どうやって家に帰ってきたかよく覚えていない。買ったばかりのネックレスをソファーに八つ当たりの様に投げつけて、ベッドに横になる。どうせ明日は休みだし、何も考えずにただただ眠ってしまいたかった。
 だけど、ジクジクと痛む胸はいつまでも私を寝かせてくれない。今頃、及川先輩は私の知らない誰かとデートでもしてるのかなとか考えてしまって、なおさら辛くなった。
 気がついたら、ヘッドマウントディスプレイに手を伸ばしていた。「ぺるそな」のロビー画面にアワキさんのアバターを見つけて迷わずにコールする。幸いすぐにつながって、視界がグルリと切り替わる。ラベンダーの花畑に満開の星空。そんな世界でアワキさんのアバターがポツリとしゃがみ込んでいた。
「……アワキさん?」
 いつもと違うアワキさんの様子にそっと声をかけると、そこでようやく私に気づいたようでハッと顔を上げて立ち上がった。すぐにいつものような穏やかな笑みが浮かぶけど、その直前、思いつめたような表情がちらりと見えた。
「何かあったんですか?」
 アワキさんは困ったように笑って、それから小さく息をつく。
「実は今日でこのバイト終わりなんだ」
「えっ」
「ちょっとだけ、何のためにバイト始めたんだっけとか色々考えてて」
 アワキさんは小さく目を閉じて、それからへらっとイタズラっぽい笑顔を作る。
「多分、キサラギさんが最後のお客さんだから。話したいことがあったら何でも聞くよ」
 後腐れないからさ、と笑うアワキさんに突き放されたような気がして。だけど、今はそれ以上に胸の奥底に溜まったものを吐き出したかった。その意味では、後腐れないという言葉はむしろありがたかった。
「じゃあ、今から話すことはこの世界に全て置いていってください」
 こくりとアワキさんが頷く。
「私、今日初めて人を好きになって。初めて失恋したんです」
 及川先輩が誰かと付き合っている気配を感じて、気づいてしまった。とっくに及川先輩に惚れていた。ぶっきらぼうで不愛想だけど、あの部室でのひと時がたまらなく好きだった。
「単に気の置けない人だと思ってました。その人の隣に私がいないって知って、初めて気づいたんです」
 目を閉じると部室での光景が目に浮かぶ。これまでと、さっき。両方とも。
「多分その人は、私の為に会う時間を無理して作ってくれてたのに。ひどいこと言っちゃって。でもやっぱり認められなくて……」
 ポンと肩に手を置かれる。もちろん触感はないけど、不思議と温かさを感じた。
「キサラギさんは優しい人だね」
「えっ?」
「自分だって傷ついてるはずなのに、人を傷つけたことを気にしてて。失恋した時くらい、全部相手のせいだってくらい思ってもいいのに」
 そんな慰めの言葉とともにアワキさんが優しく笑う。アバターが作り出す実体のない笑顔のはずなのに、目を離せないくらい惹き付けられた。
「そんなキサラギさんにふさわしい相手がちゃんと見つかるはずだから。だから、今は思いっきり泣いて全部流し出して。気が済んだらきっと違った明日が来るはずだから」
 その言葉に導かれるようにポロリと涙がこぼれて、その一滴で決壊したようにとめどなく溢れだしていく。そこには寂しさとか切なさとか、ちょっとした悔しさとか恨めしさも全部全部混ざっていて。
 アワキさんはただ黙って私が泣き止むまで寄り添ってくれていた。それが何よりありがたくて、だけどそれも今日でお終いと思うと少しだけ寂しかった。
「ありがとうございます。少し、スッキリしました」
「お役に立てたならよかった」
「この調子であんな先輩のことなんて全部忘れちゃおうと思います」
 うまく私は笑えているだろうか。声色から勝手に表情を作るAIが今は恨めしい。
――それに本当は。
 もっとアワキさんと触れあってみたいという想いが湧き上がっていた。アワキさんも先輩と同じくらい話していて楽で。それが仕事なのかもしれないけど、私を受け入れてくれて、立ち上がる勇気を与えてくれる。
 きっと好きになるだろう。そんな予感がした。だけど、少しズキリとして。それはヒビだらけの罪悪感の形をしていた。
「へえ。相手の人、先輩なんだ」
「はい。何か陸上バカって感じの先輩で。人間なんて興味なさそうなのに心理学とか専攻してて、時々妙に察しがよくて……それで、私は……」
 ああ、まだダメだった。思い出すと切なさが無尽蔵に込み上げてくる。
 それより、もう時間がほとんど残ってないし、アワキさんにこれまでの御礼を伝えよう。規約上、アワキさんとリアルで会うことは出来ないからこれでお別れになってしまうけど、アワキさんがいたから私はまた前を向ける。
 だけど、アワキさんの表情が固まっていた。
「まさか、そんなことって……」
「あの、アワキさん?」
「でも、そうだとしか思えない」
 アワキさんは私の存在を忘れたかのように呟いていく。そうしているうちに右上のカウンターの残りがどんどん減っていく。
 ハッとしたようにアワキさんが私と向き合うとすっと耳元に顔を寄せられた。ドキリとする間もなく時間が過ぎて、星空の世界が消えてロビー画面に戻される。
 ただ一言、耳元で最後に聞こえたアワキさんの言葉がずっと残っていた。

――明日の昼、いつもの駅前で