結局また、病院に戻ってしまった。

 すぐに来てくれた救急車によって、マミは運ばれた。
 私と八代も同乗して、救急隊員に何があったのか訊かれたが、何もわからないのだと、首を振ることしかできなかった。

 そうして、現在医師に診てもらっているマミを、誰もいなくなった待合室の長ソファーで待っているところなのだが――。

 私は、どうにも大人しく座っていることができず、数分ごとに立ち上がり、静まり返った室内をうろうろと歩き回っていた。

 八代は、そんな私の動向を気に留めることなく、険しい顔でじっと虚空を見つめている。

 永遠かと思うほどの30分間の後、やっとのことで医師が私たちのもとへ来た。

 「折野さんですが、命に別状はありません。もっともあと一日でも発見が遅れていたら、危なかったですが……」

 医師の言葉を受けて吐いた深い安堵のため息が、八代とシンクロする。

 「今日幸の家に行って、本当に良かったな」
 八代が、安心感の裏に恐怖を含ませて、ポツリと呟いた。

 「今、折野さんは眠っています。今日のところはお帰り願えますか」
 医師に繰り返しお礼を言って、すっかり暗くなった街を、どこか呆然としながら歩いた。

 「なぁ」
 八代が沈黙を破る。
 「明日行くだろ? 病院」
 もちろん、と頷く。

 「沢山訊きたいことがあるもん。――正直、予想はついてるけどね。何であそこにあんな格好でいたのかとか」

 小刻みに暴れる拳を、グッと力を入れて、抑え込む。

 「でもちゃんと本人の口から訊かなきゃ。予想は予想でしかないから」
 「じゃあ朝イチに病院で」
 「うん。送ってくれてありがとう」

 自宅の門の前で、八代に手を振り、ふと思い出した。

 「そういえば、理人君は大丈夫なの? 思ったよりずっと遅くなっちゃったけど……」
 「ああ。家には連絡しといたよ。『出掛けないから大丈夫』って言ってた」
 「そっか。なら良いんだけど」
 「じゃあ、また明日な」
 「うん。おやすみなさい」

 ドアを閉めると、真っ暗な我が家が出迎えてきた。
 何かに急かされるように、リビングの電気を慌ててつける。家の中が明るくなりホッとすると、二人掛けのソファーにどっかりと身体を預けた。

 「ふー……」
 疲れた――。
 ここ最近、頭がパンクしそうだ。もともと冷静な性格でもないのに、心を掻き乱す事件が起こりすぎだ。

 目を閉じると、マミの無惨な姿が瞼の裏に映し出された。悪寒が背筋を這い、弾かれたように立ち上がる。

 油断すると浮かんできそうになる恐ろしい光景を追い出すために、見たくもないテレビをつける。
 バラエティ番組で司会者が飛ばす冗談が、こことは違う隔たれた世界の出来事のようだった。

 2、3分間頑張ったものの、駄目だった。テレビの中で交わされるやり取りが、異国語みたいに、耳に入ってこない。
 落胆しながら、リモコンの電源ボタンを押した。楽しそうな声が、ブツッと切られる。

 足下に視線を向け、そうだ、洗濯をしなければ、と思い当たる。
 今の私は、裸足だった。そんなことにも注意が向かなかったのか、と自覚して、頭を抱えた。
 靴下を濡らした私は、幸の家のポリ袋を借りて、ここまで持ち運んできていた。

 臭う靴下を手洗いしながら、ぼんやりと考える。

 床に伏したマミを見て、一瞬死んでいるのかと思った。ちょっと前まで窓に体当たりしていたのだから、そんなわけはない、とわかるけれど。

 あの時のマミからは、死の気配をありありと感じた。覇気を失った彼女の姿は、私を恐怖のどん底に落とすのには充分すぎた。

 現代で八代に刺された時。夏祭りの夜に、正気を失った男に首を絞められた時。
 あの時と同じ感覚だ。

 私は、死が目と鼻の先にまで近づいてくると、みっともなく号泣したくなるのだ。
 自律神経が乱れていくのを感じる。

 「怖い……」
 自身の部屋に駆け込み、ベッドに身を投じる。

 首だけを窓に向けると、半開きのカーテンから、真っ黒な景色が見えた。
 薄暗い部屋で、押し入れがわずかに開いてるのを見てしまったように、反射的に目を背ける。

 見えない何かに存在ごと抹消されそうな錯覚に襲われ、身を守るように布団に被さった。
 電気はつけたままが良い。今は暗闇が耐えられない、とシーツを握りしめた。

 八代はどんな気持ちで眠るのだろう。

 そんなことをふっと思い、彼が少しでも同じ心情でいてくれたら、救われるような気がした。