「え――」
「お前さえ生まれなければ。母に隠れて父は何度も私に吐き捨てました。今からでも死んで償うから、と私は訴えましたが、『もう遅い。今さら死なれても、俺の人生は帰ってこないんだ』と言われました」
彼女の瞳には、涙が今にも溢れんばかりに篭っていた。
「お願いです。どうか私を瀕死の状態にしてください。恐ろしいことを頼んでいる自覚はあります。ですが、譲渡するにはこれしか方法がないんです」
すがるような声音で、懇願される。しかし、了承するわけにはいかない。断るために口を開くと、よからぬ気配を察した彼女が、腰をあげる。
そのまま流れるような動作で、床に手をつき頭を下げた。
突然のことに何も言えずにいると、麗さんの叫び声が空気を裂いた。
「お願いします! 私と父の幸福のために、協力してください!」
「ちょっ……やめてください。顔をあげて……」
「いいえ。了解してくださるまで、絶対にあげません!」
そんなこと言われたって、私も頷くわけにはいかないのだ。人を意図的に死に追い込むなんてこと、私には出来っこない。
頑なに顔をあげない彼女に、強めの口調で告げる。
「何を言われようが、無理なものは無理です。――それに自分さえいなければ、なんて思わないでください。自分の存在を抹消することで父を救おうなどという考えは、今日限りで捨ててください」
麗さんには、父から糾弾され続けたことで、罪の意識が彫りこまれている。彼女に非はないというのに。
自分を責め続ける麗さんの様子は、私の胸をきつく締め付けた。
「あなたは、生まれてきてよかったんです。父親の人生の責任を負わなくてもいいんです」
どうか絶望の淵にいる彼女に届くようにと、必死の思いで語りかける。
「あなたは、何も悪くないんです。ですから、もうご自身の幸せを求めてください」
麗さんは、呪縛から解き放たれるべきだ。自殺なんてさせない。彼女には、これから自分の人生を歩んでいってほしい。
それに訂正するのを忘れていたが、現在能力を持っているのは、私ではない。麗さんは、能力が幸に移ったことを知らないのだ。
この思い違いを正さなければ。
「それに今の私には――」
「わかりました。ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありません」
言葉の途中で、麗さんが顔をあげる。
彼女は、シュンとした表情をしていた。反省中の子どものような雰囲気に、私の思いが通じたのだろうか、と期待する。
「おっしゃる通りです。私、若葉さんの心のこもった言葉で、目が覚めました」
「じゃあ……!」
「はい。もう罪悪感に囚われて生きるのはやめます」
「やったぁ……」
どっと力が抜けて、ふいに言葉づかいが崩れてしまう。
ハッとして口を押さえると、クスリと笑われてしまった。つられて口元が緩む。
「すみません。反発されたらどうしよう、って思ってたので。嬉しい返事が来て、気が抜けてしまいました」
「ふふふ。先ほどは、とても格好よかったのに。――若葉さん。緊張も解けたことですし、美味しいお菓子でもいかがです?」
麗さんは、テーブルの上の焼き菓子を見遣った。
「ええ。いただきます」
マドレーヌのようなそれを手に取り、かじりつく。
甘さが口いっぱいに広がる。笑顔を作って、持ってきてくれた人物にお礼を言おうとする。
「すごく美味しいです。ありがとうございま――」
あれっ、と思う。家の中が何だかおかしい。ソファーや椅子がぐにゃぐにゃと歪み、照明が暗くなったり明るくなったりしている。
私は、たまらず項垂れた。
「えっ? え?」
突然おかしくなった世界に戸惑っていると、「すごい……こんなに早く効くなんて」と驚きと喜びに満ちた声が、降ってきた。
「麗、さん……?」
わけもわからず麗さんを見上げると、彼女の姿も歪んでいた。それで気付いた。
私の身体に異変が起きたのだ、と。
菓子に何か入っていたんだ。慌てて吐き出そうと、指を喉の奥に突っ込もうとした時――腕をガシリと掴まれた。
「させませんよ。あなたがすべきなのは、私にこれを突き刺すことだけです」
いつの間にか持ってきていたのか、台所にあったはずの包丁が彼女のもう一方の手に握られていた。
「出来るなら穏便に済ませたかったのですが……同意してくれないのなら、強引な手段を取るしかありませんよね」
「っ……! わかってくれたんじゃ……!」
「あれは方便です。騙してごめんなさい」
詫びの言葉を口にしながらも、掴まれている箇所にかかる力は、どんどん強くなっていく。丁寧な口調で乱暴な行動に出る彼女が恐ろしくて、奥歯がガチガチ鳴った。
「若葉さんは、言いましたよね。『ご自身の幸せを求めてください』と――」
麗さんの声が、一層低くなる。悪寒が背筋を這う。
「私の幸せは、『生まれないこと』です。大好きな父に償い、私が抱えている一切の悲しみを消し去る――自分の存在ごと」
彼女は冷たくそう言い放って、私を床に押し倒した。
「いっ……!」
もはや私の手足は自在に動かなかった。何が入っていたのかは知らないが、相当危険な薬の類いではないだろうか。
指先が痺れてきた。沸き上がってくる寒気は、恐怖のせいだけではないはずだ。視界は相変わらず不安定で、私に馬乗りになっている麗さんの顔のパーツも、めちゃくちゃになっていた。
怖い。
自分が自分でなくなっていくような感覚。こんなのは初めてだった。ここが夢か現実なのかわからなくなる。理性が奪われていく。
朦朧としていると、ふいに頬に痛みが走った。
「痛っ! 何、して……」
「抵抗しなければ、若葉さんは私に殺されます。――こんなふうに」
耳の横に、包丁が突き立てられる。
――あと数センチずれていれば、当たっていた。
心臓が嫌な音を立て、どっと冷や汗が湧いてくる。
麗さんは、カーペットに刺さった包丁を抜き取り、脅し文句を吐く。
「死にたくないなら、私を殺すしかありません。包丁を握っているこの手に、力はこもってません。非力な今のあなたでも、十分奪えますよ」
「い、嫌です! 絶対に嫌です!」
挑発に、必死に抗う。彼女の思い通りにしてはいけない。
ちぎれそうなほど首を振る私に、麗さんは舌打ちした。
「何でわかってくれないんですか! 私を救いたいと思うなら、能力を移してください。私を刺してください」
包丁を強制的に握らされる。さあ、刺せ! と言わんばかりに、麗さんは顔をずいっと近づけてくる。
そうだ! もう能力を持っていない、ということを伝えなければ!
朦朧とする頭で、この窮地を打開する方法を、思い出す。
「麗さん。私は、ぐっ……!」
しかし、伝えようとした矢先、言葉が出てこなくなった。
麗さんの手が、私の首を絞め上げたからだ。
「かはっ……! うっ、やめっ……!」
私の口からは、か細い声がもれるだけだった。伸ばした手が、虚しく空をつかむ。
視界が狭くなっていく。
まずい、これは本気で死ぬ。
カチャッ……。
すぐ近くでした金属音を、まだ明瞭な耳が拾う。
先ほど握らされた包丁が、手から滑り落ちたのだ。
これを使えば、苦痛から解放される――。
正直とっくに限界だった。ただでさえ思考力がまともに働かない状態のところに、首を絞められて、もう『楽になりたい』としか考えられなかった。
麗さんを刺さなきゃ――。
手近にある包丁の柄を掴む。
「お前さえ生まれなければ。母に隠れて父は何度も私に吐き捨てました。今からでも死んで償うから、と私は訴えましたが、『もう遅い。今さら死なれても、俺の人生は帰ってこないんだ』と言われました」
彼女の瞳には、涙が今にも溢れんばかりに篭っていた。
「お願いです。どうか私を瀕死の状態にしてください。恐ろしいことを頼んでいる自覚はあります。ですが、譲渡するにはこれしか方法がないんです」
すがるような声音で、懇願される。しかし、了承するわけにはいかない。断るために口を開くと、よからぬ気配を察した彼女が、腰をあげる。
そのまま流れるような動作で、床に手をつき頭を下げた。
突然のことに何も言えずにいると、麗さんの叫び声が空気を裂いた。
「お願いします! 私と父の幸福のために、協力してください!」
「ちょっ……やめてください。顔をあげて……」
「いいえ。了解してくださるまで、絶対にあげません!」
そんなこと言われたって、私も頷くわけにはいかないのだ。人を意図的に死に追い込むなんてこと、私には出来っこない。
頑なに顔をあげない彼女に、強めの口調で告げる。
「何を言われようが、無理なものは無理です。――それに自分さえいなければ、なんて思わないでください。自分の存在を抹消することで父を救おうなどという考えは、今日限りで捨ててください」
麗さんには、父から糾弾され続けたことで、罪の意識が彫りこまれている。彼女に非はないというのに。
自分を責め続ける麗さんの様子は、私の胸をきつく締め付けた。
「あなたは、生まれてきてよかったんです。父親の人生の責任を負わなくてもいいんです」
どうか絶望の淵にいる彼女に届くようにと、必死の思いで語りかける。
「あなたは、何も悪くないんです。ですから、もうご自身の幸せを求めてください」
麗さんは、呪縛から解き放たれるべきだ。自殺なんてさせない。彼女には、これから自分の人生を歩んでいってほしい。
それに訂正するのを忘れていたが、現在能力を持っているのは、私ではない。麗さんは、能力が幸に移ったことを知らないのだ。
この思い違いを正さなければ。
「それに今の私には――」
「わかりました。ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありません」
言葉の途中で、麗さんが顔をあげる。
彼女は、シュンとした表情をしていた。反省中の子どものような雰囲気に、私の思いが通じたのだろうか、と期待する。
「おっしゃる通りです。私、若葉さんの心のこもった言葉で、目が覚めました」
「じゃあ……!」
「はい。もう罪悪感に囚われて生きるのはやめます」
「やったぁ……」
どっと力が抜けて、ふいに言葉づかいが崩れてしまう。
ハッとして口を押さえると、クスリと笑われてしまった。つられて口元が緩む。
「すみません。反発されたらどうしよう、って思ってたので。嬉しい返事が来て、気が抜けてしまいました」
「ふふふ。先ほどは、とても格好よかったのに。――若葉さん。緊張も解けたことですし、美味しいお菓子でもいかがです?」
麗さんは、テーブルの上の焼き菓子を見遣った。
「ええ。いただきます」
マドレーヌのようなそれを手に取り、かじりつく。
甘さが口いっぱいに広がる。笑顔を作って、持ってきてくれた人物にお礼を言おうとする。
「すごく美味しいです。ありがとうございま――」
あれっ、と思う。家の中が何だかおかしい。ソファーや椅子がぐにゃぐにゃと歪み、照明が暗くなったり明るくなったりしている。
私は、たまらず項垂れた。
「えっ? え?」
突然おかしくなった世界に戸惑っていると、「すごい……こんなに早く効くなんて」と驚きと喜びに満ちた声が、降ってきた。
「麗、さん……?」
わけもわからず麗さんを見上げると、彼女の姿も歪んでいた。それで気付いた。
私の身体に異変が起きたのだ、と。
菓子に何か入っていたんだ。慌てて吐き出そうと、指を喉の奥に突っ込もうとした時――腕をガシリと掴まれた。
「させませんよ。あなたがすべきなのは、私にこれを突き刺すことだけです」
いつの間にか持ってきていたのか、台所にあったはずの包丁が彼女のもう一方の手に握られていた。
「出来るなら穏便に済ませたかったのですが……同意してくれないのなら、強引な手段を取るしかありませんよね」
「っ……! わかってくれたんじゃ……!」
「あれは方便です。騙してごめんなさい」
詫びの言葉を口にしながらも、掴まれている箇所にかかる力は、どんどん強くなっていく。丁寧な口調で乱暴な行動に出る彼女が恐ろしくて、奥歯がガチガチ鳴った。
「若葉さんは、言いましたよね。『ご自身の幸せを求めてください』と――」
麗さんの声が、一層低くなる。悪寒が背筋を這う。
「私の幸せは、『生まれないこと』です。大好きな父に償い、私が抱えている一切の悲しみを消し去る――自分の存在ごと」
彼女は冷たくそう言い放って、私を床に押し倒した。
「いっ……!」
もはや私の手足は自在に動かなかった。何が入っていたのかは知らないが、相当危険な薬の類いではないだろうか。
指先が痺れてきた。沸き上がってくる寒気は、恐怖のせいだけではないはずだ。視界は相変わらず不安定で、私に馬乗りになっている麗さんの顔のパーツも、めちゃくちゃになっていた。
怖い。
自分が自分でなくなっていくような感覚。こんなのは初めてだった。ここが夢か現実なのかわからなくなる。理性が奪われていく。
朦朧としていると、ふいに頬に痛みが走った。
「痛っ! 何、して……」
「抵抗しなければ、若葉さんは私に殺されます。――こんなふうに」
耳の横に、包丁が突き立てられる。
――あと数センチずれていれば、当たっていた。
心臓が嫌な音を立て、どっと冷や汗が湧いてくる。
麗さんは、カーペットに刺さった包丁を抜き取り、脅し文句を吐く。
「死にたくないなら、私を殺すしかありません。包丁を握っているこの手に、力はこもってません。非力な今のあなたでも、十分奪えますよ」
「い、嫌です! 絶対に嫌です!」
挑発に、必死に抗う。彼女の思い通りにしてはいけない。
ちぎれそうなほど首を振る私に、麗さんは舌打ちした。
「何でわかってくれないんですか! 私を救いたいと思うなら、能力を移してください。私を刺してください」
包丁を強制的に握らされる。さあ、刺せ! と言わんばかりに、麗さんは顔をずいっと近づけてくる。
そうだ! もう能力を持っていない、ということを伝えなければ!
朦朧とする頭で、この窮地を打開する方法を、思い出す。
「麗さん。私は、ぐっ……!」
しかし、伝えようとした矢先、言葉が出てこなくなった。
麗さんの手が、私の首を絞め上げたからだ。
「かはっ……! うっ、やめっ……!」
私の口からは、か細い声がもれるだけだった。伸ばした手が、虚しく空をつかむ。
視界が狭くなっていく。
まずい、これは本気で死ぬ。
カチャッ……。
すぐ近くでした金属音を、まだ明瞭な耳が拾う。
先ほど握らされた包丁が、手から滑り落ちたのだ。
これを使えば、苦痛から解放される――。
正直とっくに限界だった。ただでさえ思考力がまともに働かない状態のところに、首を絞められて、もう『楽になりたい』としか考えられなかった。
麗さんを刺さなきゃ――。
手近にある包丁の柄を掴む。
