過去の事を思い出しているうちにも、雨風や雷はどんどん強くなっていく。
寒いなぁ……。
そう発したつもりだったが、私の唇はわずかに動いただけで、声は出てこなかった。
バシャバシャと濡れた地面を駆ける足音が、背後から聞こえてきた。
横断歩道の信号は青で点滅していた。急いで渡るつもりなんだろう。
この走ってくる人もどうせ、誰かの待つ家に帰るんだろうな。
妬ましく思う自身の醜さを自覚して、苦しくなる。
しかし走ってきた人物は、横断歩道を渡らず、私の隣で足を止めた上に、傘の中に私を入れた。そして、私の顔を心配そうに覗き込んでくる。
私は驚きのあまり、一瞬幻を見ているのではないか、と思った。
「おい、若葉! どうしたんだ!?」
八代が、ポカンとしている私の肩を掴んで揺らす。
「え? 八代? 何で……?」
予期せぬ人物が現れたことに困惑していると、八代が説明してくれた。
「バイト終わって急いで帰ってたら、なんか様子のおかしい若葉を見つけたから、走ってきたんだ。どうしたんだよ、そんなとこで。何があった?」
八代も私と同じくらい困惑している。ちゃんと答えなきゃ、と思うのに言葉が何も思い浮かばない。
「動けない……」
ようやくか細い声で出せたのは、そんな情けない言葉だった。言ったそばから、恥ずかしさが襲ってくる。
けれど八代は、「そうか」と頷くと、何を思ったのか私に傘を手渡して、スッとかがんだ。
「あの……?」
「乗れ。送ってく」
「えっ」
まさか背負うつもり? 挙げ句の果てに、私の家まで歩く気でいるのか。
「そこまでしてもらうわけには……」
「いいから乗れよ。じゃないといつまでもこの姿勢のままでいるぞ」
八代は決して譲らない、とばかりに頑なに言い張る。
そうやって私がぐずぐずしている間にも、傘の中にいない八代はどんどん濡れていく。
私は観念した。
「ごめん……失礼、します」
八代の背中へ体重を預ける。温かくて広い背中だった。
「よ、っと」
私を乗せてゆっくりと立ち上がる。身体が密着し、ずぶ濡れの私が八代を濡らしてしまう。
「ごめん、冷えちゃうよね」
「くだらねーこと気にすんな」
本気で迷惑と思ってなさそうな態度に、ガチガチに固まっていた心が溶けていくのを感じる。
それと同時に、膝の裏に彼の手が回されていることを意識して、鼓動が早くなる。
「おい、しっかり掴まれ。危ないぞ」
出来るだけ身体を離そうと身動きした私を、八代が咎める。
「嫌でもちょっとの間だから我慢してくれ。密着されてた方がバランス取りやすい」
「全然嫌じゃない」
「なら良かった」
嫌どころか、心地良いこのぬくもりをずっと感じていたい、とさえ思う。駄目だとはわかっているのに、どうしても離れがたかった。
「ここを曲がって進めば、若葉の家の周りに出るんだよな?」
八代が顎で右手を示す。
彼の言うとおり、そこを曲がれば、私の家が見えてくる。そうなれば後は前進するだけだ。
あと少しで、別れなければならない。がらんとした家で、一人怯えていなければならない。そんなの嫌だ!
「無理……帰りたくない」
やめろ、と頭の中で冷静に口を挟む自分がいる。
しかし身体からは、止めどなく言葉が溢れ出していった。
「あそこには帰れない。勝手なこと言ってるのは、わかってる。でも、今だけでいいから……お願い。一緒にいて」
恥も外聞も捨てて、必死にすがる。この広くてしっかりした背中が、今の私には、最も心安らぐ居場所だった。
ずっとこうしていたい。息をするだけで何かが少しずつ削れるようなあの家には、行きたくない。
「わかった」
数秒の沈黙の後、八代が優しく言う。
「だがこのまま外にいるわけにもいかねぇからなぁ。うーん……」
八代は口にするのを躊躇うように、少しの間唸っていたが、やがて遠慮がちに言った。
「俺の家に来るか?」
寒いなぁ……。
そう発したつもりだったが、私の唇はわずかに動いただけで、声は出てこなかった。
バシャバシャと濡れた地面を駆ける足音が、背後から聞こえてきた。
横断歩道の信号は青で点滅していた。急いで渡るつもりなんだろう。
この走ってくる人もどうせ、誰かの待つ家に帰るんだろうな。
妬ましく思う自身の醜さを自覚して、苦しくなる。
しかし走ってきた人物は、横断歩道を渡らず、私の隣で足を止めた上に、傘の中に私を入れた。そして、私の顔を心配そうに覗き込んでくる。
私は驚きのあまり、一瞬幻を見ているのではないか、と思った。
「おい、若葉! どうしたんだ!?」
八代が、ポカンとしている私の肩を掴んで揺らす。
「え? 八代? 何で……?」
予期せぬ人物が現れたことに困惑していると、八代が説明してくれた。
「バイト終わって急いで帰ってたら、なんか様子のおかしい若葉を見つけたから、走ってきたんだ。どうしたんだよ、そんなとこで。何があった?」
八代も私と同じくらい困惑している。ちゃんと答えなきゃ、と思うのに言葉が何も思い浮かばない。
「動けない……」
ようやくか細い声で出せたのは、そんな情けない言葉だった。言ったそばから、恥ずかしさが襲ってくる。
けれど八代は、「そうか」と頷くと、何を思ったのか私に傘を手渡して、スッとかがんだ。
「あの……?」
「乗れ。送ってく」
「えっ」
まさか背負うつもり? 挙げ句の果てに、私の家まで歩く気でいるのか。
「そこまでしてもらうわけには……」
「いいから乗れよ。じゃないといつまでもこの姿勢のままでいるぞ」
八代は決して譲らない、とばかりに頑なに言い張る。
そうやって私がぐずぐずしている間にも、傘の中にいない八代はどんどん濡れていく。
私は観念した。
「ごめん……失礼、します」
八代の背中へ体重を預ける。温かくて広い背中だった。
「よ、っと」
私を乗せてゆっくりと立ち上がる。身体が密着し、ずぶ濡れの私が八代を濡らしてしまう。
「ごめん、冷えちゃうよね」
「くだらねーこと気にすんな」
本気で迷惑と思ってなさそうな態度に、ガチガチに固まっていた心が溶けていくのを感じる。
それと同時に、膝の裏に彼の手が回されていることを意識して、鼓動が早くなる。
「おい、しっかり掴まれ。危ないぞ」
出来るだけ身体を離そうと身動きした私を、八代が咎める。
「嫌でもちょっとの間だから我慢してくれ。密着されてた方がバランス取りやすい」
「全然嫌じゃない」
「なら良かった」
嫌どころか、心地良いこのぬくもりをずっと感じていたい、とさえ思う。駄目だとはわかっているのに、どうしても離れがたかった。
「ここを曲がって進めば、若葉の家の周りに出るんだよな?」
八代が顎で右手を示す。
彼の言うとおり、そこを曲がれば、私の家が見えてくる。そうなれば後は前進するだけだ。
あと少しで、別れなければならない。がらんとした家で、一人怯えていなければならない。そんなの嫌だ!
「無理……帰りたくない」
やめろ、と頭の中で冷静に口を挟む自分がいる。
しかし身体からは、止めどなく言葉が溢れ出していった。
「あそこには帰れない。勝手なこと言ってるのは、わかってる。でも、今だけでいいから……お願い。一緒にいて」
恥も外聞も捨てて、必死にすがる。この広くてしっかりした背中が、今の私には、最も心安らぐ居場所だった。
ずっとこうしていたい。息をするだけで何かが少しずつ削れるようなあの家には、行きたくない。
「わかった」
数秒の沈黙の後、八代が優しく言う。
「だがこのまま外にいるわけにもいかねぇからなぁ。うーん……」
八代は口にするのを躊躇うように、少しの間唸っていたが、やがて遠慮がちに言った。
「俺の家に来るか?」