由香里さんの方は何故か俺の言葉に納得している様子でいる
「やっぱりそうなんだわ。
子供の時に受けた傷が原因で子供時代の事を忘れてしまっているのよね。
だから思い出せないんだわ。
でも大丈夫。
あなたには私がついてるんだから」と言う
「はあ、それはどういう意味なんですか?」と尋ねたが返事はない「とにかく 子供の時の事を知りたいと仰るなら、俺より詳しい人がいますよ。
俺の親父なんですがね。
その人に聞いてもらった方が良いですよ」
「うーん、それはそうかも知れないわね。
でも、あなたから直接話を聞きたかったのよ」
「俺の子供の頃の話をですか」
「ええ、そうよ」
俺は溜息をつくしかなかった。
「そう言われましてもね……本当に何も知らないんですよ。
子供の頃の記憶がまったく残っていないものですからね」
由香里さんは少し考えるような仕草をして
「そう……それならば仕方がないわね。
解ったわ。
もう諦めましょう。
その代わり……ひとつ約束してくれる?」
「はい?何をですか?」
「あなたが大人になったら 私と結婚してくれないかしら?」
俺は彼女の言葉の意味を理解するのに数秒かかったが 理解してからもしばらく考え込んでしまうほどだった。
それから慌てて答えた
「ちょ……ちょっと待って下さい。
結婚だって!? 由香里さんと俺がですか?」
「ええ、そうよ。
嫌かしら?」
「い……いや、そんな事はありませんが……しかし……唐突過ぎませんかね。
俺達は出会って間もないし、それに……俺はまだ高校生だし……その……色々と問題があるんじゃあないですか?」
「あら、問題なんて無いじゃない?私達、お互いに好き合っているのよ。
だから結婚したいと思えるのよ。
それとも……私と結婚するのは嫌なのかしら?」
「いえ、とんでもない。
俺は由香里さんが好きです。
だけど……由香里さんは美人だから……他の男達に言い寄られるんじゃないかと心配で……その……自信がないっていうか」
「ふふ……そんなに褒めてくれてありがとう。
嬉しいわ。
あなたって優しいのね。
だけどね、私、あなた以外の男性に興味は無いの。
あなた以上の男性は他に存在しないもの」
「ははあ、それほどでもないと思いますが」
由香里さんは立ち上がって俺を見つめた
「私はね、あなたを愛しているの。
愛しているから一緒にいたいし、あなたとの子供も欲しいと思っているの。
私はあなたと一緒に生きていきたいの。
あなたも同じ気持ちだと信じているわ。
ねえ、そうでしょう?」
「は……はい。
それは俺もそう思います」
「だったら、何も迷うことは無いじゃあないの。
私はあなたと結婚しましょうと言っているの。
どう?」
「は……はあ、まあ……そうですね」
「じゃあ、決まりね。
今日からあなたは私の夫になるのよ。
これからよろしくね」
「いや……その……まだ早いんじゃあないでしょうか。
俺としては……その……もう少しお互いを知ってからの方が……」
「そう? まあ、いいけど。
じゃあ、今日はこれで帰る事にするけど、近いうちにもう一度会いに来るわ。
その時までに考えておいてね。
あなたは今日から私の夫となっていくのよ。
そのつもりでいてね。
あなたがどんな選択をしても、その通りに行動しますから。
覚悟していてね」
由香里さんは微笑みながら帰って行った 俺は彼女が出ていった玄関を眺めながら呆然としていた 一体、何が起きているんだ? 由香里さんはどうして急に 俺と結婚をしようと言い出したんだ? 彼女はいったい何者なのだろう?……解らないことだらけだ
「ははあ、夢の中の女性が現実に姿を現したってわけか」
洋治は頭をボリボリと掻いている
「何だか 妙な気分だな。
まさか、あの由香里さんとお前の結婚話になるとは」と父は驚いている
「そうだね。
俺もまだピンとこないよ。
突然現れた女性なんだから」と俺は言う 父がコーヒーカップを両手で抱えながら言う
「ところで、話は変わるんだが 最近、体調の方は大丈夫か?」
「ああ、別に変わりはないけど、何か?」
「うむ、まぁ 特に変わった事もないようだが、あまり根を詰めすぎないようにしろよ。
仕事もいいけど程々にな」
「うん。
解ってる」と返事をする 父の方はあまり由香里さんの事に触りたくないようだ やはり父と由香里さんとの過去に何らかの繋がりがあるらしいが 今ここで問いただす事ではないし 俺自身にも過去にまつわる話は一切ない だから、この場で言えるのはこの程度なのだ だが父はそれ以上の事は何も聞かず、別の事を聞いてきた
「それで、さっき言ってた話の続きはしないのか?」と聞かれて
「うーん、どうするか……」と考えたが結局、止めておくことにした 何となくだが、話せば話すほどドツボにはまる気がしたのだ 父に気を使ったわけではないが 父に対して隠し事があるのも事実である 何よりも父を巻き込みたくはなかったから黙っている
「じゃあ、話も終わったし。
そろそろお暇するとしようかな。
ご馳走様。
おいしかったよ」
と、父は帰り支度を始める
「あれ、もう帰っちゃうの?」
「うん、今日中に片付けないといけない事もあるんでね。
そっちが落ち着いたらまた来るから。
それじゃあな。
お邪魔しました」
と言って家を出ていく 俺は見送ってドアに鍵をかけて部屋に戻った。
部屋の明かりをつけようとしてスイッチに手を伸ばした時、足元が揺らいだような感覚がした。
眩しい光が視界に飛び込んでくる 蛍光灯に目がくらんだのだと理解した時には既に遅かった 身体の力が抜けていき立っていられなくなる
「まずいな」と思った時には 床に倒れ込んでいた 薄れていく意識の中で時計を見ると、午後2時半を過ぎている。
昼食は食べていなかったのに、腹が減ってなかったのはそのせいなのか。
それとも貧血だろうか。
どちらにしても食欲が無いのはまずいかもしれない。
後で食事はちゃんとしないといけない。