「本当にありがとう。二人には感謝してもし足りないよ」

 しばらくして落ち着いた幸は、私と八代に深々と頭を下げた。

 「エリちゃんは前髪が犠牲になっちゃったし……本当に他は何ともないんだよね?」
 「おう」

 八代はどこか落ち着かない様子で答える。

 「えっと、どこに置いたかな……」

 幸がキョロキョロと視線を彷徨わせる。そして落ちてあったバッグを見つけて「あった!」と言い、それを持って戻ってきた。

 「はい、手鏡。まあ、見た目はそんなに変わってないから、そんなに気落ちしなくてもいいよ」
 「ああ、ありがとう」

 静かな空間にプルル、と着信音が乱入してきた。
 私の携帯だ。マミからだった。

 「はい、もしもし」
 「ちょっと悠! 二人で急に飛び出したりして、一体何なの? 何があったの?」

 置いていかれたマミは、不満げに尋ねる。ごもっともな態度だ。

 「ごめん。幸が、例の男に追いかけられてたみたいで。『助けて!』って電話きたから、慌てて向かったんだ」
 「えっ! マジで!? 大丈夫だったの!?」
 「大丈夫、無事だから。これから警察に話しに行こうと思う」
 「そっか……。あっ、これだけ言っとく。山田は部活時間が延びたから来れない、って」
 「わかった。ごめんね、困惑させて」
 「気にしないで。じゃあまたね」

 通話を終えて、幸に顔を向ける。

 「幸、自分の携帯どこにやったか覚えてる?」
 「あ、見つけたよ」

 幸が手に持った携帯を振る。土で薄汚れてはいるけれど、草むらに投げたのか、そこまでのダメージはないように見える。

 「生きてる、ほら」

 幸が明るい画面を見せる。問題なく動くみたいだ。
 その後、三人で警察署に行って、あったことを話した。


 「明日さ、学校行くよ」

 ベッドに座った幸に告げられ、「ええっ!?」と大声を出してしまった。
 家族は家にいないため、そこまで声量を気にせずとも良いのだが……。

 「さすがに明日は休んだ方が良いよ」

 幸は多少元気を取り戻したが、まだ沈んだ空気を身に纏っていた。
 いつも通り学校に行くのは、おすすめできない。

 「だけど一人でいる方がずっと怖いもん」

 怯えた様子の幸を見て、確かにそうかもしれない、と思った。
 樹里亜が帰ってくるまでは、幸はとりあえず私の家に避難させることにした。
 樹里亜は現在、大和さんの実家にいるらしく、いつ帰れるかわからない状態だった。

 『お義母さんの具合が急に悪くなったの。今から彼の実家についていくから、そっちには行けない。ごめんね、ドタキャンしちゃって』

 幸が見せてくれたメッセージ画面には、そう記されていた。彼女というより、もはや妻だ。ナチュラルに義母扱いしている。
 そのメッセージは、私たちが警察署に向かう途中で届いた。

 『気にしないで。大和さんのお母さん、早く良くなるといいね。帰れる目処が立ったら連絡ください』

 幸の返信に既読はつかなかった。バタバタしていて、携帯をチェックするどころじゃないことが、察せられた。
 そんな状況なので、『今日のことはお姉には、ひとまず話さない方が良い』と幸の提案で、樹里亜には後々伝えることにした。

 「早く帰って来てくれるといいね」
 「うん。いつまでも悠ちゃんに面倒かけるわけにはいかないし……」

 私としては、家に幸がいる状況は結構嬉しいものだが、自宅に帰れない状態が続くのは、幸にとってストレスだろう。

 「警察も早くあいつを逮捕してくれると良いんだけど」

 はぁ、とため息が出てしまう。部屋の片隅で、ぼんやりと外を眺めている八代を見遣る。
 「エリちゃんもいてくれると嬉しい」と幸が言ったことにより、八代も私の家に来ていた。
 私としても八代がいてくれた方が心強いので、是非とも泊まってほしい、と懇願した。

 八代はさっきから随分と静かだ。まあちょっとタイミングがずれていたら、失明していたかもしれないし、寡黙になるのも仕方ないだろう。
 後は単純に疲れたのかもしれない。あそこまで全力で走り続けたら、疲労感も半端ないはずだ。
 私だって、まだ寝るような時間じゃないのに、瞼が重くなってきた。

 「ふぁ……」
 「疲れたよね。もう寝ようか?」

 大口を開けてあくびした私を、幸は気遣わしげに見る。

 「うん。今日はもう……疲れた。ホントに」
 「ごめんね、大変な目に遭わせちゃって」
 「何言ってんの。幸が引け目感じる必要は、まったく無いんだから」

 少し怒ったように言う。被害者の幸が、申し訳なさそうにする道理はない。

 「布団は三人分あるから安心して。三人寝るにはスペースが足りないから、一人リビングで寝てくれる?」
 「えっ? 普通にエリちゃんがリビングじゃ……」
 「あ」

 普通に考えたらそうなるのが必然だ。八代と同じ部屋で朝を迎えた時のことを、まだ感覚的に引きずっていたと気付き、急激に恥ずかしくなる。
 チラリと八代を見たが、彼は相変わらず、ここではないどこかに意識を飛ばしていた。

 「八代、大丈夫? 戻ってきて」

 心配になってきて、顔の前でひらひらと手を振って、存在をアピールする。

 「あ、わりい。何の話だ?」
 「リビングで寝てもらっても良いかって話」
 「ああ。もちろん構わない」
 「布団はもう押し入れから出してあるから。好きな時に敷いて」
 「ありがとう」

 八代は立ち上がり、部屋を出ていこうとする。  
 私は、忘れぬように慌てて呼び止めた。

 「八代。おやすみなさい」
 「ああ、おやすみ」


 「消すよ」
 「うん」

 カチッと照明のスイッチを押す。部屋が暗がりに包まれ何も見えなくなる。
 仰向けになり、目を閉じたところで、「ねぇ」と囁き声が聞こえてきた。

 「二人、前までと雰囲気違わない? 何かあったの?」
 「そう、かな」

 とぼけてみるが、幸は納得していないようだ。

 「二人が、というより、悠ちゃんが変わった感じするなぁ。悟り開いたみたいな、一皮剥けたみたいな」
 「何それ」

 乾いた笑いが出た。その通りなので、かえって何も言えなくなった。

 「私、ずっと応援してるからね」
 静かな夜の部屋の中に、ポツリとこぼされた言葉を聞いて、身体中があたたかくなった。