殺してくれてありがとう

 「単刀直入に言うぞ。お前には東京に行ってもらう」
 有無を言わせない口調で告げられた言葉に、冷水を被ったような衝撃を受ける。
 隣に座っている八代も、呆気に取られて、呼吸が止まっている。
 その一方で、爆弾を投下した張本人は、ソファーにどっかりと身を預け、顎をしゃくっていた。
 見下すような態度に、黒い感情が染みだしていく。
 「何それ。急に話がある、なんて言ったかと思えば――東京に行け? 私にだって生活があるんだよ。決定事項みたいに言わないで」
 目を三角にして、反論する。私の意思を完全に無視している物言いに、腹が立つ。
 「というか何でそんなこと言い出したの? ……ひょっとして、今日の出来事と関係があったりする?」
 父は、麗さんとどんな話し合いをしたのだろう。
 「まあ、そうだな。今回の件、社員が逮捕される事態はなんとか免れたものの、田中は会社を辞めようとしたんだ。『あんなことをした以上、若葉さんと共に働くわけにはいきません』と言ってな」
 麗さんは、自分が仕出かしたことの恐ろしさについて理解し、反省しているようだった。私は、胸を撫で下ろす。
 「田中はな、入社して幾ばくも経ってないが、非常に優秀な社員なんだ。今後社の即戦力になっていくだろう。会社側は、田中をどうしても辞めさせたくなかった。それで、だ」
 グイッと身を乗り出してくる。
 「東京の本社に俺を異動させよう、という結論を出した。俺さえ遠くにやれば、田中は辞めないはずだ、と考えたわけだ」
 なるほど。急に東京が出てきた理由は、理解できた。
 だとしても……。
 「お父さん一人で行けば良いじゃない。何で私までついていかなきゃならないの?」
 私が年端もいかない子どもであったら、連れていくのも自然だろうが、もう一人にしても何の問題もない年齢である。今まで散々ほったらかしにしてきたくせに、わざわざ一緒に来てほしい理由がわからない。
 「東京には、社宅があるそうなんだ。3、4人が暮らせるくらいの広さでな。そこに住まないか、と言われているんだ」
 「……そのことについて、お母さんは何て言ってるの。というか二人とも離婚する気とかないの?」
 とっくの昔に冷めきっているのに、頑なに夫婦を辞めない二人を、私はずっと不可解に思っていた。
 母なんか、いつか愛人と行方をくらますに違いない、と予想していたのに、今日まで一度もそんなことはなかった。あくまでも遊んでいるだけ、といった様子で、今の生活を手放すつもりはないようだった。
 「離婚する気はない。俺とあいつは、互いの家の都合で結婚させられたから、別れようにも別れられんのだ」
 説明する父からは、諦念が滲み出していた。
 なるほど、そういう事情があったのか。ということは――。
 「愛のない結婚だったってこと?」
 高まる期待に、声が裏返る。
 「いや、そういうわけでもない。俺たちが付き合ってることを知った親戚たちが、これは好機と思って、少々強引に結婚の準備を進めたんだ」
 ガックリと項垂れる。なんだ、ほぼ恋愛結婚みたいなものだったのか。
 無理やり結婚させられた、という成り立ちだったなら、私が愛されなかったことにも納得できたのに。
 そして、しょうがなかったのだと、自分を慰められたのに。
 「ちなみに、あいつも東京に行くことには同意している。社宅に住むことにも」
 住む、といっても、これまでと同様に、ほとんど帰ってこないのではないか、という予感がする。
 母はきっと、向こうでもひっきりなしに恋人を作るだろう。そういう人間なのだから。異国に放り出されたとしても、その性質は変わらないだろう。
 つくづく呆れ果てる。
 両親のことを考えると、毎回のことながら、嫌な気分になる。
 「本社に行くのは、2月頃の予定だ。そういうわけだから、準備しておけよ」
 「はっ!?」
 「ちょっ!」
 思わず八代と共に、立ち上がりかける。完璧にシンクロした動作は、平常時であれば笑いが生まれていただろう。
 しかし、今はそんな穏やかな気分にはなれない。明らかに気分を害した様子の父に気圧されそうになりながらも、座り直してしかと目を合わせた。
 「何だ」
 「何だ、って……承知できるわけないでしょ! 私だって友達とか八代とか――ううん。とにかくここを離れたくないの! 勝手なこと言わないで。私は絶対ついていかないからね」
 私の返事も聞かずに話を進める父に、ふつふつと怒りが湧く。
 「お前一人のために、この家を残しておけ、というのか?」
 低い声にぞわりとする。
 父が立ち上がる。そしてこちらを冷たい眼差しで、見下してきた。
 「あとたった数年で自立するお前のために、この家の維持費やら何やらを払い続けろと? 一体誰がその金を出すのか、わかってるのか?」
 「っ! それ、は……」
 「何と言おうと、俺はこの家を売る。特に愛着もないしな。いいか。俺は無駄な金をかける趣味はないんだ。路頭に迷いたくないなら、黙って東京についてこい」
 喉が固まったみたいになって、声が出てこない。全身に鳥肌が立って、さっきまでの勇気が呆気なくしぼんでいく。
 どれだけ反抗しようと、未成年である私は、親の庇護を受けるしかない。
 嫌だとしても、受け入れるしかない――。
 私は、泣きそうになるのを耐えながら、わかった、と返事しようとした。
 しかし、横から伸びてきた手にそれを防がれる。
 八代へと顔を向け——ほんの一瞬呼吸を忘れた。すぐそこまでこみ上げていた涙も、どこかへ引っ込んでいった。
 八代は堂々とした眼差しで、父をしかと見つめていた。彼の目を見た瞬間、私の心に光が差し、最強の武器を手に入れたかのような心持ちになった。
 「親父さん」
 毅然とした声音で、八代が口を開く。
 「何かな、八代くん」
 「悠さんは、ここを離れたくないと言っています。どうかその望みを聞き入れてくれませんか、自分からもお願いします」
 「無理だ。こいつのわがままに家計を削るつもりはない」
 座ったまま頭を下げた八代を打ち砕くように、父は断言する。
 やっぱり駄目だ。膨らんでいた期待が、針を刺したみたいに破裂する。
 しかし八代は、その答えを想定していたように、「では」と言葉を繋いだ。
 「悠さんがこの家に住まずに、誰かの家で暮らす、ということなら、どうでしょうか。悠さんの東京には行かない、という希望に応えてくれますか」
 「それなら確かに、少しの生活費を仕送りするだけで済むが……しかしどうせ後で、やっぱり無理でした、となるはずだ。おおかた君は、娘の望みを叶えてやりたい一心で、自分のところに来ればいい、なんて考えているのだろうが……」
 どんどん進行していく話に、私の頭は混乱状態だった。
 私が八代の家に住む?
 突然の急展開に、ついていけなくなりそうだったけれど、当事者の私がこんな情けない調子ではいけない、と気を引き締める。
 ここで築いた関係を手放したくない、という私の願いのために、彼は自分との同居を提案しているところなのか、と会話の流れを何とか把握する。
 そして、父の反応が芳しくないことも。
 「その思いは、一時的なものだ。じきに気持ちは冷め、娘との関係を解消したいと思うだろう。そうなってから東京に来られても、面倒なんだよ。途中から家族を来させる場合、手続きも色々あるって言うし――」
 「冷めません」
 耐えきれないというふうに、八代が反論を遮る。
 「俺の気持ちは、絶対に冷めません。悠さんとは、別れません。ですので、その心配は無用です」
 迷いなく言う八代に、じんと胸が熱くなる。熱湯をかけられた氷のように、心がいつも通りの穏やかさを取り戻していく。
 グッと膝の上で拳を握り、父を見つめる。
 覚悟は固まっていた。
 「お父さん。私も彼と同じ気持ち。八代となら、何年経っても一緒にいれる。相手のことがどうでもよくなる日なんて、来ないって信じてる」
 「二人揃って、おめでたい考えを持ってるんだな。いかにも周りが見えていない若者、といった感じだ」
 「何も知らないお父さんからすれば、私たちは馬鹿馬鹿しく見えるのかもしれない。でも私と八代は、お父さんたちとは違う。いいかげんな気持ちでしか恋愛できない人たちと、一緒にしないで」
 悪態に怯むどころか、食いかかってきた私を目にして、父は鼠に噛まれた猫のように、固まってしまった。
 数秒経ってから、ハッとしたように立ち上がり、吐き捨てるように、
 「勝手にしろ! 後悔しても知らんからな」
 と言って、音を立てて扉を閉め、リビングを出ていく。
 その後すぐに、車庫からエンジン音が聞こえ、あっという間に遠ざかっていってしまった。
 「賛成してくれた……」
 安堵のため息を吐き出し、強ばっていた身体をソファーに沈める。まだ騒がしい心臓を、服の上から撫でる。
 「はぁ……。疲れた」
 八代もそう言って、緊迫した雰囲気を解いた。体感時間が通常のものに戻ってくる。
 「まったく何なんだ、あいつは。最初から最後まで、頭にくる親だった」
 発せられた愚痴は、ひとりでに出てしまった、といった様子で、彼が相当我慢していたことが察せられた。
 「さっきの八代、すごく格好良かったよ。その……嬉しかった。絶対に冷めない、って言ってくれたこと」
 煮えたぎる怒りをおくびにも出さず、冷静に父と渡り合う姿に、私がどれだけ勇気づけられたことか。
 「本当に八代は、いつだって私の欲しくてたまらない言葉をくれるね。その度にますます好きになってく。私にはもったいないくらいの良い男だよ」
 「……あれは俺の本心だからな。若葉を喜ばせようとして言ったわけではないからな」
 「うん。わかってるよ。あ、私の言ったことだって、お父さんを言い負かすためのものじゃなくて、本心からの――」
 言葉だよ、と言おうとしたところを、片手で制される。
 「いいから。……もういいから黙っててくれ」
 八代は、もう一方の手で顔を覆っていた。指の隙間から見える瞳は、しきりに揺れている。
 丸出しの耳が蛸のように赤くなっているのを見て、私は我慢できずに笑ってしまった。愉快でたまらなかったのだ。
 これからもずっと、こんな姿を眺めていたい。彼が見せる色んな顔を、ひとつも見逃したくない。
 私は、強くそう思った。
 「じゃあ、ゆっくり休めよ。また連絡する」
 「うん。帰り道気をつけてね」
 玄関口で、八代を見送る。時刻はもうじき23時になろうとしていた。
 時計を見て、慌てて帰らせたため、大事な話が出来なかった。
 「同棲かぁ……」
 数分前まで八代が座っていた場所を見つめて、ぽつりと呟く。声に出したことで、より気持ちが浮わついていった。
 まさか付き合ってこんなに早いうちから、一緒に住むことになるとは……。
 熱くなった頬に両手を当てて、もじもじと身体をくねらす。幸が今の私を見れば、すかさず冷やかしてくるに違いない。
 そうだ。明日は学校が休みだけれど、幸の家に行って、この話をしよう。
 驚く幸の顔が、目に浮かぶようだ。
 その夜は、まだ見ぬ未来に対する期待が膨らんで、とても寝付けなかった。


 翌日の10時頃。
 インターホンを鳴らしてすぐに、「はーい!」と幸の声が聞こえてくる。
 心なしか声の調子が、いつもより明るい気がする。近づいてくる足音も弾むようで、何か良いことでもあったのかな、と予想する。
 「グッドなタイミングだよ、悠ちゃん! さ、上がって上がって!」
 「えっ、ちょっと――」
 幸が満面の笑みで、腕をグイグイ引っ張ってくる。お祭りの時のようなはしゃぎ具合に、一体どうしたのだろう、と怪しみながらも、素早く靴を脱ごうとする。
 そのために下を向いた時、はたと目に留まる物があった。
 「これ確か——八代の靴じゃん。今来てるの?」
 「うん! 私ちょうど、悠ちゃんに連絡しようと思ってたんだ! ま、リビングにレッツゴー!」
 テンション高めの親友の姿に、遊びの相談でもしてたのかな、なんて予想する。
 リビングに入ると、ソファーに八代が腰かけていた。
 私の姿を認めて、笑みを見せる。
 「よう。昨日ぶりだな」
 「だね。八代は今日、仕事で来たの?」
 「そうなんだが——ちょっと仕事に取り掛かる前に、幸と話し合ってたんだ」
 「うん。とっても楽しい、ね」
 横にいる幸が、私を覗き込んでくる。その顔はさながら、わくわくを抑えきれない幼子のようだった。
 ソファーに腰を下ろし、幸に訊ねる。
 「気になるな。どんな話をしてたの?」
 「ふふふ。悠ちゃんをウチに住まわそう、って話だよ!」
 「えっ?」
 「昨日のことは、エリちゃんから聞いたよ。まったく酷いお父さんだよね! さっきまで二人で怒ってたんだ! あ、でもそのおかげで悠ちゃんがウチに来てくれるんだから、私的にはちょっと感謝すべきなのかも?」
 「おい、若葉が呆然としてるぞ。少し落ち着け」
 興奮してまくしたてる幸についていけずにいると、八代が助け船を出してくれた。
 「あっ、そうだね。ごめん。あんまり嬉しいもんだから……」
 照れ臭そうに頭を掻く幸。八代はそれを優しい眼差しで見遣ると、私に向き直った。
 その表情は、どこか決まり悪そうだ。
 「昨日の夜、あそこまで言っといて何だけど、まだ幸の許可を取ってなかったんだ。まあ、快諾してくれるって確信はあったが……」
 「当然だよ! お父さんとお母さんも良いよって言ってくれたし……ああ私、今すっごくいい気分」
 「ちょっ、ちょっと待って」
 手のひらを突き出して、ストップをかける。
 「八代は啖呵を切った時から、幸のところで暮らせば良い、って考えてたの? 私はてっきり……」
 八代の家で同棲するのだとばかり思っていた。父との会話の最中、自分のところに住まわせるのではない、と訂正してなかったし。
 あれは単に訂正するタイミングを逃した、というだけだったのか。
 何だか無性に気恥ずかしくなってきて、無意味に指先を弄くる。
 「さすがに俺のところに行かせるわけにはいかねぇよ。手狭でボロいし、何より治安が悪すぎる。あんな場所に若葉を住まわせるなんて、絶対に嫌だ」
 八代は、強い口調で答えた。それから私の瞳をじっと覗き込んで、
 「遊びに行くのだって、駄目だからな。住人だってあんまり良い人間がいないんだ。軽い気持ちで来ていい所じゃない。俺の家には絶対に近づくなよ」
 「……うん。わかった」
 八代は心配してくれているのだ。私を思うが故の発言だということは、痛いほど伝わってくる。
 八代の思慮の深さの前に、私は羞恥心でいっぱいになった。
 馬鹿みたいに浮かれていた自分が、猛烈に恥ずかしい。ちょっと考えれば、わかったことなのに――。
 八代が恋人を歓楽街にあるアパートになど連れていかないと。特に彼は、何度かあの界隈の危険性について語っていたのに。
 幸の家、というこれほど相応しい場所に思い至らなかった私は、実に間抜けだった。最近、浮かれすぎていたのかもしれない。
 私が反省していると、幸が「もー。エリちゃん」と不満そうな声をあげる。
 「大事なことを伝えてないじゃん。何で悠ちゃんに来てほしくないのか、ちゃんと全部説明しな?」
 聞き分けのない子どもに語りかけるように、呆れを含んだ口調だった。八代は一瞬苦い顔をする。
 そして、辿々しく話し出した。
 「その……会いたい時は、俺の方から飛んでいくから。若葉が危険な目に遭うのが、我慢ならないだけなんだ。――大事な彼女だから」
 最後の言葉で、かあっと顔中に熱が集まる。視線を彷徨わせると、幸と目が合った。
 幸は、笑顔でグッドサインを作ると、満足そうに頷いてみせた。私は一層赤くなる。
 「いいね、二人とも。いつまでもそんな調子でいてね。私が楽しいから」
 完全に面白がっている。いや、私の憂いを察して気を利かせてくれたことは、非常にありがたいけれど――。
 「いつまでもこんな初々しい空気じゃ、心臓が持たないよ。だんだんと慣れていかないと」
 「同感だ」
 果たして慣れる日は来るのだろうか。
 そんな疑念を抱きながら、八代と顔を見合わせて、苦笑いを交わした。
 **

 それから事はトントン拍子に運んでいった。
 私は、家が引き払われてすぐに、少ない荷物を持って幸宅へと移った。
 父には、友達の家に行くのだということは伝えなかった。やはり子ども同士のカップルに同棲は無理だったのだ、と鼻で笑われそうな気がして、癪だったからだ。
 母とは一度も顔を合わせないまま、引っ越しの日になった。別々に行くのだと言う父の言葉に、相変わらずだな、と冷めた気持ちで思った。
 家を出る前に、一度振り返って、一切の物がなくなった家の中を見渡した。
 不思議なほどに、寂寥感みたいなものは湧いてこなかった。
 タイムリープ前の私――今となっては、夢のように思える――は、いよいよ家を出る時、自然と涙が出ていた。きっと未練が残っていたのだろう。
 あの時代の私は、物理的に距離を取れば悲しみも断ち切れる、と思って、東京に出たがったのだったな。そんなことをふいに思い出した。
 もうここの敷居を跨ぐことは、二度とない――。心の中でそう呟きながら、外へと足を踏み出した。
 胸を占めていたのは、清々しいまでの解放感だった。目に浮かんでいたのは涙などではなく、これからの生活への希望だった。
 幸の家での日々は、良い思い出しかない。
 私が来た当初は、二人で度々夜ふかしをした。あげく揃って遅刻して――それがおかしくてまた笑い合った。
 幸の家で暮らすにしたがって、八代と会う回数も増えていった。私は仕事する彼を、気づかれないようにこっそり見るのが、結構好きだった。
 夏祭りには、三人で行った。その時私は、雑踏の中でマミを見つけたが、気まずそうに目を反らされてしまった。
 マミは、幸が学校に通えるようになってから、一度だけ教室に来た。彼女は、自分が犯したことを全て明かし、ひたすらに謝った。
 幸は、すんなりと謝罪を受け入れた。悲しそうな笑みを浮かべて、「許すよ」とだけ発した。
 その言葉を聞くや否や、マミはそそくさと離れていった。お互いにもう関わりたくないのだ、と私は察して、それから何事もなかったように、幸とのお喋りに戻っていった。
 そんなこんなで、月日はあっという間に過ぎていった。
 卒業後は、近場にある会社に勤めた。特にストレスも感じない良い職場環境で、私は定年までそこで働いた。
 幸とは、互いに結婚してからも、変わらずに仲良くしていた。そう、私は結婚したのだ。
 八代と8年の交際期間を経て。
 八代は釈放された理人君と共に、事業を始めた。それが軌道に乗ってきた頃、プロポーズされた。もちろん返事は「はい」以外になかった。
 たくさんの祝福を受けて始まった私たちの結婚生活は、順風満帆なものだった。
 たまに口喧嘩をしても、一時間も経たずに仲直りしたし、互いのことを常に気にかけていた。
 私は、心の底で望んでいた家庭を持つことができた喜びを、毎日噛み締めていた。
 満ち足りた日々の思い出は、数え切れないほどあるけれど――。
 それに浸っている時間は、もうそれほど残されていないようだ。
 「そろそろかな……」
 私の掠れた声に襟人が反応し、握っている手をいっそう強く握り締めた。
 皺だらけの手——まあそれは私もおんなじだけど。
 もう90歳だもん。そりゃ全身しわしわになるって。
 死の間際だというのに、私は非常に落ち着いていた。不幸を感じるどころか幸せな気持ちで満たされていた。
 静かな病室内には、暖かな正午の日の光が射し込んで、ベッドに仰向けに横たわる私を照らしている。
 ベッドの横には襟人がいて、病院に運ばれてからずっと私の手を握っていた。
 彼は最初悲しそうな顔をしていたが、私が「笑って」と言うと、すぐさま慈愛に満ちた笑みをたたえた。そして「俺もすぐそっちに行くと思うから。ちょっとだけ待っててくれ」と告げた。
 確かにこの歳にもなれば、どちらが先に逝ってしまってもすぐ出会える。しかし私は「ああ、私が先で良かった」と思った。
 彼には私より一分一秒でも長く生きていてほしいから。
 それに私の場合、置いていかれる痛みにとても耐えられそうにない。5年前幸に旅立たれた時だって、ぐちゃぐちゃに泣いたのに。
 これだけは生きている間に言っておこう、と最後の力を振り絞り、彼に告げる。

 ありがとう。私と一緒にいてくれて。
 ありがとう。私に大切な感情を教えてくれて。
 ありがとう。私を世界一幸せにしてくれて。
 私をあの不幸な2022年から救い出してくれて、本当にありがとう。

 あの日、私を殺してくれて本当にありがとう。

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