「今にも降りだしそうだねぇ」
 教室の窓の外のどす黒い空を見上げて、幸が憂いを帯びた息を吐く。

 「そんなに荒れないと良いなぁ」
 私もテンション低めに呟く。雷は鳴るんだろうか。鳴るとしても遠くでいてほしい。

 「まあ、いつも大したことないし今回の台風だって大丈夫でしょ!」
 幸が沈んだ空気を吹き飛ばすように、楽観的に言い放つ。

 教室はざわついていた。先生たちは今、職員室で、生徒たちを下校させるべきかどうか話し合っているため、喧騒をたしなめる者はいない。
 クラス中の皆が、「マジ帰りたーい」「頼む下校になれ!」と授業がなくなることを望んでいる。

 私は意味もなくメッセージアプリを起動して、昨日届いた八代からのメッセージを見る。
 茶柱が立っていたというくだらない内容だ。
 しかしそれを読んだ時、かなり和んだことを思い出す。猫の動画よりも癒されたかもしれない。

 そこから過去のメッセージへと遡っていって、古い順から眺めていく。
 日にちが経つにつれ、だんだんとただの雑談が混ざったりもして、それを見てると心が落ち着いた。
 幸がこちらをチラリと見て、どこか嬉しそうに微笑む。
 「どうしたの?」と訊く前に、ガラリと扉を開く音がして、先生が教室に入ってきた。

 「はい、静かにね~。これからホームルームやりま~す」
 「ってことは帰れるんすね?!」
 一人の男子がテンション高めに尋ねる。
 「そうです。さ、みんなそれぞれの席に着いて~」
 そこかしこに散らばっていたクラスメイトたちが、おとなしく自分の席に戻っていく。みんな早く帰りたいのだ。

 「家の人に迎えに来てもらってもいいです。歩いて帰りたくない人は、今のうちに家族に連絡しといてください」
 その言葉にほとんどの生徒が携帯でメールを打つ。

 私の場合、連絡しても返ってこないか、「一人で帰りなさい」と言われるとわかっているので、みんなが連絡し終わるのを手持ち無沙汰に待つ。
 前の席に座る幸を見る。片肘をついて黒板をぼんやりと見つめていて、携帯をいじる様子はない。
 幸と一緒に帰るか。

 みんなが誰かと帰ってる中、一人で嵐の中を帰宅するのは結構心が削られるので、同士を見つけて、私はすごく安らいだ気分になった。


 ホームルームが終わり、教室からぞろぞろと生徒が出ていく。

 「幸、帰ろ」
 幸のところへ行って声をかけると、少し驚いた顔で私を見返した。
 「いいけど……悠ちゃんも歩いて帰るの?」
 「あ、うん。親仕事だし、悪いかなって」
 無難な言い訳をする。幸は、「じゃあ二人で帰ろっか!」と花が咲いたような笑顔を見せる。
 幸も一人で下校するのは少し嫌だったらしい。


 「あ、いた。幸~!」
 昇降口を出たところで、マミが手を振りながら駆け寄ってきた。
 「待ってたんだよ!」
 「待ってた? 私を?」
 「うん! わたし樹里亜先輩の彼氏――川崎さんか。川崎さんの車で家まで送ってもらう予定なんだけどさ、幸も送ってもらわない? 樹里亜先輩も乗ってるよ」
 「お姉も――もう来てるの?」
 「うん! わたしが幸もいいですかって訊いて、オーケーが出たから、こうして待ってたんだ」

 昇降口のすぐそばにある駐車場を見渡すと、助手席に樹里亜が乗ってる車を発見した。運転席の大和さんに朗らかな笑みを向けている。
 「あ、でも私悠ちゃんと……」
 幸が言い淀み、気遣わしげに私を見る。
 そこでマミがようやく私の存在に気付き、「あっ」と困ったように言った。

 「四人しか乗れないんだけど……」
 マミが大和さんの車へと視線を向け、眉を寄せる。
 「あっ、ならじゃんけんで決めようよ」
 幸が片手を持ち上げる。
 私は、「いや」と首を振る。
 「幸が乗りなよ。私は大丈夫だから」
 「でも……」
 まだ迷っている幸に、被せ気味に言葉を浴びせる。

 「ちょっと待ってなきゃだけど、私の親も言えば迎えに来てくれるから。もうすぐ退勤時間なんだ」
 真っ赤な嘘だ。迎えなんて頼んでも絶対に来ない。
 これまで台風のせいで早めに下校させられることは小、中学校の頃にもあった。私はそういう時、いつも友達を見送ってから一人で帰っていた。
 母や父と一緒に帰宅した記憶は、幼稚園時代のものしかない。

 「悠もこう言ってくれてるんだし、早く行こ! 幸」
 マミはその場で足踏みをして、幸を急かす。
 「う、うん。じゃあ悠ちゃんまたね」
 「悠も気をつけて帰りなね~」
 「うん。またね二人とも」

 二人を乗せた車が私の眼前を通り過ぎた時に、樹里亜は私の存在に気付くだろうか、と思ったが、彼女はこちらを微塵も見ていなかった。
 ただ一点。運転している大和さんのことを熱のこもった瞳で見つめていた。
 それだけでもう深く愛していることが伝わってきて、二人を見てるこっちが恥ずかしくなってくるほどだった。

 「眩しいなぁ……」
 羨ましかった。あんな風にひたむきに恋することに集中できることが。
 冬に桜が咲いているのを見たような気になり、瞼を閉じて俯いた。