しかし続きを聞くことはできなかった。
 八代の後方に見覚えのある姿が確認でき、思わず出した声で、話を遮ってしまったからだ。

 「えっ、あれって……!」
 「どうしたんだ?」

 八代は、私の視線の先を追い、怪訝そうに目を細める。

 「あれは――もしかして折野か? 暗いのによく分かったな」
 「両目2.0だから」

 私たちから50メートルほど離れた路地に、マミがいたのだ。

 「隣は――恋人か?」
 マミは、成人済みと思われる背の高い男性を一人連れていた。
 会話しているらしく、男性が笑ってそれにマミが頷いている。
 その様子をしばし見つめる。

 やがて男性がマミの手首を掴み、祭り会場とは反対の方向を指差したかと思えば、そちらに向かって歩き始める。
 あっちには確か、誰も入らないような雑草だらけの公園しかないはずなんだけど。
 何故だかわからないけど、ついていくべき、と私の直感が告げる。

 「ごめん。ちょっとこれ持って待ってて」
 「……?」
 から揚げが入っていたプラスチックの容器を八代に渡し、私はあの二人を見失わないようにと小走りで追いかけた。

  
 雑草が高く生い茂っている、遊具も何もない公園の入り口付近で、マミと男性は対面していた。
 少し離れた電柱の陰から、そっと見張る。二人は、何やら言い合っているようだった。

 「頼む! 少しは考えてくれないか! 君の言うことなら、何だって聞く! だから――」
 「そんなこと言われても、困ります。無理なものは無理なんです」

 懇願する男性をマミが突っぱねる。もしかして修羅場?

 「試しに付き合ってみたら、気が変わるかもしれないからさ。お願いだよ、マミちゃん」
 先ほどの真剣な声色とは違って、男性が媚びるような猫なで声を出す。その甘ったれた調子に、言われた本人でもないのに、鳥肌が立った。
 マミは、交際を迫られているらしかった。しかしマミは、しつこく言い寄ってくる彼に対して、いよいよ不愉快を露にしていった。

 「二度と連絡してこないでください。あなたとはもう関わりたくありません」
 「待っ、待ってくれ!」
 相当諦めが悪いようだ。去ろうとする彼女に、なお追いすがっている。
 マミはもう我慢できない、といった様子で叫んだ。

 「しつこいっ! あんたなんてだいっきらい! 話しかけないでよっ!」
 「嫌い……?」

 彼は強いショックを受けたみたいだ。呆然として、ブツブツと何か言っている。
 マミは最後に彼を睨み付けると、身を翻した。
 まずい、こちらに来てしまう。
 私は急いで頭を隠し、気付かれませんように、と祈る。

 しかし、予想していた足音は、聞こえてこなかった。
 恐る恐る顔を出すと、男性が去ろうとするマミの手首を掴んでいた。
 往生際の悪い人だ。

 マミもムッとして、不満げに言う。
 「ちょっと離し――」
 マミの抗議は、鈍い音に遮られた。
 「えっ……」
 思わず小さなうめき声が出る。
 マミがあの男性に頭を殴られて、地面に伏したのだ。

 気絶している。恐ろしい状況に、サッと血の気が引くのを感じた。
 男性は意識を失ったマミを抱え、公園の中へと引きずり込もうとして――。

 「駄目っっ!」
 私が叫んだのは、反射的だった。
 しまった、と思った時には、男性がバッと私を見る。互いの目が合った。
 彼はマミを地べたに捨て置き、尋常ならぬ殺気を纏わせて私に近づいてくる。

 「ひっ……!」
 あの人は理性を失ってる。逃げなくちゃ駄目だ――。
 私は、懸命に足を動かそうとする。しかし反応が遅かったためだろう。間に合わなかった。
 「うわっ!」
 右肩を乱暴に掴まれたかと思えば、後ろに勢いよく倒れた。ドスンと尻餅をつく。
 倒れ込んだ私の上に、男性が馬乗りになり、容赦なく体重を掛ける。息ができない、苦しい。

 「カハッ……! 誰か――助けっ……!?」
 男性が私の首に手を掛ける。殺す気なのか!?
 嫌だ! せっかくタイムリープして助かったのに! また殺されるなんて――。
 幸とまた会えたのに。今度こそやり直せるかもしれないのに。私がここで死んでしまえば、大和さんも樹里亜も助からないのに。
 それに、八代。

 彼のことをもっと知らなければいけないのに。もっと知りたいのに。私にはしなければならないことがたくさんある。それなのに!
 そのために天がくれたチャンスなのに、こんなところで台無しにされるなんて絶対嫌だ!

 必死に手足をじたばたさせる。持てる力の全てを使って、無我夢中で暴れる。
 しかし私を見下ろすそいつは、まったく意に介さない様子で、首に掛ける力を緩めなかった。
 抵抗も虚しく、体から気力が失われていく。視界がチカチカしてきて、眼前の男が二重に見える。意識の限界が近づいてくるのをどうしようもなく感じる。
 嫌だ! 死にたくない! 心の中で絶叫した時、急に締め付けがなくなった。
 馬乗りになっていた男が、何者かに吹っ飛ばされたのだ。耐えがたい苦しみから解放される。

 「げほっ、ごほっ! ハァッ……! ハー、はー……」
 水を得た魚のごとく、空気中の酸素を全力で求める。
 呼吸がままならない私を見て、助けに来てくれた人物が慌てたように叫ぶ。

 「大丈夫か!? しっかりしろ!」
 地面に転がったままの私を抱き起こし、顔を覗き込んできた人物を見て、ギョッとする。
 「や、しろ……何で」
 「喋らなくていい。若葉の様子が何だかおかしかったから、気になってあとから追ってきたんだ」
 八代がチラリと吹っ飛ばした方向を見て、言う。
 「安心しろ、あいつは気絶させたから。もう大丈夫だ」
 言い聞かせるような口調から、助かったという実感が沸いてくる。
 安堵したとたん、ドッと力がぬけた。
 八代が来てくれなかったら死んでいたかもしれない。

 「怖かった……」
 震える身体を両手で抱きしめながら、ぽつりとこぼす。
 その刹那、八代が私の身体を、優しく包み込むように、抱きしめた。あまりの衝撃に震えが止まった。
 驚く私をよそに、八代が言う。
 「よく耐えた。もう大丈夫だからな」

 トン、トンと背中を軽く叩く。それはとてもあたたかく感じられて、私は涙腺が馬鹿になるのを防げない。
 しゃくりあげながら涙をポロポロ流す。八代は慰めるように労うように、私の頭を撫でた。

 夜に人気のない道路。あの日と同じだ。
 八代と初めて会った日。八代に殺された日。
 八代から耐えがたい恐怖と苦痛を与えられた。後悔しながら意識を失っていった。
 けれど今は、その八代に命を救ってもらっている。

 彼の背中に手を回す。顎を彼の肩にのせて、体重を預ける。
 私は、これまでの人生で感じたことがないほどの安らぎを感じていた。
 一度は殺されかけた相手にこんな気持ちを抱くなんて、到底ありえないだろう。夢みたいなことだ。
 けれどしっかり現実なのだった。この心地よい体温も感情も。