帰宅してしばらく経ってから、八代に電話をかけ、フードの少年について一部始終話した。

 「そりゃ無茶したもんだな。怪我とかもないんだな?」
 「私は服が汚れただけ。でも幸の手を傷つけちゃった……軽傷だから幸いだったものの」

 血の滲んだ手のひらを思い出して、自然と硬い声音になる。

 「――若葉。幸に何かあったからって自分を責めるなよ」
 「え?」
 「前から薄々感じてたけど、若葉は幸に関することになると、心配の粋を越えてるっていうか――やけに怯えてるように見えんだよ。今だって“傷つけちゃった”って、まるで自分に責任があるみたいな口振りじゃねぇか」
 「それは……」

 幸の死体を、一度この目で見てしまったから。
 何も映していない深い闇のような瞳に、ダランと投げ出された手足――。
 時が経ち大人になれば、悪夢のようなあの記憶も薄まっていくのかと思っていた。けれど私は、大人になんてなれなかった。魂の抜けた親友の姿は、今でも瞼の裏にくっきりと残り続けている。

 「なあ、若葉」
 電話口から躊躇うような気配が漂ってきた。
 「何か隠してるんだろ」

 喉がヒュッと鳴った気がした。急速に騒がしくなる心臓に手を当て、無言でいたら駄目だ、と言葉を捻り出す努力をする。
 そうして頑張って出した言葉は、いやに頼りなく響いた。

 「隠してることなんて……ないから。八代の気のせい、だよ」
 「――そうか。まあ言いたくないならしょうがないが、あまり思い詰めるなよ」

 八代は、納得している様子じゃなかったけれど、追及はしないでくれた。その優しさに感謝する。
 言ったところで困らせるだけだし、そもそも信じてもらえず、頭がおかしいのではと思われるかもしれない。八代にそんな風に思われるのは、嫌だ。
 沈黙が訪れたことを確かめて、「あのさ」とどこか緊張しながら切り出す。

 「私も訊きたいことあるんだけど」
 「なんだ?」
 「家に帰る途中で、八代たちを見たの。マミと腕組んでたよね?」

 マミを嫌がってたはずなのにどうして? と言外に含ませる。

 「見られちまったか……」
 八代は失態がバレたような感じで、深くため息を吐いた。その態度に、心がざわつく。
 「え? まさかマミのこと――」

 好きになったの? と言いかけて躊躇う。もし「うん」と言われたらどうする。そう考えたら、恐ろしくなって、とても尋ねる気になれなかった。
 しかし八代は、私の疑念を察したらしく、「違う違う」とどこか焦ったように否定した。

 「あれは、別に全然そういうわけじゃなくて。――田所がシロだったって言ったろ」
 「うん。あっ、そういえば何で潔白ってわかったの?」
 「ストーカー疑惑の男とは、体格が違いすぎたんだ。田所は、典型的なラグビー部って感じの、がっしりした大柄な見た目だった。何でも高校に入って、めちゃくちゃ身長が伸びたらしい」
 「じゃあ小柄な不審者とは、違うね」
 「ああ。だから田所とは穏便に別れたんだけど、元恋人の折野に対して未練が湧いてきたのか、俺が折野を送っているところをつけてきたそうだ」
 「“そうだ”ってことは、八代が実際にあとをつけてくる田所を見たわけじゃないの?」
 「ああ。『ケンちゃんがついて来てる。ちょっと彼氏の振りしてください。そしたら諦めると思うんで』って折野が言うから、くっついて歩いてたんだ。まあ解散する前に田所は、折野にもう一度付き合わないか訊いてたから、ああ、そうなのかって納得した」

 嘘だ。
 私はそう直感した。マミのことだから、田所のことをダシにしたんだ。
 そうだ。違いない。きっと嘘に決まってる。
 恥ずかしいわけでもないのに顔が熱くなって、下唇をギュッと噛んだ。

 「八代は最初からマミを送るつもりだった? 田所のことを話されなくても」

 つるりと出てきた疑問は、自分で問うておきながら投げた意味がわからなかった。
 こんなこと訊いてどうなる。というか何でこんなことを知りたいのか。

 八代も面妖に思ったらしく、
 「ああ、そのつもりだったが。もう夜に近い感じだったし」
 当然といった物言いに、ああ、そうか。と悟った。

 八代は誰に対しても優しい。たとえ嫌いな相手であろうとも、その優しさは発揮される。
 私は、自分だけが特別ではないか、と心の奥底で期待していたんだ。その期待が間違っていないか知りたかった。

 「ふふふっ……はははっ!」
 こみ上げてくるおかしさを、止められなくて、膝をバンバンと叩く。
 「ど、どうした? 何か変なこと言ったか?」
 戸惑っている気配が伝わってくる。当然の反応だった。脈絡もなく笑いだした私は、さぞ不気味だっただろう。

 「あー何でもないの。ちょっとテレビで面白い瞬間が映されたから、ついね……」
 「そんなにツボに入るほどだったのか。びっくりしたぞ」
 「ごめんごめん」
 「けど明るくなったなら良かった。さっきまで危うい雰囲気だったから」
 「うん。沈んでたんだけど……八代と電話してたら元気湧いてきた」
 「……そりゃ良かった」
 「じゃ、おやすみなさい」
 「おう、ゆっくり休めよ」
 通話を切った私は、しばし放心していたが――。

 「あー……もう何で…………」
 両手で顔を覆い、ベッドに倒れ込む。壁側を向いて膝を折り曲げ、自分がなるべく小さくなれるよう努める。

 「わかりたくなかった……」
 ずっと必死に気付かないようにしていた。
 けれどもう認めざるを得ない。

 「最悪……」
 恋を自覚した場合、大抵の人は浮かれるはずだ。心も体も希望に満ち溢れ、悩みなんて吹き飛ぶんだろう。
 しかし私の中に湧く感情は、絶望に近かった。途方に暮れる、という言葉は、この時の私のためにあるとさえ思った。