殺してくれてありがとう

 「今にも降りだしそうだねぇ」
 教室の窓の外のどす黒い空を見上げて、幸が憂いを帯びた息を吐く。

 「そんなに荒れないと良いなぁ」
 私もテンション低めに呟く。雷は鳴るんだろうか。鳴るとしても遠くでいてほしい。

 「まあ、いつも大したことないし今回の台風だって大丈夫でしょ!」
 幸が沈んだ空気を吹き飛ばすように、楽観的に言い放つ。

 教室はざわついていた。先生たちは今、職員室で、生徒たちを下校させるべきかどうか話し合っているため、喧騒をたしなめる者はいない。
 クラス中の皆が、「マジ帰りたーい」「頼む下校になれ!」と授業がなくなることを望んでいる。

 私は意味もなくメッセージアプリを起動して、昨日届いた八代からのメッセージを見る。
 茶柱が立っていたというくだらない内容だ。
 しかしそれを読んだ時、かなり和んだことを思い出す。猫の動画よりも癒されたかもしれない。

 そこから過去のメッセージへと遡っていって、古い順から眺めていく。
 日にちが経つにつれ、だんだんとただの雑談が混ざったりもして、それを見てると心が落ち着いた。
 幸がこちらをチラリと見て、どこか嬉しそうに微笑む。
 「どうしたの?」と訊く前に、ガラリと扉を開く音がして、先生が教室に入ってきた。

 「はい、静かにね~。これからホームルームやりま~す」
 「ってことは帰れるんすね?!」
 一人の男子がテンション高めに尋ねる。
 「そうです。さ、みんなそれぞれの席に着いて~」
 そこかしこに散らばっていたクラスメイトたちが、おとなしく自分の席に戻っていく。みんな早く帰りたいのだ。

 「家の人に迎えに来てもらってもいいです。歩いて帰りたくない人は、今のうちに家族に連絡しといてください」
 その言葉にほとんどの生徒が携帯でメールを打つ。

 私の場合、連絡しても返ってこないか、「一人で帰りなさい」と言われるとわかっているので、みんなが連絡し終わるのを手持ち無沙汰に待つ。
 前の席に座る幸を見る。片肘をついて黒板をぼんやりと見つめていて、携帯をいじる様子はない。
 幸と一緒に帰るか。

 みんなが誰かと帰ってる中、一人で嵐の中を帰宅するのは結構心が削られるので、同士を見つけて、私はすごく安らいだ気分になった。


 ホームルームが終わり、教室からぞろぞろと生徒が出ていく。

 「幸、帰ろ」
 幸のところへ行って声をかけると、少し驚いた顔で私を見返した。
 「いいけど……悠ちゃんも歩いて帰るの?」
 「あ、うん。親仕事だし、悪いかなって」
 無難な言い訳をする。幸は、「じゃあ二人で帰ろっか!」と花が咲いたような笑顔を見せる。
 幸も一人で下校するのは少し嫌だったらしい。


 「あ、いた。幸~!」
 昇降口を出たところで、マミが手を振りながら駆け寄ってきた。
 「待ってたんだよ!」
 「待ってた? 私を?」
 「うん! わたし樹里亜先輩の彼氏――川崎さんか。川崎さんの車で家まで送ってもらう予定なんだけどさ、幸も送ってもらわない? 樹里亜先輩も乗ってるよ」
 「お姉も――もう来てるの?」
 「うん! わたしが幸もいいですかって訊いて、オーケーが出たから、こうして待ってたんだ」

 昇降口のすぐそばにある駐車場を見渡すと、助手席に樹里亜が乗ってる車を発見した。運転席の大和さんに朗らかな笑みを向けている。
 「あ、でも私悠ちゃんと……」
 幸が言い淀み、気遣わしげに私を見る。
 そこでマミがようやく私の存在に気付き、「あっ」と困ったように言った。

 「四人しか乗れないんだけど……」
 マミが大和さんの車へと視線を向け、眉を寄せる。
 「あっ、ならじゃんけんで決めようよ」
 幸が片手を持ち上げる。
 私は、「いや」と首を振る。
 「幸が乗りなよ。私は大丈夫だから」
 「でも……」
 まだ迷っている幸に、被せ気味に言葉を浴びせる。

 「ちょっと待ってなきゃだけど、私の親も言えば迎えに来てくれるから。もうすぐ退勤時間なんだ」
 真っ赤な嘘だ。迎えなんて頼んでも絶対に来ない。
 これまで台風のせいで早めに下校させられることは小、中学校の頃にもあった。私はそういう時、いつも友達を見送ってから一人で帰っていた。
 母や父と一緒に帰宅した記憶は、幼稚園時代のものしかない。

 「悠もこう言ってくれてるんだし、早く行こ! 幸」
 マミはその場で足踏みをして、幸を急かす。
 「う、うん。じゃあ悠ちゃんまたね」
 「悠も気をつけて帰りなね~」
 「うん。またね二人とも」

 二人を乗せた車が私の眼前を通り過ぎた時に、樹里亜は私の存在に気付くだろうか、と思ったが、彼女はこちらを微塵も見ていなかった。
 ただ一点。運転している大和さんのことを熱のこもった瞳で見つめていた。
 それだけでもう深く愛していることが伝わってきて、二人を見てるこっちが恥ずかしくなってくるほどだった。

 「眩しいなぁ……」
 羨ましかった。あんな風にひたむきに恋することに集中できることが。
 冬に桜が咲いているのを見たような気になり、瞼を閉じて俯いた。
 車が去って行って少し経ってから、校内を出た。
 冷たい強風を全身に受けながら、いつもよりずっと力を込めながら、歩を進めていく。

 空がゴロゴロと唸り声をあげる。
 ああ、雷が近づいてきた。私の気分は急激に最低まで下がり、身体がこわばる。
 そろそろ雨も降りだすだろう。そう思いながらも、到底走る気にはなれなかった。

 のろのろと亀のように歩いていたら、ポツン、と足下に水滴が落ちてきた。
 瞬く間に、コンクリートの地面を湿らす水滴は増えていき、ポツポツからザーザーへと変わっていった。
 持っていた傘を広げる。しかし――。
 「あっ……!」
 とびきり強い風にあおられた傘が、見事に裏返り、骨がバキッと折れる不快な音が響いた。

 完全に使い物にならなくなったことを確認する。つい最近買って、初めて使うつもりだったのに。気に入ったデザインだったのに。
 惨めさが増して、一層足が重くなる。
 雨が激しくなってきても、走ろうとは思わなかった。急がなきゃとか、身体が冷えてしまうなどの焦りも不安も湧かなかった。どうでもよかった。
 そして完全に歩みを止めた。信号が青になったのに、渡らずにじっと佇んでいる私を、道行く人が一瞬だけ不可解そうに見て、バタバタと走り去る。

 信号は再び赤になり、停止していた車たちが発進していく。
 傍らの電柱に頭を凭れさせ、次々に流れていく車をぼんやりと眺める。皮肉にもみんな誰かを乗せていた。荒れていく天気への不安で、車内の人間の心は一つになっていると確信する。
 夫婦や親子が乗ってる光景ばかりが通過していき、孤独なのはお前だけだ、と言われているように感じた。

 頬をつたう水滴の中に、生温いものが混ざりだす。
 大人になってからずっと一人で平気だったのに。この時代に戻ってから、ずいぶん脆くなったものだ。
 いや、平気だったんじゃない。
 麻痺させてただけだったんだ。
 少しつつかれたら開いてしまう傷口を、ずっと放置していただけ。
 孤独の痛みは私の生涯に付きまとい続けていて、ただ目を背けることが上手になっただけだった。
 それなのに私は、成長して大丈夫になったと思い上がっていたんだ。

 情けなさに唇を噛んだ時、視界が白く光った。
 その直後に、落雷が空気を大きく震わす。
 どこかに落ちたんだ。しかもかなり近いだろう。理解した途端、膝が滑稽なくらいに震え出す。
 7歳の時、ゴロゴロ鳴る雷と激しい雨風に泣きながら帰った。当時の私は、頑張れば両親に振り向いてもらえる、とどこかで信じていた。
 雷が鳴る度に、あの日のことを思い出し、最悪な気分になる。

 体育館で班別に固まって保護者を待っていた、そわそわと落ち着かない児童たち――。
 次第にそれぞれの保護者が迎えに来て、体育館の中は笑顔に満ちていく。私の班の子たちも一人、二人と姿を消していった。
 人が減って静かになっていくのを感じて、私のところには、誰も迎えに来てくれないかもしれない――と不安が募ったが、いや、そんなわけはない。私は家族にとって、まさかそこまでのどうでも良い存在ではないはずだ、と言い聞かせた。
 結果私はどうでも良い存在だった。校内に残った生徒は私だけになって、何分待とうが望んだ人は来なかった。

 「先生の車で送ってあげます」
 見かねた教師がそう申し出たけれど、頷いたら自分が惨めな存在だと認めるみたいで、
 「校門を出たところで待ってるんです!」
 と叫び、制止の声を振り切って、全速力で駆け出した。

 雨風は小さな身体を虐げるかのように、激しく降っていた。
 前もろくに見えないまま、私は走り続けた。喉が心臓になったみたいだった。
 悪天候に悶えながらも、家の近くの公園にまでたどり着いた時、鼓膜を突き破るくらいの轟音が大地を震わした。
 公園内の大木――よく木登りで遊んでいた、当時の私にとっては、馴染み深いその場所に、雷が落ちたのだ。
 燃える木から目を離せないまま、私は腰が抜ける、というのをその時初めて経験した。

 あの日から嫌いだ。雷も大雨も家族も一人で帰るのも。
 過去の事を思い出しているうちにも、雨風や雷はどんどん強くなっていく。
 寒いなぁ……。
 そう発したつもりだったが、私の唇はわずかに動いただけで、声は出てこなかった。

 バシャバシャと濡れた地面を駆ける足音が、背後から聞こえてきた。
 横断歩道の信号は青で点滅していた。急いで渡るつもりなんだろう。
 この走ってくる人もどうせ、誰かの待つ家に帰るんだろうな。
 妬ましく思う自身の醜さを自覚して、苦しくなる。

 しかし走ってきた人物は、横断歩道を渡らず、私の隣で足を止めた上に、傘の中に私を入れた。そして、私の顔を心配そうに覗き込んでくる。
 私は驚きのあまり、一瞬幻を見ているのではないか、と思った。

 「おい、若葉! どうしたんだ!?」
 八代が、ポカンとしている私の肩を掴んで揺らす。
 「え? 八代? 何で……?」
 予期せぬ人物が現れたことに困惑していると、八代が説明してくれた。

 「バイト終わって急いで帰ってたら、なんか様子のおかしい若葉を見つけたから、走ってきたんだ。どうしたんだよ、そんなとこで。何があった?」
 八代も私と同じくらい困惑している。ちゃんと答えなきゃ、と思うのに言葉が何も思い浮かばない。
 「動けない……」

 ようやくか細い声で出せたのは、そんな情けない言葉だった。言ったそばから、恥ずかしさが襲ってくる。
 けれど八代は、「そうか」と頷くと、何を思ったのか私に傘を手渡して、スッとかがんだ。

 「あの……?」
 「乗れ。送ってく」
 「えっ」

 まさか背負うつもり? 挙げ句の果てに、私の家まで歩く気でいるのか。

 「そこまでしてもらうわけには……」
 「いいから乗れよ。じゃないといつまでもこの姿勢のままでいるぞ」

 八代は決して譲らない、とばかりに頑なに言い張る。
 そうやって私がぐずぐずしている間にも、傘の中にいない八代はどんどん濡れていく。
 私は観念した。

 「ごめん……失礼、します」
 八代の背中へ体重を預ける。温かくて広い背中だった。
 「よ、っと」
 私を乗せてゆっくりと立ち上がる。身体が密着し、ずぶ濡れの私が八代を濡らしてしまう。
 「ごめん、冷えちゃうよね」
 「くだらねーこと気にすんな」

 本気で迷惑と思ってなさそうな態度に、ガチガチに固まっていた心が溶けていくのを感じる。
 それと同時に、膝の裏に彼の手が回されていることを意識して、鼓動が早くなる。

 「おい、しっかり掴まれ。危ないぞ」
 出来るだけ身体を離そうと身動きした私を、八代が咎める。
 「嫌でもちょっとの間だから我慢してくれ。密着されてた方がバランス取りやすい」
 「全然嫌じゃない」
 「なら良かった」

 嫌どころか、心地良いこのぬくもりをずっと感じていたい、とさえ思う。駄目だとはわかっているのに、どうしても離れがたかった。

 「ここを曲がって進めば、若葉の家の周りに出るんだよな?」
 八代が顎で右手を示す。

 彼の言うとおり、そこを曲がれば、私の家が見えてくる。そうなれば後は前進するだけだ。
 あと少しで、別れなければならない。がらんとした家で、一人怯えていなければならない。そんなの嫌だ!

 「無理……帰りたくない」
 やめろ、と頭の中で冷静に口を挟む自分がいる。
 しかし身体からは、止めどなく言葉が溢れ出していった。

 「あそこには帰れない。勝手なこと言ってるのは、わかってる。でも、今だけでいいから……お願い。一緒にいて」

 恥も外聞も捨てて、必死にすがる。この広くてしっかりした背中が、今の私には、最も心安らぐ居場所だった。
 ずっとこうしていたい。息をするだけで何かが少しずつ削れるようなあの家には、行きたくない。

 「わかった」
 数秒の沈黙の後、八代が優しく言う。
 「だがこのまま外にいるわけにもいかねぇからなぁ。うーん……」
 八代は口にするのを躊躇うように、少しの間唸っていたが、やがて遠慮がちに言った。
 「俺の家に来るか?」
 「お邪魔します……」
 そう言って、おずおずと足を踏み入れる。
 ここが八代の住んでいるところ――。

 「ちょっと待ってろ。タオル取ってくる」
 八代は、玄関から左手にあるドアを開ける。洗面所なのだろう。タオルを取り出す気配と湯を沸かす音がする。

 「はい。まずは軽く拭いとけ。その後風呂使えよ」
 「本当に申し訳ない……図々しくお風呂までいただいて……」
 「いいから。ちゃんと浸かれよ? 身体を冷やすな」
 「うん……」

 靴の中までびちゃびちゃだ。靴下を脱いで絞ると、かなりの水分が出てきた。
 ゴシゴシと頭を拭く。

 「これ着替え。こんなのしかないけど、まだ使ってないやつだから」

 八代が厚手のパーカーとズボンを見せてくる。新しい服の匂いがした。最近手にしたばかりの物なのだろう。

 「大きいだろうけど我慢してくれ。脱衣所に置いとくからな」
 「何から何まで、本当にありがとう。――ではお借りします」

 ドキドキと鳴る胸に手を置いて、脱衣所へ入室する。
 洗面所の鏡に映る自分を見て、顔にカッと熱が集まった。これから八代の家のお風呂に入ることを意識させられる。
 八代もここで服を脱いでいるんだ、という考えがふいに頭に浮かんできて、慌てて首をブンブンと振る。
 制服を脱ぐ行為が普段よりうんと恥ずかしかった。裸になった自分をなるべく見ないように視線を彷徨わせながら、熱い湯を張った浴槽に全身を沈める。

 「あったかい……」
 全身の毛穴から、安らぎがじわじわと染みてくる。身体が温まると同時に、精神も順調に回復していった。
 先ほど通ってきた歓楽街へ思考を巡らす。

 “そっち系”のお店がところ狭しと並んでいて、台風のせいで人っ子一人いないというのに、身を隠したくなった。一度、昼間のキャバクラの前を通ったことがあるが、その辺りよりもずっといかがわしい看板で埋め尽くされていた。
 子供に存在すら知られてはいけない場所だ。

 さすがに今は、誰も歩いてなかったが、確かに普段は絶対に誰かを連れてきたくないだろう。
 アパートにはどんな人が住んでいるのか。八代はどんな気持ちで毎日ここで寝起きしているのか。実際に危険な目に遭ったこととかあるんだろうか――。

 お祭りの夜に聞いた壮絶な境遇を思い出す。
 父に殺されかけてどんな気分になったんだろう。親戚に疎まれ、唯一残った家族である弟が姿を消して、こんな場所で独り暮らすなんて――。
 彼がまだ未成年なことを思うと、私の胸は引き裂かれるようだった。

 「……よし」
 湯船の中で、私は一つ決意を固めた。
 「お風呂ありがとう。すっかりあったまったよ」
 「それは良かった。服大丈夫か?」

 袖の余ったパーカーと何回も折ったズボンを見下ろす。しかし、肩は見えないし、ズボンだって紐をきつめに縛れば、ずり落ちないので、問題ない。

 「大丈夫。ありがとね、ホントに。すごい助かる」
 私は、部屋を見渡してみる。

 きれいに片付けられた和室だ。というかほとんど物がない。
 入り口から見て左側にシングルベッドが置かれており、そこから少し離れたところに小さな本棚があった。右側に押し入れがあるのみだった。
 スペース自体はそんなにないはずなのに、私の部屋よりもずっと広く感じた。
 真正面の窓からベランダに出れるようになっている。八代の部屋は二階にあるため、夜になればギラギラと明るく騒がしい街の様子が見えるのだろう。
 もっともこんな天候では、さすがに営業しないんじゃないか、とも思うが。

 「きれいな部屋だね。ちゃんと整理整頓されてる。私の部屋とは大違い」
 「普通だろ」

 八代が一つしかない座布団を差し出してくれる。断ったところで押しきられるのが見えているので、礼を言って座らせてもらった。

 彼と向き合う形になる。黙ってるのも気まずいので、
 「雨、すごいね」
 と窓の外へ顔を向ける。
 「だな。雷はどっか行ったけど」
 「雷、苦手?」
 「いや、そんなに。落ちるのはごめんだが。――若葉は苦手そうに見えたけど」

 背負われていた時に、雷鳴が強く響く度、ビクッと震えていたのが、伝わっていたらしい。
 少しばつが悪くなり、指を組んだりほどいたりしながら、説明する。

 「う、うん。恥ずかしながらこの年になっても、かなり怖いんだ。昔、目の前で落ちたことがあって」
 「なるほど。そういうことがあったなら怖いに決まってるな。そんな中一人で帰ることになったら地獄だよな」
 「そうなんだよ! 幸と帰れる予定だったんだけど、大和さ――樹里亜の彼氏さんが車で迎えに来ててさ、座席が足りなかったから断っちゃった」
 同調されて嬉しくなり、声が弾む。

 「樹里亜も乗ってたんだ。マミと幸を乗せてくつもりだったみたいで」
 「最近、姉妹仲良いみたいだな」
 八代がしみじみと言う。その発言によって、風呂場で固めた決意を思い出した。
 背筋を面接時のようにピンと伸ばし、おずおずと切り出す。

 「あの……さ。前に弟のこと話してくれたじゃん?」
 「ああ。それがどうかしたか?」
 予期せぬ話題に、八代は切れ長の目を見張った。

 「弟に会いたいって言ってたよね?」
 「ああ。――若葉が嬉しいこと言ってくれたから、よく覚えてる。あいつも俺に会いたいはずだ、って」
 「うん。八代って絶対良い兄だったでしょ。私が弟ならまた会いたいって思うな。まあ一度離れた手前、また顔合わせるのは勇気いるかもだけど……」

 私にも八代みたいな兄弟がいてくれれば、両親が見てくれなくても、悲しくならなかったのに、と思う。

 「せめて元気なことが分かれば、安心できんだけどな。頼りに来ないってことは逞しくやってんのかな」
 不安と期待を含ませて、八代が呟いた。
 「弟を探したりしたの?」
 「現在でも捜索中だよ。あんまパッとしないけど。遠くの地方にでも行ってんのかもな。全然手がかりないし」

 そう言って憂鬱にため息を吐く。諦めたくないが、諦めかけてるといった様子だ。

 「ねぇ、八代」
 「ん?」
 「私も手伝うよ。弟さんを探すの。私にできることって少ないかもしれないけど、協力させて」

 私がそう言うと、八代は不思議そうな顔をして尋ねた。

 「何で若葉がそこまでしてくれんだ」
 「何でって――」

 理由は沢山ある。
 八代の役に立ちたいから。色々助けてもらった恩を返したいから。
 八代の孤独を和らげたいから。

 「色々あるけど、やっぱり一番は――八代に幸せになってほしい、からかな」

 この場所に連れてこられてから、よりいっそう強く願うようになった。
 彼が家族に会いたいのなら、会わせてあげたい。せっかく大切に思える家族がいるのに、一生会えないなんて、そんなのは悲しすぎる。

 「私がそうしたいだけなの。八代のことが大事だから、何もできないのが苦しい」
 「はっ……!?」
 八代の顔が朱に染まり、表情が固まる。
 自分がどれだけ思わせ振りなことを言ったのか、私も遅れて気付く。

 「あっ、違っ……数少ない大事な友達だし、ってこと! 変な言い方してごめんなさい!」
 ワタワタと無駄に身振り手振りをして、やけくそ気味に勢いよく謝る。

 「あ、うん……」
 控えめな声で返される。うつむいた顔が、気のせいか少し残念そうに見えた。

 「と、とにかく! 幸の件が片付いたら、二人で改めて調べようよ!」
 「いいのか?」
 「言ったでしょ。私がやりたいからやるんだって。八代には色々助けてもらったし、このままじゃ私の気が済まないの。今もこうして多大な迷惑をかけてるわけだし」
 「俺は迷惑なんて思ってないが……若葉がそう言うなら手伝ってもらおうかな。若葉がいてくれれば、大丈夫な気がしてくるんだから、不思議だ」

 そう言って、彼はフッと柔らかく笑う。八代の見せる表情の中で、私が一番好きな顔だ。
 頬が紅潮する。視線の置き所がわからなくなり、八代の後ろにあるベッドに行き着いた。
 あっ、と思い至る。そうだ、さすがに夜には帰らなくてはいけない。
 時計を見ると、17時近くになっていた。もうそんなに経ったのか、と驚く。

 「八代。さすがにもう帰るよ。ごめんね、私のわがままに付き合わせちゃって。制服も結構乾いただろうし、着替えてくるよ」

 立ち上がり、台所で扇風機の風を当てていた制服を、取りに行こうとした。しかし、八代が慌てたように言う。

 「待てよ。外かなり荒れてんだろうが。今帰るのは危険だ」

 雨や風は、治まるどころかどんどん激しくなっていた。窓にゴーゴーと叩きつける音がするほどだ。
 天気予報では夜がピークとのことだから、これから天候は荒れる一方だろう。

 「でもさすがに泊まるのは……ちょっと……」

 寝る時どうするのだろう、という心配が念頭にあった。一人暮らしで友人も招けないだろうこの家に、余分な布団なんて、十中八九ないだろう。
 もう一晩中起きてようか。明日は土曜日で、学校は休みなんだし。
 「俺は押し入れで寝るから、若葉がベッド使え」
 「え? 布団あるの?」
 「夏用の敷き布団がある。後は毛布があるからそれをかければいい」
 「えっ、でも押し入れって八代には狭いんじゃない?」

 八代は背が高い。足を折り曲げないと、収まらないと思うのだけど……。

 「だって俺に隣にいられたら、嫌だろ」
 彼は決まり悪そうに、頭を掻く。
 誤解が生じている、と気付いて、慌てて首を振る。

 「違うの。別に嫌とか怖いっていうわけじゃなくて――そこまで迷惑かけられないなって。寝る時にまで私が家にいたら、落ち着いて休めないだろうし――」

 私にしたって、緊張して眠れそうにない。八代のベッドなら、尚更。

 「俺は若葉がいてくれた方がいいけど」
 「えっ?」
 「正直嬉しいんだよ。誰かとこうして家で話すこととか、すげー久しぶりだし」

 八代が、どこか哀愁のこもった口調で、照れ笑いする。

 「だから帰らないでほしい。あ、でも親は心配してるだろうから、連絡しとけよ。携帯無事だったんだろ」
 そう言われて、近くに置いてあった携帯を起動させる。
 少しだけ期待したが、やはり通知はゼロだった。氷を当てられたように、心が冷めていく。

 「いいの。心配なんてされないから」
 投げやりに携帯を手の届かない場所に置き、吐き捨てる。
 八代は、私の行動に虚を突かれたように、目を丸くする。

 「は? そりゃ普段なら何も言われないだろうが、今日は違うだろ。今頃気を揉んでると思うぞ」
 そう言って、遠ざけた携帯を私の前に差し出してくる。
 私はゆっくりと首を振って、否定の意を伝える。
 「そういうのもう期待してないの。何年も前からずっと――何とも思われてない」
 真っ暗な画面を見つめて、出来るだけ淡々とした口調で告げた。

 「だから大丈夫。何だったら一週間くらい帰らなくても気づかれないんじゃないかな」
 おどけた調子で言ったけれど、八代から笑いは返ってこなかった。
 室内には重たい沈黙が漂い、私はギャグが盛大に滑った時のような気まずさを感じた。
 先に静寂を破ったのは八代だった。

 「それでも一言くらいは連絡しとけ。さすがに気づかれるだろ」
 「――なら良かったのに」

 私の中で何かが暴れ出しそうになる。懸命に抑えようとするが、意志に反して、唇は勝手に動き出す。

 「小学生の夏休みの時に家出したことがあるの。三日間」

 思い出さないように。早く完璧に忘れ去れるようにと頑張っていた記憶が、鮮明に蘇ってくる。

 「さすがにまだ小さい子供がいなくなれば、あの人たちも必死になって探してくれるんじゃないかと思った。でも――」

 三日目の夜に雨が降りだし、とうとう我慢できなくなって帰った時の衝撃は、やはり到底忘れられるものではなかった。私の努力は無駄だったんだな、と皮肉に笑う。

 「探さないどころか私が消えたことさえ、知らなかった」

 叱られるかもしれない、と期待と恐怖を抱いて玄関のドアへと手を伸ばした時――。

 「偶然にも母が家を出ようとしたタイミングでね、玄関前で鉢合わせしたんだ」

 八代は身動きひとつせずに、聞いていた。私は、もはや八代に伝えようと思って話してなかった。ただ言葉が、蛇口をひねったように、淀みなく流れていく。

 「母は恋人と一緒だった。二人で出掛けに行こうとしてたみたい」

 八代が息を飲む音が聞こえる。初めて反応らしいものが返ってきた。
 それに頓着することなく続けた。

 「母は私を見て一言『くさっ』と言って、片手で鼻を押さえた。そして、もう片方の手でシッシッと私を追い払った」

 三日間お風呂に入ってなかった私は、悪臭を放っていた。
 現実を理解できずにいた私は、とりあえず母に言われた通り進路を妨げないよう、すぐ横の庭へ退いた。

 「恋人の車に乗って去っていく母を見ながら、あ、全部無駄だったんだってやっと受け入れられた」

 それからの私は、不思議なくらいに冷静だった。
 落ち着いた足取りで浴室に行って、身体を洗い、着替えを済ませ、ベッドに入って何事もなかったように眠ろうとした。久しぶりのちゃんとした寝床に、身体は喜んだ。

 「眠りにつく直前に、父が帰ってきたの。知らない女の人を連れてね」

 部屋のドアの隙間から、様子をこっそり見たけれど、父は女の人にとろけるような笑みを向けていた。この前連れてきた人とは違う女性だな、と思った。
 父の表情に少しの憂いもないことを確認して、もう寝よう、と足音をたてないようにして自室へ戻っていった。

 「完全に諦められたってあの時は思えたけど、まだどこかで期待なんてしてる自分がいるの。地元を離れたら――」

 家族のことなんて考えなかったのに、と続けそうになって、「地元を離れたら、くだらない期待も捨てられるかな」と取り繕う。
 うっかり現代のことについて、口を滑らすところだった。

 「そんなこともあって、私は恋愛が無理になったの。両親みたいになるのが、たまらなく怖い。誰かを好きになるとか、考えられなくなって……それでずっと……」

 喉が詰まり、言葉が出てこなくなる。
 喋ることを諦めて、ずっと放ってしまっていた八代の様子を窺う。
 八代は、胸にナイフでも刺さっているみたいに、辛そうな顔をしていた。
 そんな彼が、ふいにハンカチを差し出してきた。意味がわからずに固まっていると、視界が滲み出してきた。

 「えっ? あっ……嘘」
 私は泣いていた。一つこぼれ落ちると、次々と出てきて肌を伝っていく。
 差し出されたハンカチを受け取り、まぶたを叱るように強く押さえつける。

 「ごめん、こんなはずじゃなかったんだけど……何でだろう、私。今日ちょっとおかしいみたい。ごめん、ハンカチ……ごめん」
 「もう謝んな」
 怒ったような声音と共に、身体が引き寄せられる。
 突然の抱擁に、私は目を白黒させた。

 「えっ、えっ……?」
 「――嫌だったら離す」

 声がすぐそばですることに、たまらなく顔が熱くなる。
 鼓動も香りも体温も、この上なく近距離で感じる。混乱した頭の中は、より一層乱雑になっていった。あんなに止められなかった涙も、あっけなく引っ込んでしまった。

 「嫌じゃない。嫌じゃないから――このままでいて」

 絶対に離れたくない、と主張するように、彼の背中に手を回し、強く抱き締め返した。
 私を傷付けないか心配しているような、控えめな力しか加えることのない彼に、もっと強くして、と訴えるように広い背中を撫でる。
 願いが通じたのか、私の背中に回る手に力がこもった。
 このまま一つになれたら幸せだな――なんて考えがふと浮かんできて、今日の私は本当にどうかしている、と恥ずかしくなった。
 いつまでもああしていたい気分だったが、しばらく経って、冷静さが戻ってくる。
 そうなると、照れくささにとても耐えられなくなり、名残惜しさと解放感を同時に感じながら、身体を離す。
 そして、疑問に思っていたことを訊く。

 「あの……どうして抱き締めたりしたの?」
 私の質問に、八代がどこか言いにくそうにしながら、答える。

 「家族のことを話してる時の若葉が、人の愛情を求めているように見えたんだよ。俺じゃあ所詮他人だから、親の代わりにはなれないだろうけど。だが話に聞いた若葉の両親よりも、若葉を大切に想ってるって自信はある」

 愛情を求めている――。その言葉に、視界が急に開けていくのを感じた。今まで見えなかった本音が、八代によって目の前に映し出される。
 やっと気付けた。

 私はずっと愛に飢えていた。けれどそれを失うことがあまりに怖くて、最初から何も求めない道を選んだのだ。
 信じる勇気を持てずに、そんなの存在しない、存在したとしても、私には必要ないと言い聞かせていた。
 始めなければ、結果なんてわかるわけないのに。
 臆病者。弱虫。私を表すのにぴったりの言葉が、脳裏に浮かぶ。
 臆病で弱虫だった自分に気付かせてくれた彼は、呆然としている私の頭を撫でて、心配いらない、とでも言うように私が大好きな笑みを見せた。

 「安心しろよ。若葉なら、温かい家庭を作れる。両親のようには、絶対にならねぇよ。友人の俺が保証する」

 その言葉は、怖じ気づく私の背中をそっと押してくれるものだった。
 言葉が優しく心に染みだしていくのと同時に、モヤモヤした違和感を覚える。何かが違うような、ダメなような感じがする。
 答えを探すように、彼をまじまじと見つめる。

 目と目がばっちりと合って、その瞬間八代の眼差しがより一層温かいものになる。
 その眼差しがとても眩しかった。実際に視界が光り出した錯覚さえ覚えた。

 この人のことがすごく好きだ。
 想いが胸の内でふっと湧き出した。

 彼と目が合って、モヤモヤの理由がわかった。私は八代に背中を押してもらいたいんじゃない。
 勇気を出して進んだ先にいるのが、彼であってほしいんだ。
 誰かを真剣に愛することから逃げない決意をしたなら、私は彼と向き合いたい。
 だって私は、この人――八代襟人に恋しているから。
 ようやく白旗を上げたら、身体から力が抜けた。その拍子に腹の音が場違いに響く。

 「そういえばそろそろ飯時だな。夕飯にするか」
 「お恥ずかしいことで……」
 今更遅いけれど、精一杯お腹に力を込めて縮こまる。
 八代は台所へと歩いていき、冷蔵庫を開いて小さくうめき声を上げた。

 「チャーハンなら出来そうだな。チャーハン好きか?」
 「大好きです。ありがとう」

 それから、折り畳み式のミニテーブルで、二人でチャーハンを食べた。
 チャーハンはパラパラでお店のものみたいだった。
 自身で食事を用意することに慣れて久しいが、私とは腕前が違うと思った。八代が上手なのか私が未熟なのかはわからない。たぶん両方だろう。
 テーブルは小さく、随分と狭苦しい食卓だったが、それがかえって幸福に感じた。
 21時になり、明日に備えてもう寝よう、となった。
 明日の早朝、八代が送ってくれるそうだ。人っ子ひとりいない状態だが念のため、とのことだ。
 私も一人であの通りを歩くのは怖かったため、八代がついててくれるのはありがたかった。
 寝場所の問題については、ベッドは家主が使うべき、と私の強い主張により、八代がベッド、私が床に布団を敷いて眠ることになった。

 「今日は本当にありがとう。おやすみなさい」
 「ちょっとは楽になれたか?」
 「うん。もう大丈夫。色々な事としっかり折り合いつけられたから。おかげさまでね」
 「良かった。若葉を見かけた時、何か雰囲気ヤバそうだったから、つい連れて来ちまったけど、正解だったみたいだな」
 「ねぇ八代」
 「ん?」
 「私を見つけてくれてありがとう。今日八代と出会えて本当に良かった」

 そして最も伝えたい大切なことを唇に乗せる。
 「私、救われたんだ。やっと」
 今私を満たしていたのは、これまでの人生でかつてないほどの幸福感と希望だった。

 「おやすみなさい。――また明日」
 明日の朝、目覚めて一番最初におはようと言える楽しみに心踊らせながら、布団に横たわる。
 「ああ。おやすみ」
 八代は安堵したように呟くと、電気を消した。


 「ん……」
 もぞ、と布団の中で身動きする。少しずつ頭が覚醒していき、今何時だ、と寝る前に近くに置いてあった携帯を手繰り寄せる。
 4時か。まだ眠れるけど……今からもう一度眠る気にもなれない。
 喉がカラカラに渇いていることに気付き、水を飲むべく台所に向かった。

 八代の家に紙コップがあって良かった。水音を立てないように蛇口をゆっくりひねる。
 台所の小窓のガラス越しに外を見ると、空が白み出していた。じきに太陽が濡れそぼった街を照らすだろう。
 無事に喉を潤し、ベッドにいる家主を窺う。
 規則的な寝息を立てている。起きる様子はなさそうだ。
 眠るつもりはなかったが、再び布団に横たわった。

 時間が経つのをのんびり待つか……。
 そう思って右向きに寝転ぶと、闇に慣れた目が何かを捉えた。
 目を凝らすと、それが四角く薄い物であるらしいとわかった。
 ベッドの下にあり、手を伸ばせば届きそうだ。
 八代がベッドの下に物を置く人間には見えなかったので、少しばかり好奇心が湧いた。もしかしたら失せ物かもしれない、と思い当たり、私はそれを引っ張り出した。

 触ってみるとどうやら手帳らしかった。スベスベした革の感触が指に馴染む。
 少し迷って、ベランダに出ることにした。外は既に結構明るいので、問題ないだろう。
 そう。私は手帳の中身を盗み見しようと思った。むろん葛藤はあったが、それよりも好奇心が勝っていた。
 八代の様子を気にしながら、そうっと窓を開けベランダに出る。起きる気配はなく、ホッとした。

 手帳には、そこだけ開きやすくなっている部分があった。何度もそのページだけ確認したようだ。
 気になって、冒頭を無視して開きやすくなっている箇所を開く。
 中身は日記のようだった。日付と共に文章が綴られている。
 上から順に読んでいって、これは八代の父が書いたものだとわかった。会社や息子・妻だと思わしき人の名前が、随所に散りばめてある。
 羅列されている文字の中から見つけたある文章に、私の目は釘付けになった。

 俺がタイムリープしなければ、襟人は生まれなかったんだよなぁ。

 タイムリープ。八代の父親がタイムリーパー? しみじみしたその文体を、食い入るように眺めた。

 「若葉? ベランダにいんのか?」
 後ろからした声に、ハッとする。カラカラと窓を開ける音がして、とっさに手帳を服の中に隠した。

 「目が覚めちゃって」
 手帳が落ちないように、両手を腹の前で組み合わせて、服の上から押さえつける。
 さりげなく出来ているだろうか。違和感がないように出来ているだろうか。内心バクバクしながら、笑みを浮かべる。

 「そうか。おはよう」
 「おはよう」
 挨拶を交わすと、すぐに八代は家の中に入っていった。
 私もそろそろ出る準備をしなければならない。
 早朝の歓楽街は予想通り閑散としていた。

 「いつもだったら人が落ちてたりすんだけど。昨日の台風のせいで誰も遊びに来てないようだな」
 「歌舞伎町みたいだね」

 歌舞伎町に行ったことはないが。聞くところによると、酔っぱらいが朝には道端で寝ているらしい。
 いくら進んでいっても誰にも会わず、世界に二人しかいないような気分にさせられる。
 爽やかな澄んだ空気にも関わらず、私の心中はそれどころではなかった。

 「歌舞伎町はどんだけ汚れてんのかって思うよ」
 「うん」
 「俺のアパートの前にもしょっちゅうゴミが散らかっててさ。もう慣れたけど」
 「うん」
 「最近朝、寒くなってきたよな」
 「うん」
 「何か上の空じゃね? 体調でも悪いのか?」

 いけない。会話に身を入れなさすぎた。不自然に思われてしまったようだ。

 「あー……朝弱くて」
 「そういうことか」
 「八代はどう? 強い?」
 「普通だよ。朝は好きでも嫌いでもない」
 「そうなんだ。あっ、八代」

 歓楽街を抜けて、小学校の通学路に入ったところで、そろそろいいかな、と立ち止まる。

 「ちょっと寄りたいところあるから、ここまででいい」
 「じゃ、また明日な」
 「あっ、そっか。明日が約束の日曜日か」
 「忘れんなよ」
 「忘れないって。スケジュール帳に書いてあるし。ちょっとボーッとしてただけ」

 今はあなたの父の日記の内容について、頭がいっぱいなんだよ。
 こうして話している間にも、バレないか気が気じゃない。今は大丈夫でも、八代が帰宅したらすぐに紛失に気付かれるんじゃないか心配だ。
 肩にかけたスクールバッグを気にする。早く読みたい――。
 家に帰る時間さえもどかしくて、今すぐに中身を開きたかった。

 「じゃあ明日ね。色々とありがとう。今度絶対にお礼するよ」
 角を曲がって八代が見えなくなった途端、私は走り出した。


 公園のベンチに腰を下ろしふぅ、と息を吐き出した。
 全速力で走るのなんて、あんまりないからぐったりきてしまう。
 公園内には誰もいなかった。やっとみんな起き出した頃だろう。土曜日だからもっと遅いかもしれない。
 ここなら誰にも邪魔されない。

 バッグの中から、手帳を取り出す。
 よし。気を引き締めて1ページ目を開いた。