パン、と皮膚が強くぶつかる音が、部屋の中に響く。

 その音で我に帰る。手のひらにジンジンとした痛みがあった。
 樹里亜は、左頬を押さえていた。少し溜飲が下がる。

 「いったた……。ちょっと饒舌になりすぎたね」

 先ほどまでより、落ち着いた声色で、赤く腫れた頬を熱そうにこすった。

 「もう手遅れだ、ってわかったら、なんか可笑しくなっちゃってさ……。殴られたことで、少し頭が冷えたかも」

 そう言って、長いため息を吐き出す。

 「理人君に近づいたのは、目的のためだけだったの? 彼について、思ってたことを聞かせて」

 またカッとなって、手を出さないように、一歩分距離を取って訊く。

 「あいつは、ただの道具だよ。それ以上でも、それ以下でもない。使えなかったら、捨てるだけ。ネットで、誑かし込めそうなのを漁ってたら、見つけたんだ」

 樹里亜にとって理人君は、ほんの一言で済ませられる存在だった。
 幸のときみたいに、苛立ちを語るわけでもない。まったく関心がない様子だった。
 樹里亜は、その話題には興味がない、という風に、退屈そうに爪をいじり出す。

 「あとは――そうだね。私がマミの筆跡を真似て書いたものは、もう見たかな?」
 「それなら、ここにある」

 ポケットから、折り畳んだ紙を取り出して掲げると、「そう、それ」と頷く。

 「マミがあの日、どうしてか目覚めちゃったみたいで、私の計画に勘づいて――でも他言はせずに、まず私に確かめよう、と思ってくれたから、まだ立て直せる、って思った」

 自白の機会を与えられたのに、樹里亜はそれを拒んだ。それどころか、さらに罪を重ねようとした。

 「それで偽の遺書を書いたんだ。マミが息絶えた頃を見計らって、家に行くつもりだった。縛られてるところを発見されたら、自殺として認められないからね」

 恐ろしいことを、淡々と話す樹里亜。そして、
 「まあ、発見されちゃったけど」
 と、残念そうに肩をすくめた。

 「マミのこと、どう思ってたの?」
 そのことも気になっていた。

 樹里亜にとって、マミはどういう存在だったのだろう。
 理人君と同じ、道具としてしか見てなかったのか。多少なりとも後輩として認めていたのか。

 「マミのことは、初めて会った時から、いいなって思ってたよ。すごく利用しやすそうな子だって」
 「利用?」
 「良くも悪くも純粋そうでさ。一度懐に入れば、どんなことでも信じちゃいそうな感じ。ああいうのに、常に肯定してもらえれば、気分良いだろうなぁ、って思った」

 見下したように話す樹里亜を見て、ファミレスでの、嬉しそうなマミの顔がちらついて、胸がチリッと痛む。

 「……マミが前に話してたんです。あなたと仲良くなったきっかけについて。中学の時に、部活内のいさかいを格好よく収めてくれたんだ、って。ハブられてた自分に、すごく親身になってくれたんだ、って」

 自慢げに言ってた、と付け加える。

 「ああ、それね」
 樹里亜が、くつくつと笑う。

 「実は私が、部員たちにマミを無視するように言ったの。そんで落ち込んでるところを慰めて、解決のために動いたように思わせたら、絶対に感謝するでしょ?」

 手品の種明かしをするみたいに、どこか得意げに話す彼女を見て、私は樹里亜という人間の一端を、完全に理解する。

 この人は、他人を操って良いようにすることに、躊躇いが一切ない。
 理人君が画面越しの人物だったから、非情になれたとか、幸が邪魔だったから、気は進まないけど、殺そうとした、とかではないのだ。
 樹里亜にとって、他人を血の通った人間として扱うことはなかった。

 「幸に思ってたことは、大体さっき言ったことが全部だよ。ただ血が繋がってるだけの間柄。まあ、どちらかと言えば、嫌いだったかな。こっちと話したそうに、そわそわしてるのとか、わりとうざかった。興味もなかったから、そこまで強い嫌悪感も沸かなかったけど」

 樹里亜が喋る気に食わない話にも、平手打ちした時ほどの強い怒りは、もう感じなかった。

 「自分のことしか、好きじゃないんだね、あんたは」
 「そんなことないよ」

 口を衝いて出た言葉を、樹里亜がすかさず否定した。

 「私が人殺しをしよう、って迷わずに決断できたのは、その裏に愛があったからなんだよ」

 樹里亜の瞳が、急にキラキラと輝き出す。
 それまでの、滑稽な事柄をせせら笑う感じではなく、テレビの中のヒーローに夢中になる子どものような、ピュアな眼差しに変わっていた。

 「大和を愛してるから、ここまでやったの。彼との幸せな生活のために、使えるものは全部使って、リスクも背負った」

 彼女は、そう言って、愛しそうにソファーをゆっくりと撫でた。

 「これに二人で座ってる時にね、大和にプロポーズされたんだ。なんて言葉だったと思う?」

 そんなのどうでもいい。真っ先にそう思ったけれど、声にはならなかった。
 唖然としている私を置き去りにして、樹里亜は続ける。私の返答など、最初から求めていないようだった。

 「『君は、僕の運命の人だと思う。僕と結婚したいと思ってくれるだろうか』って。そんなの決まってるじゃん」

 「むしろ、私でいいの? って感じだった」と付け加える。

 樹里亜は、嬉しそうに身をくねらせながら、どんどん喋る。

 「私は、こう言ったの。『私も、運命だと思う。大和と結婚したい。大和となら、理想の家庭を築けるって信じてる』ってね」

 熱が入った語りを、うんざりした目で眺める。
 ちょっと前までの怯えていた自分が馬鹿らしくなった。

 何てことはない。薄井樹里亜は、恋に狂った愚かな女でしかなかったのだ。よくよく考えてみれば彼女の計画も、狡猾に見えて爪の甘いところがいくつもあった。
 張りつめていた神経に、少し余裕が生まれてくる。

 「大和さんが、あんたのやったことを知ったら、きっと百年の恋も冷めるね」

 現実に引き戻そうとする私に、「ううん。私たちなら大丈夫」と自信たっぷりに首を振る。

 「大和は、私がどんな人間だったとしても、かまわない、って言ってくれたんだもの。私が、しばらく刑務所に入ることになっても、いつまでも待ち続けてくれる」

 そう言って、胸に手を置く。

 「悠ちゃんたちに、全部バレちゃったのは、痛手だけど、どうなっても私には、大和がいてくれる。彼がずっと一途に思ってくれるなら、耐えられる」

 ねぇ、と樹里亜は、私を見る。

 「大和は今日、友達と会う約束をしてる。昨日、彼の後ろを通った時に、スマホのカレンダーが見えたの。ここから三分くらい歩いたところにある三角公園で、14時に待ち合わせ、って書いてあった。ねぇ、お願い」

 しおらしく、頭を下げてくる。

 「警察に自首しに行く前に、彼に会わせて」

 私が黙っていると、樹里亜はますます深く頭を下げた。つい数分前の様子からは、想像つかない状況に、私はたじろく。
 それだけ大和さんのことを、想っているのだとわかった。

 「わかった。どうせもう逃げられないしね。でも念のため私もついていくからね」
 「ありがとう」

 許可が出ると、樹里亜は「じゃあ急いで行くよ」ときびきびと玄関へ向かう。

 時刻は、13時58分を示していた。
 早くしないと、大和さんが友達と、公園の外へ出てしまう。あるいは、もう出ているかもしれない。

 慌てて、樹里亜の後を追った。