街は活動を始め、誰かの話し声がちらほら聞こえてきた。
 いつの間にか、時間が経っていたようだ。

 私たちの背後にあるもうひとつの入り口から、朝の運動に来たと思える若い女性が、入ってきた。
 この公園にも、そろそろ人が訪れてくる頃合いみたいだ。
 私は、八代に訊ねる。

 「この後は、何か予定あるの?」
 「特にない。若葉は、学校に行くんなら、十分間に合う時間だと思うぞ」
 「ううん。行く気にもなれないし、今日は元々休むつもりだったから、いいよ」
 「そうか」

 お互いに、何となく解散したくなかった。かといって、このままベンチに座り続けているわけにもいかないので、提案する。

 「今から、幸のところ行かない? 一緒に」
 「そうするか。何か変化や進展はなかったのかも、ついでに訊きに行こうぜ」

 進展――。あると良いのだけど。そもそも忙しい中で、幸の容態について聞ける時間を、取ってもらえるかどうか。
 あんまり期待は出来なかったけれど、幸の顔は見たかったので、病院に向かって歩き出した。



 病室で、予想していなかった人物と出会った。
 いや、彼らがここに来るのは、よく考えなくても、わかることだった。
 娘が重体ならば、両親が駆けつけるのは、当然だろう。海外にいることなんて、お構いなしに、飛んでくるはずだ。

 「あれ、襟人君? 隣の方は――幸のお友達でしょうか。来てくださって、ありがとうございます。娘も喜ぶと思います」

 幸の両親は、パイプ椅子から立ち上がって、お辞儀をする。こちらも慌てて頭を下げた。
 ドアを開けたら、見知らぬ人がいて、きょとんとしてしまったが、気を取り直して名乗る。

 「幸さんと同級生の、若葉悠という者です。初めまして」
 「お久しぶりです」

 八代もそう言って、頭を下げる。幼馴染みというからには、幸の両親とも顔見知りだったらしい。

 「二人ともお見舞いに来てくれたのね。ありがとう」

 幸に似た綺麗な女性が、微笑む。彼女の目元には、涙の痕が残っていて、もしかして邪魔してしまったのでは、と申し訳なく思った。

 「襟人君は、ずいぶん昔に会ったきりだね。あんまり変わってなかったから、すぐにわかったよ。あ、もちろん良い意味でだよ」
 「ありがとうございます」

 病室内に、和やかな雰囲気が流れる。
 しかし、それは一瞬のことだった。
 笑みを引っ込めた幸の両親が、何かを確かめるように、顔を見合わせたかと思えば、床に正座したのだ。
 そして、床に手をつけて頭を下げた。

 「若葉悠さん。この度は本当に申し訳ありませんでした!」
 「えっ……あの、どうされたんですか? と、とりあえず頭を上げてください。お願いします」

 突然土下座されたことに戸惑い、ワタワタと胸の前で手を振ると、思い切り眉を下げた二つの顔が、私を見上げた。

 「あなたが、落ちてきた幸と衝突して、意識不明になった方ですよね? 本当に……本当に申し訳ありません!」

 そう言ってまた、床に額を擦り付ける。

 「い、いえ! 今はすこぶる元気なので! 幸い外傷もなかったですし、頭を上げてください。お願いです」

 必死に懇願する。これじゃ私の方が何か仕出かしたみたいだ。

 「――ありがとうございます。その優しさに、心から感謝いたします」

 ようやっと立ち上がってくれた。ホッとして胸を撫で下ろす。

 「お二人は、いつ帰国したんですか?」

 八代が訊ねる。私も気になっていたことだった。
 正直、八代はとっくに幸の両親に会っているものと思っていた。転落事件の日から、八代は大体病院にいたみたいだし、私に言わなかっただけで、顔を合わせていたのだろう、と。

 「確か4、5日くらい前だったかな? 本当はもっと早く来たかったんだけど、どうしても僕たちがいなければ成り立たない仕事があってね……」

 幸の父が、恥ずかしそうに頭を掻く。仕事を優先した自分が、後ろめたいのだろう。

 「僕たちが、ってことは、ご夫婦で一緒に仕事をされているんですか?」
 「はい。公私共にパートナーなんです」

 八代の時とは違い、かしこまった口調で、幸の父が答える。

 「仕事を片付けて、いざ帰国したら――っ……!」

 幸の母が、声を詰まらせた。身を縮ませて、顔を両手で覆う彼女の肩を、幸の父がそっと包み込む。

 「どうしましょう……! 幸まで死んでしまったらっ……!」

 指の間から洩らすその言葉を聞いて、胸に痛みが走る。
 そうだ。彼らは、樹里亜を――大切な長女を亡くした直後なのだ。

 「これは天罰なのかしら……子供達を放って、仕事ばかりしてきた私たちへの――」
 「違う。樹里亜があんなことになったのは、事故のせいだよ。それ以上でもそれ以下でもない」

 涙声になっていく妻を、優しく強い口調でなだめる夫。
 私と八代は、そっと病室を出ていった。