「あ、そうだ。聞いてよ、悠ちゃん!」
 リビングで、幸が弾んだ声で言う。
 「昨日お姉が、一日中家にいてくれたんだ! そんなことすごい久しぶりだったから、嬉しかったなぁ」
 「へぇ。良かったね」
 「うん! けっこう話せたりして――あとね、何年ぶりかのゲームをしたんだ。そこのやつで」

 幸がテレビの横のふたつのゲーム機を指差す。私が遊びに来た際は、よくそれで幸と対戦ゲームを楽しんでいた。
 樹里亜もようやく、妹と距離を縮めようという気になったらしい。

 「そっか。楽しかった?」
 「うん。すっごく!」
 幸は深く頷き、花が咲くような笑顔を見せる。
 私の胸がズキリと痛む。その明るい顔をこれから曇らせることを、意識したからだ。
 けど逃げずに伝えなきゃ。
 胸を張って親友って言えるような関係でいたいから。

 「あのさ、幸」
 「うん? なに?」
 意を決して、大きく息を吸う。
 しかし、そこから先の言葉を紡ぐことは、出来なかった。
 ここまで来て、怖じ気づいたわけではない。
 庭を見渡せる大きな窓の向こう――その光景に驚いて、大きく吸った息を吐き出すことも出来ないまま、私は凍りついてしまった。

 庭には、男が立っていた。そいつはサングラスとマスクを付けていて、顔色はわからなかったけれど、身体の向きと雰囲気からして、家の中をじっと見ていることだけは確かだった。
 何、あれ……。ひょっとして八代? いや、体格が全然違う。何より八代があんなに怪しい格好をして、幸の家を覗く真似をするとは、とても思えない。
 それによく見れば、男はさっぱりとした坊主頭に、どちらかと言えば貧弱そうな、小柄な体躯をしていた。明らかに八代ではない。
 そんなことを考えていたら、急に窓の向こうの男が肩をビクッとさせた。そして、慌てて門を目指して走り出していった。
 気付かれたことに気付かれたんだ。

 「待てっ!」
 逃がしては駄目だ。玄関で靴を履く暇も惜しく感じて、窓から飛び出し、裸足で追いかける。
 けれど、私が門柱の前の道路に出た時、すでに男の姿は見えなくなっていた。逃げ足の早いやつだ。全力で追ったというのに。
 舌打ちして、道路を睨む。
 悔しがっていると、パタパタと幸が寄ってきた。その手には、私の靴が握られていた。

 「ありがとう。幸」
 「どうしたの? 急に裸足で飛び出していって……めちゃくちゃびっくりしたんだけど!?」
 「後で説明するから――とりあえず今は、早く家に入った方がいい。しっかり鍵を閉めて、ね」

 受け取った靴を履き、幸の手を引く。
 幸は何か言いたそうな様子だったけれど、私の真剣な表情から、ただならぬ事態だと察したらしく、「う、うん」と答えて、バタバタと家の中へと駆け込んだ。


 「男の人!?」
 「うん。家の中を見てた」
 玄関だけでなく、家中の窓も施錠した後で、私はさっき目にしたことを話した。
 「背は低めで、野球部みたいな坊主頭だった。サングラスにマスクだったから、顔はわからない。一応訊くけど八代以外に家に来る男っているの?」
 「いないよ。万が一来るとしても、お姉の彼氏くらいかな……。けど平日の今頃は仕事のはずだから、違うだろうなぁ……」
 ならばあの男は、やはり不審者だったのか。
 「6月にも知らない男子が来たよね? あの時と同じ人かもしれない。幸、あの日の男子のこと思い出せる?」
 「う、うん。顔はよく見えなかったけど、体格は小柄な方だったよ。確か」
 「そうか……。じゃあ、やっぱり……」

 私がさっき見たのは、6月に幸の家にやって来たストーカー(仮)なのだろうか。ほとぼりが冷めたと判断して、また会いに来た……?
 何にせよ。
 「警察を呼ぼう。これは危ないよ」


 あの後、来てくれた警察官に事情を話した。6月にあった出来事も含めて。
 「では、パトロールを強化します」
 そう言って、警察官は帰っていった。

 静かになった幸の家で、私は不安に駆られる。
 これで良いのだろうか。警察に相談だけして、ただ待っているだけで、本当に解決するのか。パトロールが強化されたからといって、安心なんて感じられやしない。
 そりゃあ警察の人だって、それくらいしか出来ないのはわかってる。情報が全然ないのだから、動きようがないだろう。そこを責めるつもりはない。ないのだが――。
 どうしようもなく歯がゆかった。このことについて、何も掴めていない、わかっていない自分が。
 何でもいい。どれほど不明瞭な情報でもいいから、幸を付け狙うあの危険人物のことを、知りたい。
 私は帰り支度をしながら、そんな風に願っていた。

 「本当に大丈夫なの? うちに来なくて」
 「大丈夫だよ。お姉が帰ってくるって言うし! 『心配だから』だって」
 ほら、と携帯の画面を嬉しそうに見せてくる。樹里亜からのメールで、『今から帰る。心配だから』とあった。
 「こんなに長い返信もらったの久しぶりだよ」
 幸は、携帯を胸の前で握りしめて、目を瞑り噛み締めるように言う。
 そんな彼女を見てると、無理に連れていくのも、水を差すみたいで悪い気がした。

 「じゃあそろそろ帰るから……何かあったら遠慮なく警察に助けを求めてね」
 「あっ、待って悠ちゃん。歩いて帰るのは危ないから、タクシー呼ぶよ。お金は払うから気にしないで」
 「えっ! いいよ、悪いって」
 「悠ちゃんにも怖い思いさせちゃったし、これくらいさせて」
 そう言って幸は、半ば強引にタクシーを呼んだ。

 タクシーに揺られながら、暗くなった街を眺める。
 もうすっかり秋になって、日が落ちるのが早くなってきた。確かに人気のない帰り道を一人で歩くのは、あんなことがあった後では少し怖いな、と納得する。

 それにしても、あの男は何者なのだろう。
 何が目的? 幸をどうしたいの?
 どうすればあの男の正体を掴める?

 いくら考えてみても、良いアイディアはひとつも浮かばなかった。