「じゃあ、ゆっくり休めよ。また連絡する」
「うん。帰り道気をつけてね」
玄関口で、八代を見送る。時刻はもうじき23時になろうとしていた。
時計を見て、慌てて帰らせたため、大事な話が出来なかった。
「同棲かぁ……」
数分前まで八代が座っていた場所を見つめて、ぽつりと呟く。声に出したことで、より気持ちが浮わついていった。
まさか付き合ってこんなに早いうちから、一緒に住むことになるとは……。
熱くなった頬に両手を当てて、もじもじと身体をくねらす。幸が今の私を見れば、すかさず冷やかしてくるに違いない。
そうだ。明日は学校が休みだけれど、幸の家に行って、この話をしよう。
驚く幸の顔が、目に浮かぶようだ。
その夜は、まだ見ぬ未来に対する期待が膨らんで、とても寝付けなかった。
翌日の10時頃。
インターホンを鳴らしてすぐに、「はーい!」と幸の声が聞こえてくる。
心なしか声の調子が、いつもより明るい気がする。近づいてくる足音も弾むようで、何か良いことでもあったのかな、と予想する。
「グッドなタイミングだよ、悠ちゃん! さ、上がって上がって!」
「えっ、ちょっと――」
幸が満面の笑みで、腕をグイグイ引っ張ってくる。お祭りの時のようなはしゃぎ具合に、一体どうしたのだろう、と怪しみながらも、素早く靴を脱ごうとする。
そのために下を向いた時、はたと目に留まる物があった。
「これ確か——八代の靴じゃん。今来てるの?」
「うん! 私ちょうど、悠ちゃんに連絡しようと思ってたんだ! ま、リビングにレッツゴー!」
テンション高めの親友の姿に、遊びの相談でもしてたのかな、なんて予想する。
リビングに入ると、ソファーに八代が腰かけていた。
私の姿を認めて、笑みを見せる。
「よう。昨日ぶりだな」
「だね。八代は今日、仕事で来たの?」
「そうなんだが——ちょっと仕事に取り掛かる前に、幸と話し合ってたんだ」
「うん。とっても楽しい、ね」
横にいる幸が、私を覗き込んでくる。その顔はさながら、わくわくを抑えきれない幼子のようだった。
ソファーに腰を下ろし、幸に訊ねる。
「気になるな。どんな話をしてたの?」
「ふふふ。悠ちゃんをウチに住まわそう、って話だよ!」
「えっ?」
「昨日のことは、エリちゃんから聞いたよ。まったく酷いお父さんだよね! さっきまで二人で怒ってたんだ! あ、でもそのおかげで悠ちゃんがウチに来てくれるんだから、私的にはちょっと感謝すべきなのかも?」
「おい、若葉が呆然としてるぞ。少し落ち着け」
興奮してまくしたてる幸についていけずにいると、八代が助け船を出してくれた。
「あっ、そうだね。ごめん。あんまり嬉しいもんだから……」
照れ臭そうに頭を掻く幸。八代はそれを優しい眼差しで見遣ると、私に向き直った。
その表情は、どこか決まり悪そうだ。
「昨日の夜、あそこまで言っといて何だけど、まだ幸の許可を取ってなかったんだ。まあ、快諾してくれるって確信はあったが……」
「当然だよ! お父さんとお母さんも良いよって言ってくれたし……ああ私、今すっごくいい気分」
「ちょっ、ちょっと待って」
手のひらを突き出して、ストップをかける。
「八代は啖呵を切った時から、幸のところで暮らせば良い、って考えてたの? 私はてっきり……」
八代の家で同棲するのだとばかり思っていた。父との会話の最中、自分のところに住まわせるのではない、と訂正してなかったし。
あれは単に訂正するタイミングを逃した、というだけだったのか。
何だか無性に気恥ずかしくなってきて、無意味に指先を弄くる。
「さすがに俺のところに行かせるわけにはいかねぇよ。手狭でボロいし、何より治安が悪すぎる。あんな場所に若葉を住まわせるなんて、絶対に嫌だ」
八代は、強い口調で答えた。それから私の瞳をじっと覗き込んで、
「遊びに行くのだって、駄目だからな。住人だってあんまり良い人間がいないんだ。軽い気持ちで来ていい所じゃない。俺の家には絶対に近づくなよ」
「……うん。わかった」
八代は心配してくれているのだ。私を思うが故の発言だということは、痛いほど伝わってくる。
八代の思慮の深さの前に、私は羞恥心でいっぱいになった。
馬鹿みたいに浮かれていた自分が、猛烈に恥ずかしい。ちょっと考えれば、わかったことなのに――。
八代が恋人を歓楽街にあるアパートになど連れていかないと。特に彼は、何度かあの界隈の危険性について語っていたのに。
幸の家、というこれほど相応しい場所に思い至らなかった私は、実に間抜けだった。最近、浮かれすぎていたのかもしれない。
私が反省していると、幸が「もー。エリちゃん」と不満そうな声をあげる。
「大事なことを伝えてないじゃん。何で悠ちゃんに来てほしくないのか、ちゃんと全部説明しな?」
聞き分けのない子どもに語りかけるように、呆れを含んだ口調だった。八代は一瞬苦い顔をする。
そして、辿々しく話し出した。
「その……会いたい時は、俺の方から飛んでいくから。若葉が危険な目に遭うのが、我慢ならないだけなんだ。――大事な彼女だから」
最後の言葉で、かあっと顔中に熱が集まる。視線を彷徨わせると、幸と目が合った。
幸は、笑顔でグッドサインを作ると、満足そうに頷いてみせた。私は一層赤くなる。
「いいね、二人とも。いつまでもそんな調子でいてね。私が楽しいから」
完全に面白がっている。いや、私の憂いを察して気を利かせてくれたことは、非常にありがたいけれど――。
「いつまでもこんな初々しい空気じゃ、心臓が持たないよ。だんだんと慣れていかないと」
「同感だ」
果たして慣れる日は来るのだろうか。
そんな疑念を抱きながら、八代と顔を見合わせて、苦笑いを交わした。
「うん。帰り道気をつけてね」
玄関口で、八代を見送る。時刻はもうじき23時になろうとしていた。
時計を見て、慌てて帰らせたため、大事な話が出来なかった。
「同棲かぁ……」
数分前まで八代が座っていた場所を見つめて、ぽつりと呟く。声に出したことで、より気持ちが浮わついていった。
まさか付き合ってこんなに早いうちから、一緒に住むことになるとは……。
熱くなった頬に両手を当てて、もじもじと身体をくねらす。幸が今の私を見れば、すかさず冷やかしてくるに違いない。
そうだ。明日は学校が休みだけれど、幸の家に行って、この話をしよう。
驚く幸の顔が、目に浮かぶようだ。
その夜は、まだ見ぬ未来に対する期待が膨らんで、とても寝付けなかった。
翌日の10時頃。
インターホンを鳴らしてすぐに、「はーい!」と幸の声が聞こえてくる。
心なしか声の調子が、いつもより明るい気がする。近づいてくる足音も弾むようで、何か良いことでもあったのかな、と予想する。
「グッドなタイミングだよ、悠ちゃん! さ、上がって上がって!」
「えっ、ちょっと――」
幸が満面の笑みで、腕をグイグイ引っ張ってくる。お祭りの時のようなはしゃぎ具合に、一体どうしたのだろう、と怪しみながらも、素早く靴を脱ごうとする。
そのために下を向いた時、はたと目に留まる物があった。
「これ確か——八代の靴じゃん。今来てるの?」
「うん! 私ちょうど、悠ちゃんに連絡しようと思ってたんだ! ま、リビングにレッツゴー!」
テンション高めの親友の姿に、遊びの相談でもしてたのかな、なんて予想する。
リビングに入ると、ソファーに八代が腰かけていた。
私の姿を認めて、笑みを見せる。
「よう。昨日ぶりだな」
「だね。八代は今日、仕事で来たの?」
「そうなんだが——ちょっと仕事に取り掛かる前に、幸と話し合ってたんだ」
「うん。とっても楽しい、ね」
横にいる幸が、私を覗き込んでくる。その顔はさながら、わくわくを抑えきれない幼子のようだった。
ソファーに腰を下ろし、幸に訊ねる。
「気になるな。どんな話をしてたの?」
「ふふふ。悠ちゃんをウチに住まわそう、って話だよ!」
「えっ?」
「昨日のことは、エリちゃんから聞いたよ。まったく酷いお父さんだよね! さっきまで二人で怒ってたんだ! あ、でもそのおかげで悠ちゃんがウチに来てくれるんだから、私的にはちょっと感謝すべきなのかも?」
「おい、若葉が呆然としてるぞ。少し落ち着け」
興奮してまくしたてる幸についていけずにいると、八代が助け船を出してくれた。
「あっ、そうだね。ごめん。あんまり嬉しいもんだから……」
照れ臭そうに頭を掻く幸。八代はそれを優しい眼差しで見遣ると、私に向き直った。
その表情は、どこか決まり悪そうだ。
「昨日の夜、あそこまで言っといて何だけど、まだ幸の許可を取ってなかったんだ。まあ、快諾してくれるって確信はあったが……」
「当然だよ! お父さんとお母さんも良いよって言ってくれたし……ああ私、今すっごくいい気分」
「ちょっ、ちょっと待って」
手のひらを突き出して、ストップをかける。
「八代は啖呵を切った時から、幸のところで暮らせば良い、って考えてたの? 私はてっきり……」
八代の家で同棲するのだとばかり思っていた。父との会話の最中、自分のところに住まわせるのではない、と訂正してなかったし。
あれは単に訂正するタイミングを逃した、というだけだったのか。
何だか無性に気恥ずかしくなってきて、無意味に指先を弄くる。
「さすがに俺のところに行かせるわけにはいかねぇよ。手狭でボロいし、何より治安が悪すぎる。あんな場所に若葉を住まわせるなんて、絶対に嫌だ」
八代は、強い口調で答えた。それから私の瞳をじっと覗き込んで、
「遊びに行くのだって、駄目だからな。住人だってあんまり良い人間がいないんだ。軽い気持ちで来ていい所じゃない。俺の家には絶対に近づくなよ」
「……うん。わかった」
八代は心配してくれているのだ。私を思うが故の発言だということは、痛いほど伝わってくる。
八代の思慮の深さの前に、私は羞恥心でいっぱいになった。
馬鹿みたいに浮かれていた自分が、猛烈に恥ずかしい。ちょっと考えれば、わかったことなのに――。
八代が恋人を歓楽街にあるアパートになど連れていかないと。特に彼は、何度かあの界隈の危険性について語っていたのに。
幸の家、というこれほど相応しい場所に思い至らなかった私は、実に間抜けだった。最近、浮かれすぎていたのかもしれない。
私が反省していると、幸が「もー。エリちゃん」と不満そうな声をあげる。
「大事なことを伝えてないじゃん。何で悠ちゃんに来てほしくないのか、ちゃんと全部説明しな?」
聞き分けのない子どもに語りかけるように、呆れを含んだ口調だった。八代は一瞬苦い顔をする。
そして、辿々しく話し出した。
「その……会いたい時は、俺の方から飛んでいくから。若葉が危険な目に遭うのが、我慢ならないだけなんだ。――大事な彼女だから」
最後の言葉で、かあっと顔中に熱が集まる。視線を彷徨わせると、幸と目が合った。
幸は、笑顔でグッドサインを作ると、満足そうに頷いてみせた。私は一層赤くなる。
「いいね、二人とも。いつまでもそんな調子でいてね。私が楽しいから」
完全に面白がっている。いや、私の憂いを察して気を利かせてくれたことは、非常にありがたいけれど――。
「いつまでもこんな初々しい空気じゃ、心臓が持たないよ。だんだんと慣れていかないと」
「同感だ」
果たして慣れる日は来るのだろうか。
そんな疑念を抱きながら、八代と顔を見合わせて、苦笑いを交わした。
