時計が15時を回って少し経った頃。再び誰かが、ドアをノックした。
 入ってきたのは成人してまだ間もないような、若々しい男性だった。
 私は頭の上に疑問符を浮かべる。いくら記憶を辿ってみても、この男性に心当たりはなかった。

 「あの、すみません。私ちょっと思い出せなくて……どちら様でしょうか」
 「わからないのも当然です。僕は薄井樹里亜の恋人で、川崎大和と言います」
 「大和さんが? どうして……」
 「樹里亜の妹の幸さんが、病院に運ばれたと聞いて、お見舞いに来たんです。その時に看護士の人から、幸さんの友人も共に運ばれたと伝えられ、心配になって……」
 「そうですか。お気遣いありがとうございます」

 ベッドに座ったまま頭を下げると、大和さんはこちらまで近づいてきた。

 「若葉さんは、幸さんから僕のことを聞いていたんですか?」
 「はい。姉の彼氏で、姉とはとても仲睦まじいのだ、と」
 「はは、そうですね。彼女とはいずれ結婚するつもりなんだ」

 大和さんは、照れたように頬をポリポリと掻く。照れた拍子に敬語が外れた。

 「ところで君は若葉さんの彼氏かな?」
 八代を見遣り、どことなく楽しそうに小首を傾げる。
 「いいえ、友人です」
 「そうか。違ったか」
 大和さんは僅かに苦笑する。
 「お母さんは、もう大丈夫なんですか?」
 樹里亜のメッセージを思い出して、尋ねる。
 大和さんは一瞬、何のことだ? という顔をしたが、すぐに「ああ」と合点がいったように、頷いた。

 「幸さんから聞いたんだね。ドタキャンの理由――。母なら、すっかり元気になったよ。そんなに大事でもなかったみたいだ。ただの貧血だってさ。心配してくれて、ありがとう」
 「なら良かったです」
 私はふと気になって、大和さんに尋ねる。
 「樹里亜、さんはどうですか? ちゃんと寝たり食べたり出来てますか」

 八代から聞いた彼女の様子からして、まだ相当塞ぎ込んでいるのではないか、と思う。
 妹があんなことになった樹里亜の心情を思うと、どうしても心配だった。
 もっとも傷ついた樹里亜は、大和さんが支えてくれることだろう、と確信しているが。
 大和さんは、樹里亜、という単語に反応したように、顔を曇らせる。

 「すごく落ち込んでいるよ。しょうがないよね。妹があんな目にあったら……。笑顔は見せないけど、ちゃんと寝てるようだよ。食事も以前よりは少ないけれど、今のところしっかりとってる」
 その言葉を聞き、安堵する。
 「そうですか。――何もかも良い方向に向かっていくといいんですけれど……」

 今もなお眠ったままの幸と、さめざめと泣いている樹里亜を思い浮かべる。
 大和さんも同じ気持ちらしく、励ますように胸を叩いた。

 「とりあえず僕の家に、一週間ほどいさせるつもりなんだ。しばらく会社を休んで、樹里亜と一緒にいようと思う。だから彼女のことは僕に任せて。君は自分の心配をしてほしいな」
 「まあ私は、ほぼ無傷でしたので……。今はとにかく、幸のことが気がかりです」
 「幸さんか……。樹里亜も喧嘩別れじゃ悔しいだろうし、早く目覚めてほしいな」

 大和さんの言葉に、疑問を抱く。

 「喧嘩別れ?」
 八代も同様に感じたらしく、怪訝そうに尋ねる。
 「ああ。ちょっとあることで揉めててね――。半分は僕のせいなんだけど」
 大和さんが、気まずそうに身を縮める。

 「若葉、二人が喧嘩してたこと知ってたか?」
 「まったく。幸から聞いてたのは、楽しい話ばかりで――だから樹里亜とは上手くいっているんだとばかり思ってたけど」

 一体いつから二人は喧嘩していたのだろう。幸にそんな素振りは全然なかった。

 「僕のせい、っていうのは、どういうことですか?」
 引っ掛かった言葉を、八代が拾う。

 「僕には家を持つ、っていう何としてでも叶えたい夢があるんだ。それを樹里亜に話したら、彼女は東京に住むことが夢だ、って言って、ならば東京で家を買うことが二人の叶えたい夢、ということになった」

 幸との下校中、樹里亜の夢の話になったことがあった。
 あれは大和さんの夢でもあったのか。

 「そのためには、結構な金額が必要になる。そしたら樹里亜が、『私の実家を売れば良いと思う』と言った」
 「それ、海外にいる両親は納得してるんですか?」
 「うん。向こうの空気が気に入ったみたいで、あのまま住むつもりでいるみたいだ」
 「そうか……。だからなかなか帰ってこなかったのか」

 八代が、合点がいったように呟いた。

 「両親が、全然帰って来なかったということを、僕も樹里亜から聞いてたよ。だから早く自分の家庭を持ちたい、と言っていた」

 東京の持ち家で大和さんと家庭を築く。それが樹里亜の夢――。

 「幸さんは、家を売ることに反対しているんだ。『思い出がつまった大切な場所なのに』って」

 大切な場所――。幸がそう思っているのは、私も知っていた。愛しい記憶を辿れる、かけがえのない居場所なんだろう、と。

 「もちろん幸さんが卒業するまで売るのは待つ。その後の住居のことも心配ないんだ。お金なら海外にいる両親が送ってくれるそうだから。だからどこか部屋を借りて、そこで過ごしてくれないか、と樹里亜は頼んでいるんだけど……」

 大和さんは、参ったなぁという風に、肩をすくめて、
 「まったく首を縦に振ってくれないんだ。ちなみに樹里亜は5月半ばくらいから、家を売ることに同意するよう、軽く頼んではいたみたいだよ。夏休み中のいつだったか、『なかなか折れてくれないの。ごめんね』と涙混じりに僕に言ってきた。樹里亜の提案を聞いた時、僕がすっかり浮かれてたもんだから、申し訳なかったんだろうね」
 「まあ、あの家は、幸にとってそう簡単に譲れないところですからね――」

 八代が、納得したように言う。幸の思い入れを八代もわかっていた。

 「僕さえ我慢すれば――僕が家を持つことを諦められれば、樹里亜が幸さんに、辛い決断を迫ることもなかっただろうな、って考えると、やるせない気分になってくるよ。――こんな状況になっちゃうとね」

 大和さんの顔に、影が射す。
 自分が原因で、姉妹の仲がギクシャクしたまま、妹が死ぬかもしれないのだから、自責の念にかられるのも、わかる気がする。

 「僕のわがままに樹里亜は、『それも叶えよう』と言ってくれた。そう言われた時、彼女のことを、たまらなく愛おしく思ったよ」

 照れ臭そうだが、はっきりと自信ありげに言った。
 それを見て、眩しい、と感じた。

 「幸に聞いていた通り、ラブラブなんですね」
 「幸さんが君にそんなことを話していたの? うん、そうだね。僕は樹里亜にぞっこんでね。彼女はとても優しくて人情に溢れていて――素晴らしい恋人だよ」

 大和さんは、光が差したような、まばゆい笑顔を見せた。