殺害事件はもう起こらない。
 私は、繋いでいた手をそっとほどいた。
 胸を撫で下ろす。達成感と安堵で、どっと力が抜けた。

 「良かった……」

 自然とそんな言葉が洩れる。
 しかし、手放しで喜んでもいられないことも、わかっていた。

 幸の死を防ぐ。

 タイムリープした時から掲げていた、私の絶対的目標。このままでは、成し遂げられなくなってしまう。

 ぞわりと鳥肌が立つ。
 幸が死ぬ未来を変えられない。もう二度と幸と会えない。
 考えるだけで、恐怖で身がすくむ。

 八代は、私の雰囲気が一変したことを察したらしく、「幸のことか」と訊ねる。

 「……どうしよう。幸が永遠に目覚めなかったら。また死んじゃったら……」

 声が震えるのを、抑えきれない。口に出したことで、想像してしまったのだ。幸の遺体を見下ろす自分を。
 嫌だ。あんな思いをするのは、もうごめんだ。

 「とにかく幸を信じよう。俺たちにはそれしかできないんだから」
 「うん……」

 そう返事しながらも、心は晴れなかった。

 「ごめん、八代。自分から告白しておいてなんだけど……ちょっと今はそういうこと考えるの難しいから、付き合ったりとかは、まだ先にさせてくれないかな」
 「ああ」
 「あ、でも私のことがやっぱり好きじゃないって言うなら、今断ってくれて、全然いいから――」
 「断らねぇよ」

 八代が遮るように断言する。
 その反応に驚き、訊ねる。

 「幻滅しなかったの?」
 「幻滅? 何でだよ」

 八代は、心底不思議そうに聞き返す。

 「だって……私が一家心中を考えてたの聞いて、失望しなかったのかな、って。罪深い人間だと思わなかった?」

 八代が親父さんに殺意を持ったのは、親父さんが、家族を苦しめ、殺したからだ。
 最初から最後まで、自分が傷ついたことしか考えてなかった私とは、大違いだ。

 だから八代の話を聞いた時、『そんなに自罰的にならなくていいのに』という思いで一杯だった。
 彼が自身を悪人だと思うなら、私のことはどう思うだろう。こんな自分本意な私を。
 きっと、ろくでもない人間だと感じるだろう。恋する気持ちも、消え失せているのではないか。
 そんな恐れを感じていたのだけれど――。

 「だって若葉は、まだ小さな子どもだったろ。子どもにとっては、親に愛されることが一番大事なことなのに、見向きもしてくれなかったら、追い込まれて最悪な発想が出るのは、自然なことだ。子どもってただでさえ、視野が狭いもんだしな」

 本当にまったく気にしていないように、八代は言う。

 「むしろ、幼少期からそんなクソみたいな環境で過ごしてきたのに、よく性根が歪まなかったな、と感心してるくらいだ。失望なんかしねぇよ。俺は若葉のことが、大好きなままだ。安心してくれ」

 そう言って、何かに気づいたように、ほんの少しだけ、楽しそうな表情を見せる。

 「さっきの俺と同じだな。過去の話をして、嫌われたんじゃないかと思ってたら、意に反して、好きだ、って言葉が返ってきて」

 確かにそうだ、と感じ、彼と思いがシンクロしたことが、とても嬉しくなった。
 これが両思い。なんて暖かく、得難い奇跡なのだろう。こんな幸福がこの世にあるなんて。

 現代の八代に、感謝しなければならない。
 あの日、彼が私を刺さなければ、一生この幸せを理解できないまま、灰色の日々を送っていたかもしれないのだから。

 彼と引き合わせてくれた様々な偶然に、私は心の内で深く感謝した。