首筋に顔をうずめる。そして、熱くなったそこに、唇を押し当てた。
 八代が、小さく跳ねる。力が抜けたその隙に、ぴたりと密着させていた身体を、僅かに離す。
 そして、唖然としている八代の唇を奪った。
 素早い動きだった。触れあったのは一瞬のことで、感触などを確かめる余裕は、皆無だった。
 彼は、何が起こったのかわからない、というような表情を浮かべていたが、すぐに理解したらしく、みるみるうちに顔が赤くなっていった。
 私にも遅れて、羞恥心が襲ってくる。沸き上がる衝動のまま動いた結果、相当大胆なことをしてしまった。
 今さらながら、恥ずかしさに悶えていると、「おい」と呼び掛けられる。
 肩がビクリと跳ねる。後ろめたい気持ちで、弁解する声が震えていく。
 「ち、違うの。いや、違わないけど――なんていうか、抱き合ってるだけじゃ、物足りなくなって――それでつい、やっちゃったっていうか……ごめん、急に。驚いたよね」
 早口に言って、立ち上がる。猛烈にこの場から逃げ出したかった。足が自然と自室へと向かう。
 しかし――。
 「待て」
 離れようとする私の腕を、八代が掴んだ。
 「謝らなくていい。俺も物足りないと思ってたから」
 「え……?」
 驚いて振り返ろうとした時、八代の方へと身体が引き寄せられた。
 咄嗟に反応出来ずに、手を引く力に導かれるまま、八代の膝上に乗り上げた。
 至近距離で見つめ合う形になり、顔に熱が集まる。
 「ちょ、ちょっとどうし――」
 八代は、困惑する私の腰に、腕を回して動きを封じる。
 「若葉がああいうことしてくれて、嬉しかった。謝られるどころか、こっちがお礼を言いたいくらいだ」
 八代がその言葉に違わず、喜びに満ちた声音で言ってくるものだから、ますます恥ずかしくなる。
 「さっきのやらかしは、もう忘れてよ……」
 「いいや、絶対忘れてやらないし、頑張ってもどうせ忘れられない」
 情けない声音で絞り出した頼みを、八代は一刀両断する。
 「なんとなく俺からする気でいたんだ。若葉は、そういうことに積極的なタイプには、思えなかったから。むしろ、抵抗感があるんじゃないか、って予想してた」
 八代がそう思うのも、無理はない。
 少し前までの私は、恋愛アレルギーを持っていた。八代との関わりで治ったとはいえ、“そういうこと”に対して、忌避感を簡単には拭えないだろう、と予想することは、当然だった。
 「だから、ゆっくり進んでいく覚悟だったんだが……」
 八代は、そこで言い淀む。赤面していくのを見て、なんとなく彼の次の言葉が予測でき、喜びで胸が高鳴る。
 「俺からもさせてくれないか。あんな一瞬じゃなくて、もっと長く……しっかりとしたやつを」
 案の定八代は、そう言ってきた。
 顔が熱くなる。いや、顔だけじゃなく全身から熱が立ち上るような感覚に溺れる。
 顔を背けて、ぽつりと言った。
 「……いいよ」
 その返答を聞くや否や、彼は顔を近づけてくる。
 「んっ……」
 思わず洩れそうになった驚きと戸惑いの声は、封じられた。
 今までよりもずっと近い場所に、目を閉じた八代の顔がある。胸がどうしようもなく高鳴った。
 彼が視界に飛び込んでくるのが耐えられず、逃げるように目を閉じると、今度は感触の方に意識がいって、あたふたする。
 さっき私がしたものとは、まったく異なる感覚だった。
 柔らかくて熱を持った唇が、私のそれに重なっている。とんでもない羞恥心と共に、多幸感が襲ってくる。
 ずっとこうしていたい。そう思ってしまうほどにこの行為は、心地よく離れがたいものだった。
 彼も同じ心情なのか、逃がさないとでも言うように、腕を私の後頭部に回して、固定させている。その腕で、時折髪を優しい手付きで、撫で付ける。
 とても長いこと、そうしていたと思う。
 ようやっと八代が身体を離す。その瞬間、名残惜しさが沸いてきた。そんな自分がひどくはしたなく思えて、胸の内で恥じた。
 「……長かったね」
 やっとのことで絞り出した言葉は、そんなものだった。
 「悪い。離れがたくてつい……」
 八代が申し訳なさそうにするのを見て、慌てて告げる。
 「違うの。不満だったとかじゃなくて……その、良かったよ。すごく……嬉しかった」
 詳しく語るのは憚られて、ひどくふんわりとした感想になってしまったが、心からの感激の言葉だった。
 毎日何回でも行いたい。それくらい幸せな時間だった。
 それを伝えるのは、恥ずかしすぎて無理だけれど……心臓が爆発してしまう。
 私の言葉に、八代は顔をパッと明るくした。
 「良かった。嫌だったら、遠慮なんて一切せず、言ってくれていいからな。若葉が望まないことは、したくないから――」
 あくまでも謙虚な姿勢を保つ彼に、不満を覚えた。
 私はまったく、嫌がってなどいない。そんな感情は、微塵も抱いていないのに。
 八代の優しさが、この時ばかりは少し癇に触った。それと同時に、彼の認識を改めさせなければ、と思った。
 「八代。もう一回しよう」
 「は?」
 「今度は私からする」
 その宣言通り、何か言う隙も与えずに、再び唇を重ね合わせた。
 八代の頬に両手を添えて、彼が逃げないように顔を固定する。
 身を溶かすような心地よさが、唇から広がっていく。その感覚にうっとりしながら、時折角度を変えて口づける。
 八代も、最初は戸惑ったように身を強ばらせていたが、徐々に受け入れてきたらしく、私の拙い動きに、応じ始めた。
 その晩私たちは、何度もその行為を繰り返した。


 翌朝、ベッドの上で目覚める。寝ぼけ眼をこすりながら、洗面所に向かった。
 鏡に映る自分の姿が、何だかひどく恥ずかしく感じる。
 あの時は、どうかしていた。改めて振り返ると、おかしなテンションだったと思う。だからといって、後悔しているわけではないけれど――。
 自分の身体を抱き締める。まだ余韻が残っているような感じがして、どうにも落ち着かない気分だった。
 シャワーでも浴びたら、頭も冷めるだろう。
 八代はまだ寝ている。早く済ませて、おはようを言いに行こう。