「たぁくん、私と結婚しよう」
18歳の誕生日、彼女は僕にそう告げた。
「……え?」
思いもよらぬ申し出に、僕の箸から唐揚げがポトリと落ちる。
「私ね、予知夢を見たの。たぁくんと私が結婚して、幸せになる未来」
美雨が声を弾ませる。
美雨は僕の幼馴染だ。いや、恋人と呼ばないと怒られるか。
※
「私ね、予知夢を見たの。たぁくんと私が付き合って、幸せになる未来」
それが美雨からの告白の言葉だった。
美雨はクラスで浮いていた。女子たちに言わせると、いつも「予知夢が見える」と言う美雨は「不思議ちゃん」なんだそうだ。
弁当を食べるときも一人、移動教室のときも一人、下校するときも一人。
せっかくなら、その「予知夢が見える」キャラをいかして、もっと周りに溶け込めばいいのにと思うのに、彼女はそうしない。
キラキラした髪の毛を耳にかけ、颯爽と歩く彼女の姿は、「孤高」という言葉がぴったりだった。
そんな「孤高」の美雨から告白されたとき、正直僕は驚きを隠せなかった。
美雨とは保育園のときからの付き合いだけど、僕に恋愛感情を抱いているようには見えなかったから。
半ば強引にはじまった僕達の恋人関係は、それなりに上手くいった。
付き合ってみると、今まで知らなかった美雨の一面が見えて、どんどん好きになった。
美雨は、優しい。
足元に小さな花が咲いていたら、踏まないようにぴょんと飛び越す。
散歩中の犬に、小さく手を振る。
そして、可愛い。
文房具はラベンダー色で統一されていて、授業中にこっそりたまごっちを育てている。
更に、抜けた部分もある。
「ちょっと失敗しちゃった」と渡されたバレンタインのブラウニーは、焦げて苦みが増していた。
一緒に笑って、一緒に食べた。
付き合って1年後には、僕の隣に美雨がいるのが当たり前になって、2年後には穏やかな時間が流れるのが心地よくなっていった。
そして3年後の今日、僕は美雨にプロポーズされている。
僕は、思わず頷いていた。
※
ダイヤの指輪も、結婚式も、新婚旅行も何もなかった。
高校を卒業した僕達は、小さな部屋を借りて、そこに住み始めた。
ただ、それだけ。
美雨は建築会社で事務員として働き始め、僕は昼は福祉系の専門学校に通って、夜は居酒屋でバイトした。
平穏で、静かな日々だった。
「たぁくんの目、濁ってない?」
結婚してから2年くらい経ったある日、美雨は僕の目を覗き込んでそう言った。
「何それ、僕が大人になってピュアさを失ったとか、そういうこと?」
僕は茶化して笑ったけど、美雨は笑っていなかった。
いつになく真剣な顔をしながら、彼女は僕の目じりに触れる。
小さくて冷たい手が、心なしか震えている。
「やっぱり、何かヘン」
「そんなはず……」
僕はヘラヘラと否定しながら、スマホのインカメラを起動させた。
真っ黒だったはずの僕の目に、ぼんやりとした霞のような薄いモヤが張り付いている。
何だ、これ。
アレルギーか?
それともコンタクトつけっぱなしで寝たのがいけなかったのか?
ゴシゴシと目をこすっても、目薬をさしてみても、モヤは消えない。
「病院、行った方がいいよ」
美雨に促され、僕はそのままスマホで眼科を予約した。
※
「このままでは、失明します」
失明、という、ドラマでしか聞いたことがないセリフを自分ごととして理解できるまで、数秒要した。
医師が何か難しい病名を言ってたけど、一文字たりとも頭に入ってこない。
ただ、これからどんどん視力が悪くなって、最終的には目が見えなくなる、ということだけは分かった。
どうして僕が、
どうして僕がこんな目に合わなくちゃいけないんだ。
失明したら、何も見えなくなる。空の青さも、やさしい木漏れ日も、星影の美しさも。それに、美雨の顔も。
僕は力なく立ち上がり、看護士さんに支えられながら会計を済ませた。
病院を出たあと、僕は公園のベンチに座り込んだ。
足元で舞っている夕焼け色の落ち葉。つやのあるどんぐり。
僕の汚れたスニーカー。
何てことない日常の風景が、闇と化してしまう日が、一歩一歩近づいてきているのだ。
「くそっ」
僕は、思わず声をあげた。
どんなに涙を流しても、目の表面にこびりついた白いモヤは消えることはない。
どれくらいそうしていただろうか。
辺りはすっかり暗くなっていた。
スマホには、美雨からの着信履歴が大量に残っていた。
スマホの待ち受け画面には、能天気に笑う僕と、ふっくらと膨らんだお腹を撫でる美雨がいた。
もし今僕が病気のことを美雨に打ち明けたら?
きっと美雨はひどく動揺するに違いない。
「美雨には、心配かけられない」
美雨のお腹には今、赤ちゃんがいる。
僕は、病気のことを心にしまっておくことに決めた。少なくとも子どもが生まれるまでは。
※
生まれた赤ちゃんは、「美陽」と名付けた。
美雨が美しい雨なら、娘は美しい太陽だ。
2人とも、僕にとってかけがえのない宝物。
「本当に、可愛い」
「そうだね」
……と答えたものの、僕の目はもうほとんど見えなくなっていた。
ぼんやりとしたベージュの塊。その塊に触れると、あたたかい。
顔を近づけると、ほんのりとミルクの匂いがする。
彼女がどんな顔をしているのか、どんな表情をしているのか、僕にはもう分からないけど、きっと世界で一番美しいんだと思う。
「あのさ、僕……」
僕は、目のことを美雨に打ち明けた。
美雨の動きが一瞬とまったのが分かった。
美雨は、「知ってたよ」とだけ言った。
「私が美陽を生むまで黙っててくれたんだよね。一人で抱えさせて、ごめんね。つらかったよね」
優しい雨のように、美雨の言葉が心にしみていく。
「一緒に、頑張ろう。ね?」
小さい手が、僕の背中をなでる。
「たぁくんは絶対に大丈夫。私、予知夢で見たの。たぁくんの幸せな未来が」
本当かウソか分からない「予知夢」。
これはきっと美雨が僕をなぐさめるためについたウソ。
でも、そんな美雨が愛しい。
僕は、声をあげずに泣いていた。
※
美雨が死んだと連絡を受けたのは、美陽が3歳になって間もなくの頃だった。
抜け殻のようになった僕は、通夜も、葬式も、どんなだったか記憶がない。
母親を求めて泣きじゃくる美陽を必死で抱きしめて一緒に泣いていたら、全てが終わってしまっていたから。
誰もいなくなった葬儀場で、僕のスマホが震えた。
病院からだった。
正直今は、僕の病気のことなんてどうでもよかった。
でも、僕の担当医師はそれを許さず、明日の朝一番で病院に来るように指示された。
角膜のドナーが見つかったらしい。
手術がうまくいけば、僕の目は再び見えるようになるとも言われた。
光が差した気がした。
美雨亡き今、僕一人で美陽を育てていかなくちゃならない。
もし目が見えたら、仕事の幅も広がるし、家事も育児も今よりは確実にできるようになる。
死んだ美雨に僕ができること。それは美陽を大人になるまで育て上げることしかない。
僕は、「絶対に行きます」と返事をした。
※
手術は成功して、僕は美陽が待つアパートに戻った。
最初はぼんやりとした光だけだったのが、日を経つごとにはっきりと見えるようになってきた。
世界がこんなにも色鮮やかだったことを思い出し、美陽が美雨そっくりの顔をしていることを初めて知った。
「パパ、よかったね」
美陽が僕の目じりに小さな小さな手をあてた。
「ママも、よかったね」
美雨と同じ笑い方で、美陽が笑った。
「ママね、美陽に教えてくれたの。ママの目は、パパの目になるんだって。『よちむ』で見たんだって」
予知夢?
美雨の目が僕の目に?
「まさか……」
僕は美雨の財布から、彼女のマイナンバーカードを取り出した。
そこには、臓器提供の意思表示をする、にマルがつけられていた。
聞いたことがある。
臓器提供は親族を優先することができる、ということを。
「美雨の予知夢は本当だったんだ」
彼女は、僕の目が見えなくなることも、自分が死ぬことも知ってたんだ。
だから僕と結婚して、僕に眼をくれたんだ。
僕は、美陽を抱きしめて、泣いた。
18歳の誕生日、彼女は僕にそう告げた。
「……え?」
思いもよらぬ申し出に、僕の箸から唐揚げがポトリと落ちる。
「私ね、予知夢を見たの。たぁくんと私が結婚して、幸せになる未来」
美雨が声を弾ませる。
美雨は僕の幼馴染だ。いや、恋人と呼ばないと怒られるか。
※
「私ね、予知夢を見たの。たぁくんと私が付き合って、幸せになる未来」
それが美雨からの告白の言葉だった。
美雨はクラスで浮いていた。女子たちに言わせると、いつも「予知夢が見える」と言う美雨は「不思議ちゃん」なんだそうだ。
弁当を食べるときも一人、移動教室のときも一人、下校するときも一人。
せっかくなら、その「予知夢が見える」キャラをいかして、もっと周りに溶け込めばいいのにと思うのに、彼女はそうしない。
キラキラした髪の毛を耳にかけ、颯爽と歩く彼女の姿は、「孤高」という言葉がぴったりだった。
そんな「孤高」の美雨から告白されたとき、正直僕は驚きを隠せなかった。
美雨とは保育園のときからの付き合いだけど、僕に恋愛感情を抱いているようには見えなかったから。
半ば強引にはじまった僕達の恋人関係は、それなりに上手くいった。
付き合ってみると、今まで知らなかった美雨の一面が見えて、どんどん好きになった。
美雨は、優しい。
足元に小さな花が咲いていたら、踏まないようにぴょんと飛び越す。
散歩中の犬に、小さく手を振る。
そして、可愛い。
文房具はラベンダー色で統一されていて、授業中にこっそりたまごっちを育てている。
更に、抜けた部分もある。
「ちょっと失敗しちゃった」と渡されたバレンタインのブラウニーは、焦げて苦みが増していた。
一緒に笑って、一緒に食べた。
付き合って1年後には、僕の隣に美雨がいるのが当たり前になって、2年後には穏やかな時間が流れるのが心地よくなっていった。
そして3年後の今日、僕は美雨にプロポーズされている。
僕は、思わず頷いていた。
※
ダイヤの指輪も、結婚式も、新婚旅行も何もなかった。
高校を卒業した僕達は、小さな部屋を借りて、そこに住み始めた。
ただ、それだけ。
美雨は建築会社で事務員として働き始め、僕は昼は福祉系の専門学校に通って、夜は居酒屋でバイトした。
平穏で、静かな日々だった。
「たぁくんの目、濁ってない?」
結婚してから2年くらい経ったある日、美雨は僕の目を覗き込んでそう言った。
「何それ、僕が大人になってピュアさを失ったとか、そういうこと?」
僕は茶化して笑ったけど、美雨は笑っていなかった。
いつになく真剣な顔をしながら、彼女は僕の目じりに触れる。
小さくて冷たい手が、心なしか震えている。
「やっぱり、何かヘン」
「そんなはず……」
僕はヘラヘラと否定しながら、スマホのインカメラを起動させた。
真っ黒だったはずの僕の目に、ぼんやりとした霞のような薄いモヤが張り付いている。
何だ、これ。
アレルギーか?
それともコンタクトつけっぱなしで寝たのがいけなかったのか?
ゴシゴシと目をこすっても、目薬をさしてみても、モヤは消えない。
「病院、行った方がいいよ」
美雨に促され、僕はそのままスマホで眼科を予約した。
※
「このままでは、失明します」
失明、という、ドラマでしか聞いたことがないセリフを自分ごととして理解できるまで、数秒要した。
医師が何か難しい病名を言ってたけど、一文字たりとも頭に入ってこない。
ただ、これからどんどん視力が悪くなって、最終的には目が見えなくなる、ということだけは分かった。
どうして僕が、
どうして僕がこんな目に合わなくちゃいけないんだ。
失明したら、何も見えなくなる。空の青さも、やさしい木漏れ日も、星影の美しさも。それに、美雨の顔も。
僕は力なく立ち上がり、看護士さんに支えられながら会計を済ませた。
病院を出たあと、僕は公園のベンチに座り込んだ。
足元で舞っている夕焼け色の落ち葉。つやのあるどんぐり。
僕の汚れたスニーカー。
何てことない日常の風景が、闇と化してしまう日が、一歩一歩近づいてきているのだ。
「くそっ」
僕は、思わず声をあげた。
どんなに涙を流しても、目の表面にこびりついた白いモヤは消えることはない。
どれくらいそうしていただろうか。
辺りはすっかり暗くなっていた。
スマホには、美雨からの着信履歴が大量に残っていた。
スマホの待ち受け画面には、能天気に笑う僕と、ふっくらと膨らんだお腹を撫でる美雨がいた。
もし今僕が病気のことを美雨に打ち明けたら?
きっと美雨はひどく動揺するに違いない。
「美雨には、心配かけられない」
美雨のお腹には今、赤ちゃんがいる。
僕は、病気のことを心にしまっておくことに決めた。少なくとも子どもが生まれるまでは。
※
生まれた赤ちゃんは、「美陽」と名付けた。
美雨が美しい雨なら、娘は美しい太陽だ。
2人とも、僕にとってかけがえのない宝物。
「本当に、可愛い」
「そうだね」
……と答えたものの、僕の目はもうほとんど見えなくなっていた。
ぼんやりとしたベージュの塊。その塊に触れると、あたたかい。
顔を近づけると、ほんのりとミルクの匂いがする。
彼女がどんな顔をしているのか、どんな表情をしているのか、僕にはもう分からないけど、きっと世界で一番美しいんだと思う。
「あのさ、僕……」
僕は、目のことを美雨に打ち明けた。
美雨の動きが一瞬とまったのが分かった。
美雨は、「知ってたよ」とだけ言った。
「私が美陽を生むまで黙っててくれたんだよね。一人で抱えさせて、ごめんね。つらかったよね」
優しい雨のように、美雨の言葉が心にしみていく。
「一緒に、頑張ろう。ね?」
小さい手が、僕の背中をなでる。
「たぁくんは絶対に大丈夫。私、予知夢で見たの。たぁくんの幸せな未来が」
本当かウソか分からない「予知夢」。
これはきっと美雨が僕をなぐさめるためについたウソ。
でも、そんな美雨が愛しい。
僕は、声をあげずに泣いていた。
※
美雨が死んだと連絡を受けたのは、美陽が3歳になって間もなくの頃だった。
抜け殻のようになった僕は、通夜も、葬式も、どんなだったか記憶がない。
母親を求めて泣きじゃくる美陽を必死で抱きしめて一緒に泣いていたら、全てが終わってしまっていたから。
誰もいなくなった葬儀場で、僕のスマホが震えた。
病院からだった。
正直今は、僕の病気のことなんてどうでもよかった。
でも、僕の担当医師はそれを許さず、明日の朝一番で病院に来るように指示された。
角膜のドナーが見つかったらしい。
手術がうまくいけば、僕の目は再び見えるようになるとも言われた。
光が差した気がした。
美雨亡き今、僕一人で美陽を育てていかなくちゃならない。
もし目が見えたら、仕事の幅も広がるし、家事も育児も今よりは確実にできるようになる。
死んだ美雨に僕ができること。それは美陽を大人になるまで育て上げることしかない。
僕は、「絶対に行きます」と返事をした。
※
手術は成功して、僕は美陽が待つアパートに戻った。
最初はぼんやりとした光だけだったのが、日を経つごとにはっきりと見えるようになってきた。
世界がこんなにも色鮮やかだったことを思い出し、美陽が美雨そっくりの顔をしていることを初めて知った。
「パパ、よかったね」
美陽が僕の目じりに小さな小さな手をあてた。
「ママも、よかったね」
美雨と同じ笑い方で、美陽が笑った。
「ママね、美陽に教えてくれたの。ママの目は、パパの目になるんだって。『よちむ』で見たんだって」
予知夢?
美雨の目が僕の目に?
「まさか……」
僕は美雨の財布から、彼女のマイナンバーカードを取り出した。
そこには、臓器提供の意思表示をする、にマルがつけられていた。
聞いたことがある。
臓器提供は親族を優先することができる、ということを。
「美雨の予知夢は本当だったんだ」
彼女は、僕の目が見えなくなることも、自分が死ぬことも知ってたんだ。
だから僕と結婚して、僕に眼をくれたんだ。
僕は、美陽を抱きしめて、泣いた。