その時、急に締め付けがなくなった。
 ずっと足りなかった酸素が、一気に肺に入ってきて、むせ返るのと同時に、大きな音が家の中に響く。
 「げほっ! げほっ……はぁ……」
 胸を押さえながら、音がした方を見遣ると、そこには麗さんと八代がいた。
 「や、しろ……ゴホッ! うっ……」
 「喋んな。辛いだろ」
 こちらを見ずに、八代がそう言う。彼の視線は、麗さんに注意深く注がれていた。
 「くっ……邪魔しないで! どきなさいよ!」
 麗さんは、八代の下でもがく。
 うつ伏せの状態の彼女は、八代によって両手をひとつにまとめられていた。その上胴体にのし掛かられているので、足しか自由に動かせなかった。
 突如現れた邪魔者に罵倒を浴びせながら、じたばたと両足で暴れる麗さん。
 「離して! 離してよぉ……何で! 何でよぉ……」
 子どものようにおいおいと泣く様を見て、私の頭が少し冷静になってくる。
 だんだん呼吸の仕方も掴めてきて、助かったのだという実感が湧いてきた。
 そして、先ほどの自分がやろうとしていたことを思いだし、ぞっとする。
 私、麗さんを――人を殺そうとしてた?
 八代が止めに入らなかったら、私は――。
 身体の中心から、冷たさが伝播していく。先ほどまでのとは違う種類の恐怖が、心身を侵していく。
 ふっと目の前が暗くなり、すぐ近くで鈍い音が響いた。
 「若葉!? ――――!」
 八代が叫んでいる。しかしその声は、水中にいる時のようにくぐもっていて、よく聞き取れない。
 とにかく頭が痛い。割れてしまいそうなくらいに。
 プツッと何かが切れるような音を区切りに、私は意識を手放した。


 「……ん? ここは……」
 家のものではない天井が目に飛び込んできて、戸惑った。
 数秒遅れて、ここが病院で、私は病室のベッドにいるのだと理解する。
 寝起きのもやもやした頭で、記憶を遡る。
 えっと確か――麗さんに首を絞められて――それからどうなったんだっけ?
 頭をひねっていると、ガラッという扉を引く音が聞こえてきた。
 「起きたのか」
 久しぶりに耳にしたその声に、身体が硬直する。寝そべった状態のまま首だけを動かして、入室してきた人物を見つめる。
 「お父さん……」
 一瞬、まだ目が覚めてないんじゃないかと思った。父が目の前にいて私を見ているなんて状況が、にわかには信じられなかったのだ。
 「何で――? 私、また病院に……」
 「そうだ。また、だ」
 父の声が、責めるような色を帯びる。迷惑だと煙たがっている様子が、ありありと伝わってきた。
 心臓が縮み上がる。落胆している自分がいることに気付いて、さらに落ち込む。
 心配してお見舞いに来てくれたんじゃないか、なんて一瞬でも期待してしまった自分が、恥ずかしい。
 八代のおかげで強くなれたと思い上がってた。親からどれほど嫌われようと、もう構わない、という境地に至れたと思ってたのに。
 実際は、未だに不毛な希望を捨てきれずにいる、馬鹿な子どもだ。
 「……ごめんなさい」
 父から目を反らしながら、謝罪の言葉を吐く。一体何に対しての『ごめんなさい』なのかもわからなかったが、とにかく謝らなければいけない気がした。
 「お前が田中に盛られた薬は、命に別状のあるものではないから、今日中に帰れるはずだ。体調が整ったら、帰宅の準備をしろ」
 「あの……私ちょっと記憶が曖昧で――何があったか教えてくれない?」
 おずおず頼むと、父は面倒そうに「ああ」と顎で廊下を示した。
 「詳しいことは、助けてくれた彼に聞け。俺はこれから田中と話さなきゃならんから、出る」
 そう言ってさっさと出ていってしまった。父と入れ替わるようにして、八代が気まずそうに室内に入ってくる。
 「若葉……大丈夫か?」
 彼の問いには、体調以外のことも含まれていた。私が弱々しげに「うん……」と返すと、どこか苦しそうな顔をした。
 「お父さんと話したの……?」
 「ああ。といっても、『娘を助けてくれてありがとうございます』っていう形式的なお礼だけで、どういう関係なのかみたいな質問は、一切なかった。てか親父さんが病院に来たのだって、ついさっきなんだぞ。もうちょっとこう――何かあっていいだろ」
 八代は、父の素っ気ない態度に、明らかに怒っていた。それだけで私の心が軽くなる。
 「母親にいたっては、来る気配すらねぇとか……若葉の両親が酷いってことは聞いてたけど、実際にその様子を目の当たりにすると、マジで反吐が出る」
 文句を言いながら、ベッドの脇にどっかりと座った。
 「あのさ、八代。ところで今何時なのかな」
 ベッドの上で身を起こし、今さらな質問を投げ掛ける。
 「20時だ」
 「そっか……結構眠ってたんだね」
 「ああ。病院に運ばれたのは夕方だってのに、あいつようやく来たんだ。連絡がいってないわけはないのに」
 八代は、苛立ちを隠そうともせず、腕を組んで険しい顔をしている。
 私のためにこれほど怒ってくれるのが嬉しくて、さっきまでの暗い気分が晴れていく。
 ああ、私が気丈でいられるのは、八代の存在があってこそなんだな。
 「八代が私を助けて、救急車を呼んでくれたんだよね? 本当にありがとう。ずっと付き添ってくれてたことも嬉しい。だから全然、悲しくないよ」
 命に別状はない、とのことだから、それほど心配せずとも良かったのに、八代はそばに居続けてくれたのだ。
 それで十分だ。父の渋々といった態度も、母が来てくれないことも、些事だった。
 満面の笑みでお礼を言うと、八代は目をぱちくりさせた後、ふいっと視線を反らした。
 「……目が覚めた時に誰もいなかったら、むなしいだろ。それに俺は――」
 躊躇するように少しの間を挟み、彼は言った。
 「若葉の彼氏なんだから。彼女に何かあった時、一番近くにいたいのは当然だろ」
 「……」
 思わず黙り込んでしまう。不意打ちの胸キュン発言に、どう対処すればいいのかわからない。
 言った本人も、次に口を開くタイミングを図りかねているらしく、どこかソワソワした雰囲気を出していた。
 その顔が、かつてないほど赤くなっているのを見て、愛おしさが沸き上がる。
 「というか若葉。田中さんっていう人と、一体何があったんだ?」
 ややあって投げられた質問で、甘ったるい空気は消え失せた。
 「そうだ! 麗さんは、あれからどうなって――」
 『俺はこれから田中と話さなきゃならんから、出る』
 父の言葉を思い出す。彼女は今、どこにいるのだろう。警察署? 私の家? それとも父と共に働いているという会社の会議室にでもいるのか。
 「あの人なら、一度警察に連れていかれたが、今は会社にいるって話だ。あの人、親父さんの部下なんだって? 親父さんが警察署に迎えにいったらしいぞ」
 私の父は、会社でそれなりに地位のある立場らしいから、部下を犯罪者にするわけにはいかなかったんだろう。
 警察官の前で、「いやー全然大したことじゃないんですよ。お騒がせして申し訳ない」と頭を掻く父の姿が、簡単に想像できた。
 となれば、麗さんが逮捕されることはないはずだ。私が異議を唱えない限りは。
 ホッと息を吐いた私を、八代は不可解そうに見る。
 「若葉は、あの人に殺されかけたんだぞ。何でそんな安心したような顔してんだよ」
 「だって麗さんは――可哀想な人だから」
 私は、彼女が八代の父の友人である田中の娘だということを話した。
 そして、手記の内容と麗さんの言葉を、出来る限り鮮明に伝えた。
 全て話し終わった時には、八代も私と同じ面持ちになっていた。
 「正直田中さんの存在は、今の今まで頭から抜け落ちてたよ。能力を親父に移して、望みどおり幸せな結婚をしたんだと思ってたし。……でもそうじゃなかったんだな」
 八代は目を閉じて、長い息を吐く。麗さんの境遇を憂いているようだった。
 しばしの沈黙の後に、私が口火を切る。
 「それにしても、今日会う約束してて良かったよ。八代が来てくれなかったら、今ごろどうなってたか……」
 私は、麗さんを殺していたかもしれない。逆に私が逝っていた可能性もある。
 八代に家に来てもらう約束をしていて、不幸中の幸いだった。
 「もっと早く――薬を盛られる前に若葉ん家に着いてれば良かったんだけどな。そしたら若葉に苦しい思いをさせずに済んだのに」
 彼は悔しそうに、拳を膝の上で握りしめる。
 「インターホン鳴らそうとしたら、騒がしい気配がして――嫌な予感に駆られて、急いでリビングに向かったんだ。――マジで間一髪のところだった……あと一分でも遅かったら、危なかった。本当に良かった……」
 声を震わせて、たどたどしく語る。
 私は手を伸ばして、彼の頬を撫でた。
 「心配かけちゃったね。ごめん」
 「謝んな」
 彼がムッとしたように、撫でている手を掴む。
 「でも――もう勘弁してくれ。心臓がいくつあっても足りねぇよ」
 そう言うと、私の肩に頭をもたれさせた。
 「うん」
 私ももう、病院のお世話にはなりたくない。
 そのまましばらく、互いの吐息を間近に感じていた。


 「送ってくれてありがとう」
 自宅の玄関の前で、お礼を言う。
 すでに夜はとっぷり暮れていた。小学生などはそろそろ寝る時間だろう。
 すっかり遅くなってしまったことを詫びると、「そんなこと気にすんなよ」という予想通りの答えが返ってくる。
 「病人は甘えとけばいいんだよ、馬鹿」
 拳でコツンと小突かれる。
 私がはにかむと、八代は満足そうに頷いた。
 「じゃあ――」
 また今度、と手を振って別れようとした時、後ろでガチャリと音がした。
 「おい、ずいぶん遅かったじゃないか。待ちくたびれたぞ。――何だ、恋人とふらついていたのか」
 「お父さん……?」
 玄関扉から、父が顔を出していた。
 会社に行ったのではなかったのか。麗さんとの話し合いは、もう済んだということか。
 いや、だとしても父が女性も連れずに家に帰ってくるなんて、考えられない。父にとって家とは、生活するための場所ではないのだから。
 「こんばんは」
 八代が一応、といった感じに挨拶する。父は「ああ」と返答とも呼べないものを口にする。
 そして次の瞬間に、とんでもないことを言い出した。
 「君もいた方が良いかもしれないな。良ければ上がってくれたまえ」
 「えっ!」
 状況にそぐわない大声を上げた私に、父が厳しい眼差しを向ける。慌てて口をつぐんだ。
 八代も、度肝を抜かれた顔をしている。私と同様に、予想外の展開にうろたえているようだ。
 「娘の今後についての話があるんだ。彼氏ならば聞いておいた方が良いだろう。交際を見直す必要があるかもしれんことだ」
 「――わかりました。お邪魔します」
 八代はその言葉で決心を固めたように、小さく頭を下げた。
 私の今後に関すること……?
 やけに胸がゾワゾワする。
 緊張感に包まれながら、ぎこちなくドアをくぐった。