それから一ヶ月が過ぎた頃――。
 私は幸と共に、下校していた。
 幸はすっかり元気になり、よく笑いよくはしゃぐ、いつもの彼女になった。
 私はふとした時に、幸が生きている幸福を実感して、涙ぐみそうになってしまう。
 「それで悠ちゃん。最近どうなの?」
 悪戯っ子のような笑顔で、幸が訊ねてくる。
 何が言いたいか、その表情でわかった。
 「実はこの後、会う予定なんだ。私の家で勉強を教えてもらうの」
 「お家デートじゃん! まあ二人はすでに、互いの家にお泊まりまでしちゃってるからね~」
 茶化すように、肘で小突いてくる。
 幸は、心身共に回復した後、私に説明を求めてきた。
 『どういういきさつで、付き合うことになったの!? 出来るだけ事細かに教えて!』
 幸の勢いに押されて私は、八代を好きだと自覚してから、恋人になるまでの間の出来事や、心が揺れ動いた瞬間などについても、赤裸々に語った。
 私が自白するように話している間、幸はずっと笑顔だった。うんうん、とか、いいねー、などの相槌が挟まれる度に、恥ずかしくなった。
 けれど、親友が幸せそうなら良いか。
 私は隣を歩く幸に、せめてもの抵抗として、デコピンを食らわせた。


 帰宅して、すぐのことだった。
 ピンポーン。
 滅多に使われない自宅のインターホンの音が、私しかいない家の中に、鳴り響く。
 想定していたよりも早い時間だが、八代が来たんだろう、と思い、弾んだ足取りで玄関へ向かう。
 「早かったね、どうぞ上がって――え?」
 ドアを開けて、面食らう。そこにいたのは、八代ではなかった。
 「初めまして。ここは若葉さんのお宅で合っているでしょうか」
 挨拶もそこそこに訊ねてきたその人物は、小柄で地味な風貌の女性だった。
 ずいぶん若く、私とそれほど歳が離れてなさそうだ。艶のある長髪を、後ろで緩くまとめている。一見大人しそうな印象だが、張り詰めた雰囲気からは、ただならぬプレッシャーを感じた。
 「そうですけど……あなたは一体……?」
 「失礼しました。私は、卓造(たくぞう)さんの部下の、田中麗(たなかれい)と申します」
 卓造とは、私の父の名前だ。自然と身が引き締まる。
 田中さんは、警戒を解こうとするように、人の良さそうな笑顔を見せる。
 「いつもお父様には、お世話になっています。急に訪ねてきて、すみません。これ、つまらない物ですが、良かったら――」
 そう言って、肩から下げた鞄から、長方形の箱を取り出す。どうやら菓子折りのようで、私は恐縮しながら、それを受け取った。
 「あ、ありがとうございます」
 ペコペコと頭を下げ、「それで、そのー……」とおそるおそる切り出す。
 「どのようなご用件でいらしたのですか? 父なら今、不在なのですが……」
 「はい、知っています。今日は、娘のあなたにお会いしたかったのです」
 「私に?」
 「ええ。実は大事なお話がありまして……今、よろしいでしょうか」
 この女性は、父の恋人ではないか――。
 そんな考えが、浮かぶ。
 だとしたら、厄介な“お話”をされる可能性が高い。正直、関わりたくない。
 「あの、父に関することでしたら、私から言えることは、何もありません。あの人とは、戸籍上家族というだけです。あの人が誰とどんな交流をしようと、気にしませんし、咎めもしません。あなたと父がどんな関係だろうと、何の関心もありません」
 田中さんはきっと、私の存在を知り、わざわざ父との不倫の関係を、説明しに来たのだろう。
 彼女は、今までの愛人とは、違うタイプに見えた。
 不健全な遊びを知り尽くしたような派手で化粧くさい女ではなく、町を歩けば何人か似た容姿の人に出会えそうな、取り立てて特徴のない女性だった。
 華やかな女に目がない父の遊び相手としては、ちょっと考えられないタイプだ。簡単に騙せそうな純粋さだけに、目をつけられたのではないか、と思う。
 実際に、純粋なのだろう。容姿や纏う雰囲気から察するに、社会に出て幾ばくも経っていないはずだ。
 我が父親ながら、恥ずかしくなる。こんな分別もつかない年頃の女を誑かして、本気にさせるだけさせておくなんて。
 田中さんは、父と真剣な交際をしていると思っているんだろう。だからこうやって、娘に会いに来た。
 交際を認めてもらうために。もしくは私に取り入ることで、母と父を離婚させようという算段なのかもしれない。
 しかし、そんな考えは無駄だ。
 父は、遊びで付き合っているだけだ。あなたは、今までの女性たちと同じく、そのうち捨てられる。
 心の中でそう呟きながら、目の前の彼女を見つめる。
 ここまで袖にしたのだ。もう帰ってくれるだろう。
 だが、予想していたものとは、違った反応が返ってきた。
 「いいえ。私とお父様は、あなたが想像されているような間柄ではありませんよ。そういう話をしに来たわけではないのです」
 じゃあ、一体何を話したいのだろう。奇怪な顔をした私に、彼女はにこりと微笑んだ。
 「こんなところで立ち話もなんですし、どうか上げていただけませんか?」