幸は相変わらず、眠り続けている。
 健やかな寝顔は、生死を彷徨っていることなんて、微塵も感じさせない。

 パイプ椅子を広げて、ベッド上の幸を取り囲むように、三人で座る。
 理人君をちらりと見遣ると、彼は苦しそうな顔をしていた。幸を直視するのが辛いみたいで、壁をじっと睨んでいる。

 「理人。これからする話は、お前にとって残酷だろうが、落ち着いて聞いてくれ」

 そう切り出した八代に、理人君は不思議そうな視線を向けた。
 八代は目線を下げて、幸を見る。そして口火を切った。

 「こいつは、確かに幸って名前だけど、お前の求めてた人間じゃないんだ。今までお前とやり取りしてたのは、幸の姉だ」
 「え……?」

 理人君の口から、戸惑いの声が出た。それとほぼ同じタイミングで、バッと幸に顔を向ける。

 「この人は――妹?」
 「ああ。今眠ってるこいつの姉が――樹里亜っていうんだけどな。樹里亜が『幸』って名前を使ってSNSをしていた、ということだ」

 理人君が、ワナワナと震える。
 口元に手を当てて、小さく声を絞り出す。

 「じゃあ……じゃあ、この子と僕はまったく関係なかった、ってことで……」
 「そうだな。6月1日や、丘で遭遇した時の幸の反応は、至極当然だった。理人はずっと、赤の他人を追いかけ回してたんだよ」

 入試試験に必ず出るだろう大切な問題を、繰り返し生徒に言い聞かせるように、八代はゆっくりと告げる。

 「そんな……嘘、だ。そんなの、何で。何で……」

 脳がショートしたみたいに、同じことを呟き続ける彼だったが、話が終わってないことに気づいたらしく、八代を見返した。
 続きを促す気配を受けて、八代が口を開く。

 「樹里亜は、理人の強い気持ちを利用して、妹の幸を殺させようとした。お前と幸を会わせたら、互いがどんな反応をするのか、正確に予測していたんだ」

 理人君が幸に迫り、幸がそれを拒絶する。
 そんな展開になると、樹里亜にはわかっていた。

 「なら、彼女が僕にかけてくれた言葉の数々や、励ましてくれたことは……全部妹を殺すためだったの? 僕は都合よく動く道具として見られてたってこと!?」
 「――残念だが、そういうことだろうな」

 縋るような視線が痛い、という風に、八代は力なく俯いた。

 一言も喋っていない私にさえ、苦痛が伴った。絶対零度の空気が、狭い部屋の中全体に行き渡り、地獄の雰囲気を作り出す。
 ただ一人、意識が隔たったところにある幸だけが、穏やかな形相を保っていた。

 理人君は、顔面蒼白といった様子で、何も見えていないような瞳をしていた。
 大丈夫だろうか、と心配になって、呼び掛けるために息を吸い込んだとき、

 「彼女が……妹を殺そうとした理由は? 僕を騙すような真似をした理由は、一体何だったの……?」

 打ちのめされた彼が、それでも震える声で、八代に問いかけた。

 「樹里亜には、夢があった。恋人と共に、東京の持ち家で暮らす、というものだ」
 「夢……?」
 「そのためには、金が必要だった。樹里亜は、妹の幸と暮らしていた実家を売って、その金で夢を叶えよう、と考えたんだが、幸が同意してくれなかった」

 八代が努めて冷静に話す言葉に、私も真剣に耳を傾ける。
 そして改めて、怒りの感情が襲ってきた。
 落ち着くために、規則正しい呼吸を繰り返す幸を、見つめる。

 「家を売ることに賛同してくれない幸を、邪魔だと思ったんだろう。だからお前が幸を殺してくれることを願って、家に呼んだり、ナイフを持って丘に来るように、なんて指示を出したんだ」

 八代はそこまで淡々と告げ終わった。しかし強く握りしめた拳が、小刻みに震えていることに、確かな心の動乱が感じ取れた。

 「彼氏との暮らしのために、ってこと? じゃあ、あんなに僕に優しくしてくれたのは……好きだよ、って言ってくれたのは……」

 ちゃんと聞き取れたのは、そこまでだった。理人君は、口をもごもごさせて、何事か呟いている。

 その姿に心苦しくなり、どこか遠い場所にでも飛ばされたい、と思った。これ以上理人君のことを見ていたくない、と。
 でもこの部屋の中では、私が一番お気楽なのだ。私なんかよりも、ずっと耐えている優しい人が、ここにいるのだ。
 だから逃げ出すわけにはいかない。
 真剣な眼差しで弟を見守る彼を、しかと瞳に焼き付ける。

 「ちょっと……」

 理人君が、油断すれば聞き逃してしまいそうな声で、ポツリと訴える。

 「ちょっと……トイレに行ってくる」

 そう言い残し、生ける屍のような足取りで、病室を出ていった。