「奢ってあげるよー」
 満里奈がにこにこ笑った。
「そんな顔しないでよー。いいじゃん、たまには」
 俺の暗い顔を見て、満里奈は背中をばんばん叩いた。
 今朝、実家に行った。本を何冊か取りに行こうと思ったのだ。まさしには「ブチョウノバーカ」ではなく、美しい言葉を覚えさせたい。そう思ったのだが、タイミングが悪かった。
 父さんがまだ出社していなかったのだ。
「は? 本? お前はほんと暗いやつだな。少しは若者らしく体を動かしたらどうだ」
 俺は父さんが苦手だった。仕事、仕事、仕事でいつも忙しくしていてキャッチボール等で遊んでもらった覚えもない。母さんも仕事が忙しかったから家でおとなしく本を読んでいる我ながらいい子だったのに。
「だからお前はどんくさいんだよ」
 家のことを何一つやらないくせに、口だけはいっちょ前だ。俺は口を噤んだ。
「あなた、あたしの人生に邪魔。遼一の教育にも良くない」
 俺が十歳の時、母さんは父さんにそう告げて俺の手を引いて実家に帰った。が、一年もしない家交通事故で亡くなり、俺は再び父さんと暮らすことになった。
 父親はそれから反省したらしい。今の家庭ではとてもいい夫なのだが。
「お前はほんとどんくさいな!」
 俺の顔を見ると、元に戻ってしまうらしい。迷惑な話だ。
 今じいちゃんがひょっこり遊びに来ていたら、俺になんと言っただろう。
「多めに見てやれ! 今さら息子に対する態度を変えられないんだろうよ! 年を取ると性格を変えるのは難しいってもんだ!」
 自信家のくせに面倒ごとが嫌いな適当人間じいちゃんはこう言ったかもしれない。そう言われると俺も「ちっ、困った父さんだぜ。まさしじいちゃんの顔に免じて許してやるか」と心が軽くなったものだ。
 が、今朝じいちゃんの代わりに実家に遊びに来ていたのは満里奈だった。
「俺、年下の未就労者の女の子に奢られるとか、みじめすぎね?」
 暗くなっていると、満里奈は「いいじゃん、いいじゃん」と笑った。
「だって、今日のりょーちゃん見てられなくて。あたしが守ってあげなきゃーって」
「やめてくれよ、よけいみじめだろ」
 そう言いつつも、気心の知れた人間とご飯でも食べて気晴らしをしたかった。会計の時に「別々で」と言えばよいだろう。「俺が出す」と言うと嫌がるのだ、満里奈は。
 満里奈はまさしに向かってグーを出した。
「まさし。あたしがいない時はりょーちゃんを頼んだよ」
 まさしは神妙な顔で頷き、かろうじてグーっぽい手を上げた。
「あ、れ……? 高林くん?」
 向かいからやって来た女性には見覚えがある。会社の先輩の加山さんだ。
 今日はよく人に遭遇する日だな。俺はぼんやりと思いつつ会釈をした。そのまま通り過ぎようとすると、加山さんがくいっと俺の袖を掴んだ。俺は不審に思って加山さんを見た。「何か?」
 すると加山さんの目は俺の隣に注がれていた。まさしではない。満里奈だ。
「えっと……彼女さん?」
 探るように問われる。俺はこの妙にシナを作ってくる加山さんが苦手だった。
「いえ、叔母です。母の妹……」
 加山さんはぱっと顔を明るくした。
「えっ、あっ、そうなの! ずいぶん若く見えたから! やだ、あたしったらてっきり! 叔母さん、まだ全然二十代くらいに見えるわよ!」
 隣から冷気が立った、気がした。
 まだ二十代に突入したばかりの満里奈は、おばさん呼ばわりされ真顔になっていた。怖い。
「わうう……」
 まさしは場の雰囲気を変えようと思ったのか、俺たちの周りをうろうろし始めた。そのまさしがピンと背筋を伸ばし、道の先を見た。
「お! 人面犬か!」
 こいつには会いたくなかった。
「部長……」
 俺は悟った。今日の射手座はきっと「街に出ると、意外な人に会えちゃうかも!?」だ。 いかにもこれから接待ゴルフですという格好をした部長は嬉々としてこちらにやってきた。
「はっ! 加山くん」
 人面犬の次に気付いたのは加山さん。そして次に俺に気付いた。
「なんだなんだ、高林くん、君の人面犬かね? たいした稼ぎもないくせに、ったく、近頃の若いモンは」
「え!? ほんとだ、人面犬ね」
 今頃それに気付いた加山さんはある意味すごい。
 部長はぶつぶつ言いながらも人面犬に対する興味は抑えられないらしい。まさしの前にしゃがみこんだ。
「何かしゃべってみろ」
 にこにこしてはいるが、命令口調だ。まさしは聞こえないふりをしているようだった。かしかしと後ろ足で頭を搔いている。
「ったく、飼い主に似て鈍くさいな!」
 まさしと満里奈の顔が同時に引きつった。加山さんはまさしを見下ろしながら首を傾げた。
「まだ言葉を覚えてないのでしょうか。顔は老けてるけど」
 常に一言多い加山さんはしゃがみこんだ。「インコみたいに言葉を覚えさせようかしら。……ばーか、ばーか」
 試しに言ってみたセリフがそれかよ、とおののいていると、部長は「さすがだ、加山くん!」と大きく頷いて「ばーかばーか」とまさしに向かって繰り返した。まさしの口は引きつっていた。
 ん? 何かがまずい気が。
 諦めたのか部長が立ち上がった。その瞬間、まさしが口を開いた。
 ーーまずい!
 俺はまさしの口を塞ごうと焦った。「ブチョウノバーカ」を今やられたら一巻の終わりだ!
「ーーブチョウハシゴトガデキル」
 多分、三秒くらい時が止まった。
 その沈黙を破るようにまさしは再びしゃべった。
「ブチョウノキビシサハアイノムチ。ブチョウノタメ二ガンバル。ブチョウノオカゲデス」
 次から次へと紡がれる、決して口にしたことも思ったこともない部長に対するお世辞。俺は驚いてまさしの顔を見つめた。
 すると突然、部長は笑い出した。
「はっはっは! 飼い主が日頃口にしていることを覚えてしまったというわけだな! これは照れるな!」
 そして、ちらっと加山さんの顔を見た。加山さんは何故か満里奈ばかり見ていたが。
 ひとしきり加山さんの目を気にして笑った部長ははっとして腕時計を見た。
「しまった! あのジジイは時間にうるさい!」
 そう叫ぶと、焦った様子で接待ゴルフへと向かっていった。まさしは後ろを向くと、用を足した後のようにしっしと後ろ足を蹴り上げた。
「えっと、じゃあ俺もこれで」
 俺は加山さんにそう告げると、満里奈の肩を軽く押してさっさとこの場を立ち去ろうとした。が、くいっと袖を引かれた。
 加山さんがこちらを上目遣いで見ながら瞳を潤ませていた。
「あの、高林くん、このあと、暇?」
 いや、どう見ても暇じゃないだろ、と思ったが「いや、これから満里奈と飯食いに行くんで」と答える。すると加山さんはきょとんとした。
「高林くん、叔母さんのこと呼び捨てにするのね。駄目よ、若く見えても目元の皺から見て三十歳くらいでしょ? 目上の人には……」
 満里奈の目元には笑い皺がある。俺はかわいいと思っているが、満里奈は気にしている。俺はおそるおそる満里奈のほうを見た。
「りょういち! こんな女ほっといていこっ!」
 満里奈は突然俺の腕に腕を絡めた。加勢するように、まさしは俺たちの周りをわふわふ言いながら駆け回った。
 呆然とする俺を無視して満里奈は続ける。
「ごめんなさーい。あたしたち、このあとデートなんですう!」
「え?」
 加山さんが固まった。「わう!」とまさしが加勢した。加山さんは唇を震わせた。
「え、だって、叔母さんとデートとか。近親相か……」
「いや、血は繋がってな」「二人の禁断の愛は誰にも止められないんですー!」
 叫ぶ満里奈の声に、俺の補足は消されてしまった。
 加山さんはよろめいた。
「信じられない……。高林くんがそんな人だったなんて……」
「いや、そんな人っていうか、血」「りょういちはそんな人なんですー!」「わう!」「あなたと違って、あたしはりょういちの全てを知ってますからー!」「わうん!」
「全て……」
 加山さんはスマホを取り出した。
「やだわ……。職場のグループラインで皆にこのことを報告しなきゃ……」
「え、待っ」「結婚式には職場総出で来てくださいねー!」「わう! わう!」
 満里奈に腕を、まさしにズボンの裾を引っ張られ、俺はその場を立ち去ることになった。
「俺、明日から仕事行けねえよ……」
 引っ張られて連れられた公園のベンチ。俺は頭を抱えた。
「行かなくていいよ! あんな会社やめちゃいなよ。実はずっと思ってた!」
「いや、お前、簡単に言うけどな」
「だって最近りょーちゃんおかしいもん。元気ないし! 会社のせいだよ!」
「まあ会社大変ではあるけどな。社会はそんなに甘くな……」
「ヤメチマエ」
 はっとして顔を上げる。そこでは、まさしが眉間に皺を寄せて真剣な顔をしていた。
「でも……」
「リョウイチ」
 まさしはゆっくりと口を開いた。その声はまさしじいちゃんにそっくりだった。
「アノ会社ハ駄目ダ。人間ハ思考ヲ奪ワレタラ終ワリダ」
 今までの言葉よりもはっきりと明朗な声で、まさしはそう断言した。
「でも、仕事しないと生きていけないし……」
「生キル生キナイ以前二、アソコデ仕事シテタラオマエガ壊レル」
 俺は項垂れた。
 俺も少しは思っていた。このままではダメだ、と。でも、考えようとすると頭に靄がかかってしまう。
 誰かにそばに。話を聞いて欲しい。そう思って、人面犬ショップの扉を叩いたことを思い出す。
 そばに。願わくばまさしじいちゃんにそばに。そして檄を入れて欲しかった。俺が壊れないように。
「リョウイチ、マサシガココニイタラ、同ジコトヲ言ッタト思ウゾ」
 俺は息を飲んだ。
「え。なんでまさしがまさしじいちゃんのこと……」
 おかしいとは思っていた。まさしじいちゃんとそっくりの顔、そっくりの声。俺を見つけたら喜んでくれたその態度。そして、部長を前にした時の口から出まかせの適当すぎるおべっか。
 俺はまさしの顔を見つめた。
「まさし、お前もしかして……」
 まさしは無言で頷いた。
 そうだ、認めなければいけない。あの時まさしじいちゃんは死んだんだ。そして、このまさしは……
「お前、まさしじいちゃんの生まれ変わ」「マサシヲ助ケタノハ、コノオレダカラナ!」
 まさしは胸を張った。
「……は?」