「――全て読み終わったようですね」
目を白黒させている私を見て、田中麗さんは言った。
八代の父の日記に出てきた"田中"。その娘が目の前にいるという事実に、驚きを禁じ得なかった。
「その手記は、父が書いたものです。私はつい最近、引き出しの奥に入っていたそれを見つけたんです」
淡々と説明する麗さんからは、感情が読み取れない。一体何を考えているのか。そして――。
「どうやって私にたどり着いたんですか?」
数ある疑問の中でも、とりわけ気になることを問う。
麗さんは、父が持っていたタイムリープ能力の存在を知り、能力を譲渡された人を辿ろうとしたのだろう。
だけど、彼女が訪ねるとしたら、八代の元が道理ではないのか。
手記に書いてあったのは、八代の父に移したことだけだ。その後、息子から私へと能力が渡っていったことは、麗さんは知りようがないはず。
それとも、既に八代のところへ行ったのだろうか。それで八代から、タイムリーパーは若葉悠ですよ、と教えられて、ここへ来たというのか――。
いいや、そんなことがあったら、八代から何も報せがないのは、おかしい。
かくして返ってきた答えは、私が一ミリも予想していないものだった。
「朝の公園内での、八代さんと若葉さんのお話を、聞いたからです」
「えっ……!? あの時の会話を? あなたはあの場にいたんですか?」
「はい」と言って、麗さんは申し訳なさそうに眉を下げた。
「すみません。盗み聞きするつもりはなかったのですが……タイムリープという単語が耳に入ってきたもので、つい園内へ入る足を止めて、聞き入ってしまいました」
「あっ! そういえば――」
私の記憶が、呼び起こされる。あの朝、話が終わって互いにしばらく無言でいた時、背後の入り口から若い女性が現れたのだった。
今の今まで、まったく気付かなかった。あの女性は、麗さんだったのだ。
「私は、能力が父の友達の八代さんから、その息子さんに、そして最終的にあなたに渡ったことを知りました。それで卓造さんから、家の場所を教えてもらったのです」
「そういうわけでしたか……」
私にたどり着いた理由は、わかった。しかし――。
「どうして訪ねて来たのでしょうか。私にこの手記を読ませたわけは、一体何でしょう」
麗さんは、何を望んでいるのだろう。
「――私は、父を愛しています」
ポツリと彼女が言う。
「態度が冷たくなった時は、とにかく悲しかったです。以前向けられていた愛情を取り戻したくて、頑張りました。苦手な勉強にも励みましたし、他にも様々なことをして、父に心の限り尽くしました」
そこで麗さんは、涼しい顔を初めて歪めた。
「でも駄目だったんです。何をやっても、憎しみの眼差しで見られるだけでした」
胸が締め付けられる。麗さんの苦しみが、私にはよくわかる。昔の愛されていた記憶に、囚われ続けてしまうのも、努力しても無駄に終わってしまう絶望感についても、手に取るように。
「父のことを知りたくて、書斎に忍びこみました。そしたら、その手記を見つけたんです」
彼女は、テーブルの上に置かれた手帳を指し示す。
「これに書いてあることは、本当なのか。“あの能力”とは何なのか。父に訊ねました。勝手に書斎を探ったことを怒られるのは怖かったけれど、それ以上に気になって仕方なかったんです」
麗さんは予想通り怒鳴られたようだけど、全部話してもらったらしい。
「能力とは、“願いを叶える力”だと父は言いました。能力を持っている人間が切羽詰まった状態の時に浮かんだ願望を、叶えようと働きかけてくれるのだと……一人一回きりの特別な力なんだ、と」
「え? 願いを叶える? 過去に戻れる力ではないんですか?」
思ってもいなかった発言に、すっとんきょうな声が出る。
「はい。私は、どうやってその能力を得たのか訊いたんですが、それだけは頑なに教えてくれませんでした。――私のことが嫌いだからでしょうね。誰だって憎い人間に幸せになってほしくないもの。そんな奇跡のような力を得る方法なんて、教えてもらえないに決まってるわ」
震えていく声は、耳を右から左へと流れていった。
私は、困惑の渦の中にいたので、とてもじゃないが、感情を露にする彼女を気にしていられる状態ではなかった。
タイムリープ能力じゃなかった?
今まで疑いもしなかったことが、音を立てて崩れていく。
私が見聞きした限り、能力の保有者はみんな過去に戻ったものだから、タイムリープ能力だとばかり思っていた。
改めて考えてみると、私たちの願いはどれも、過去に戻ることで叶えられるものだった。
結婚相手を選び直したい。
憎い相手を殺せる状況がほしい。
楽しかった高校生の頃に戻って、人生をやり直したい。
八代の親父さんと私の願いは、過去に遡ることでしか成就できないし、八代の場合も肉体が万全ならば、『殺せる状況』であったということだろう。だから刺されるよりも少しだけ前に戻された。
麗さんの言葉が蘇る。
『能力を持っている人間が切羽詰まった状態の時に浮かんだ願望を、叶えようと働きかけてくれる』
「あっ……」
私の中に、ある考えが浮かぶ。
幸が意識不明の重体となり、一時は脳死の危険にまでさらされたのは、もしかして能力の働きによってのことだった?
私と八代が強く結び付くように。幸のこの願いは、彼女のピンチなしでは、きっと叶えられなかった。
幸が眠っている間に見ていたという夢について、思いを巡らす。
ずっと暗闇の中にいたが、ふいに強い力に引っ張られるような感じがして目覚めた、と幸は話していた。
そういえば、幸の意識が戻ったのは、夜中という話だった。
間違いない。幸は願いを叶える力に、眠らされていたんだ。
「すみません、少々取り乱してしまいました」
麗さんの声で、我に帰る。
そうだ。今は新事実に動揺している場合ではない。彼女の話の続きを聞かなければ。
「私はとにかく父の役に立ちたかったんです。父を不幸にしてしまったことを償いたいと――そればかり考えていました」
「そんな……麗さんは何も……」
「そんな日々の中、早朝の散歩をしていたら、若葉さんたちの話が聞こえてきたんです」
私の慰めの言葉を封じるように、彼女は凛とした声音で言った。
「それを聞いた私は、考えました。若葉さんに能力を移してもらおう、と。もはや超常的な力に頼ることでしか、父を救えないのです」
口調に熱がこもる。瞳は爛々と輝き出していて、自分が考え付いた名案に、心踊っているようだった。
「能力を得て……麗さんは何を願うんですか」
彼女の具体的な願望が気になり、訊ねる。
麗さんは、穏やかな笑みで、堂々と答えた。
「私が生まれませんように、と願うのです」
目を白黒させている私を見て、田中麗さんは言った。
八代の父の日記に出てきた"田中"。その娘が目の前にいるという事実に、驚きを禁じ得なかった。
「その手記は、父が書いたものです。私はつい最近、引き出しの奥に入っていたそれを見つけたんです」
淡々と説明する麗さんからは、感情が読み取れない。一体何を考えているのか。そして――。
「どうやって私にたどり着いたんですか?」
数ある疑問の中でも、とりわけ気になることを問う。
麗さんは、父が持っていたタイムリープ能力の存在を知り、能力を譲渡された人を辿ろうとしたのだろう。
だけど、彼女が訪ねるとしたら、八代の元が道理ではないのか。
手記に書いてあったのは、八代の父に移したことだけだ。その後、息子から私へと能力が渡っていったことは、麗さんは知りようがないはず。
それとも、既に八代のところへ行ったのだろうか。それで八代から、タイムリーパーは若葉悠ですよ、と教えられて、ここへ来たというのか――。
いいや、そんなことがあったら、八代から何も報せがないのは、おかしい。
かくして返ってきた答えは、私が一ミリも予想していないものだった。
「朝の公園内での、八代さんと若葉さんのお話を、聞いたからです」
「えっ……!? あの時の会話を? あなたはあの場にいたんですか?」
「はい」と言って、麗さんは申し訳なさそうに眉を下げた。
「すみません。盗み聞きするつもりはなかったのですが……タイムリープという単語が耳に入ってきたもので、つい園内へ入る足を止めて、聞き入ってしまいました」
「あっ! そういえば――」
私の記憶が、呼び起こされる。あの朝、話が終わって互いにしばらく無言でいた時、背後の入り口から若い女性が現れたのだった。
今の今まで、まったく気付かなかった。あの女性は、麗さんだったのだ。
「私は、能力が父の友達の八代さんから、その息子さんに、そして最終的にあなたに渡ったことを知りました。それで卓造さんから、家の場所を教えてもらったのです」
「そういうわけでしたか……」
私にたどり着いた理由は、わかった。しかし――。
「どうして訪ねて来たのでしょうか。私にこの手記を読ませたわけは、一体何でしょう」
麗さんは、何を望んでいるのだろう。
「――私は、父を愛しています」
ポツリと彼女が言う。
「態度が冷たくなった時は、とにかく悲しかったです。以前向けられていた愛情を取り戻したくて、頑張りました。苦手な勉強にも励みましたし、他にも様々なことをして、父に心の限り尽くしました」
そこで麗さんは、涼しい顔を初めて歪めた。
「でも駄目だったんです。何をやっても、憎しみの眼差しで見られるだけでした」
胸が締め付けられる。麗さんの苦しみが、私にはよくわかる。昔の愛されていた記憶に、囚われ続けてしまうのも、努力しても無駄に終わってしまう絶望感についても、手に取るように。
「父のことを知りたくて、書斎に忍びこみました。そしたら、その手記を見つけたんです」
彼女は、テーブルの上に置かれた手帳を指し示す。
「これに書いてあることは、本当なのか。“あの能力”とは何なのか。父に訊ねました。勝手に書斎を探ったことを怒られるのは怖かったけれど、それ以上に気になって仕方なかったんです」
麗さんは予想通り怒鳴られたようだけど、全部話してもらったらしい。
「能力とは、“願いを叶える力”だと父は言いました。能力を持っている人間が切羽詰まった状態の時に浮かんだ願望を、叶えようと働きかけてくれるのだと……一人一回きりの特別な力なんだ、と」
「え? 願いを叶える? 過去に戻れる力ではないんですか?」
思ってもいなかった発言に、すっとんきょうな声が出る。
「はい。私は、どうやってその能力を得たのか訊いたんですが、それだけは頑なに教えてくれませんでした。――私のことが嫌いだからでしょうね。誰だって憎い人間に幸せになってほしくないもの。そんな奇跡のような力を得る方法なんて、教えてもらえないに決まってるわ」
震えていく声は、耳を右から左へと流れていった。
私は、困惑の渦の中にいたので、とてもじゃないが、感情を露にする彼女を気にしていられる状態ではなかった。
タイムリープ能力じゃなかった?
今まで疑いもしなかったことが、音を立てて崩れていく。
私が見聞きした限り、能力の保有者はみんな過去に戻ったものだから、タイムリープ能力だとばかり思っていた。
改めて考えてみると、私たちの願いはどれも、過去に戻ることで叶えられるものだった。
結婚相手を選び直したい。
憎い相手を殺せる状況がほしい。
楽しかった高校生の頃に戻って、人生をやり直したい。
八代の親父さんと私の願いは、過去に遡ることでしか成就できないし、八代の場合も肉体が万全ならば、『殺せる状況』であったということだろう。だから刺されるよりも少しだけ前に戻された。
麗さんの言葉が蘇る。
『能力を持っている人間が切羽詰まった状態の時に浮かんだ願望を、叶えようと働きかけてくれる』
「あっ……」
私の中に、ある考えが浮かぶ。
幸が意識不明の重体となり、一時は脳死の危険にまでさらされたのは、もしかして能力の働きによってのことだった?
私と八代が強く結び付くように。幸のこの願いは、彼女のピンチなしでは、きっと叶えられなかった。
幸が眠っている間に見ていたという夢について、思いを巡らす。
ずっと暗闇の中にいたが、ふいに強い力に引っ張られるような感じがして目覚めた、と幸は話していた。
そういえば、幸の意識が戻ったのは、夜中という話だった。
間違いない。幸は願いを叶える力に、眠らされていたんだ。
「すみません、少々取り乱してしまいました」
麗さんの声で、我に帰る。
そうだ。今は新事実に動揺している場合ではない。彼女の話の続きを聞かなければ。
「私はとにかく父の役に立ちたかったんです。父を不幸にしてしまったことを償いたいと――そればかり考えていました」
「そんな……麗さんは何も……」
「そんな日々の中、早朝の散歩をしていたら、若葉さんたちの話が聞こえてきたんです」
私の慰めの言葉を封じるように、彼女は凛とした声音で言った。
「それを聞いた私は、考えました。若葉さんに能力を移してもらおう、と。もはや超常的な力に頼ることでしか、父を救えないのです」
口調に熱がこもる。瞳は爛々と輝き出していて、自分が考え付いた名案に、心踊っているようだった。
「能力を得て……麗さんは何を願うんですか」
彼女の具体的な願望が気になり、訊ねる。
麗さんは、穏やかな笑みで、堂々と答えた。
「私が生まれませんように、と願うのです」
