「そろそろかな……」
 私の掠れた声に襟人が反応し、握っている手をいっそう強く握り締めた。
 皺だらけの手——まあそれは私もおんなじだけど。
 もう90歳だもん。そりゃ全身しわしわになるって。
 死の間際だというのに、私は非常に落ち着いていた。不幸を感じるどころか幸せな気持ちで満たされていた。
 静かな病室内には、暖かな正午の日の光が射し込んで、ベッドに仰向けに横たわる私を照らしている。
 ベッドの横には襟人がいて、病院に運ばれてからずっと私の手を握っていた。
 彼は最初悲しそうな顔をしていたが、私が「笑って」と言うと、すぐさま慈愛に満ちた笑みをたたえた。そして「俺もすぐそっちに行くと思うから。ちょっとだけ待っててくれ」と告げた。
 確かにこの歳にもなれば、どちらが先に逝ってしまってもすぐ出会える。しかし私は「ああ、私が先で良かった」と思った。
 彼には私より一分一秒でも長く生きていてほしいから。
 それに私の場合、置いていかれる痛みにとても耐えられそうにない。5年前幸に旅立たれた時だって、ぐちゃぐちゃに泣いたのに。
 これだけは生きている間に言っておこう、と最後の力を振り絞り、彼に告げる。

 ありがとう。私と一緒にいてくれて。
 ありがとう。私に大切な感情を教えてくれて。
 ありがとう。私を世界一幸せにしてくれて。
 私をあの不幸な2022年から救い出してくれて、本当にありがとう。

 あの日、私を殺してくれて本当にありがとう。