一人で部室に残っていても仕方ないから、簡単に片づけをして私も部室を後にした。
 学生向けのマンションに帰って諸々を済ませて人心地着くと、急に物足りなさが湧き上がってくる。理由はわかっている。このところ及川先輩と話す時間がめっきり減っていた。それはそのまま一日のうちに人と話す時間が半分くらいになることにつながっていた。
 誰かと話したいという欲求がふつふつと胸の中で渦巻いている。
「……今日も使っちゃおう」
 部屋の片隅に置いているゴーグル型のヘッドマウントディスプレイを身に着ける。電源を付けると視界にバーチャル上の世界が浮かび上がった。ロビー画面につながり、いくつかのアバターが浮かび上がる。
 アバターはリアリティのあるものからアニメのキャラクター風のものまで様々で、各アバターには金額が書かれている。お目当てのアバターを見つけて選択ボタンを押すと、「呼び出し中」というアイコンが表示され、間もなく世界が切り替わった。
 夕暮れ時の教室。私のアバターは知らない高校の制服に身を包んで席についている。ガラリと教室のドアが開き、入ってきたのはさっき選んだ男性のアバターで、ちょっと洒落た学ランを着ていた。
「いらっしゃい、キサラギさん」
「すみません、アワキさん。また来ちゃいました」
 男性のアバター――アワキさんは穏やかに笑うと私の前の席に座り、机越しに向き合う。視界の右上に60分のタイマーの表示が浮かび、カウントダウンが始まった。
 VRチャットツール「ぺるそな」。文字通りバーチャル空間上で会話を楽しめるアプリだけど、友人や見知らぬ人との交流だけじゃなく、有料のサービスで公式が認定した相手としゃべることもできる。
 目の前にいるアワキさんはそんな有料アバターの一人だった。初めてぺるそなにログインした時に選んだ人で、選んだ理由は値段が安い――人気とかで金額が変わる――からだったけど、すっかり常連になってしまった。当時のアワキさんはバイトとして始めたばかりで、私が一番最初のお客さんだったらしい。
「さては、何か嫌なことでもあった?」
 アワキさんは心配するように首をかしげる。AIが声を分析して表情にフィードバックしているとかで、時々リアルで話しているように錯覚してしまうことがある。
「そういうわけじゃないんですけど、誰かと話したくなったというか……」
 耳元に聞こえる私の声は普段の私の声と違いお淑やかだ。声もアバターも自由に設定できるから、私のアバターは現実とは真逆のお淑やかなキャラクターにしていた。その意味では、目の前のアワキさんが本当に男性なのかもわからない。だけど、ただ誰かと話したくて始めた私には別にどっちでもよかった。
「それなら、メラビアンの法則について話してみようか」
「うへ、難しそう。なんですかそれ」
「話す内容よりも、表情とか仕草とかの方が大事って法則」
 アワキさんがどこまで意図したかはわからないけど、別に話す内容は何でもよくて、誰かと話したい私にはぴったりの話題なのかもしれない。自分の中にこんなにも誰かと話したいという欲求があるとは思っていなかった。
 陸上の名門と呼ばれる高校で陸上漬けの日々を過ごし、それですっかり燃え尽きた。大学ではそこそこ走れればいいと思って陸上では無名のところに進学したけど、私とチームメイトではそこそこにも差があっていつの間にか壁ができていた。
 高校まで陸上を中心に人間関係を構築してきた私はそれで調子が狂ってしまって、気づけば話し相手もいなくなっていた。
「キサラギさんの周りには、言ってることと表情が違う人っている?」
「一人、凄い思い当たる人がいます」
 アワキさんの言葉に及川先輩の顔が思い浮かぶ。あの人、私のことを褒める時は面倒くさそうな顔をするし、励ますときは不愛想な顔をする。そもそも笑ったりしてる顔をあまり見たことがないのだけど。
 それでも、及川先輩は不思議と話しやすい人だった。出会った当時及川先輩は3年生だったけど、部内では珍しく陸上に打ち込んでいるタイプで。だから私と同じように周囲から少し浮いていた。その上、ぶっきらぼうな態度だから下級生は先輩のことをビビっていた。
 だけど、実際に話してみると不愛想なだけでいくらでもくだらない話に付き合ってくれて、真面目な陸上の話も日常のくだらない話もあれこれ聞いてくれた。いつの間にか練習後には及川先輩がいる部室に顔を出して、飽きるまで話すことが日課になっていた。
「最近は、殆ど話す機会がないんですけどね」
 及川先輩の就活が終わってしばらくはそんな風に過ごしていたけど、最近は卒論が忙しいとかで部室にいる時間は僅かになっていた。しょうがないことだと思う。だけど、誰かと話したいという欲求だけがぽっかりと残ってしまった。
「それで、僕が替わりを務めているってわけだね」
「べ、別に替わりってわけじゃ!」
「いいのいいの。それでキサラギさんが少しでも気持ちよく明日を迎えられるなら」
 アワキさんがふわりと笑って、息が詰まる。ぎゅっと胸が苦しくなる。そして、なぜだかほんの少しの罪悪感がチクリと胸の奥をつく。
「おっと、もう時間か。じゃあキサラギさん、また話したくなったらいつでも来てね」
「あっ、あの。アワキさ――」
 話しかける途中で右上のカウントダウンが0になり、そのままロビー画面に戻される。くたりと力が抜けてしまって、ヘッドマウントディスプレイを外すと無機質な自分の部屋に返ってきた。
――私は最後、アワキさんに何を言おうとしたのだろう。