丘の入り口付近に着いた時には、すでに息も絶え絶えの状態だったが、気にせずに頂上を目指して駆けていく。
 喉の中で何かがばくばくと暴れている。吸っても吸っても呼吸がちっとも楽にならない。
 時折咳き込みながら、一目散に上へ向かう。

 身体が悲鳴をあげているにも関わらず、スピードはまったく落ちなかった。
 それどころか増しているようだ。すぐ後ろにいたはずの八代の足音が、ほんのり遠ざかってきた。
 しかし即座に会話ができる距離だ。それにわずかな安心感を覚える。
 今の私は、最高にハイになっていた。逸る心に身体が着いてきていた。肉体と精神がひとつになっている極度の集中状態。

 「幸ー! どこにいるのー!?」
 頂上が近づいてきて、人影がないか辺りを見回すが、どこにも人の気配はない。

 「おい! あれ幸のじゃないか?」
 八代が叫んだ先には、バッグが落ちていた。
 駆けよって見てみると、確かにそれは幸の物だった。
 幸のお気に入りのトートバッグで、学校にもよく持ってきていた物だ。

 「これ――幸のだ! 何でバッグだけこんなところに――」
 言葉の途中で、最悪な可能性に思い当たる。
 誰かに連れ去られた?
 いや、そんなわけない。落としたのに気付かずに行っちゃっただけだ。そうに決まってる。
 そんなことありえない、とわかっているのに、そう言い聞かせずにはいられなかった。

 その時「助けてー!」という悲鳴がこだました。
 現実逃避していた私は、正気に戻る。

 「幸の声だ! どこからだ!?」
 八代が首を動き回す。
 私が「幸ー!」と叫ぼうと息を吸い込んだ時、100メートルほど離れた前方に、走り回る彼女を見つけた。

 「幸!」
 全速力で彼女へと駆けていく。向こうも私たちに気付いて、地獄で仏を見たかのような形相を見せる。
 互いに向かって走り出す中、幸を追いかける存在が木の陰から飛び出してきた。
 その人物が目に映った途端、寒気が肌を駆け巡る。

 あいつは帰り道で、幸をつけてきていた小柄な男だ。あの時と同じパーカーを目深に被っている。
 男は幸へと手を伸ばすようにして走っていた。幸を捕まえるつもりなんだ。
 変な汗がどっと噴き出す。早く早く――壊れてもいい、間に合え私の足!
 男と幸の距離が縮まっていた。男の手よりも私の足の方が早くたどり着けるよう、神様に祈る。

 「うわっ!」
 幸が後ろへひっくり返った。祈りは無駄になったらしく、幸を引きずり倒した奴は、彼女の身体を押さえつけていた。
 「幸を離して!」
 ちゃんと発音できていたのか怪しいほどに、私の身体は正常からかけ離れた境地にいた。
 私が絞り出した抗議を意にも留めていない風の男は、ポケットから何かを取り出そうと――。
 したのだが、それは叶わなかった。
 助走をつけて蹴りかかった八代によって、奴は2メートルくらいまで吹っ飛んでいった。

 「若葉! 幸を頼む!」
 吹っ飛んでいった男から目を離さぬまま、私に告げる。
 「うん。幸! 何かされてない? 大丈夫!?」
 「大丈夫。何もされてないよ。二人が助けに来てくれたおかげで無事にすんだ」
 その言葉に心底安心した。
 良かった――本当に良かった。

 心が落ち着きを取り戻して、八代の方はどうしたのだろう、と気になる。
 八代は吹っ飛ばした男と取っ組み合っていた。
 男は意識を手放さなかったようだ。土で汚れた姿で、八代に殴りかかろうと拳を振りかざす。
 八代はそれを巧みに避け、相手を拘束するために馬乗りになろうとする。
 喰らった蹴りが効いているのか、男の動きはぎこちなかった。
 結果、少しの抵抗の後に、八代に押さえつけられた。

 「若葉! 警察にかけてくれ!」
 「あ、うん! わかっ――」
 た、と言う声が、地の底から響くようなうなり声にかけ消される。
 警察、という言葉に反応した男が、逃げ出そうともがいていた。
 八代が激しく暴れるそいつを、一層強い力で押さえる。

 地面から数センチ浮かび上がっていた男の頭がガツン、と軽い音を立てて、再び地についた。
 その衝撃によって、今まで頑なに崩れなかったフードが外れ、男の顔があらわになる。
 現れた顔は予想通りだった。間違いない。以前帰り道で付きまとっていた少年だ。

 「ああっ!」
 私と幸の声が揃う。火事場の馬鹿力というやつなのか、少年が拘束を抜け出すことに成功してしまったのだ。

 「待てっ!」
 走り去ろうとした少年の腕を八代が掴んだ。
 しかし少年がポケットから出した物に仰天する。
 ナイフだ。少年は手にしたそれを、八代へ向けて大きく振りかぶった。
 駄目!
 八代はのけぞってナイフをかわした――ように見えたけれど、本当のところ私たちの位置からは、よくわからなかった。

 ドスン、としりもちをついた隙に、少年はナイフを持ったまま脱兎のごとく逃げていった。一瞬のうちに消えていく。

 「八代!」
 「エリちゃん!」

 血相を変えて駆け寄り、至近距離で八代の顔を覗き込む。
 八代は呆然としていた。心ここにあらずという言葉がぴったりな様子で、虚ろな瞳は、真正面の私さえ映していないようだった。

 「八代! 大丈夫? なんだか様子がおかしいけど……」
 「どこか怪我してるの? ねぇエリちゃんってば」

 幸が遠慮がちに揺さぶる。それでようやく八代は現実へと帰ってきた。

 「あ、ああ。避けれたよ、なんとか。危なかった」
 八代は呼吸することを思い出したように、ふーっと長い息を吐き出した。
 その拍子に、前髪が数本八代の膝にパラ、と落ちた。
 ぎょっとして、食い入るように八代の額を見る。

 「ちょっとだけかすったみたいだな」
 あまりに軽い口調で、彼が言う。何でもないことのように前髪を撫で付ける八代が、拍子抜けだった。

 「それより幸は何ともないのか?」
 「うん。二人が来てくれたおかげで、追いかけられただけで済んだ。というか二人とも、一緒にいたんだね」

 パチパチと瞬きをしたあと、私に向き直って説明する。

 「悠ちゃんなら、私がいる場所もわかってるし、悠ちゃんの家から場所も近いから、来てくれるんじゃないかと思って――。警察にどこにいるか説明する余裕なんて、なかったから」

 幸は身体を震わせていた。恐怖がまだ尾を引いている。それどころか増していっているのかもしれない。
 私はたまらない気持ちになって、彼女の全身を包み込むように、抱き締めた。

 「大丈夫、大丈夫。もう大丈夫だから」

 幸の脳に浸透させるように、しきりに繰り返す『大丈夫』は、まるで自身に言い聞かせるようでもあった。
 幸の震えが治まっていき、代わりに私の首筋に熱い水滴が落ちていく。
 私もこっそり一粒だけ溢した。
 間に合ったんだ――。
 実感できた瞬間、ここまで走り抜いてきた疲労が一気に襲ってきた。