、八代襟人が犯人、という説を、より一層信じていた。私もその一人だった。今この瞬間まで、疑いもしなかった。
 でも、似ているのだ。

 八代と理人君の声は、似ている。初めてちゃんと喋る理人君に、八代と声が似ている、という感想を抱いたことを、思い出す。兄弟は、声質も遺伝するものなのかな、と。
 現代で大和さんと樹里亜を殺したのは、理人君だという考えが、頭の中から離れなくなる。

 「そういえば……」
 事件が起こったのは、確か11月1日だった。
 八代の誕生日は、彼の父の日記を見るに、10月29日だ。
 事件当日、祝われる予定だったのは、八代だったのではないか。

 八代と大和さんは、本当に仲が良かった。怨恨など何もないただの仕事仲間だった。遅れた誕生日祝いを、川崎家でする予定だったのではないか。
 つまり川崎夫妻と共に倒れていた男性が犯人だったのだ。『招かれていた友人』とは、本当は八代のことで、口封じに殺されたと思われていた男性が実は、目的を達成した後に、自殺した理人君だった……。

 頭の中に、映像が浮かぶ。
 2022年の11月1日。川崎家に招かれた八代は、事件現場を目の当たりにした。
 この世の地獄かと思える惨状の中に、何年もの間、音信不通だった弟の姿を見つけて、これはどういうことか、と問いただす。
 心の壊れた理人君は、事の顛末を洗いざらいぶちまける。

 「あっ……!」
 驚きがもれ、口元を手で押さえ込む仕草を、無意識で行う。
 八代が私を殺した理由――。
 それがわかったかもしれない。
 あれから警察が来て、理人君をパトカーに乗せていった。八代も同乗した。

 私は当てずっぽうに、街を彷徨い歩いていた。

 病院は、今日のところは面会禁止にするようで、さっさと帰らされてしまったのだ。

 何となく、じっとしていられない気分だった。足を動かしていると、頭もよく回るような気がした。

 八代の父が書いた、日記の内容を思い出す。
 そこには、タイムリープ能力に関する考察が、記されていた。

 一つ目。人に移すことができる。
 二つ目。移したい人物を瀕死の状態にすることで、譲渡ができる。
 三つ目。能力の保有者の願望に反応し、その願いが成就できる時期に、リープできる。
 四つ目。一人が使える能力の回数は、限られている。

 確か、こんな風だったはずだ。

 回数の問題は、八代の父が試したところ、戻れなかったようなので、一人一回きり、ということになる。

 友人から能力を渡された八代の父は、過去に戻って結婚相手を選び直した。
 そして八代と理人君が生まれて、しばらくは不満のない生活を送っていたが――。

 理人君が不登校になって、厳格な父親気取りでいた彼は、不登校になった理由も把握しないまま、馬鹿の一つ覚えのように、学校へ行け、と叱りつけていた。
 その結果、家族全員から疎ましく思われた彼は、こんなはずじゃなかったのに、と鬱々とした感情を抱く。
 そして過去をやり直したい、と思うようになり、理人君に能力を譲渡して、タイムリープしてもらおう、と閃く。

 祭りの日の夜、八代から打ち明けられた話を、思い起こす。

 八代の父である男は、どうせ過去に戻って、やり直してくれるんだから、と憂さ晴らしに妻を殺した。包丁で息の根が止まるまで、しつこく刺した。
 そしていよいよ、理人君に手をかけようとした時、八代に阻まれる。

 少し邪魔されたものの、八代の腹を刺して、理人君を追いかけたのだけれど――。
 時すでに遅し、だった。近所の人が呼んだ警察が、男を捕まえようとする。
 逮捕されるくらいなら、いっそ――と男は自身の心臓に、包丁を突き立てた。

 理人君には、辿り着かなかった。だからタイムリープ能力は、理人君に渡されていないのだ。
 だとすれば、瀕死の状態に追い込まれたのは、八代だけになる。

 つまり——八代はタイムリープ能力を持っていた、ということだ。

 八代は、一回きりのタイムリープを、使ったのだろう。どんな場面で使ったのかは、本人に訊かなければ、わからないけれど。

 つい数ヶ月前まで私がいた世界線の八代について、思いを馳せる。

 父の会社の引き出しから出てきたという日記を読んだ八代は、タイムリープのことと、自分がその能力を持っていることを知った。
 それからの人生で、過去に戻りたい、と切実に思う場面があって、使ってしまった。
 そして、誰にも移すことのないまま、月日は流れ――2022年の11月1日。大和さんと約束していた通り川崎家に向かうと、殺された川崎夫妻と、理人君を目にする。

 理人君から話を聞いたところ、8年前に樹里亜が、ネット上で幸と名乗っていたことを知り、弟が幼馴染みの姉に騙されていたのだと知る。
 そして、6月1日に、幸の家へ突撃してきたのは、理人だったのだ、ということにも気付く。

 あの時、逃げられなければ……こんなことには、ならなかったかもしれないのに。

 そんな風に後悔することは、予想できた。私が八代の立場だったら、きっとその思いばかり、頭を廻るだろうから。

 一方、話し終えた理人君は、自分の首を一息に切る。圧倒的な絶望感からの自殺だ。川崎家のリビングが、三人の死体で埋まる。
 時を遡って、なかったことにしたい。そう強く願っても、理人君も死んでしまったから、彼にタイムリープ能力を移して、やり直してもらうことはできない。

 だから、私の存在を頼った。

 大人になった私は、SNSでずっと愚痴を書いていた。
 幸を喪った悲しみを、つらつらと書くことが、私の日常だったのだ。
 八代は、それを見たのだろう。

 現代の私は、学校の4階から転落して、命を落とした親友の話を、ネット上で呟いていた。

 そういえば……と思い当たる。
 数少ないフォロワーの中には、846というユーザーがいた。

 846にフォローされたのは、初めて幸に関するツイートを上げた日だったから、その時のことは今でも覚えている。
 こんな誰も共感できないような愚痴を読んで、フォローしようと思うなんて、変わってるな、とうっすら感じたものだ。
 あのユーザーは、八代だ。自身の名字を数字で表すなんて、変にもじりすぎないところが、何だか彼らしいな、と思った。

 自分の投稿文を思い返してみる。
 そうだ。確か、出身県を呟いたことがあった。
 ちなみに私のユーザー名は、『悠』だ。
 ここまでくれば、八代はわかったのかもしれない。

 幸から若葉悠、という友達の話を、どこかで聞いていた可能性は、十分すぎるほどある。八代は、しょっちゅう幸の家へ行き、たくさん会話をしていたのだから。

 『過去に戻って、幸の死を防ぎたい』
 『もっと幸といろいろなことを、話したかったのに。あの頃に帰りたい』

 そんな内容のツイートは、何度もしてきた。
 そして、『幸と本格的に仲良くなった時期――5月終わり頃だったかな? そんくらいに戻りたい』とも、何回か未練がましく書いていた。
 八代は、若葉悠ならば、8年前の6月1日以前に戻って、何かを変えてくれるかもしれない、と思ったのだろう。

 たとえば、幸とよく一緒にいるようになった私が、隠れて幸を見つめる理人君の存在に気付き、捕まえて問い詰めることに成功すれば、理人君の勘違いは、早い段階で解ける。
 実際に、庭に潜んでいた理人君を、私が発見したことで、状況は変わったのだし。

 理人君は、幸に見つかりそうになった時、こっそり様子を窺うことに、スリリングな快感を覚え、やめなければ、と思っていた尾行や盗み見を続行することにした。
 幸にとって――もちろん私にとっても、恐怖でしかなかったけれども、そのおかげで理人君に辿り着けたので、結果的にはよかったのかもしれない。

 いや、幸が危うく殺されそうだったのだけれど。改めて、間に合って本当に良かった、と胸を撫でる。

 思い返してみれば、八代は丘で取り押さえた時点で、ストーカーが理人君だとわかっていたのだと思う。
 少年のフードが取れて、顔があらわになり、さぞ驚いただろう。困惑によって、拘束する力が緩んだのだ。
 その後の八代の様子が、少しおかしかったのも、納得できた。
 もう少しでナイフが直撃していたのだから、気もそぞろにもなるだろう、とあの時は思っていたけれど。

 そうして息つく間もなく、幸と私が意識不明、という事態になる。
 八代にかかる心労は、尋常じゃなかったはずだ。
 色濃い隈を浮かべた彼の姿が蘇り、ふいに涙が滲みそうになる。

 いけない、と頬をピシャリと叩く。
 今は、感傷的になるべき時間ではない。

 気を取り直して、現代での八代について、考えを戻す。
 八代は私の帰宅時に、能力の譲渡のため、通り魔になったわけだけど、一体どうやって私の居場所を突き止めたのだろうか。
 絶えず動かしていた足を止めて、頭を捻る。

 「ううーん……」
 顎に手を当てて唸るが、さすがに行動圏内を特定される呟きを、ネットに上げたことはない。ならばどうやって知ったのか――。

 「あっ!」
 思いの外大きな声が出てしまい、決まり悪そうに周りを見渡す。

 病院を出てから、全然周囲に気を配ってこなかったので、自分がいつのまにか、車通りの極めて少ない住宅街に来ていたことに、今ようやく気がついた。
 他者の目を気にしたが、人の姿は見あたらない。見られてたとして、特に不都合はないけれど。

 驚きの声を上げたのはもちろん、八代が私を見つけられた理由に、思い当たったからだ。

 私が勤めていた場所は、私が中学の頃から憧れていた会社だった。
 将来は、絶対にそこで働くんだ! と何人かの友達に決意表明していた。
 幸にも、だ。

 幸から、又聞きした宣言を覚えていた八代は、そこで働く社員について、調べたのではないか。
 どうやって調べ上げたのかは、定かではないけれど。

 「それで私がいる、ってわかって――帰り道をつけてたのかな……? 全然気付けなかったよ……」

 誰もいないのをいいことに、ブツブツ呟く。口に出した方が、考えをまとめられる気がした。

 「8年後の八代は、私に望みを託した、ってこと……?」

 絶対にそうだ、という確信を感じた。

 今さら、わからないことではあった。どうしたって、あの世界線にはもう戻れないので、私のこの予想も、確かめるすべはない。8年後の八代は、通りすがりのOLを衝動的に刺すまでに、堕ちていたのかもしれない。私が彼に殺されたことに、何の意図もなかったのかもしれない。

 でも、と思う。開いていた指を、手のひらの中に仕舞う。そこに力が加わり、爪が軽く皮膚に食い込む。
 どうせ確認できないのならば、信じていたい。

 私を殺した現代の彼も、変わらなかった。

 私の好きな八代襟人のままだったと、そう信じていたかった。
 どれくらいの間、立ち尽くしていたのだろう。

 私は、身近にあった電柱に寄りかかり、途方にくれてしまった。冷静になってくると同時に、どうやって帰ればいいのか、という問題が見えてきたのだ。

 どこを辿ってここまで来たのかも、覚えていない。それだけ考え事に夢中になっていたことに、軽く驚く。

 適当に歩いていれば、見たことのある道に出るか。楽観的に考えながら、住宅街を練り歩いていると——。

 「あれ、若葉さん――だよね?」

 後ろから声をかけられ、振り向くと、大和さんがほんの少し自信なさげに、首を傾げていた。
 意外な人物の登場に、私は目を丸くする。

 「大和さん? どうしてここにいるんですか?」
 「ああ、ここ僕の家なんだ」

 大和さんが、丁寧に指を揃えて示したのは、小さな一軒家だった。

 「知人に安く紹介してもらった、借家なんだ。外出しようとしたら、見覚えのある人がいたものだから」

 朗らかに微笑む大和さんに、軽く頭を下げる。

 「こんにちは。先日は、お見舞いに来てくださり、ありがとうございました」
 「ああ、無事に退院できたみたいで、良かったよ。もしかして、君もこの辺に住んでるの?」
 「いいえ。道に――」

 迷っただけです、と言いかけて、口をつぐむ。そして、代わりに尋ねた。

 「今家に、樹里亜さんいるんですか?」
 できるだけ軽い口調を意識した。大和さんは、「樹里亜? うん、いるよ」と言う。

 「あの……話したいことがあるので、自宅に上がらせてもらっても、良いでしょうか」
 「構わないよ。樹里亜にも訊いてみるから、ちょっと待ってて」
 大和さんは、自宅に入っていった。

 樹里亜は、急に訪ねてきた私を、どう感じるだろう。
 意気消沈している様を聞いて、心配して来てくれたんだ、とありがたく思うのか。
 それとも、何か勘づかれたのかも、と警戒するのか。

 後者なら、対面は断られる。私は、どうか怪しまれていませんように、と祈り続けた。
 気を揉んでいる時間は、短かった。大和さんがすぐに玄関から、顔を出す。

 「歓迎だって。『きっと心配で、来てくれたんだよ』って言ったら、喜んでくれたよ」
 前者だったみたいだ。良かった。
 「ありがとうございます。では、お邪魔します」

 扉を開けてくれた大和さんに、お礼を言って、上がらせてもらう。

 玄関口は、整然としていて、靴箱の上には、名前はわからないが、植物が植木鉢に生けられていて、もうじき花が咲きそうになっていた。丁寧な暮らしをしていることが、見て取れた。

 大和さんが、玄関を上がってすぐ近くの、左側の扉を開ける。私は、緊張した面持ちで、彼に続いて、部屋の中に足を踏み入れる。
 テレビの前の、二人掛けのソファーに座っていた樹里亜が、パッと振り向く。

 「わざわざ来てくれて、ありがとう。悠ちゃん。心配させちゃって、ごめんね」

 元気がなさそうに微笑む彼女は、妹が大変なことになって、心から悲しんでいるように見えた。
 顔がひきつらないよう気をつけながら、「いいえ、突然来たりしてすみません」と詫びる。

 「そういえば、大和さんは外出しようとしていたんでしょう? 大丈夫ですか?」

 これから樹里亜に話すのに、大和さんはいない方が良い。そう思って、彼を見上げる。

 「それほど大事な予定じゃないから、いいよ。お客さんをもてなすことの方が大事だ」

 にこやかに答える大和さんに、しょうがないか、と諦めの念を抱いたが、意外にも樹里亜が食い下がった。

 「いや、ここのところ病院行くとき以外、ずっと家にいたでしょ? ちょっと外の空気吸ってきなよ。悠ちゃんへのもてなしなら、私が美味しいお茶を入れるよ」
 「いいのかい? 無理しなくても――」
 「大丈夫だよ。大和こそ、最近私につきっきりで無理してるんじゃない? 悠ちゃんが来たから、ちょっと元気出てきたし、ね?」

 その言葉に、大和さんも納得してくれたようだった。

 「わかったよ。じゃあまたね、若葉さん」

 脱ぎかけた上着を羽織り直し、大和さんが玄関に出ていく。慣れた調子の「いってきます」を聞いて、いつも欠かさず挨拶しているのだな、と思った。

 「行ってらっしゃい」
 樹里亜が、玄関の方へ顔を向けて、見送りの挨拶をした。

 「今お茶を用意するから、座って待ってて」
 「いえ、結構です」

 台所に向かおうとするのを引き留めると、樹里亜は怪訝そうに眉を寄せた。

 「話したいことがあるんです。そして、訊きたいこともあります」