***
何もかもが嫌になって、親戚の家を飛び出した後、僕は年齢を偽って仕事をしてたんだ。
親戚の家よりかはましだったけど、けして楽ではない新生活に、僕の心は荒んでいた。
悩みを話せる人もいないから、ネットの世界に日々の苦しみを吐き出す、ということを一年以上続けていた。
そんな中、『幸』という名前のアカウントが、僕を見つけてくれたんだ。
今までどれだけ苦しんでても、誰からも反応はなかったのに、幸だけが『元気出して!』と言ってくれた。
僕は彼女に、自分のことを話した。過去のことも現在のことも、洗いざらい全部。
『私は理人君のこと好きだよ』『いつも頑張ってて偉い。尊敬するよ』『そんな辛いことがあったなんて……理人君はとっても強いね』
幸は、いつもこんなふうに、優しく励ましてくれた。
特に嬉しかった言葉は、一言一句覚えてる。ああ、そうだ。誕生日は一段と嬉しかったな。
『誕生日おめでとう! 生まれてきてくれてありがとう。理人君に会えて本当に嬉しい。これからも何でも話してね』
今年は誰からも祝われないかもしれない、と思っていたから、それを見て号泣してしまった。
彼女のために生きよう。彼女の願いなら何でも叶えよう。
前々から息づいていた決意が、一気に膨らんでいった。
幸にそのことを伝えると、控えめな返信がきた。
『理人君が生きているだけで嬉しいの。ただこうやって話すだけで十分すぎるくらい幸せだよ』
けどそれじゃ、僕の気が収まらない。彼女が何も望まないことが、かえって僕の尽くしたい気持ちに火をつけた。だから——。
『何か頼みたいことがあったら言って。何でも聞くから』
そう念押ししておいた。
そして僕は、幸に会いたい、と思うようになった。
その思いは、日ごとに強くなっていき、僕は何度も『会いたい』と持ちかけたけれど、幸はなかなかうんと言ってくれなかった。そうなってくると、ますます会いたい気持ちは募っていく。
幸は散々焦らしたあと、『6月1日に私の家に来て』と会うことを承諾してくれた。
送ってくれた地図を頼りに、なんとか幸の家にたどり着いた。あの時はもう、ドキドキしすぎて、ちょっと気を抜けば、身体が針を刺した風船のように、勢いよく破裂しそうだった。
幸の家が、僕の地元にあったことも、運命的なものを感じた。もしかして町ですれ違ったりしてたのかも、なんて思って、道中が楽しくて仕方がなかった。
そして、インターホンを鳴らして、出てきた女性に、「幸?」と尋ねたんだ。
「そうだけど……」という返事を聞いて、喜びが全身に沸き立った。
幸の見た目も声も、なんだか懐かしい感じがしたんだ。どこかで会ったような気がした。やはり運命だ、と直感した。
僕は我慢できなくなって、幸に抱きついた。
あの後のことは申し訳なかったな……。幸の事情もわからず、拒絶してきた彼女に食いぎみになってしまった。
そんな時に兄さんが来て――驚いたよ。幸と兄さんが知り合いだったなんて。
ある日突然兄さんの前から消えた僕は、顔を合わせるわけにはいかない、と判断して、ひとまず急いで立ち去った。
そのあと幸に連絡して、どうしてあんな態度を取ったのかわかった。
幸は男に触られるのが嫌なんだ。抱き締められようものなら、パニック状態になって、体調までも悪くなってしまうことを、謝罪と共に伝えられた。
ついでに兄さんのことも聞いたんだ。
『男の人に取り押さえられそうになって、逃げ出したんだけど……』
そう送ると幸から、『ああ、そういえば言ってなかったよね』と返ってきた。
『うちに家事をやりに来てもらってる人なの』
それを聞いて、こんな偶然があるなんて、と思ったよ。世間って狭いね。
何にせよ、幸の態度の理由がわかった僕は、すっかり落ち着いて、強引に迫ってしまったことを謝った。彼女がなかなか僕と会おうとしなかったことも、納得できた。
そして二人で話し合った結果、しばらく会うのはやめよう、ということになった。
けど僕は、完全には我慢できなかった。もっと幸を見ていたい。近くで確認したい。そんな欲求が生まれてきた。
だからいけないことだとわかっていても、こっそり庭に侵入したり、帰り道にあとをつけたりしていた。
本当はすぐにやめるべきだったんだけど、僕が庭で幸の友人に見つかった時に、『幸にバレたらどうしよう』みたいなドキドキ感が生まれちゃったんだ。
気づかれたくないのに、認識してほしい――。矛盾しているとわかっているけど、妙な快感を覚えちゃったんだ。
それでも、顔がわからないようにはしていたけれど……以前そこの君にフードを取られてしまったね。
幸に、『怖がらせるつもりはなかったんだ。追いかけ回しちゃってごめん』と謝ると、
『近々、面と向かって話したいと思うから、ちょっとだけ我慢してくれる? お願い』
と返ってきた。
その返信を見て、あっという間に心は晴れた。
もうすぐ会える――。目を見て話せる! そう思うと、視界が一気に輝き出した。
それに幸からの初めての“お願い”――。僕は会いに行きたい気持ちを必死に押さえつけて、大人しく幸からの続報を待つことにした。
もどかしく日々を過ごしていると、彼女の言う通り、そう日を置かずに連絡がきた。
『今度の日曜日にここに来てくれる?』
その言葉と共に、地図が送られてきた。
検索して調べてみると、そこそこの高さの丘があった。そこの頂上で待ち合わせ、とのことで、もちろん五秒もしないうちに了解の返信をした。
すぐに返信してきた僕に、幸は変な頼み事をした。
『ナイフを持ってきてくれない? ポケットに入るサイズでいいから、ちゃんと切れるやつ』
妙なお願いに疑問を感じたけれど、もしかして料理でもするのかな、と思った。
そんな場所で? とも思ったけど、少し本格的なピクニックなのかも、と考えた。
それにしたって、自分で持ってくればいいのでは? と謎だったけど、荷物がいっぱいなのでは、と思い至り、彼女の言う通りにナイフを持っていくことにした。
それにお願いを断って、万が一にも嫌われたら――なんて思うと、聞かないわけにはいかなかった。
玄関の前で、幸から拒絶された時は、本当に胸が苦しくて、自分を見失いそうになったから。
もうあんな気持ち、味わいたくない。次ああなってしまったら、どうなるかわからない。
そんなわけで先週の日曜日に、僕はナイフをポケットに入れて、丘の頂上で幸を待っていたんだ。
僕はその時カバンを持っていなかったから、ポケットの中に隠していたんだ。さすがに手に持って歩くわけにはいかないからね。
そわそわしていると、幸が頂上を目指して登ってくるのが見えた。
「幸!」
僕がこっちだよ、と手を振って叫ぶと、幸はビクッと身体を震わせて、次の瞬間、不可解な反応を示したんだ。
「きゃーっ!!」
幸は絶叫すると、怪物から死に物狂いで逃げるように、ここまで登ってきた道を、猛烈な勢いで下っていった。
「幸!? 待ってよ! 何で逃げるんだ!?」
僕があとを追いかけると、幸が走りながら後ろ――僕を振り返った。
幸の大きく綺麗な瞳は、涙が浮かんでいて、恐怖の色がありありと現れていた。
どうしてそんな顔をするんだ? わけがわからなくなっていると、幸に信じられない言葉をぶつけられた。
「いやーっ! 来ないで!!」
幸が僕を否定した。
それを理解した瞬間、世界から色がなくなった。
自然とポケットのナイフに手をかけていた。
それからのことはもうあまり覚えていない。
ただ幸が僕を拒み続けていた、という残酷な事実だけが、胸に突き刺さっていた。
気づいた時には、兄さんたちがいて、僕は押さえつけられていた。
そこで我に返って、とにかく逃げなければ、という意識が働いた。
兄さんはあの時、初めて僕の顔を見て、すごく驚いていたね。信じられないものを見るようだった。
できれば知られたくなかったけど、そのお陰で力が緩んだから、逃げられた。
でも結局こうなっちゃったから、意味なかったな。ううん、もう何もかもどうでもいい気がする。
幸が目を覚まさないんだから。それにたとえ意識を取り戻しても、彼女はもう僕に優しくしてくれないだろう。
僕が愛したあの子は、死んでしまったんだ。
何もかもが嫌になって、親戚の家を飛び出した後、僕は年齢を偽って仕事をしてたんだ。
親戚の家よりかはましだったけど、けして楽ではない新生活に、僕の心は荒んでいた。
悩みを話せる人もいないから、ネットの世界に日々の苦しみを吐き出す、ということを一年以上続けていた。
そんな中、『幸』という名前のアカウントが、僕を見つけてくれたんだ。
今までどれだけ苦しんでても、誰からも反応はなかったのに、幸だけが『元気出して!』と言ってくれた。
僕は彼女に、自分のことを話した。過去のことも現在のことも、洗いざらい全部。
『私は理人君のこと好きだよ』『いつも頑張ってて偉い。尊敬するよ』『そんな辛いことがあったなんて……理人君はとっても強いね』
幸は、いつもこんなふうに、優しく励ましてくれた。
特に嬉しかった言葉は、一言一句覚えてる。ああ、そうだ。誕生日は一段と嬉しかったな。
『誕生日おめでとう! 生まれてきてくれてありがとう。理人君に会えて本当に嬉しい。これからも何でも話してね』
今年は誰からも祝われないかもしれない、と思っていたから、それを見て号泣してしまった。
彼女のために生きよう。彼女の願いなら何でも叶えよう。
前々から息づいていた決意が、一気に膨らんでいった。
幸にそのことを伝えると、控えめな返信がきた。
『理人君が生きているだけで嬉しいの。ただこうやって話すだけで十分すぎるくらい幸せだよ』
けどそれじゃ、僕の気が収まらない。彼女が何も望まないことが、かえって僕の尽くしたい気持ちに火をつけた。だから——。
『何か頼みたいことがあったら言って。何でも聞くから』
そう念押ししておいた。
そして僕は、幸に会いたい、と思うようになった。
その思いは、日ごとに強くなっていき、僕は何度も『会いたい』と持ちかけたけれど、幸はなかなかうんと言ってくれなかった。そうなってくると、ますます会いたい気持ちは募っていく。
幸は散々焦らしたあと、『6月1日に私の家に来て』と会うことを承諾してくれた。
送ってくれた地図を頼りに、なんとか幸の家にたどり着いた。あの時はもう、ドキドキしすぎて、ちょっと気を抜けば、身体が針を刺した風船のように、勢いよく破裂しそうだった。
幸の家が、僕の地元にあったことも、運命的なものを感じた。もしかして町ですれ違ったりしてたのかも、なんて思って、道中が楽しくて仕方がなかった。
そして、インターホンを鳴らして、出てきた女性に、「幸?」と尋ねたんだ。
「そうだけど……」という返事を聞いて、喜びが全身に沸き立った。
幸の見た目も声も、なんだか懐かしい感じがしたんだ。どこかで会ったような気がした。やはり運命だ、と直感した。
僕は我慢できなくなって、幸に抱きついた。
あの後のことは申し訳なかったな……。幸の事情もわからず、拒絶してきた彼女に食いぎみになってしまった。
そんな時に兄さんが来て――驚いたよ。幸と兄さんが知り合いだったなんて。
ある日突然兄さんの前から消えた僕は、顔を合わせるわけにはいかない、と判断して、ひとまず急いで立ち去った。
そのあと幸に連絡して、どうしてあんな態度を取ったのかわかった。
幸は男に触られるのが嫌なんだ。抱き締められようものなら、パニック状態になって、体調までも悪くなってしまうことを、謝罪と共に伝えられた。
ついでに兄さんのことも聞いたんだ。
『男の人に取り押さえられそうになって、逃げ出したんだけど……』
そう送ると幸から、『ああ、そういえば言ってなかったよね』と返ってきた。
『うちに家事をやりに来てもらってる人なの』
それを聞いて、こんな偶然があるなんて、と思ったよ。世間って狭いね。
何にせよ、幸の態度の理由がわかった僕は、すっかり落ち着いて、強引に迫ってしまったことを謝った。彼女がなかなか僕と会おうとしなかったことも、納得できた。
そして二人で話し合った結果、しばらく会うのはやめよう、ということになった。
けど僕は、完全には我慢できなかった。もっと幸を見ていたい。近くで確認したい。そんな欲求が生まれてきた。
だからいけないことだとわかっていても、こっそり庭に侵入したり、帰り道にあとをつけたりしていた。
本当はすぐにやめるべきだったんだけど、僕が庭で幸の友人に見つかった時に、『幸にバレたらどうしよう』みたいなドキドキ感が生まれちゃったんだ。
気づかれたくないのに、認識してほしい――。矛盾しているとわかっているけど、妙な快感を覚えちゃったんだ。
それでも、顔がわからないようにはしていたけれど……以前そこの君にフードを取られてしまったね。
幸に、『怖がらせるつもりはなかったんだ。追いかけ回しちゃってごめん』と謝ると、
『近々、面と向かって話したいと思うから、ちょっとだけ我慢してくれる? お願い』
と返ってきた。
その返信を見て、あっという間に心は晴れた。
もうすぐ会える――。目を見て話せる! そう思うと、視界が一気に輝き出した。
それに幸からの初めての“お願い”――。僕は会いに行きたい気持ちを必死に押さえつけて、大人しく幸からの続報を待つことにした。
もどかしく日々を過ごしていると、彼女の言う通り、そう日を置かずに連絡がきた。
『今度の日曜日にここに来てくれる?』
その言葉と共に、地図が送られてきた。
検索して調べてみると、そこそこの高さの丘があった。そこの頂上で待ち合わせ、とのことで、もちろん五秒もしないうちに了解の返信をした。
すぐに返信してきた僕に、幸は変な頼み事をした。
『ナイフを持ってきてくれない? ポケットに入るサイズでいいから、ちゃんと切れるやつ』
妙なお願いに疑問を感じたけれど、もしかして料理でもするのかな、と思った。
そんな場所で? とも思ったけど、少し本格的なピクニックなのかも、と考えた。
それにしたって、自分で持ってくればいいのでは? と謎だったけど、荷物がいっぱいなのでは、と思い至り、彼女の言う通りにナイフを持っていくことにした。
それにお願いを断って、万が一にも嫌われたら――なんて思うと、聞かないわけにはいかなかった。
玄関の前で、幸から拒絶された時は、本当に胸が苦しくて、自分を見失いそうになったから。
もうあんな気持ち、味わいたくない。次ああなってしまったら、どうなるかわからない。
そんなわけで先週の日曜日に、僕はナイフをポケットに入れて、丘の頂上で幸を待っていたんだ。
僕はその時カバンを持っていなかったから、ポケットの中に隠していたんだ。さすがに手に持って歩くわけにはいかないからね。
そわそわしていると、幸が頂上を目指して登ってくるのが見えた。
「幸!」
僕がこっちだよ、と手を振って叫ぶと、幸はビクッと身体を震わせて、次の瞬間、不可解な反応を示したんだ。
「きゃーっ!!」
幸は絶叫すると、怪物から死に物狂いで逃げるように、ここまで登ってきた道を、猛烈な勢いで下っていった。
「幸!? 待ってよ! 何で逃げるんだ!?」
僕があとを追いかけると、幸が走りながら後ろ――僕を振り返った。
幸の大きく綺麗な瞳は、涙が浮かんでいて、恐怖の色がありありと現れていた。
どうしてそんな顔をするんだ? わけがわからなくなっていると、幸に信じられない言葉をぶつけられた。
「いやーっ! 来ないで!!」
幸が僕を否定した。
それを理解した瞬間、世界から色がなくなった。
自然とポケットのナイフに手をかけていた。
それからのことはもうあまり覚えていない。
ただ幸が僕を拒み続けていた、という残酷な事実だけが、胸に突き刺さっていた。
気づいた時には、兄さんたちがいて、僕は押さえつけられていた。
そこで我に返って、とにかく逃げなければ、という意識が働いた。
兄さんはあの時、初めて僕の顔を見て、すごく驚いていたね。信じられないものを見るようだった。
できれば知られたくなかったけど、そのお陰で力が緩んだから、逃げられた。
でも結局こうなっちゃったから、意味なかったな。ううん、もう何もかもどうでもいい気がする。
幸が目を覚まさないんだから。それにたとえ意識を取り戻しても、彼女はもう僕に優しくしてくれないだろう。
僕が愛したあの子は、死んでしまったんだ。