「俺は押し入れで寝るから、若葉がベッド使え」
 「え? 布団あるの?」
 「夏用の敷き布団がある。後は毛布があるからそれをかければいい」
 「えっ、でも押し入れって八代には狭いんじゃない?」

 八代は背が高い。足を折り曲げないと、収まらないと思うのだけど……。

 「だって俺に隣にいられたら、嫌だろ」
 彼は決まり悪そうに、頭を掻く。
 誤解が生じている、と気付いて、慌てて首を振る。

 「違うの。別に嫌とか怖いっていうわけじゃなくて――そこまで迷惑かけられないなって。寝る時にまで私が家にいたら、落ち着いて休めないだろうし――」

 私にしたって、緊張して眠れそうにない。八代のベッドなら、尚更。

 「俺は若葉がいてくれた方がいいけど」
 「えっ?」
 「正直嬉しいんだよ。誰かとこうして家で話すこととか、すげー久しぶりだし」

 八代が、どこか哀愁のこもった口調で、照れ笑いする。

 「だから帰らないでほしい。あ、でも親は心配してるだろうから、連絡しとけよ。携帯無事だったんだろ」
 そう言われて、近くに置いてあった携帯を起動させる。
 少しだけ期待したが、やはり通知はゼロだった。氷を当てられたように、心が冷めていく。

 「いいの。心配なんてされないから」
 投げやりに携帯を手の届かない場所に置き、吐き捨てる。
 八代は、私の行動に虚を突かれたように、目を丸くする。

 「は? そりゃ普段なら何も言われないだろうが、今日は違うだろ。今頃気を揉んでると思うぞ」
 そう言って、遠ざけた携帯を私の前に差し出してくる。
 私はゆっくりと首を振って、否定の意を伝える。
 「そういうのもう期待してないの。何年も前からずっと――何とも思われてない」
 真っ暗な画面を見つめて、出来るだけ淡々とした口調で告げた。

 「だから大丈夫。何だったら一週間くらい帰らなくても気づかれないんじゃないかな」
 おどけた調子で言ったけれど、八代から笑いは返ってこなかった。
 室内には重たい沈黙が漂い、私はギャグが盛大に滑った時のような気まずさを感じた。
 先に静寂を破ったのは八代だった。

 「それでも一言くらいは連絡しとけ。さすがに気づかれるだろ」
 「――なら良かったのに」

 私の中で何かが暴れ出しそうになる。懸命に抑えようとするが、意志に反して、唇は勝手に動き出す。

 「小学生の夏休みの時に家出したことがあるの。三日間」

 思い出さないように。早く完璧に忘れ去れるようにと頑張っていた記憶が、鮮明に蘇ってくる。

 「さすがにまだ小さい子供がいなくなれば、あの人たちも必死になって探してくれるんじゃないかと思った。でも――」

 三日目の夜に雨が降りだし、とうとう我慢できなくなって帰った時の衝撃は、やはり到底忘れられるものではなかった。私の努力は無駄だったんだな、と皮肉に笑う。

 「探さないどころか私が消えたことさえ、知らなかった」

 叱られるかもしれない、と期待と恐怖を抱いて玄関のドアへと手を伸ばした時――。

 「偶然にも母が家を出ようとしたタイミングでね、玄関前で鉢合わせしたんだ」

 八代は身動きひとつせずに、聞いていた。私は、もはや八代に伝えようと思って話してなかった。ただ言葉が、蛇口をひねったように、淀みなく流れていく。

 「母は恋人と一緒だった。二人で出掛けに行こうとしてたみたい」

 八代が息を飲む音が聞こえる。初めて反応らしいものが返ってきた。
 それに頓着することなく続けた。

 「母は私を見て一言『くさっ』と言って、片手で鼻を押さえた。そして、もう片方の手でシッシッと私を追い払った」

 三日間お風呂に入ってなかった私は、悪臭を放っていた。
 現実を理解できずにいた私は、とりあえず母に言われた通り進路を妨げないよう、すぐ横の庭へ退いた。

 「恋人の車に乗って去っていく母を見ながら、あ、全部無駄だったんだってやっと受け入れられた」

 それからの私は、不思議なくらいに冷静だった。
 落ち着いた足取りで浴室に行って、身体を洗い、着替えを済ませ、ベッドに入って何事もなかったように眠ろうとした。久しぶりのちゃんとした寝床に、身体は喜んだ。

 「眠りにつく直前に、父が帰ってきたの。知らない女の人を連れてね」

 部屋のドアの隙間から、様子をこっそり見たけれど、父は女の人にとろけるような笑みを向けていた。この前連れてきた人とは違う女性だな、と思った。
 父の表情に少しの憂いもないことを確認して、もう寝よう、と足音をたてないようにして自室へ戻っていった。

 「完全に諦められたってあの時は思えたけど、まだどこかで期待なんてしてる自分がいるの。地元を離れたら――」

 家族のことなんて考えなかったのに、と続けそうになって、「地元を離れたら、くだらない期待も捨てられるかな」と取り繕う。
 うっかり現代のことについて、口を滑らすところだった。

 「そんなこともあって、私は恋愛が無理になったの。両親みたいになるのが、たまらなく怖い。誰かを好きになるとか、考えられなくなって……それでずっと……」

 喉が詰まり、言葉が出てこなくなる。
 喋ることを諦めて、ずっと放ってしまっていた八代の様子を窺う。
 八代は、胸にナイフでも刺さっているみたいに、辛そうな顔をしていた。
 そんな彼が、ふいにハンカチを差し出してきた。意味がわからずに固まっていると、視界が滲み出してきた。

 「えっ? あっ……嘘」
 私は泣いていた。一つこぼれ落ちると、次々と出てきて肌を伝っていく。
 差し出されたハンカチを受け取り、まぶたを叱るように強く押さえつける。

 「ごめん、こんなはずじゃなかったんだけど……何でだろう、私。今日ちょっとおかしいみたい。ごめん、ハンカチ……ごめん」
 「もう謝んな」
 怒ったような声音と共に、身体が引き寄せられる。
 突然の抱擁に、私は目を白黒させた。

 「えっ、えっ……?」
 「――嫌だったら離す」

 声がすぐそばですることに、たまらなく顔が熱くなる。
 鼓動も香りも体温も、この上なく近距離で感じる。混乱した頭の中は、より一層乱雑になっていった。あんなに止められなかった涙も、あっけなく引っ込んでしまった。

 「嫌じゃない。嫌じゃないから――このままでいて」

 絶対に離れたくない、と主張するように、彼の背中に手を回し、強く抱き締め返した。
 私を傷付けないか心配しているような、控えめな力しか加えることのない彼に、もっと強くして、と訴えるように広い背中を撫でる。
 願いが通じたのか、私の背中に回る手に力がこもった。
 このまま一つになれたら幸せだな――なんて考えがふと浮かんできて、今日の私は本当にどうかしている、と恥ずかしくなった。