「じゃあ私はリビングにいるから……。何かあったら呼んでね」
 「うん。ありがとう」

 私があの後、「熱中症っぽいから帰る」と言うと、幸がこう切り出した。

 「じゃあうちで少し休んでいって。悠ちゃんの家けっこう離れてるでしょ?」

 私の実家と幸の家は徒歩20分くらい離れている。
 幸がどうにも心配そうにするので、お言葉に甘えて幸の家の客間で、休ませてもらうことになった。

 一人になった私は、バッグの中を確認する。教科書とノートが入っており、そのどれにも私の名前が書いてあった。1―4とも書いてあり、そういえば高1のとき4組だったな~、と懐かしい気持ちになる。

 どうやら私は過去にいるらしい。ここは私がいた時代より8年前の世界だ。高校1年生の私の体に、24歳まで生きた私の精神が入り込んでいる。

 タイムリープ作品を読んだことはあるが、自分が体験することになるとは。ちなみに夢の中でないことは確認済みだ。鏡を見た直後に、腕やら頬やらをつねってみて、ちゃんと痛かった。

 何はともあれ私は生きてる。もう助からないと諦めていたので、この状況は嬉しい。
 もしや神様が私に同情して、楽しかった時期に戻してくれたのではないか。

 ならば私はこの時代からやり直して、あのうざい上司がいる会社に入ることをやめよう。
 そしてもっと明るい通りのアパートに住もう。八代のような犯罪者に出くわさないように。

 他にもやり直したいことはある。
 幸の死を回避しなければ。絶対に転落事故を防ぐ。
 幸が、学校の4階から落ちて死んだあの事故を。


 そうだ。学校に休みの連絡を入れなくては。スカートのポケットに携帯が入っていたので、登録してあった学校の番号へかける。

 「すいません1年4組の若葉です。体調が悪いので休みます」
 「あら、若葉さんも? ちょっと前に薄井さんからも休みますってきたのよ」

 電話に出たのは私と幸のクラスの担任だった。

 「熱中症かしら? 突然暑くなったものねぇ。2人ともお大事にね」
 「はい」

 通話を切って、ふと思い出す。
 高1の夏休みに入る前に、幸が腕に包帯を巻いて登校してきたことがあった。

 「今日お(ねえ)に、宅配来るから受け取って、って頼まれたの。……だからね今日学校行けないの。ごめんね悠ちゃん」

 幸には姉がいるらしい。あまり家にいないようで、私が見たことは一度もない。
 いつも通り幸の家に迎えに来て、一緒に登校しようと思うと、幸にそう言われた。私に連絡しなきゃと思ったときに、ちょうど迎えに来たみたいだった。

 その翌日だった。
 迎えに来た幸の左腕に、包帯が巻かれていたのは。

 「階段を降りてるときにすべっちゃって……でもそんなにひどくないし、他に怪我はしてないから大丈夫だよ」 

 本当に軽傷のようだった。骨折もしていないようだし、特に不自由そうにもしていなかったので、私も一通り心配した後は、すぐに日常感覚に戻っていった。

 幸に、『今日は階段に気をつけて』と忠告しておこう。

 ピンポーン。
 インターホンの音が家に響いた。
 「はーい」
 リビングから幸の返事と、部屋から出ていく音が聞こえてきた。宅配便が来たのだろう。

 私は、自分がどのような高校生だっただろうと、記憶を掘り起こす。

 学校では、やはり幸と行動を共にすることが多かったが、別に他のクラスメイトと仲が良くなかったわけでもない。
 服装検査の時期に、廊下で自分の番が来るのを待っているときにも、出席番号の近い子とお喋りしていたし、体育のグループ決めもいつもすんなり決まっていた。
 特別人気があったわけでもないが、嫌われることもなかったように思う。

 嫌われることが多かったのは幸だった。
 肩まで伸ばしたツヤツヤの黒髪。真っ黒な髪でより白く見える、ニキビとは無縁そうな綺麗な肌。ぱっちりした二重。
 幸は、間違いなく学校で一番可愛かった。
 それゆえに嫉妬の目で見られることもあった。

 幸は人見知りで、必要最低限しかクラスメイトと関わろうとしなかった。そうして女子たちの中には陰で、
 「なんか性格悪そう」
 「可愛い子とか性格いいわけないじゃん」
 などと、一度も話したことがないのに悪し様に言う輩がいた。

 幸もそれに気付いていた。私は、「辛いと思ったらいつでも話して」と伝えたけれど、幸はこう言った。

 「私ね、中学のときが酷すぎたから今はわりと満足してるの」

 幸とは高校に入ってから知り合ったので、私はそれ以前のことを知らない。

 「だから一部の人が私のいない場所で陰口言ってるくらいで、平和に過ごせるならすごくいいと思ってるよ」

 幸が安心したようにはにかんだ。
 幸がそう言うなら、私が口出しする必要はないと結論付けて、話は終わった。

 その話をしたのは、私たちが知り合ってから数週間ほどのことだ。
 それがきっかけ――なのかはわからないが、それから幸とは、さらに仲良くなっていった。

 「イヤッーー!」
 突然聞こえてきた悲鳴に、私の意識は現実へと戻される。

 幸の叫びの直後に、何かが割れるような音がして、これはただ事ではない、と血相を変え、部屋から飛び出す。

 「幸! 大丈夫?! 何が……」
 あったの、と続けようとして言葉を失う。
 玄関は、惨憺たる有り様だった。

 飾ってあった観葉植物が倒れて、きれいに掃除されていたのに、土だらけになっている。
 土に混ざって白い破片が見えた。靴入れの上にあった花瓶だった。それと共に赤いシミもポツポツと――。
 慌てて幸を見る。

 幸は座り込み、左腕を押さえていた。押さえている箇所から血が滴り落ちている。
 そして開け放たれている玄関扉をじっと見つめていた。

 呆然としているらしく、私が来たことにも気付いていない。
 幸に駆け寄って、目線が合うようにしゃがむ。

 「幸!」
 私が大声で呼びかけると、それまで心ここにあらずといった様子だった幸が、
 「あ、うん」
 と返事して、私を見上げてきた。

 「大丈夫? 何があったの? いやそれよりも腕! 救急車呼んで――」
 「待って悠ちゃん、そこまでじゃないから。病院は後で自分で行けるよ。それより誰か呼んで来なくちゃ……。エリちゃんが危ないかも」

 幸が立ち上がろうとする。まだ血が垂れているというのに。
 私は慌てて座らせる。

 「まだ動いちゃダメ! エリちゃんって誰なの? 人なら私が――」
 「あいつは逃げてった。もう大丈夫だ」
 頭上から低く落ち着いた声が聞こえた。
 私は、声の主を見上げる。