「元気出せよ。つっても難しいか」
「うん……」
一人用の病室。カーテンの隙間から漏れる日の光りが、八代の肩を照らす。
幸いにも軽い打撲で済んだ私は、明日には四人部屋に移されて、経過を見てから退院、ということらしい。
体調的には今日にでも退院できそうなほどだが、脳の検査が必要なのだと言う。
「若葉さんの脳へのダメージは、一時的なもののようでした。薄井さんもその可能性は十分ありますよ」
医師は励ますように言うと、「何か異常を感じたらすぐに呼んでください」と病室を出ていった。
八代の顔を改めて見てみると、目の隈がすごく、疲労が滲み出ていた。
「ほとんど付きっきりだったんでしょ? 八代こそちゃんと休まないと駄目だよ」
「なかなか眠れなくてな……」
病室に来たベテランの看護士さんから、八代がずっと病院に来ていたことを聞いた。
「面会時間ギリギリまでいてね……若葉さんと薄井さんのことを、見てるこっちが苦しくなるくらい心配していたわ」
それを聞いて、八代が待ってくれたから私は目覚められたのだ、と柄にもなく浪漫的なことを思った。
幸も、彼女を思う者の強い祈りで戻って来てくれると良いのだけど……。
「樹里亜とは会ったの?」
「ああ。お前たちが病院に運ばれた日に一度会ったが……」
それを聞いて、不審に思う。
「一回しか会ってないの? じゃあ一日だけ来たってこと?」
心配でそばを離れられなくなるんじゃないかと思ったけれど……。それこそ八代みたいに。
私が違和感を感じているのを察したらしく、八代が説明してくれる。
「すごくショックだったみたいでな。ベッドで眠る幸を見て、泣き崩れたんだ。『嘘だよね、こんなの。ドッキリか何かでしょ!?』って叫んでて、現実を受け入れられないようだった」
「ッ……! それは……」
その場面を想像するだけで辛い。心臓が鉛になったみたいで、グッと胸を押さえた。
「それから一度も会ってないんだ。幸を見るのが辛いんだろうな。気持ちはわかるよ。俺も気がおかしくなりそうだったし」
「早くまた話せるようになるといいな。いや、なってくれないと困る」
拳を痛いほど握り締める。八代はこれを二日間何度繰り返したのだろう。何度唇を血が出るほど噛み締めたのだろう。
自分の顔面に力がこもるのを感じた。
「マミとは会った?」
「会ってない。マミも相当きてるみたいでな。こんなメッセージが送られたきりだ」
ほら、と携帯の画面を突き出される。
『しばらく携帯を見ないことにします。携帯の中には、幸との思い出がたくさん入っているので、辛いんです。心配かけてすみません』
マミは、幸が落下したところを、直接見てしまっている。心にかなりのダメージを負っていることだろう。
彼女にはたくさん訊きたいことがあったが、今はそっとしておこう。
その時、誰かがドアを控えめにトントンと叩いた。
「どうぞ」
「若葉さん? 良かった、起きてたのね」
人の善さを滲ませて入ってきたのは、担任だった。小さな花束を手に持っている。
「お見舞いに来てくれたんですか」
「ええ。薄井さんのところにもさっき行ってきたわ。この花束、花瓶に入れても良いかしら?」
「俺がやります」
八代が立ち上がった。担任は嬉しそうに微笑む。
「あら、親切にありがとう。貴方は若葉さんのお友達?」
「はい、そうです」
「じゃあお願いね」
八代が花瓶に水を入れに病室を出る。
「本当に目が覚めて良かったわ。体調は大丈夫?」
「はい。“私は“すこぶる元気です」
悔しさが含まれていることを察した担任は、眉間に皺を作り、「若葉さんは何も責任感じる必要ないのよ」と励ましてくれた。
「わかってはいるんですけど……思ってしまうんです。あと数秒早く反応できてたら、幸はこんな風に話せていたんじゃないか、って」
「若葉さん……」
「すみません、辛気臭くしちゃって。せっかく来てくれたのに」
「いいのよ。そんなこと気にしないで」
数秒間の沈黙を挟み、担任が口を開く。
「薄井さんのことは誰も悪くないわ。完全な事故なのよ」
強い口調でそう断定した。
「薄井さんが落ちていった近くにポーチがあったの」
「ポーチ?」
「ええ。生理用のナプキンを入れるためのポーチ。授業前にトイレに行きたくなったんでしょうね。四階に流し台があるでしょう? あそこで手を洗っている間、窓の近くにポーチを置いておいたんだと思う」
「何かのはずみでポーチを落としてしまって、思わず身を乗り出したら落下したってことですか」
「推測だけれどね。先生方の間ではそう噂されているわ」
私は震えていた。この流れは以前とまったく同じではないか。
せっかくタイムリープしたのに、やはり運命は変えられない、ということなのだろうか?
私はまた親友を失うのだろうか?
指先が冷たくなる。
幸が事故死する、という事象は、タイムリープの奇跡も無に返すほどなのか……?
「若葉? 顔色が真っ青通り越して真っ白だが……急にどこか悪くなったのか?」
いつの間にか帰って来ていた八代が、私の顔を覗き込む。
「そうよ、紙のように白いわよ。病院の人を呼ぶ?」
ナースコールしようとする担任に、慌てて告げる。
「いえ、身体は大丈夫です。ただあまりにもショックで……」
それを聞いた担任は、思い切り眉を下げた。
「長居しちゃ悪いし、私はそろそろ帰るわね。若葉さん。気を落としすぎないようにね」
「お気遣いありがとうございます」
担任が去った後の病室で、私と八代はしばらく黙り込んでいた。
秒針のカチ、カチというかすかな音だけが、遠い世界から響いてくるように、聞こえていた。
どれくらい呆然としていたのか。ふと手の甲に熱い感触を感じる。
八代が自身の手を、私のそれに重ねていた。
彼の温度で、自分の指先がどれほど冷えていたのか自覚した。
「大丈夫だ、あいつが帰ってこないわけない。幸を信じろ」
自分だって不安でいっぱいだろうに、断定するように告げる八代を見て、心がきゅっと引き締まる。
「ありがとう。――もう少し一緒にいてくれる?」
一人になった瞬間に、得体の知れない怪物に襲われるような気がして、たまらなく怖かった。
「ああ。いくらでも」
「うん……」
一人用の病室。カーテンの隙間から漏れる日の光りが、八代の肩を照らす。
幸いにも軽い打撲で済んだ私は、明日には四人部屋に移されて、経過を見てから退院、ということらしい。
体調的には今日にでも退院できそうなほどだが、脳の検査が必要なのだと言う。
「若葉さんの脳へのダメージは、一時的なもののようでした。薄井さんもその可能性は十分ありますよ」
医師は励ますように言うと、「何か異常を感じたらすぐに呼んでください」と病室を出ていった。
八代の顔を改めて見てみると、目の隈がすごく、疲労が滲み出ていた。
「ほとんど付きっきりだったんでしょ? 八代こそちゃんと休まないと駄目だよ」
「なかなか眠れなくてな……」
病室に来たベテランの看護士さんから、八代がずっと病院に来ていたことを聞いた。
「面会時間ギリギリまでいてね……若葉さんと薄井さんのことを、見てるこっちが苦しくなるくらい心配していたわ」
それを聞いて、八代が待ってくれたから私は目覚められたのだ、と柄にもなく浪漫的なことを思った。
幸も、彼女を思う者の強い祈りで戻って来てくれると良いのだけど……。
「樹里亜とは会ったの?」
「ああ。お前たちが病院に運ばれた日に一度会ったが……」
それを聞いて、不審に思う。
「一回しか会ってないの? じゃあ一日だけ来たってこと?」
心配でそばを離れられなくなるんじゃないかと思ったけれど……。それこそ八代みたいに。
私が違和感を感じているのを察したらしく、八代が説明してくれる。
「すごくショックだったみたいでな。ベッドで眠る幸を見て、泣き崩れたんだ。『嘘だよね、こんなの。ドッキリか何かでしょ!?』って叫んでて、現実を受け入れられないようだった」
「ッ……! それは……」
その場面を想像するだけで辛い。心臓が鉛になったみたいで、グッと胸を押さえた。
「それから一度も会ってないんだ。幸を見るのが辛いんだろうな。気持ちはわかるよ。俺も気がおかしくなりそうだったし」
「早くまた話せるようになるといいな。いや、なってくれないと困る」
拳を痛いほど握り締める。八代はこれを二日間何度繰り返したのだろう。何度唇を血が出るほど噛み締めたのだろう。
自分の顔面に力がこもるのを感じた。
「マミとは会った?」
「会ってない。マミも相当きてるみたいでな。こんなメッセージが送られたきりだ」
ほら、と携帯の画面を突き出される。
『しばらく携帯を見ないことにします。携帯の中には、幸との思い出がたくさん入っているので、辛いんです。心配かけてすみません』
マミは、幸が落下したところを、直接見てしまっている。心にかなりのダメージを負っていることだろう。
彼女にはたくさん訊きたいことがあったが、今はそっとしておこう。
その時、誰かがドアを控えめにトントンと叩いた。
「どうぞ」
「若葉さん? 良かった、起きてたのね」
人の善さを滲ませて入ってきたのは、担任だった。小さな花束を手に持っている。
「お見舞いに来てくれたんですか」
「ええ。薄井さんのところにもさっき行ってきたわ。この花束、花瓶に入れても良いかしら?」
「俺がやります」
八代が立ち上がった。担任は嬉しそうに微笑む。
「あら、親切にありがとう。貴方は若葉さんのお友達?」
「はい、そうです」
「じゃあお願いね」
八代が花瓶に水を入れに病室を出る。
「本当に目が覚めて良かったわ。体調は大丈夫?」
「はい。“私は“すこぶる元気です」
悔しさが含まれていることを察した担任は、眉間に皺を作り、「若葉さんは何も責任感じる必要ないのよ」と励ましてくれた。
「わかってはいるんですけど……思ってしまうんです。あと数秒早く反応できてたら、幸はこんな風に話せていたんじゃないか、って」
「若葉さん……」
「すみません、辛気臭くしちゃって。せっかく来てくれたのに」
「いいのよ。そんなこと気にしないで」
数秒間の沈黙を挟み、担任が口を開く。
「薄井さんのことは誰も悪くないわ。完全な事故なのよ」
強い口調でそう断定した。
「薄井さんが落ちていった近くにポーチがあったの」
「ポーチ?」
「ええ。生理用のナプキンを入れるためのポーチ。授業前にトイレに行きたくなったんでしょうね。四階に流し台があるでしょう? あそこで手を洗っている間、窓の近くにポーチを置いておいたんだと思う」
「何かのはずみでポーチを落としてしまって、思わず身を乗り出したら落下したってことですか」
「推測だけれどね。先生方の間ではそう噂されているわ」
私は震えていた。この流れは以前とまったく同じではないか。
せっかくタイムリープしたのに、やはり運命は変えられない、ということなのだろうか?
私はまた親友を失うのだろうか?
指先が冷たくなる。
幸が事故死する、という事象は、タイムリープの奇跡も無に返すほどなのか……?
「若葉? 顔色が真っ青通り越して真っ白だが……急にどこか悪くなったのか?」
いつの間にか帰って来ていた八代が、私の顔を覗き込む。
「そうよ、紙のように白いわよ。病院の人を呼ぶ?」
ナースコールしようとする担任に、慌てて告げる。
「いえ、身体は大丈夫です。ただあまりにもショックで……」
それを聞いた担任は、思い切り眉を下げた。
「長居しちゃ悪いし、私はそろそろ帰るわね。若葉さん。気を落としすぎないようにね」
「お気遣いありがとうございます」
担任が去った後の病室で、私と八代はしばらく黙り込んでいた。
秒針のカチ、カチというかすかな音だけが、遠い世界から響いてくるように、聞こえていた。
どれくらい呆然としていたのか。ふと手の甲に熱い感触を感じる。
八代が自身の手を、私のそれに重ねていた。
彼の温度で、自分の指先がどれほど冷えていたのか自覚した。
「大丈夫だ、あいつが帰ってこないわけない。幸を信じろ」
自分だって不安でいっぱいだろうに、断定するように告げる八代を見て、心がきゅっと引き締まる。
「ありがとう。――もう少し一緒にいてくれる?」
一人になった瞬間に、得体の知れない怪物に襲われるような気がして、たまらなく怖かった。
「ああ。いくらでも」