「今日は家族帰ってくるのか?」
八代が時計を見ながら、訊ねる。お互い目覚めが遅かったから、すでに正午になろうとしていた。
心配になって訊いてきたのだろう。まあ、私が誰を連れてきても、両親はきっと無関心に違いないけれど――。
「帰ってくるとしても、夜かな。父がたまに人を連れて来ることがあるの。そういう時だけ、直前に連絡が来る」
今から家で乳くり合うから、自室に引っ込むか外に出てろ、という意図の連絡だ。母は相手の家に行くため、そういうことはない。
「八代はこの後、何か予定あるの?」
私も八代も身支度を整えて、いつでも外出できる状態だ。コーヒーを啜りながら、私が訊ねると、彼は首を振った。
「いや、今日も特にない」
「結構休んでると思うけど、生活は大丈夫なの?」
「ああ。貯金もしてるし、親戚の家を出る時、手切れ金とばかりに結構な額を渡されたし――」
金銭面のことは心配いらないようだとわかり、安心する。
「私は、病院に行くつもりなんだけど、八代はどうする?」
「俺もついてくよ」
八代は、即答する。幸のところへ行ったところで何も出来ないけれど、家にいる気にはなれなかった。
「じゃあ、さっそく出よう」
生ぬるくなったコーヒーを、一気に飲み干して立ち上がった瞬間、固定電話のコール音が、家の中に鳴り響いた。
どうせセールスだろう……と思いながら受話器を持ち上げると、「もしもし?」と聞き覚えのある声が聴こえてきた。
丁寧で、しかし溢れ出る気持ちを抑えきれないといった調子で、電話の主は言う。
「林岡病院です。そちらは若葉さんのお宅で間違いないでしょうか」
病院の名前を聞いて、心臓が跳ねる。幸が入院している場所だ。もしや幸に何かあったのか。
嫌な考えが、心を覆い尽くす。
「はい。そうです。どのような用件で、お電話してきたのでしょうか」
逸る気持ちを抑えて、冷静な声音で訊ねる。
返ってきた医師の言葉を聞いて、幻聴を疑った。
「薄井幸さんが、意識を取り戻しました!」
「幸!」
病室の扉を勢いよく開き、廊下を通る人々の視線も顧みずに叫ぶ。
幸は、前に見た時と同じく、ベッドの上で仰向けになっていた。
けれど今の彼女は、私の声に反応して、首だけを動かした。
幸が確かに私を見て、ふんわりと笑う。
「悠ちゃん。それにエリちゃんも。来てくれてありがとう」
じわりと涙が滲む。それを拭うこともしないまま、幸の元へと歩み寄る。
「良かった……目が覚めて本当に……良かった。よかった……」
ベッドの横でうずくまり、壊れたように『良かった』と繰り返す私の頭上から、「うん。ごめんね」と泣き笑いのような声が降ってくる。
肩に手を添えられて、ハッとする。顔を上げると、赤い目をした八代が私を見ながら、しきりに頷いていた。
80パーセントの確率を、覆したのだ。もちろん望みを捨てたわけではなかったが、絶望的な数字から、ショックを和らげるために、覚悟も固めなければ――なんてことをどこかで思っていたので、本当に嬉しい。夢のように幸せな気分だ。
すると、嬉しそうな声がすぐそばで聞こえてきた。
「夜中に、意識を取り戻したんです。私たち病院の者も、大変驚きました」
それで初めて、医師もこの部屋にいたことがわかった。慌てて立ち上がり、背筋を伸ばす。
「対応に追われて、一息ついたところで、若葉さんたちが非常に心配していたことを、思い出したんです。連絡するのが遅くなってしまいすみません」
とんでもない。電話口で報せを聞いた時、私は天にも昇る心地だった。目の前の医師が、神様のように神々しい存在に見える。
「いえ、ありがとうございます」
八代と共に、深々と頭を下げた。
ベッドの横にパイプ椅子を引いて、横たわる幸の顔を窺う。
「幸、体調はどう? あ、あんまり流暢に喋れない感じなのかな」
一週間以上眠り続けていたのだ。いきなりペラペラと話すことは、難しかったりするのかもしれない。私は医者ではないので、そこのところは、よくわからないけれど。
「大丈夫だよ。目が覚めた直後は、なんだか舌がもたつく感じだったけど、今は何の問題もない」
ベッドに寝ころんだまま、幸はそう答える。さすがに、身体を起こすほどの余裕はないのだろう。
「それより悠ちゃん――」
「ん?」
幸が物憂げな顔をする。どこか痛むのだろうか、と心配に思った瞬間、「ごめんなさいっ!」と幸が叫ぶように言った。
「私のせいで、悠ちゃんを危険な目に遭わせて――落下に巻き込んで、ごめんなさいっ! 謝ったところで、どうにもならないけど……」
涙目で懺悔する幸に、慌てて告げる。
「いいから。もうすこぶる元気だし。むしろ私の方こそ、罪悪感持ってたんだよ? 私とぶつかったことが原因で、幸の脳にダメージがいっちゃったんじゃないか、って……。幸が無事で何よりだよ。私にとってそれが一番嬉しいことなんだから、そんなに申し訳なさそうにしないで」
「悠ちゃん……」
幸が鼻を啜って、笑う。
「ありがとう」
そして八代の方を見遣る。
「エリちゃんもありがとう。付きっきりだったんだって? 仕事もお休みさせちゃって、ごめんね」
「俺がしたくてしたことだから、気にすんな。――そういえば幸。親御さんはどうしたんだ?」
八代の質問で、私もそのことに気付いた。さすがに病院側も、両親にはもっと早く連絡していただろう。
「二人には、帰ってもらったんだ。悠ちゃんとエリちゃんだけに、話したいことがあったから」
幸の雰囲気が、ガラリと変わる。
「私たちだけに話したいこと……?」
「うん。突拍子もない話になるんだけど……笑わないで聞いてくれる?」
「笑うわけない。聞かせてくれ」
八代が身を乗り出す。私も居住まいを正した。
幸は、私たちを見て、安堵したように嘆息した。
「ありがとう。正直一人じゃ考えが全然纏まんなくて……二人に助けを求めたいんだ」
幸の意味深な発言に首を傾げながら、語られる言葉に、耳を傾けていった。
八代が時計を見ながら、訊ねる。お互い目覚めが遅かったから、すでに正午になろうとしていた。
心配になって訊いてきたのだろう。まあ、私が誰を連れてきても、両親はきっと無関心に違いないけれど――。
「帰ってくるとしても、夜かな。父がたまに人を連れて来ることがあるの。そういう時だけ、直前に連絡が来る」
今から家で乳くり合うから、自室に引っ込むか外に出てろ、という意図の連絡だ。母は相手の家に行くため、そういうことはない。
「八代はこの後、何か予定あるの?」
私も八代も身支度を整えて、いつでも外出できる状態だ。コーヒーを啜りながら、私が訊ねると、彼は首を振った。
「いや、今日も特にない」
「結構休んでると思うけど、生活は大丈夫なの?」
「ああ。貯金もしてるし、親戚の家を出る時、手切れ金とばかりに結構な額を渡されたし――」
金銭面のことは心配いらないようだとわかり、安心する。
「私は、病院に行くつもりなんだけど、八代はどうする?」
「俺もついてくよ」
八代は、即答する。幸のところへ行ったところで何も出来ないけれど、家にいる気にはなれなかった。
「じゃあ、さっそく出よう」
生ぬるくなったコーヒーを、一気に飲み干して立ち上がった瞬間、固定電話のコール音が、家の中に鳴り響いた。
どうせセールスだろう……と思いながら受話器を持ち上げると、「もしもし?」と聞き覚えのある声が聴こえてきた。
丁寧で、しかし溢れ出る気持ちを抑えきれないといった調子で、電話の主は言う。
「林岡病院です。そちらは若葉さんのお宅で間違いないでしょうか」
病院の名前を聞いて、心臓が跳ねる。幸が入院している場所だ。もしや幸に何かあったのか。
嫌な考えが、心を覆い尽くす。
「はい。そうです。どのような用件で、お電話してきたのでしょうか」
逸る気持ちを抑えて、冷静な声音で訊ねる。
返ってきた医師の言葉を聞いて、幻聴を疑った。
「薄井幸さんが、意識を取り戻しました!」
「幸!」
病室の扉を勢いよく開き、廊下を通る人々の視線も顧みずに叫ぶ。
幸は、前に見た時と同じく、ベッドの上で仰向けになっていた。
けれど今の彼女は、私の声に反応して、首だけを動かした。
幸が確かに私を見て、ふんわりと笑う。
「悠ちゃん。それにエリちゃんも。来てくれてありがとう」
じわりと涙が滲む。それを拭うこともしないまま、幸の元へと歩み寄る。
「良かった……目が覚めて本当に……良かった。よかった……」
ベッドの横でうずくまり、壊れたように『良かった』と繰り返す私の頭上から、「うん。ごめんね」と泣き笑いのような声が降ってくる。
肩に手を添えられて、ハッとする。顔を上げると、赤い目をした八代が私を見ながら、しきりに頷いていた。
80パーセントの確率を、覆したのだ。もちろん望みを捨てたわけではなかったが、絶望的な数字から、ショックを和らげるために、覚悟も固めなければ――なんてことをどこかで思っていたので、本当に嬉しい。夢のように幸せな気分だ。
すると、嬉しそうな声がすぐそばで聞こえてきた。
「夜中に、意識を取り戻したんです。私たち病院の者も、大変驚きました」
それで初めて、医師もこの部屋にいたことがわかった。慌てて立ち上がり、背筋を伸ばす。
「対応に追われて、一息ついたところで、若葉さんたちが非常に心配していたことを、思い出したんです。連絡するのが遅くなってしまいすみません」
とんでもない。電話口で報せを聞いた時、私は天にも昇る心地だった。目の前の医師が、神様のように神々しい存在に見える。
「いえ、ありがとうございます」
八代と共に、深々と頭を下げた。
ベッドの横にパイプ椅子を引いて、横たわる幸の顔を窺う。
「幸、体調はどう? あ、あんまり流暢に喋れない感じなのかな」
一週間以上眠り続けていたのだ。いきなりペラペラと話すことは、難しかったりするのかもしれない。私は医者ではないので、そこのところは、よくわからないけれど。
「大丈夫だよ。目が覚めた直後は、なんだか舌がもたつく感じだったけど、今は何の問題もない」
ベッドに寝ころんだまま、幸はそう答える。さすがに、身体を起こすほどの余裕はないのだろう。
「それより悠ちゃん――」
「ん?」
幸が物憂げな顔をする。どこか痛むのだろうか、と心配に思った瞬間、「ごめんなさいっ!」と幸が叫ぶように言った。
「私のせいで、悠ちゃんを危険な目に遭わせて――落下に巻き込んで、ごめんなさいっ! 謝ったところで、どうにもならないけど……」
涙目で懺悔する幸に、慌てて告げる。
「いいから。もうすこぶる元気だし。むしろ私の方こそ、罪悪感持ってたんだよ? 私とぶつかったことが原因で、幸の脳にダメージがいっちゃったんじゃないか、って……。幸が無事で何よりだよ。私にとってそれが一番嬉しいことなんだから、そんなに申し訳なさそうにしないで」
「悠ちゃん……」
幸が鼻を啜って、笑う。
「ありがとう」
そして八代の方を見遣る。
「エリちゃんもありがとう。付きっきりだったんだって? 仕事もお休みさせちゃって、ごめんね」
「俺がしたくてしたことだから、気にすんな。――そういえば幸。親御さんはどうしたんだ?」
八代の質問で、私もそのことに気付いた。さすがに病院側も、両親にはもっと早く連絡していただろう。
「二人には、帰ってもらったんだ。悠ちゃんとエリちゃんだけに、話したいことがあったから」
幸の雰囲気が、ガラリと変わる。
「私たちだけに話したいこと……?」
「うん。突拍子もない話になるんだけど……笑わないで聞いてくれる?」
「笑うわけない。聞かせてくれ」
八代が身を乗り出す。私も居住まいを正した。
幸は、私たちを見て、安堵したように嘆息した。
「ありがとう。正直一人じゃ考えが全然纏まんなくて……二人に助けを求めたいんだ」
幸の意味深な発言に首を傾げながら、語られる言葉に、耳を傾けていった。
