「はぁー……無駄に疲れた。ちょっと休んでから戻ろ」

 壁にもたれ掛かり、身体の力をどっと抜いていく。何とはなしにすぐ横にある窓から、外の景色を覗く。

 「ん? あれって……」
 一人の人間に目が吸い寄せられる。校門を出て真正面にある、学校と市民プールを繋ぐ横断歩道。そこで信号待ちをしている人物をよくよく見てみると――。
 「マミ? どうして……」
 困惑が口から洩れる。

 しかも彼女は私服だった。部屋着みたいな格好で、青になるのが待ちきれない、と語るようにその場で足踏みをしていた。
 あそこの信号はなかなか変わらない上に、車の通りも多いので、やきもきするのはわかる。
 けれどマミの様子は、そういうレベルの焦りじゃない気がした。切羽つまっている様子が、遠目からでも判断できた。

 マミのことがどうにも気になり、駆け上がってきた階段を、今度は急いで下りる。
 私が校門にたどり着いた時、丁度ひっきりなしに来ていた車の群れが止んだ。
 青になるのを待たずに、マミがダッシュで渡る。やはり相当に急いでいる。
 彼女は私の姿を認めると、幻を見たかのような顔をした。

 「悠? 授業中じゃないの? 何でこんなとこに」
 「それはこっちの台詞。何で私服なの?」
 近くで見てみると、マミの髪がボサボサなことに気づく。いつもバッチリしているメイクも、していない。
 女子高生らしく身なりに命をかけているマミなのに、今日はなんだか寝起きみたいな風体だった。

 「起きたら制服がなくなってて――って今はそんな事より!」
 マミが気を取り直すようにブンブンと頭を振る。
 「踊り場に行かないと!」
 「えっ、ちょっ……」
 私の横を走り抜けようとするマミの肩を、慌てて掴む。

 「ちょっと待って。私さっき踊り場行ったところだったんだけど。あんたが送ったメッセージ何だったの?」
 そう言うと、穴が空きそうなほど私を見てくる。
 「踊り場に幸はいたの?」
 「いや、誰もいなかったけど」
 「えっ、ホントに?」
 自分から訊いておいて、疑り深そうに食い下がる。
 「何なの、一体」
 何もかもがわからない状況に、私はだんだん苛立ってきた。

 「後でちゃんと説明するから! 今はとにかく幸を探さなきゃっ」
 「えっ、ちょっ」
 マミは昇降口には向かわずに、中庭の方へと走り出していった。
 そのあとを急いで追う。

 「何で昇降口に行かないの!?」
 「非常階段からの方が近いからだよ!」
 確かに中庭にある非常階段からの方が、マミの目指している場所に早くたどり着ける。
 ひとまず黙って彼女についていく。そうすれば謎が解けるだろう、と信じて。

 「わっ!」
 鼻先に感じた強い衝撃に、思い切り顔をしかめる。前を走っていたマミが、急に立ち止まったのだ。
 「ちょっと、危ないでしょ」
 不満を訴えるため、マミの顔を覗き込むと、彼女は「いやーっ! 何あれ!」と上を見て絶叫した。
 何事かと視線の先を追うと——。

 「幸!?」
 四階の開け放たれた窓から、幸がぶら下がっていた。
 窓枠を掴んで何とか踏ん張っている様子だが、安定を失った足がフラフラと宙に揺れている。一体どれくらいの間、ああしていたのだろう。

 しかし、助けを求める声も出せないほど、きつい状態なのだ、とは理解できた。
 少し刺激を与えればあっさりと落下していきそうな幸に、血の気が一気に引いた。

 「誰か来てーっ!」
 力の限り叫ぶ。渾身の大声は、窓ガラスをビリビリ震わせ、教室にいる生徒や先生たちにも届いただろう。

 「何か――何かクッションになりそうな物は……」
 次に私は、落下の衝撃を和らげられそうな物を必死になって探すが、中庭にそんな物はどこにもなかった。
 その間にも、幸は携帯のバイブレーションのように小刻みに震えていた。
 まずい、限界が近づいている。このままでは、幸の身体が地面に叩きつけられてしまう。

 「幸ー! もうちょっとだけ耐えて! お願い!」
 そう叫んだマミが、非常階段を猛スピードで駆け上がっていく。
 頑張れ、頑張れ、頑張れ――。幸とマミどちらを応援しているのかわからなくなりながら、ただただ何度も祈りを反復する。

 「若葉さん? そんなところで何をしているの!?」
 「先生!」
 パタパタとこちらに向かってくる先生を制する。
 「4階から人が落ちそうなんです! 受け止める準備をしておいてください!」
 「な、何ですって!? わかったわ、すぐに他の先生たちにも声をかける! 引き上げにも何人か行かせておくわ!」

 四階には今誰もいない。あそこには1年生の教室しかなく、その1年生は選択授業で出払ってしまっている。
 マミが間に合ってくれれば――!

 「なっ……開かない! どうして!?」
 マミの悲鳴がここからでも響いてきた。そして絶望的な気分になる。
 非常階段へ通じる扉は、夜間以外は常に解錠されているはず。だというのに、何という不運か、閉まっているのだ。
 何だ何だ、とベランダの窓から生徒たちが、ちらほらと顔を出し始める。その生徒たちに、
 「布とかあったら投げてきて! 人が落ちそうなの!」
 と目一杯訴える。

 「ええっ!?」「大変だ、早く!」「ブランケットくらいしかないよ!」と慌てふためく気配が周囲を包む。
 2、3階からポイポイとブランケットや座布団がいくつか投げられる。それを幸の真下になるように広げていく。
 しかし、まだ全然足りなかった。焦燥感が高まり、頭上近くの幸の様子を見ようと、顔を上げる。

 その瞬間、時が止まったようだった。
 視界に飛び込んできたのは、予想していた青空ではなかった。
 つむじだ。幸の頭のてっぺんがスローモーションで迫ってきていた。
 艶のある長髪が私の顔をくすぐる。そこまでの距離になって尚、衝突するまでの未来がずっと先のことに思えた。

 のっぴきならない状況にも関わらず、私の頭の中には、この時代にきた時のことが、悠長に映し出されていた。
 挙動不審な私を心配していた幸。あの時死んでしまったはずの幸に会えて、本当に嬉しかった。奇跡は起こるんだと思った。

 次々と流れていく。この時代で新しく育んだ思い出たち。
 賑やかな勉強会。私にとっては二度目の夏祭り。勇気を振り絞って過去の傷を見せてくれたこと。照れ臭そうに夢を語ってくれたこと。
 『私ずっと応援してるからね』と言ってくれたこと。
 色々な場面が駆け巡っていく。ああ、この感覚には覚えがある。
 走馬灯だ。死の間際に見るというアレ。

 ゴッという鈍い音が、頭の中で響く。
 それが意識を手放す最後に聴こえた音だった。