「そういえば、八代。樹里亜のこと……聞いてる?」

 恐る恐る尋ねると、八代が沈痛な面持ちで頷いた。

 「飲酒運転のトラックに跳ねられて、即死だろ? 病院で会った大和さんに聞いた」

 大和さんの名前が出て、体温が下がる。

 「大和さんの様子はどうだった? 何か違和感はなかった?」
 「違和感……?」

 八代が、怪訝そうに反芻する。

 「悲しそうな様子だったよ。――当然だよな。あんなに惚気てた恋人が、死んじまったんだから。大和さんが、『悲しすぎて、涙も出てきません。現実じゃないみたいです。悪い夢だったら良いのに……』って言ってるの聞いて、こっちまで苦しかったよ」

 本当にそうだろうか。
 悲しくなさすぎて、涙が出てこなかったんじゃないか。
 あまりの悲痛に打ちのめされて、泣けなかったというのは、泣きあとが微塵もないことの、周囲への言い訳じゃないのか。
 今ごろ大和さんは、公園で抱き合っていた女性と、樹里亜の死なんてなかったように、笑い合っているんじゃないか――。

 「どうした? なんか様子が変だけど……」

 黙ってしまった私を、八代が心配そうに見る。

 「実は私、あの場にいたんだよね。樹里亜が跳ねられる瞬間を、目の前で見た」
 「はっ!? マジかよ……それは、災難だったな。――つーかもしかして、あの日樹里亜に会いに行ったのか?」
 「うん。道に迷って困ってたら、大和さんの家の前だったみたいで。樹里亜がいる、っていうからつい――会わなきゃ! って思っちゃって」

 八代に黙って、急遽一人で会おうとしたことへの申し訳なさで、ばつが悪くなる。

 「ごめんね、独断専行しちゃって」
 「いや、俺が若葉の立場でも、多分同じことしてた。自然な流れだ」

 そう言って八代は、気遣うような目になった。

 「だからさ、気にすんなよ」

 それを聞いて、わかった。八代は、私が気に病んでいることを察したのだと。
 私があの日、会いに行かなければ、樹里亜は死ななかった――。
 家に引きこもってる間、ずっとそう思い続けていた。

 予定通りに、八代と二人で会いに行っていれば、良かった。もしくは、別の日にすべきだったのだ。
 そうすれば、大和さんの浮気現場を、樹里亜は見ないで済んだ。
 樹里亜は、迫ってくるトラックに気付けたし、横断歩道の途中で呆気にとられることも、なかったのに。

 いいや。私が最も悔やんでいるのは、事故の瞬間のことだ。
 私は、トラックと樹里亜が激突する直前、手を伸ばせば、彼女に届く距離にいた。
 私の反応があと一秒でも早ければ、樹里亜は助かっていたのかもしれないのだ。

 樹里亜が死んだのは、私のせいだ。
 一度思うと、その考えが頭から離れなくなり、昨日までベッドの上で縮こまって、震えていた。

 今でも胸の奥で、罪悪感がジクジクと痛み続けている。
 けれど、八代に『自然な流れ』と言ってもらえて――すっと気持ちが軽くなった。
 彼は、樹里亜の死を、私が責任に感じる必要はない、と励ましてくれたんだ。その心遣いに胸が温かくなる。

 「うん。ありがとう、八代」

 感謝が伝わるようにと、精一杯の笑顔を見せる。
 八代は、安心したように笑い返した。

 「それで、理人君とマミのことを話したの。もう逃げられないよ、ってことを伝えたら、全部白状してくれた。何でそんなことしたのかも聞いた」

 予想通りだったよ、と付け足す。

 「幸が同意しなければ、家を売れないから、殺したんだ。自分の夢のためなら、幸が死ぬのなんてどうでも良い、って感じだった。実際に悪し様に言ってたの。あんまり酷いことばっか言うから、私――」

 熱が入りすぎたことに気付いて、口を閉じる。
 樹里亜の暴言の、全てを記憶しているわけじゃないけど、そのどれもに腹が立ったことは、覚えていた。
 冷静にならなければ、と深呼吸をする私を見て、八代は察してくれたらしく、続きを促すことはせずに、私が話し出すのを待ってくれた。

 「理人君とマミのことは、どう思ってたの、とも訊いた。どっちの回答も最悪だったよ」

 口の中が、苦くなる。出来るだけ毒が抜けた言い方になるように、と必死に頭を巡らせるが、上手くいきそうもなかった。

 「理人君のことは……道具だって言ってた。それだけだって。ネットで利用できそうな人を探してて――白羽の矢が立ったのが、たまたま理人君だった」

 まったくオブラートに包めなかった。自分の機転の利かなさに、嫌悪感が湧く。

 「そうか。ありがとな、若葉。理人のことも、ちゃんと訊いてくれて」

 予期せぬお礼の言葉に、たじろぐ。それと同時に、安堵を覚える。八代の表情が、さほど重いものではなかったから。

 「折野については、何て言ってたんだ? 俺の目には、二人は年齢がひとつ違いの親友のように見えてたんだが……」

 やはり、そう映っていただろう。私は、残念そうに首を振った。

 「マミのことも、都合の良い人間、って思ってたんだって。マミがさ、樹里亜を慕うようになったきっかけを、前に話してたこと覚えてる?」
 「山田を待ってた時だよな。覚えてるよ。部活内のいざこざを樹里亜が颯爽と解決して、折野を助けたって話だろ」
 「そう。実はその一件は、マミを懐柔するために、樹里亜が仕組んだことだったんだ」
 「は? 何でそこまでして……」
 「樹里亜は、マミのこと、純粋そうで、一度懐に入れたら、何でも信じちゃいそう、って言ってた。ああいうのに、常に肯定してもらえたら、気分良いだろうな、って。だから、部員たちに協力してもらって、芝居を打ったんだ」

 八代は「マジかよ……」と絶句する。

 「太鼓持ちとして、気に入ってたってことかよ。あんまりだろ……」

 マミは、今何を考えているのだろうか。
 もう退院したのか。樹里亜の訃報を聞いたのか。もし聞いたのなら、どう思ったのだろう。

 渋い顔をする八代を、見遣る。
 大和さんのことを、話すべきか迷っている。こんなに嫌なことは、別に伝えなくても良いような気がしてきた。
 打ち明けたところで、誰も得しないのではないか。

 私だけが、大和さんが隠してた不誠実さを、知ってる。それは、どうにも釈然としない感じだった。
 しかし、このもやもやした気持ちは、じきになくなるだろう。
 私が黙ってれば、誰も嫌な気持ちにならない。ならば――。

 「……い。おい、若葉」
 肩を揺さぶられて、ハッとする。

 「大丈夫か? 顔色が良くないけど、気分が悪いのか?」
 そう言って、顔を覗き込んでくる。
 何かを悟られるような気がして、急いで答える。

 「ううん。平気だよ。久しぶりに早起きしたから、頭がボーッとしてるのかも」

 作り笑いを浮かべても、八代は疑うような目付きをやめなかった。

 「若葉。なんか隠してることあるだろ」

 口角がひきつるのが、はっきりわかってしまう。自身の不器用さが憎かった。
 ここから誤魔化す気にもなれず、大人しく「うん」と頷く。

 「ごめん……でも、そんなに大事な話でもないの。事のあらましには、関係ないことで……」
 「だけど若葉は、そのことが引っ掛かってるんだろ? 一人で抱えこむなよ」
 「でも、良い気分になる話じゃないよ? 樹里亜が起こした事件とは、関係のないことだし……」
 「いいから。俺は、若葉が一人でそんな顔をしてるのが、耐えられないだけだ。話して楽になれそうなら、遠慮なんて一ミリもしなくていい。全部ぶちまけちまえよ」

 八代は、隠される方が辛い、というように眉尻を下げる。
 ここまで言われて、話さないなんて選択肢は、私の中にはなかった。

 「実は――」